n+2

 主の邸から、四半刻ほど坂道を辿たどったところに、《マリアの子宮》はそびえている。白い朝の光の下で、金属の外殻は、空を覆う雲を映して鈍色にびいろに光っている。円筒形の壁は、屋根に向かってゆるやかに湾曲し、まるで巨大な卵を地面に半ば埋めこんだようなシルエットだ。

 周りは重厚な石塀に囲われていて、門の両脇には、武器をたずさえた門番が十人ほど並んでいた。みんな同じ、《オルタナ》だった。わたしはたもとから通行証を取り出し、一番端の門番に見せた。彼はそれを一瞥いちべつし、わたしに道をあける。彼らも、わたしも、終始無言で、無表情だった。わたしたちは、社交しない。愛想笑いも、会釈も挨拶も諂媚てんびも、《オルタナ》のあいだには不要だ。

 《マリアの子宮》の中は、白い光がきりのように立ちこめていた。中央を貫く吹き抜けの天辺から、プリズムにふるわれた光が、穏やかに、清潔に、降り注いで、金属の壁をひんやりと照らしていた。見上げれば、幾何学的な格子状の階層が、ずっと上まで続いている。黒煉瓦で構成された街の家々とは、なにもかもが違っていた。

 指定されたエレベータのボタンは十五階まであり、わたしは、その階で降りた。ここからさらに上層は、《オルタナ》の製造工場になっている。何階まであるのかは、知らない。

 エレベータを中心に、放射状に部屋が並んでいた。研究員に割り当てられたフロアだという。事前に教えられた一番奥の扉を、わたしは叩いた。

「やあ、待っていたよ」

 わたしを迎えたのは、白衣を羽織った、栗色の巻毛の男の人だった。確か、名前は……

さいかちだよ」

 くまの浮かんだ目を細めて、男の人は名乗った。どこか寂しそうな笑顔だった。

 部屋の中は、たくさんの紙で埋め尽くされていた。壁にはすべて天井まである本棚が作りつけられていて、じられた古い紙の束がぎっしりと詰められている。入りきらない分は床にうずたかく積まれ、所々崩れて、足の踏み場を狭めていた。

「それじゃ、これ、次の分だね」

 窓際の机の引き出しから、梍は小さな立方体の木箱を取り出した。蓋をあけて、中身を確認する。薄青の液体の入ったアンプルが、縦横三本ずつ、合計九本、収められていた。

 《イノセンス》――わたしたちの記憶を初期化する薬だ。

 この薬が開発されたことで、わたしたち《オルタナ》の再利用リサイクルは、ずっと円滑になったという。元の主の記憶を消去して、まっさらな出荷時の状態に戻し、次の主のもとへ発送できるようになったから。真に『初めまして』と言えるようになったから。

