n+4
立ちこめる海霧が、初夏の訪れを告げた。時折霧雨に姿を変えながら、やわらかな紗のように、街を包んでいく。
「少し、晴れてきたみたい」
わたしに髪を
「イコナは髪を切るのが上手ね」
「……慣れているだけだよ」
わたしは
わたしとイサナの髪の長さは、いつも決められている。肩より小指の先ほど短いところが、主の最も好む長さだ。
だから、わたしたちは、折々、互いの髪を整え合う。
「今日の
「
「そうなの、じゃあ、バゲットを買わなくちゃ」
イサナの声が
「髪、ありがとう。交代するね」
イサナの黒い瞳が、わたしを見上げ、微笑みかける。
整った毛先が、イサナの白いうなじを、さらりと流れる。
「うん、お願い」
「……え?」
いつもと違い、イサナの手は
初めてだった。イサナが、わたしに、触れるなんてことは。
わたしたちが、わたしたちに、触れるなんてことは。
「不思議ね」
わたしを見つめるイサナの瞳が、やわらかな笑みを灯す。
「わたしたちの
イサナの繊細な指が、花のようにひらいて、わたしの手を、ふわりと、鋏ごと包む。
「ねえ、イコナ」
椅子にかけたまま、わたしを見上げて、イサナは微笑む。硝子の破片のように、透明に、
まるで、心が、あるみたいに。
「どうして、わたしたちの躰は、わたしたちのものじゃないのかな」
ひらり、と声は落ちた。
「……イサナ……?」
無意識に、わたしは、あとずさっていた。イサナの手が、それを引き留める。
「わたしたちの躰は、さいごまで、需要がある。使われて、つかわれて……さいごには、解体されて、部品になる。《シヴィタス》の体を《シヴィタス》の望む姿に保つための……
わたしの手を握る力は、強くなかった。けれど、わたしの足は、
イサナの言葉が、柔らかな膜に爪を立てていく。複写されるだけだった日常が、
「わたしの躰を流れている、この血も……わたしの胸で響いている、この心臓も……わたしの声を奏でている、この肺も……みんな、わたしのものじゃない…………わたしのものに、できない……そのことが、すごく、こわいの…………試験管の中で、条件付けを受けて……《シヴィタス》のこと、主のこと……ちゃんと愛せるようになったのに…………愛しているなら、捧げられるはずなのに…………わたしは、ずっと、こわいままで……どんどん、こわくなっていくばかりで……この
イサナの言葉が降る。雨のように、はらはらと落ちていく。けれど、それを受けとめるすべを、解するすべを、わたしはもたない。
「……あなたには、心があるの……?」
こわいって、何? くやしいって、何? そんなもの……わたしは知らない。《オルタナ》であるわたしたちにとって、心は修正すべき
「わからない……ただ、いたくて、くるしい……」
たすけて、と、吐息の下で、言葉が明滅する。
ぽつ、と、わたしの手に、あたたかな、透明な雫が触れる。微笑んでいるのに、それは
「……あなたは、誰……?」
茫然と、わたしは呟く。イサナは、かえってきたはずだ。《イノセンス》を打たれて、《マリアの子宮》に回収されて、もういちど、まっさらに整えられて、ここに――わたしのもとに、かえってきたはずだ。それなのに、この言葉は何なの? この表情は、何なの? わからない。解らない。知らない。こんなの、イサナじゃ、ない――
「イコナ」
イサナが、わたしを呼ぶ。イサナの声で、イサナの姿で。わたしと同じ声で、わたしと同じ姿で。
「知ってる? わたしたちは〝単回使用〟なんだって……研究員のひとが教えてくれたの……《イノセンス》を使って記憶を消しても、躰をどんなに整えても、
一度、
「……それじゃ、今までの、イサナは……」
今までの、わたしたちは……
わたしの、してきたことは――
「わたしは……」
イサナの手が、わたしから鋏を取り上げる。椅子から立ち上がり、わたしと数歩、距離を取る。向かい合う。まるで、合わせ鏡のように。
「この
「イサナ――」
「ずっと考えていた……どうすれば、わたしは《わたし》を保てるのか。わたしは《わたし》でいられるのか」
わたしの心を、守れるのか。
イサナがわたしを見つめる。わたしの深淵を、
「わたしは、やっと、その方法を見つけたの」
イサナは微笑む。わたしと同じ顔で。わたしには描けない色で。
「ごめんね、イコナ」
わたしの頬に、あたたかいものが飛ぶ。
両手で掲げた鋏を、イサナは喉に突き立てていた。
白い手が、赤に染まる。細い首が、熱を散らす。
イサナのぬくもりを、わたしは全身に浴びていく。
同じぬくもりをもつはずなのに、それは、あたたかくて。
イサナが言ったとおり、あたたかく感じられて。
「……わたし……は…………」
手折られた花のように
イサナが、わたしじゃなくなっていく。
わたしが、わたしじゃなくなっていく。
(ああ、そうか……)
《機械》なら、こういうことは、なかったのだろう。
《機械》は、願わない。
《機械》は、祈らない。
