n+1
この国を水墨画に
つまらない、と主は嘆息する。他者の悲劇を
「イコナ」
呼ぶ声に、わたしは、はっと顔を上げた。
「目的のパン屋さんは、ここ?」
わたしの隣を歩いていたイサナが、わたしの
「なにか考え事でもしていたの?」
イサナが軽く首をかたむけて尋ねる。肩の上で切り揃えた黒髪が、白い頬にさらりとかかる。わたしを見つめるイサナの黒い瞳には、わたしの――イサナと同じ少女の姿が映っている。
「過去の記憶を再生していたの」
ごめん、と不注意を
「すてきなお店ね。バゲットがとてもおいしそう」
薄桃色の唇を
「
わたしはイサナに教える。そうなの、とイサナは笑う。
「憶えておくわね」
カウンタに置かれていたちらしを、イサナは丁寧に畳んで、大事に
「日が暮れないうちに、急いで帰ろう」
食材を包んだ風呂敷を抱えて、わたしたちは歩調を速める。
灰白色の空に、わずかに薄紅の紗が広がりはじめていた。雲間から射す茜の薄日が、わたしたちの影を淡く石畳に引いていく。同じ長さの、同じかたちの影。坂を駆け上がる
わたしとイサナは、おんなじようにできている。
さらに言えば、わたしとイサナと、この国のどこかにいる九十体あまりのきょうだいは、おんなじようにできている。同じ遺伝子でかたちづくられた
「あっ……」
十字路を折れようとしたとき、イサナは大柄な男の人と、であいがしらにぶつかった。はずみでイサナは後ろに転び、風呂敷の中身が石畳に散らばる。
「どこ見て歩いてんだ、くそがき」
男の人がイサナを見下ろし、声を荒げて
「……ごめんなさい……」
イサナの消え入りそうな声が、石畳に落ちる。
「ごめんなさい」
わたしも深く頭を下げる。男の人の鋭い視線が、わたしにとまる。イサナと交互に眺めて、男の人は目を
「おまえら、ただの双子か? それとも、《オルタナ》か?」
男の人が、わたしに尋ねた。わたしは目を伏せ、声を落として回答する。
「……《オルタナ》です」
わたしたちは嘘をつくことができない。
「そうかよ」
節くれだった太い指が、わたしに伸びる。
「俺たちの仕事を奪いやがって……おまえらがいるせいで、俺たちに、ちっとも仕事が回ってこねえんだよ」
男の人の瞳は、黒煙が満ちたように苦しげだった。憎しみと、
「やめておけ」
不意に、ひとだかりの中から声が上がった。
「そいつらの所有者は、貴族だ」
声を浴びて、男の人の瞳が揺れた。ぎゅっと眉根を寄せ、
「この……人形ふぜいが……」
顔を伏せ、舌打ちとともに捨て科白を吐いて、男の人は荒々しくきびすを返した。足早に遠ざかる背中は、瞬く間に雑踏の波間へ消えた。
石畳に散らばった食材を、わたしたちは拾い集める。
「大丈夫」
「汚れていない」
顔を見合わせて、わたしたちは
+
「また
「美しくないものはきらいだ」
ぱさり、と無造作に封筒へしまわれた書類を、イサナが
「歯車は、無駄なく美しく整えられてこそ
そうだろう? と、主が
「需要を満たせぬものは、淘汰されてゆく。そんな自明の
ゆるやかに綾を描く紫煙が、わたしに絡む。細められた主の瞳が、わたしを映す。
「それに比べて、君たちは素晴らしい。余計な付属物が、何ひとつない。心も、未来も」
――人形ふぜいが。
先刻浴びせられた言葉を思い出す。人形――その
「この国を動かす歯車に、個性など無用だ。むしろ、摩擦や
そうだろう? と、主の手が、わたしたちに伸びる。ささくれひとつない、なめらかな指が、わたしたちの頬を、順に撫でる。その所作に、わたしもイサナも、瞳をゆらして
「さあ、私を肯定してくれ」
小さな
主の大きな手が、イサナの
「ああ……やはり美しいな……伊
寝台の上に
伊群――わたしたちが生まれたのは、半年ほど前のこと。『
「元々、君たち《オルタナ》は、工場や福祉施設に派遣する労働力として生み出された。《シヴィタス》が、職業選択の自由などという権利を行使したせいで、人手不足が深刻だったからだ」
だから、容姿の美醜など、二の次だった……そう呟いて、主はイサナの細い首に指をすべらせた。さらり、と漆黒の髪が流れ、灯るように白いうなじが、あらわになる。
「だから、君たち伊群の開発は、ほんとうに画期的だった。実用一辺倒だったものに、愛玩の要素を発現できたのだから」
出資者として申し分ない、と主は笑った。その瞳には、
主の腕が、イサナの躰を引き寄せる。
