番外編①

 飛鳥は跳び箱を上手に飛べた。それが和哉には面白くなくて、和哉は練習時間外にも練習した。飛鳥に追い付けるように、飛鳥よりも上手くなれるように。

「和哉、まだ練習するの?」

 美月が不思議そうに和哉を見た。飛鳥はとうの昔に帰ってしまって、体育館に居るのは和哉と美月と、体操の先生だけである。

「うん、俺飛鳥よりも絶対上手くなってみせるよ」

「じゃああたしも練習しよっと」

 小学三年生の冬の事だった。体育館は暖房が効いて温かいが、外はしんしんと雪が降っている。

 走る、ロイター板を蹴る、手を付く、押す。

「和哉くん前のめりになりすぎ、もっと体起こして」

「はい!」

「美月ちゃん手を付くのが遅い」

「はーい!」

 転回の練習は続いて、二人がへとへとになった頃、先生が呆れた顔をして二人を見た。

「疲れた所に練習すると怪我の元になるから今日は此処までね」

「えー!俺まだ元気だし!」

「ダメダメ、もう疲れて来てるの分かるよ、また火曜日においで」

「はーい」

 和哉は渋々頷くと、帰り支度を整え始める。美月もジャージの上にジャンパーを羽織った。

「美月、今日の事、飛鳥には内緒な」

「何で?」

「俺が必死になって練習してるの知ったら、飛鳥も練習するだろうから」

「ふふ、分かった」

「ゆびきりな」

「うん、ゆびきり」

 二人は小指同士を握らせて指切りをする。和哉は照れくさそうに笑った。美月もつられて笑顔になる。

「鍵締めるよ~」

「はーい!」

 二人は先生の声に反応して、急いで外に出た。


 二人で歩く雪道。美月は前を歩く和哉に追い付こうとして走る。しかし、追い付く前に雪で滑って転んでしまった。

「わっ」

 転んだ時に和哉のジャンパーのフードを掴んでしまう。

「げっ」

 つられて和哉も後ろ向きに転んだ。

「いってぇ~」

「ごめん!怪我しなかった!?」

「大丈夫、美月こそ大丈夫?」

「あたしも大丈夫」

「良かった良かった」

 和哉は立ち上がって美月に手を差し出す。美月は、ありがとうと言ってその手を掴んだ。

「もう転ぶなよ」

「うん!」

 体育館と二人の家は近い。二人は転ばない様に慎重に歩いた。桜ヶ丘七丁目のバス停が見えてくる。

「それじゃあ和哉、また明日学校でね」

「おう、またな」

 和哉は美月に手を振って、そこで別れた。和哉の家はバス停からすぐの所にある。和哉は黙々と歩いて、家の玄関を開けた。

「ただいまあ」

「おかえり和哉、遅かったね」

 和哉の母、里美さとみが玄関まで出て来て、和哉にそう言う。和哉は、うんと頷いて口を開いた。

「美月と居残りしてきた」

「あら、飛鳥君は?」

「練習終わってから直ぐ帰ったみたい。今日俺が練習してきた事、飛鳥ママに言わないでね」

「はいはい、分かったわ」

 里美はクスリと笑って頷くと、手を洗ってきておやつにしましょうと言う。和哉も無言で頷くと、手を洗いに洗面所へと向かった。

 手を洗ってうがいを済ませると、和哉はダイニングへと向かう。そこでは父、みのるが新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる所であった。

「お父さん、ただいま」

 和哉がそう声を掛けると、実は新聞を畳んで和哉の方を向くとにっこり笑う。

「おかえり和哉、練習どうだった?」

「いっぱい練習させてもらった」

「そうかそうか。今日は和哉が大好きなチョコスコーンだって」

「やった」

 和哉は笑顔になって、食卓テーブルに座った。実も和哉の向かいに座って、里美の声を待つ。里美はポニーテールを揺らしながら、オーブンの様子を見に行き、うんと頷くと、スコーンを取り出してお皿に並べ、二人の前に出してくれた。

