第9話

 いよいよ、公演初日となった。

「藤原、今日が君のデビューだ。君は、今日のためにたくさん稽古をして、浅草時代からは考えられないほどの腕前になっている。自信をもってやってくれ」

 藤原は、鏡台の前であき子に化粧をされながら、緊張した面持ちで頷いた。

「私が言えることはこれだけだ」

 伊庭は手持ち無沙汰に、近くにあった椅子に腰を下ろし、二人の様子を眺めていた。

 化粧が終わってもあき子はいつまでも藤原のそばを離れず、裾が出ていると言っては衣装を直したり、喉の渇きを心配しては水を渡したりしていた。あき子の様子は、かつての伊庭のようであったし、藤原の様子はかつての徳子のようであった。

 そのうちスタッフがやってきて、藤原を舞台裏へと連れて行った。伊庭とあき子も、客席へと向かった。

 伊庭は、いよいよ緊張してきた。あき子に何か話しかけられた気もするが、上の空でほとんど何も覚えていなかった。伊庭は何度も深呼吸をした。

 歌舞伎座には多数の客が押し寄せていた。チケットの金額は最低一円、高くて七円と、世界恐慌真っ只中にある昭和五(一九三〇)年には非常に高価な価格設定であったが、それでも客席はほとんど埋まった。

 伊庭たちは桟敷席に陣取り、開演を今か今かと待ち構えた。

 やがて管弦楽団が入ってきた。チューニングが終わると、山田耕筰が静かに指揮棒を振り上げた。


 舞台は十九世紀半ばのパリ。社交界の華であるヴィオレッタの館で、宴が催される。そこへ藤原扮するアルフレードがやってくる。

 伊庭は、緊張のあまり呼吸をするのも忘れて舞台を見つめた。いつの間にか祈るように両手も組んでいる。

 伊庭の心配をよそに、藤原は冒頭の「乾杯の歌」のシーンを立派に歌い終えた。

 伊庭はやっと息をつく。

 華やかな「乾杯の歌」のシーンが終わると、ヴィオレッタは持病の肺結核のため、ふらつく。

 ——お体を大事にしないと。持病がおありでしょう。私があなたの恋人でしたら、お守りしますのに。

 ——何を言っているの?

 ——この世であなたを愛するのは、私だけなのです。

 徳子はその言葉にふふっと笑った。伊庭は、自分の真摯な情熱が馬鹿にされたように感じて、やり場のない怒りに包まれた。

 ——あなた、それ本気で言っているわけ?

 徳子は余裕ぶった笑みを浮かべながらも、眼差しは、伊庭の愛情を試しているかのようだった。

 ——もちろん。あなたを一目見たときから、あなたへの恋心を胸に生きて参りました。

 ——じゃあ、私のことは避けてほしい。

 ——なぜ?

 ——だって、私にはまだ夫がいる。夫だって最初は優しかった、けれど今じゃあ私は彼にとって金を稼ぐ道具でしかない。もう、私は人の愛し方も、愛され方も忘れてしまった。

 徳子があまりにも痛ましく、伊庭は思わず彼女の手を取ろうとした。彼女はそれを制して、にっこりと笑った。

 ——この話はこれで終わりにしましょう。

 徳子が一度決めたことは決して曲げないことを、これまでの彼女との仕事で伊庭は学んでいた。取りつく島もなく、伊庭は立ち去ろうとした。

 舞台上のヴィオレッタもまた、アルフレードからの真摯な愛の告白を受け、動揺する。彼女は彼の愛を拒絶するものの、立ち去ろうとしたアルフレードを呼び止め、胸に挿した花を渡し、再び会うことを約束する。

 舞台上に一人残されたヴィオレッタは、アルフレードの言葉を思い返す。

 ——不思議だわ、彼の言葉がこの胸に残っている。本気の恋は、私には不幸なの? 愛し合うなんて、これまで私は知らなかった。でもきっと彼こそがその人。いえ、馬鹿げているわ。これは虚しい夢よ。私は哀れな女、一体何を望むというの? 私はただ自由に、快楽から快楽へと飛び回れば良いのだわ。

