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主の邸から、四半刻ほど坂道を
周りは重厚な石塀に囲われていて、門の両脇には、武器を
《マリアの子宮》の中は、白い光が
指定されたエレベータのボタンは十五階まであり、わたしは、その階で降りた。ここからさらに上層は、《オルタナ》の製造工場になっている。何階まであるのかは、知らない。
エレベータを中心に、放射状に部屋が並んでいた。研究員に割り当てられたフロアだという。事前に教えられた一番奥の扉を、わたしは叩いた。
「やあ、待っていたよ」
わたしを迎えたのは、白衣を羽織った、栗色の巻毛の男の人だった。確か、名前は……
「
部屋の中は、たくさんの紙で埋め尽くされていた。壁にはすべて天井まである本棚が作りつけられていて、
「それじゃ、これ、次の分だね」
窓際の机の引き出しから、梍は小さな立方体の木箱を取り出した。蓋をあけて、中身を確認する。薄青の液体の入ったアンプルが、縦横三本ずつ、合計九本、収められていた。
《イノセンス》――わたしたちの記憶を初期化する薬だ。
この薬が開発されたことで、わたしたち《オルタナ》の
「少し、不思議に思うことがあります」
「何かな?」
窓を背に、
「記憶が消えても、わたしたちは家事の方法は忘れないし、文字を読んだり書いたりする機能も失われません」
製造時に
「ああ、それは……」
軽く机に
「記憶には種類があってね、いろんな分け方があるのだけど、そのひとつをわかりやすく言えば、〝
「記憶の種類……」
「そう……《イノセンス》が消去するのは、〝憶えている〟記憶だけだ」
梍は少し目を伏せた。表情が、逆光の影に塗り潰される。
「だから……どれだけ《イノセンス》を打っても、きみたちを自由にしてあげることはできない」
「じゆう?」
聞き慣れない単語に、わたしは瞬きをした。
はっと顔を上げた梍が、せわしなく視線を
「ごめん、忘れて」
梍はぎこちなく笑った。わたしは首をかしげながら、箱を袱紗で包んだ。
換気扇の微かな音が、ひっそりと停滞した静寂を際立たせている。
「ほんとうに、いいのかい?」
部屋を出る刹那、梍は尋ねた。何がですか? と、わたしは訊き返した。わたしが視線を上げると同時に梍は
「僕たちが、打っても、いいんだよ、それ」
絞り出すように、梍は言葉を足もとに落とした。梍の顔は影の中に沈んで、その面持ちを
「これを打つのは、わたしです」
床に
「約束したんです」
「約束?」
顔を上げた梍の瞳に、わたしの
「誰と?」
梍が重ねて尋ねる。瞳を
わたしは、ただ、返答する。
「イサナと」
「イサナ?」
梍の目が、大きく見ひらかれる。何をそんなに驚くのか、わたしには不可解だった。
「あの人は、きみたちに名前をつけているのか?」
あの人、とは、
「それじゃ……きみたちは、互いに名前をつけているのか?」
「名前、というほどのものではありません。ただ、お互いを呼び合うのに、不便だったから、便宜上――」
「いつからだ?」
「え?」
「きみが、もうひとりを、その名前で呼びはじめたのは……あるいは、もうひとりが、きみを、その名前で呼んだのは」
「どういう――」
「きみが、もうひとりを……同じ伊
わたしの肩を、
どれだけ記憶を
「約束したのは……わたし……?」
わたしの声が、足もとに落ちる。ゆらぐ視界の隅で、この部屋の扉がひらくのが見えた。騒ぎを聞きつけたのだろうか。梍に似た女の人が駆け寄って、わたしから梍を引き剥がし、梍の頬を叩くのが、目の端に映った。
「……わたしは……イコナ……」
うわごとのように、わたしは呟く。頭の中に、
わたしは、イコナ。伊五七。イサナが、そう呼んだから。
あの子は、イサナ。伊三七。わたしが、そう呼んだから。
――でも、どうして。
等しく在れと、均しく在れと、つくられたのに。
それが需要で、定義だったのに。
わたしたちは、互いを区別してしまった。
おんなじものの、はずなのに。
わたしたちは、わたしたち以外の、何者でもなかったはずなのに。
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