3
人通りのない廊下まで走ってきて、突き当たりにしゃがみ込む。
じぃ、じぃ、じぃ、と低い耳鳴りがする。うるさい災害時のサイレンみたいに、顔の崩壊を警告してくる。
ダメ。いけない。壊れてしまう。顔が、みんなの前で壊れてしまう。それは絶対に避けなきゃ。
「どうしたの? 美沙ちゃん」
不意に、柔らかい声がかけられる。
振り向くと、そこに日向が立っていた。きょとんとした、不思議そうな顔で、私を見ている。
つくられていない素顔で、私を見ている。
「……なんで?」
ぽつりと、冷たい声がこぼれた。それは、ずっと抱いていた疑問。ずっと隠していた不満。私の顔面の裏から、それが溢れ出そうとしている。
「なんであんたは、そのままでいられるの⁉」
じぃ、じぃ、と止まない耳鳴りが、強くなっていく。
「みんな顔をつくって、本音を言わないようにして、我慢して生きてるのに!」
びし、びし、と顔がひび割れていくのがわかる。
「どうしてあんたは……そうしないでいられるの⁉ 隠さないで、我慢しないで、生きられるの⁉」
ばらばらと、崩れた顔が落ちていく。それと同時に、私の感情にも歯止めが効かなくなっていく。
「……ずるいよ、あんただけ!」
私は立ち上がって、両手で日向の顔に掴みかかった。彼女は驚いたかのように、目を見開いて固まっている。
……違う。何か、おかしい。
日向は、瞬きをしない。大きな瞳は、私を通り越して、どこか遠くを真っ直ぐに見つめている。まるで、ガラスの瞳を持った人形みたいに。そして、彼女の頬に触れている指から伝わってくるのは、人間の肉の温かみではなかった。
ぱきり、と乾いた音が響き渡る。それに合わせて私の両手がずり落ちる。私の両手には、日向の顔があった。人形のような無表情が、瞬きをせず私を見つめている。
日向の……顔が、外れた? 私は上手く状況が飲み込めないでいた。誰かの顔を、こうやって物理的に外したことなんてなかった。それに……どうして、外れるの? 日向は、顔をつくってないんじゃなかったの?
ゆっくりと、日向の頭を見上げる。顔の外れたその頭部には、代わりの顔がある——わけでも、なかった。ただ、黒い、暗い穴がそこにあった。
……これは、何なの。日向って、何なの?
そう思っているうちにも、ぽっかりと空いた暗い穴から目を逸らすことができない。落ち着かない心臓に対して、息がだんだん荒くなっていく。震えた指から、日向の顔が滑り落ちた。
落とされた顔が、つくりもののように、ガコンと音を立てて——
——……私は、目を開けた。
やけに派手な色をした壁に囲まれた、休憩スペース。そこにあるベンチに、私は座っていた。反射的にスマホを開いて、時間を確認する。火曜日、いつもの空きコマだ。
……そうだ、私はいつも通り、次の講義まで暇を持て余していた。何となくふらふらとこの休憩スペースまで来て、ベンチに座って……そのまま少し寝ていたんだっけ。となると、今のは——日向の顔が、つくりもののように外れたなんていうのは。
「……夢、か」
誰にともなく、小さく呟きを落とす。細く息を吐くと、無意識に強張っていた体が緩んだ。
変な夢。本当に疲れてるんだ、私。眉間を押さえると、やっぱり鈍い痛みが返ってきた。うーん、本当ならもうちょっと寝たいな……。
「あ、美沙ちゃん」
突然名前を呼ばれて、軽く肩が跳ねる。顔をそっちに向けると、そこには日向がいた。
……あんな夢見たばっかりで、正直あまり会いたくなかったけど。
「隣座ってもいい?」
「い、いいよ」
それでも、反射的に了承してしまう。ありがと、と言いながら、日向が私の隣に腰掛ける。ふわ、と微かに甘い匂いがした。日向がいつも使っている香水の香り。
「……ひ、日向ってさ」
沈黙を裂くように、ゆっくり問いかける。
日向って——あなたって、どんな人なの。そんな疑問が、ぐるぐると渦巻いて止まらなかったから。
「なんか、いつも……裏表がないっていうか、本音で話してるっていうか……そんなふうに見えるんだけど」
「え……私、そう見えてる?」
「……何か、理由みたいなの……あるのかなー、って」
言葉を切ると、ふふ、と柔らかい笑い声が聞こえてきた。
「すごいね、美沙ちゃんは。美沙ちゃんって、目が鋭いっていうか、他の人のことよく見てるもんね」
そう……なんだろうか。そう言われたのは初めてで、何て返したらいいのかよくわからない。ただ黙ったまま、俯いていた顔を日向の方へ向ける。ぱち、と視線が合ったあと、今度は日向の方が軽く俯いてしまった。
「……私ね、信じてもらえないかもしれないけど……小っちゃい頃から、人が嘘ついてると何となくわかるの」
秘密の話を教えるような、密やかな声。
人の嘘が何となくわかる? そんな話、初めて聞いた。きっと、私の——他人のつくった顔を察知できることみたいに、ほいほい他人に話したりしないことなんだろう。
「理由とか、具体的には何にもないんだけどね。ただ、何となーくわかるの。あ、この人今嘘ついてるなって」
ゆっくり、静かに、日向は語り続ける。彼女は今も、顔をつくっていなかった。
嘘っていうのは、私に見えている顔面と同じなんだろうか。日向がいつも素顔で過ごしているのは、周りの嘘を察しても、それに対して何もせず受け入れて過ごしているから、なんだろうか。周りと同じように自分を取り繕う選択をした私とは、違って。
「……みんなさぁ、色々嘘ついて過ごしてるじゃない? いい嘘もあるし、悪い嘘もあるけど。だから、ね」
再び、ぱちりと視線が合う。日向は、へにゃっと柔らかく笑った。
「私は……嘘つかないで生きていけたらな〜って、思ったのね」
嘘つかないで、生きていけたら。
その言葉だけが、ストン、と胸に落ちた。
そうだ。私たちは、顔をつくりながら生きている。隠したいものや、取り繕っておきたいもののために。その生き方は賢いようで、ときどき、ひどく息苦しい。
「……日向も、苦労してるんだね」
「それほどでもないよ」
そんな言葉を交わして、私たちはただ、ベンチに並んで座っていた。
——私もね、他人が顔をつくってるのがわかるんだよ。
そう口にする気には、ならなかった。
顔面 角霧きのこ @k1n05
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