n+4

 立ちこめる海霧が、初夏の訪れを告げた。時折霧雨に姿を変えながら、やわらかな紗のように、街を包んでいく。

「少し、晴れてきたみたい」

 わたしに髪をかれながら、イサナが明るい口調で呟く。イサナの視線の先には、窓の向こうに広がる灰白色の真昼の空。外に出れば薄日くらいは望めるだろうか。わたしたちの部屋は北向きで、陽の光は射さない。

「イコナは髪を切るのが上手ね」

「……慣れているだけだよ」

 わたしははさみを手に、小さく微笑む。

 わたしとイサナの髪の長さは、いつも決められている。肩より小指の先ほど短いところが、主の最も好む長さだ。

 だから、わたしたちは、折々、互いの髪を整え合う。

「今日の夕餉ゆうげは、何が良いかな」

マスタは、そろそろ《隣の国》の料理が食べたいそうよ」

「そうなの、じゃあ、バゲットを買わなくちゃ」

 イサナの声がはずむ。無邪気に微笑むイサナを、わたしは、ぼんやりと眺める。このイサナがやしきに届けられて、今日で、五日目になる。主の気分は安定していて、まだ、このイサナに触れていない。けれど、長くても今日か明日までだろう。主の揺らぎは、これまでずっと、七日のうちには必ず現れていたから。

「髪、ありがとう。交代するね」

 イサナの黒い瞳が、わたしを見上げ、微笑みかける。

 整った毛先が、イサナの白いうなじを、さらりと流れる。

「うん、お願い」

 うなずいて、わたしは鋏をイサナに差し出す。いつものように。けれど、

「……え?」

 いつもと違い、イサナの手はおもむろに鋏を越え、わたしの手に触れた。

 初めてだった。イサナが、わたしに、触れるなんてことは。

 わたしたちが、わたしたちに、触れるなんてことは。

「不思議ね」

 わたしを見つめるイサナの瞳が、やわらかな笑みを灯す。

「わたしたちのからだは、同じ温度のはずなのに……こうして、触れると、ちゃんと、あたたかい」

 イサナの繊細な指が、花のようにひらいて、わたしの手を、ふわりと、鋏ごと包む。

「ねえ、イコナ」

 椅子にかけたまま、わたしを見上げて、イサナは微笑む。硝子の破片のように、透明に、すがるように、いたましい色で――わたしたちには、宿せないはずの色で。

 まるで、心が、あるみたいに。

「どうして、わたしたちの躰は、わたしたちのものじゃないのかな」

 ひらり、と声は落ちた。ささやくように、穏やかに。けれど、それは、わたしたちのあいだに張られていた安定した膜に、ぷつりと穴を穿うがつ、針のような言葉だった。

「……イサナ……?」

 無意識に、わたしは、あとずさっていた。イサナの手が、それを引き留める。

「わたしたちの躰は、さいごまで、需要がある。使われて、つかわれて……さいごには、解体されて、部品になる。《シヴィタス》の体を《シヴィタス》の望む姿に保つための……マスタも受けつづけている抗老化手術の材料として」

 わたしの手を握る力は、強くなかった。けれど、わたしの足は、いかりを下ろされたように動けなくなった。

 イサナの言葉が、柔らかな膜に爪を立てていく。複写されるだけだった日常が、やぶけていく。

「わたしの躰を流れている、この血も……わたしの胸で響いている、この心臓も……わたしの声を奏でている、この肺も……みんな、わたしのものじゃない…………わたしのものに、できない……そのことが、すごく、こわいの…………試験管の中で、条件付けを受けて……《シヴィタス》のこと、主のこと……ちゃんと愛せるようになったのに…………愛しているなら、捧げられるはずなのに…………わたしは、ずっと、こわいままで……どんどん、こわくなっていくばかりで……このからだを捧げるのが、くやしくて、たまらない……おかしいよね……わたし、きっと、欠陥品だったんだ……」

 イサナの言葉が降る。雨のように、はらはらと落ちていく。けれど、それを受けとめるすべを、解するすべを、わたしはもたない。

「……あなたには、心があるの……?」

 こわいって、何? くやしいって、何? そんなもの……わたしは知らない。《オルタナ》であるわたしたちにとって、心は修正すべき欠陥バグだ。

「わからない……ただ、いたくて、くるしい……」

 たすけて、と、吐息の下で、言葉が明滅する。

 ぽつ、と、わたしの手に、あたたかな、透明な雫が触れる。微笑んでいるのに、それはいびつで、頬は濡れていて、こんな、表情は、知らない。こんな、イサナは、知らない。

「……あなたは、誰……?」

 茫然と、わたしは呟く。イサナは、かえってきたはずだ。《イノセンス》を打たれて、《マリアの子宮》に回収されて、もういちど、まっさらに整えられて、ここに――わたしのもとに、かえってきたはずだ。それなのに、この言葉は何なの? この表情は、何なの? わからない。解らない。知らない。こんなの、イサナじゃ、ない――