「飛鳥ママに教えて貰った絶対失敗しないスコーンの作り方で作ってみたの。さ、温かいうちに食べましょう」

「いただきます!」

「いただきます」

「召し上がれ」

 里美は嬉しそうに二人が食べるのを眺める。それが和哉にはくすぐったくて、和哉も笑顔になった。

「美味しい!ありがとうお母さん!」

「良かった」

「美味いよ」

「ふふ、ありがとう」

 二人の言葉に満足したのか、里美はまたキッチンに立ってコーヒーを淹れる。コーヒーの淹れ方も飛鳥ママに教わったの、と言いながら。


 和哉は夕飯までの間、自室に籠って宿題をすることにした。漢字ノートの書き取りに算数ドリル。やる事は二つだ。

「今日はどっちからやろうかなー」

 ちょっとだけ悩んでから漢字の書き取りを選んで、ノートを開く。黙々と漢字の書き取りを終わらせて、算数ドリルに手を出した。和哉は算数の様な答えが決まった科目が得意である。算数も楽々と終わらせて、和哉は筋トレに励むことにした。

「一、二、三、四……」

 腕立て伏せを何十回かして、倒立の練習。特にシンピ倒立の練習に重点を置いた。

 シンピ倒立でバランスが保てなくなってきた頃、里美が和哉の部屋をノックした。

「はい」

「和哉、これからお父さんと買い物行くけど一緒に来る?」

 和哉は数秒悩んでから頷く。

「行く。ちょっと待って明日の学校の準備だけ済ませちゃう」

「分かったわ。下で待ってる」

「うん、急いでいく」

 和哉は学校の準備を急いで行い、ジャンパーを羽織って下階に降りた。そこにはもう里美と実が待機しており、和哉は遅くなってごめんなさいと言う。

「大丈夫だ。行こうか」

「行きましょう」

 コートを羽織った二人にそう言われて、和哉は二人についていった。車に乗り込んでシートベルトを締めると、和哉は運転席に乗った実に訊ねる。

「今日は何処に行くの?」

「今日は近くのスーパーと、和哉が使いたいって言ってた補助器具をスポーツ用品店に見に行こうかなと」

「やった」

「鉄棒のバーと同じ細さの木材をホームセンターに見に行ったんだけど無かったからね」

「ありがとう」

 和哉は照れくさくなってそう言うと、どっと背もたれに体を沈めた。心地好い疲れが車の振動によって眠気を誘う。うとうとしているとスポーツ用品店に着いて、実によって起こされた。

「和哉。着いたよ」

「ん、うん」

 車から降りて店の中に入る。冬の時期だからか、スキー関連の用具が店頭に並んでいた。和哉は真っ直ぐに体操関連の用具が置いてあるコーナーへ向かう。プロテクターやテーピング等が置いてある隅に、目的の物を発見した。

「ちょっと短いけどこれが良い」

「これ平行棒の太さだけど良いの?」

 里美がそう言ったので、和哉は頷く。

「いずれ使う事になるから」

「そう?じゃあお父さん、これにしましょう」

「ああ、良いよ」

 和哉はそれを二つ取って実に手渡した。

「よろしくお願いします」

「はい」

 実は丁寧に渡されたそれを抱えて、レジへと向かう。和哉はその間里美と店内を見て回った。

「今年のスキー授業は去年のスキー板と靴で大丈夫かしら」

「多分大丈夫、身長もあんまり伸びてないし」

 和哉はちょっと悔しそうな顔になって言う。

「身長ならこれから伸びるわよ」

 里美はクスリと笑ってそう言ってくれた。

「うん」

「大丈夫、心配しないでたくさん食べてくれれば」

「分かった」

 和哉は少し笑顔になる。

「買って来たよ」

 そこに実がレジ袋を提げてやって来た。和哉にレジ袋を渡して、大事に使うんだぞ、と言うと和哉は頷いた。

「大きくなっても使える様に大事にする、ありがとうございます!」

「うん、良い返事だ」

 実は笑ってそう言うと、さあ行こうか、と二人を見る。三人はまた車に乗って移動し、家近くのスーパーまでやって来た。和哉は早く補助器具を使いたくてうずうずしている。

「今日の夕飯は何が良いかしら」

「久し振りにハヤシライスが食べたいな」

 里美と実のそんな会話を聞きながら和哉も車から降りた。


 家に帰ると、和哉は早速器具を出して使ってみる事にした。

「平行棒の広さってこんなもんだよな」

 平行棒の広さに合わせて、バーに倒立してみる。まだ小学三年生の和哉は平行棒に触ったことが無かったが、もうすぐ触らせてくれる事を知っていた。

「あっ」

 バランスを崩した。

「難しいな」

 ふむ、と唸ってから和哉は何度も挑戦する。そのうち手の平にマメが出来て、和哉は渋々倒立を辞めた。

 それからは日々の日課にしている筋トレと柔軟を、夕飯よと呼ばれるまでこなすのだった。

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風薫るその時 香坂偲乃 @C_add_9

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