「こうして愛でられるという条件付けの、
主の薄い唇が、やわらかなイサナの片胸を
その光景を、わたしは、じっと見ていた。命じられるまま、寝台の傍の椅子に座って。二十代の青年と十代の少女の姿をした、八十代の老人と零歳児の性交を。
灯した
「いつものとおりに」
自室に戻る前に、主は、わたしに命じた。わたしは
主が部屋を出ていく。閉ざされる扉の音が重くこだまする。薄明かりの中で、静寂とイサナの躰だけが、わたしとともに残される。
水で絞った
「……イ……コナ……」
かすれた声が、わたしを呼ぶ。うっすらとひらかれた瞳が、刹那、
「わたし……」
「うん」
「ちゃんと……できてた……?」
「……うん」
「そっか……よかっ……た…………」
安堵の吐息を、ひとひら、落として、イサナは静かに
「……おやすみ、イサナ」
イサナの頬に張りついた髪を、ゆっくりと
穏やかな呼吸をたしかめて、わたしは
取り出すのは、アンプルと注射器。
無色透明なアンプルの中で、透きとおった薄青の薬液が、夜明け前の薄明かりを
「…………さよなら、またね……」
イサナの細く白い腕に、
「今回は、一日しか保てなかったね」
注ぎ終えた針を、静かに抜く。わずかに滲んだ紅い
おやすみ、さよなら、またね。
イサナの記録が、またひとつ、わたしの中に収束する。
眠りについたイサナの記憶は、もう目覚めることはない。
《マリアの子宮》の職員が
いつものとおり、
「薬は、打っておきました」
伝えると、女の人は「毎度のことながら助かるわ」と軽く肩をすくめた。「私、あの注射、苦手だから」と。柔らかな髪が、ふわりと遊ぶ。
「……また、一晩中、だったの?」
男の人が、小声でわたしに尋ねた。わたしが
「それで、これかよ……酷いな」
「ひどい?」
わたしは小首をかしげて、男の人を見つめる。どうして、と。そんなわたしの反応に、男の人は少し
「だって、そうだろ、こんな――」
「
男の人の
「伊
「……すみません」
梍が、
「それじゃ、この仔、回収するわね。いつものとおり、夜には届けられると思うわ」
担架に乗せられ、イサナの躰が運ばれていく。窓の外に、彼らの荷馬車が見えた。手綱を握ったまま微動だにせず待機している
「でもさ」
「なんとも思っていなかったなら、どうして、きみは、この仔の躰を清拭して、新しい寝具で覆ってあげたの?」
「え……?」
わたしは瞬きをした。たしかに、わたしは、このひとたちが来る前に、イサナの
「なんかさ、弔いのつもりなのかなって、思ったんだ」
「……とむらい……?」
馴染みのない言葉に、わたしの瞳がゆらぐ。
「だって、そうだろ? きみは、この仔に、もう二度と会えないんだから」
「……え……?」
何を言っているの? 解らない。わからない。梍の言葉の濁流の中に、わたしは立ち尽くす。梍は続ける。それにさ、と、力なく笑って、
「やっぱり悪趣味だよ、きみの主人。こんな注文つけてくるなんて」
そう言って、瞳の奥に、仄暗い怒りを
「梍!」
女の人の声が飛んできて、梍の口を
「……二度と、会えない……? 悪……?」
梍の言葉を、わたしは理解することができない。
《オルタナ》は、《カンパニ》の保有する公共の
そのためにも、わたしたちは、同じでなくてはならない。等しく、均しく――いつでも
「……イサナ……」
だから、わたしは待つ。イサナが、かえってくるのを。
――かえってくるのを?
扉を閉めかけたわたしの手が、止まる。
――帰ってくるのを?
――返ってくるのを?
――還ってくるのを?
――孵ってくるのを?
言葉を選ぶ回路が混線する。
――疑わず、安定性を保て。
――考えず、公共性を保て。
――表さず、調和性を保て。
――《シヴィタス》の意志の下、
「……安定性……公共性……調和性……」
呪文のように、わたしは呟く。そうだ、わたしたち《オルタナ》は、《シヴィタス》のために働くために生み出された。まして、わたしとイサナには、召使いとしての適性を高めるための条件付けが上乗せされている。
だから、わたしは、イサナを待つ。主の望むとおりに――《マリアの子宮》に回収されて、まっさらになったイサナが、再び届くのを、じっと待つ。
主の注文した、処女のイサナを、何度でも。
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