「イコナ」

 イサナが、わたしを呼ぶ。イサナの声で、イサナの姿で。わたしと同じ声で、わたしと同じ姿で。

「知ってる? わたしたちは〝単回使用〟なんだって……研究員のひとが教えてくれたの……《イノセンス》を使って記憶を消しても、躰をどんなに整えても、マスタは認めないんだって。主の需要は、二度と満たせないんだって……」

 一度、ひらかれたら、この躰は、もう処女じゃないから。

「……それじゃ、今までの、イサナは……」

 今までの、わたしたちは……

 わたしの、してきたことは――

「わたしは……」

 イサナの手が、わたしから鋏を取り上げる。椅子から立ち上がり、わたしと数歩、距離を取る。向かい合う。まるで、合わせ鏡のように。

「このからだを、誰にも渡したくない。この躰は、わたしのもの。わたしだけのもの」

「イサナ――」

「ずっと考えていた……どうすれば、わたしは《わたし》を保てるのか。わたしは《わたし》でいられるのか」

 わたしの心を、守れるのか。

 イサナがわたしを見つめる。わたしの深淵を、のぞきこむ。透明な水をたたえ、黒く、くろく、どこまでも光を沈めていく、わたしを引きずりこんでいく、底なしの瞳で。

「わたしは、やっと、その方法を見つけたの」

 イサナは微笑む。わたしと同じ顔で。わたしには描けない色で。

「ごめんね、イコナ」

 わたしの頬に、あたたかいものが飛ぶ。

 両手で掲げた鋏を、イサナは喉に突き立てていた。

 白い手が、赤に染まる。細い首が、熱を散らす。

 イサナのぬくもりを、わたしは全身に浴びていく。

 同じぬくもりをもつはずなのに、それは、あたたかくて。

 イサナが言ったとおり、あたたかく感じられて。

「……わたし……は…………」

 手折られた花のようにくずおれたイサナの躰の傍に、わたしはゆっくりと膝をついた。色をなくした唇は、もう誰のくちづけも受けいれない。切り裂かれた喉は、もう何の言葉も紡がない。閉ざされた瞳は世界を映さず、ひらくことのない躰は、もう誰の欲も迎えない。冷えていく肌は、もう誰の熱にもかれない。イサナが、わたしから、遠ざかっていく。異質なものになっていく。

 イサナが、わたしじゃなくなっていく。

 わたしが、わたしじゃなくなっていく。

(ああ、そうか……)

 《機械》なら、こういうことは、なかったのだろう。

 《機械》は、願わない。

 《機械》は、祈らない。

 わたしたちは、《機械》と同じには、なれない。





 イサナのからだが回収されたのは、黄昏たそがれどきを越えた頃だった。不審に思ったマスタがわたしたちの部屋をあけるまで、わたしはずっと、動かなくなったイサナの躰の傍に座っていた。

 イサナの躰とともに、わたしの躰も《マリアの子宮》に搬送され、不具合がないかを細かく調べられた。ひととおりの検査を終えたときには深夜近くになっていて、わたしは結果が出るまで隔離室で過ごすことになった。

 主のもとへ戻されるのか、それとも、このまま廃棄されるのか、朝には判定が下るだろう。

 隔離室は、壁も、床も、天井も、白く塗られていて、完全な暗闇ではなかった。天井近くに設けられた小さな窓から、月の光が薄く射していた。地下でないことは確かだけれど、何階に位置するのかは分からない。

 部屋は狭く、白木の寝台が一台、ぽつんと置かれていた。わたしは、その上に、膝を抱えて座った。

「具合はどう?」

 ほどなくして、白衣姿の男の人が扉をあけた。さいかちだった。

「……特に、自覚症状は、ありません」

 わたしは質問に答えた。そう、と梍は軽く肩をすくめた。

「今のところ、きみの結果は、すべて正常だ。身体検査も、心理診断も」

 梍が、わたしのもとに、歩いてくる。わたしの寝台に、梍の影がかかる。抱えた膝に顔をうずめたわたしに、梍が手を伸ばす。

「大丈夫――」

 さいごまで、言わせなかった。わたしは素早く身をひるがえし、梍のえりを両手でつかんだ。そのまま全体重をかけて、寝台の上に押し倒す。

「……びっくりした」

 梍の薄い唇が、笑みのかたちに弓を引く。科白せりふとは裏腹の、至極、穏やかな声をいて。

「なかなか勇ましいんだね、きみ」

 目を細めて、梍はわたしを見上げた。

「…………これでも、心理診断は、合格クリアですか」

 梍を押さえつけたまま、わたしは言った。《オルタナ》は、《シヴィタス》に危害を加えないよう条件付けをされている。わたしの、この行為は、深刻な不適合に他ならない。以前のわたしなら、考えもつかなかった行動だ。