わたしたちは、《機械》と同じには、なれない。
+
イサナの
イサナの躰とともに、わたしの躰も《マリアの子宮》に搬送され、不具合がないかを細かく調べられた。ひととおりの検査を終えたときには深夜近くになっていて、わたしは結果が出るまで隔離室で過ごすことになった。
主のもとへ戻されるのか、それとも、このまま廃棄されるのか、朝には判定が下るだろう。
隔離室は、壁も、床も、天井も、白く塗られていて、完全な暗闇ではなかった。天井近くに設けられた小さな窓から、月の光が薄く射していた。地下でないことは確かだけれど、何階に位置するのかは分からない。
部屋は狭く、白木の寝台が一台、ぽつんと置かれていた。わたしは、その上に、膝を抱えて座った。
「具合はどう?」
ほどなくして、白衣姿の男の人が扉をあけた。
「……特に、自覚症状は、ありません」
わたしは質問に答えた。そう、と梍は軽く肩をすくめた。
「今のところ、きみの結果は、すべて正常だ。身体検査も、心理診断も」
梍が、わたしのもとに、歩いてくる。わたしの寝台に、梍の影がかかる。抱えた膝に顔をうずめたわたしに、梍が手を伸ばす。
「大丈夫――」
さいごまで、言わせなかった。わたしは素早く身を
「……びっくりした」
梍の薄い唇が、笑みのかたちに弓を引く。
「なかなか勇ましいんだね、きみ」
目を細めて、梍はわたしを見上げた。
「…………これでも、心理診断は、
梍を押さえつけたまま、わたしは言った。《オルタナ》は、《シヴィタス》に危害を加えないよう条件付けをされている。わたしの、この行為は、深刻な不適合に他ならない。以前のわたしなら、考えもつかなかった行動だ。
梍は、わたしに組み敷かれたままでいた。その気になれば、わたしの腕など簡単にはねのけられるはずなのに、穏やかに微笑んだままでいた。今まで見せたことのない怜悧な光を、わたしを見上げる双眸に宿して。
「その質問は矛盾している。あの〝イサナ〟も、出荷前に、同じ診断を受けて、適合判定が出ていたからね」
あの診断そのものに欠陥があると、彼女は結果的に証明したんだ。
「……それだけでは、ないでしょう」
わたしたちの末路を、あの子に教えたのは、あなたですね。
「何のことかな? 使われた後に解体されて、《シヴィタス》の医療材料になることなら、すべての《オルタナ》が、既に当然のこととして知っている。試験管の中で、教育されて、生まれながらに受けいれている結末だ」
〝あの子〟は違ったみたいだけどね、と梍は言い足した。拒絶という深刻な不適合を発現していた、と。
「……わたしは」
梍の
「わたしは……ずっと、イサナは、かえってくるものだと、思っていました……信じて、いました……でも、ほんとうは……ひとりも、かえってきてなんか、いなかった……」
降らした言葉は、涙の代わりだった。わたしの躰に、涙を流す定義はない。泣くための心を、わたしはもたない。
「何が違う?」
梍が
「きみが《イノセンス》を打って初期化した彼女と、新品の彼女。何が違うのか、考えてみるといい。そのうえで、もし、きみが、そこに違いを定めたなら……きみは、きみの主と、同じだ」
〝処女〟を要求した、主と同じだ。
「……それは……」
ひとと、同じだと、いうの?
「きみは、僕を何だと思っていたのかな?」
梍の笑みが深くなる。わたしの両腕を、ぞくりとしたものが
「僕は、《マリアの子宮》の研究員で、きみたちは、僕の、大切な
梍の目が、すっと細くなる。
「《オルタナ》が実用化されて、まだ日が浅い。検証実験も、充分じゃない。きみたちも、きみたちの主も、僕にとっては、貴重な実験材料だった」
きみを、わざと動揺させ、混乱させてみせた、僕の演技は、なかなかのものだっただろう?
「おかげで、とても良い
〝イサナ〟も、きみもね。
「……実験……?」
「そう」
僕の
「〝《オルタナ》は自由を求め得るか〟」
梍の声が、薄氷のような静寂を、ぱきりと砕く。わたしの胸の奥に静止していた冷たい塊、それを覆う硝子に、次々と
「なぜ、《シヴィタス》である僕が、わざわざきみたちの
梍の手が、わたしの頬に触れた。そっと、優しく。まるで、
「きみたち伊
じわり。梍の手に、熱が
「……っ、や……っ」
わたしは
白い笑い声が、響く。
「二体一組で派遣してみて良かった。〝イコナ〟、きみの中には、きみが見届け、葬ってきた〝イサナ〟の記憶が、全て蓄積されている」
それが、きみの心となるか、みせてもらうよ。
扉の上部には、ワイヤの入った硝子が
――わたしたちは、一緒だよ。
イサナの声が、耳の奥で、甘く響く。
「……一緒……」
それは、
そばにいる、という意味なのか。
おんなじだ、という意味なのか。
硝子に映るわたしの瞳に、百二十八体のわたしたちの顔が、合わせ鏡のように透けて見えた。
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