 そう歌い終えた関屋が舞台からはけていくと、客席には拍手が巻き起こった。徳子との日々に思いを馳せていた伊庭は、雷鳴のごとく鳴り響く拍手の音で我に帰った。

「今のところ、成功ですね」 

 正面に座るあき子にそう声をかけられ、伊庭は力強く頷いた。


 二幕が始まった。舞台はパリ近郊の田舎の屋敷で、思いの通じ合ったアルフレードとヴィオレッタは二人で暮らしている。アルフレードが家を留守にしている間に、彼の父親ジェルモンがやってくる。ジェルモンは、ヴィオレッタにアルフレードと別れるように迫る。ヴィオレッタは泣く泣く別れを決意する。

 ——私を愛して、私があなたを愛するのと同じくらいに。

 一方、彼女の真意を知らないアルフレードは裏切られたと思い込み、彼女への復讐を誓う。

 続いて、再びパリの社交界での仮面舞踏会。アルフレードは、憂さ晴らしをするかのように賭けに講じている。そこへ、ヴィオレッタがパトロンの男爵と共にやってくる。アルフレードはヴィオレッタに復縁を迫るが、ヴィオレッタは彼の幸せのために「男爵を愛している」と嘘をつく。アルフレードは賭けで得た札束を全て彼女の足元にぶちまけ、彼女を侮辱する。


 三幕。数ヶ月後、病の悪化したヴィオレッタは寝室で休んでいる。

 ——愛するアルフレードに会うこともできず、一人死んでゆく。神よ、堕落した女をどうかお許しください。

 そこへ、真実を知ったアルフレードがやってくる。二人はもう決して別れないことを誓うが、ヴィオレッタには刻々と死が迫っていた。ヴィオレッタは、アルフレードの腕の中で事切れる。

 ——ヴィオレッタ!

 アルフレードは悲嘆にくれながら、彼女の亡骸に取りすがった。

 ——徳子!

 伊庭の両腕の中で、徳子が微笑んだ。

 ——他の時代で出会えていたら、私たちはもっと上手くやれていたでしょうね。また、お会いしましょう。

 徳子は持てる力を振り絞ってそれだけ言い残すと、目を瞑った。徳子の体の力が抜けていき、ぐったりとした肢体が伊庭の両腕にもたれかかる。周りにいた弟子たちは、顔を覆って泣き始めた。

 伊庭は、徳子の顔にかかった髪の毛を払ってやった。

(徳子、これで良かったんだよな)

 伊庭は徳子の体をそっと床に横たえた。もう決して開かないその瞳に宿された強い眼差しが胸によぎり、伊庭は、徳子が死んでから初めて、声を上げて泣いた。

 伊庭の慟哭はいつまでも続くかのように思われた。

「ブラヴォー!」

 数秒の静寂のあと、客席の後方に座る客がそう叫んで立ち上がった。あき子もつられるようにして起立すると、周りの観客もそれにならった。伊庭は呆然自失として座り込んでいたが、やがて立ち上がった。

「伊庭さん、どうされたんですか。目に涙が……」

 同じように目に涙を湛えたあき子が、ハンカチを取り出して伊庭に渡した。

「いいえ、何でもないんです。あなたも、あなたの夫も立派だ。どうか、幸せになってください」

 伊庭の言葉に、あき子は驚いたように目を見開いた。やがて彼女は微笑んだ。

「ええ、絶対に」

 幕が再び開いて、出演者が一人一人現れた。関屋の手を取って現れた藤原は、客席の伊庭と目が合うと、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。

 鳴り止まぬ拍手喝采の中で、伊庭は立ち尽くした。やがて彼もその輪の中に加わり、手を叩き始めた。彼は、最後の一人になるまで、讃辞を送るその手を止めなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二人のアルフレード @zuixi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