 梍は、わたしに組み敷かれたままでいた。その気になれば、わたしの腕など簡単にはねのけられるはずなのに、穏やかに微笑んだままでいた。今まで見せたことのない怜悧な光を、わたしを見上げる双眸に宿して。

「その質問は矛盾している。あの〝イサナ〟も、出荷前に、同じ診断を受けて、適合判定が出ていたからね」

 あの診断そのものに欠陥があると、彼女は結果的に証明したんだ。

「……それだけでは、ないでしょう」

 わたしたちの末路を、あの子に教えたのは、あなたですね。

「何のことかな? 使われた後に解体されて、《シヴィタス》の医療材料になることなら、すべての《オルタナ》が、既に当然のこととして知っている。試験管の中で、教育されて、生まれながらに受けいれている結末だ」

 〝あの子〟は違ったみたいだけどね、と梍は言い足した。拒絶という深刻な不適合を発現していた、と。

「……わたしは」

 梍のえりつかむ手に、ぎりりと力をこめる。

「わたしは……ずっと、イサナは、かえってくるものだと、思っていました……信じて、いました……でも、ほんとうは……ひとりも、かえってきてなんか、いなかった……」

 降らした言葉は、涙の代わりだった。わたしの躰に、涙を流す定義はない。泣くための心を、わたしはもたない。

「何が違う?」

 梍がささやく。うながすように。導くように。

「きみが《イノセンス》を打って初期化した彼女と、新品の彼女。何が違うのか、考えてみるといい。そのうえで、もし、きみが、そこに違いを定めたなら……きみは、きみの主と、同じだ」

 〝処女〟を要求した、主と同じだ。

「……それは……」

 ひとと、同じだと、いうの?

「きみは、僕を何だと思っていたのかな?」

 梍の笑みが深くなる。わたしの両腕を、ぞくりとしたものがい上がる。

「僕は、《マリアの子宮》の研究員で、きみたちは、僕の、大切な標本サンプルだ」

 梍の目が、すっと細くなる。たのしそうに、無邪気な色が、瞳の奥にゆらめく。

「《オルタナ》が実用化されて、まだ日が浅い。検証実験も、充分じゃない。きみたちも、きみたちの主も、僕にとっては、貴重な実験材料だった」

 きみを、わざと動揺させ、混乱させてみせた、僕の演技は、なかなかのものだっただろう?

「おかげで、とても良い資料データを得られた」

 〝イサナ〟も、きみもね。

「……実験……?」

「そう」

 僕の命題テーマはね、

「〝《オルタナ》は自由を求め得るか〟」

 梍の声が、薄氷のような静寂を、ぱきりと砕く。わたしの胸の奥に静止していた冷たい塊、それを覆う硝子に、次々とひびを入れていく。奥からのぞく、凍てついた白。やめて、砕かないで。暴かないで。

「なぜ、《シヴィタス》である僕が、わざわざきみたちのやしきおもむいて、搬入や搬出を担っていたと思う?」

 梍の手が、わたしの頬に触れた。そっと、優しく。まるで、マスタのように。

「きみたち伊シリーズをつくったのは、僕だからだよ」

 じわり。梍の手に、熱がにじむ。瞬間、ざわり、と、わたしの全身を、冷たいさざなみが駆け上がる。それは、わたしの脳裏を震わせ、閉ざされた夜の映像を引きずり出してくる。うごめく影。暗闇に浮かび上がるイサナの肢体。ひらかれていく白妙しろたえ。熱にあぶられしたたる声――

「……っ、や……っ」

 わたしははじかれたように立ち上がった。あとずさる背中に、冷たい壁が触れた。

 白い笑い声が、響く。

「二体一組で派遣してみて良かった。〝イコナ〟、きみの中には、きみが見届け、葬ってきた〝イサナ〟の記憶が、全て蓄積されている」

 それが、きみの心となるか、みせてもらうよ。

 ひるがえる白衣。えりを整えながら、ささやく声を置いて、梍はひらりときびすを返した。

 掛金かけがねの下ろされる音が、重く響く。

 扉の上部には、ワイヤの入った硝子がめこまれていた。向こう側の明かりは消され、それは冷たく黒いふちのように、わたしの姿を映していた。


――わたしたちは、一緒だよ。


 イサナの声が、耳の奥で、甘く響く。

「……一緒……」

 それは、

 そばにいる、という意味なのか。

 おんなじだ、という意味なのか。

 硝子に映るわたしの瞳に、百二十八体のわたしたちの顔が、合わせ鏡のように透けて見えた。


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