「少し、不思議に思うことがあります」

 たもとから袱紗ふくさを取り出しながら、わたしは何気なく疑問を唇に乗せた。

「何かな?」

 窓を背に、さいかちが首をかたむける。はめごろしの小さな窓だ。ちらちらと舞うほこりが、白い光の帯に触れ、羽のように散る。

「記憶が消えても、わたしたちは家事の方法は忘れないし、文字を読んだり書いたりする機能も失われません」

 製造時にインストールされた条件付けプログラム教育インプットされた知識データに基づいて、命令コマンドに従い、奉仕サービスしつづけることができる。

「ああ、それは……」

 軽く机にもたれて、梍は答えた。

「記憶には種類があってね、いろんな分け方があるのだけど、そのひとつをわかりやすく言えば、〝憶えているメモリ〟記憶と、〝知っているナレッジ〟記憶だ」

「記憶の種類……」

「そう……《イノセンス》が消去するのは、〝憶えている〟記憶だけだ」

 梍は少し目を伏せた。表情が、逆光の影に塗り潰される。

「だから……どれだけ《イノセンス》を打っても、きみたちを自由にしてあげることはできない」

「じゆう?」

 聞き慣れない単語に、わたしは瞬きをした。

 はっと顔を上げた梍が、せわしなく視線を彷徨さまよわせる。

「ごめん、忘れて」

 梍はぎこちなく笑った。わたしは首をかしげながら、箱を袱紗で包んだ。

 換気扇の微かな音が、ひっそりと停滞した静寂を際立たせている。

「ほんとうに、いいのかい?」

 部屋を出る刹那、梍は尋ねた。何がですか? と、わたしは訊き返した。わたしが視線を上げると同時に梍はうつむいて、わたしと視線が合うのを避けた。

「僕たちが、打っても、いいんだよ、それ」

 絞り出すように、梍は言葉を足もとに落とした。梍の顔は影の中に沈んで、その面持ちをうかがうことはできない。

「これを打つのは、わたしです」

 床ににじんだ梍の言葉をぬぐうように、わたしは答えを放った。淡々と、静かに。

「約束したんです」

「約束?」

 顔を上げた梍の瞳に、わたしのかおが映る。さざなみひとつなくいだ、正しい無表情に、わたしは、ちゃんと整えられている。梍の瞳の中で、わたしが、わたしを、じっと見つめる。

「誰と?」

 梍が重ねて尋ねる。瞳をくらく曇らせて。声を苦く濁らせて。なぜ、そんなかげった面持ちをするのか、わたしは理解することができない。梍の情動は、わたしに何の共鳴も起こさない。梍の心を震わせる定義と同じものを、わたしは持っていないから。

 わたしは、ただ、返答する。

「イサナと」

「イサナ?」

 梍の目が、大きく見ひらかれる。何をそんなに驚くのか、わたしには不可解だった。

「あの人は、きみたちに名前をつけているのか?」

 あの人、とは、マスタのことか。わたしは首を横に振る。梍の目が、ますます丸くなった。

「それじゃ……きみたちは、互いに名前をつけているのか?」

「名前、というほどのものではありません。ただ、お互いを呼び合うのに、不便だったから、便宜上――」

「いつからだ?」

「え?」

「きみが、もうひとりを、その名前で呼びはじめたのは……あるいは、もうひとりが、きみを、その名前で呼んだのは」

「どういう――」

「きみが、もうひとりを……同じ伊シリーズの《オルタナ》を……他者として認識しはじめたのは、いつだ!」

 わたしの肩を、さいかちの手がつかんだ。わたしの目を、食い入るように見つめて、梍はわたしを揺さぶった。どういうこと? わたしは途惑とまどう。梍の質問にも、それに対して回答できない自分にも。

 どれだけ記憶をさかのぼっても、答えを探し出すことができない。いつからだった? わたしとイサナ、どちらが先に呼びはじめたのだった? 思い出せない。憶えていない。……憶えていない? そんなはずないのに……気づいたときには、もう呼び合っていた。わたしはイコナで、あの子はイサナで……わたしはイサナに《イノセンス》を打って……イサナは何度でも、まっさらになってかえってきて――

「約束したのは……わたし……?」

 わたしの声が、足もとに落ちる。ゆらぐ視界の隅で、この部屋の扉がひらくのが見えた。騒ぎを聞きつけたのだろうか。梍に似た女の人が駆け寄って、わたしから梍を引き剥がし、梍の頬を叩くのが、目の端に映った。

「……わたしは……イコナ……」

 うわごとのように、わたしは呟く。頭の中に、もやが広がる。

 わたしは、イコナ。伊五七。イサナが、そう呼んだから。

 あの子は、イサナ。伊三七。わたしが、そう呼んだから。

――でも、どうして。

 等しく在れと、均しく在れと、つくられたのに。

 それが需要で、定義だったのに。

 わたしたちは、互いを区別してしまった。

 おんなじものの、はずなのに。

 わたしたちは、わたしたち以外の、何者でもなかったはずなのに。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る