第8話

「そろそろ、オペラに出てみないか」

 山田がそう言って楽屋に入ってきたのは、藤原の独唱会が終わった秋の宵のことだった。演奏会の感想を言い合っていた伊庭とあき子と藤原は、三人で顔を見合わせた。

「山田くん、あのときの約束を覚えていてくれたのか」

 伊庭が山田耕筰に、藤原をオペラに出させるよう頼んだのは、初めて藤原に「乾杯の歌」を聞かせてもらった後だった。山田は藤原を高く評価していて、自ら伴奏を申し出ることさえあった。だから藤原のオペラ出演も快諾してくれるだろうと思っていたのだが、伊庭の思うようには進まなかった。「時機が来たらいずれ」というのが山田の返事だった。

「もちろん。今日の演奏会は大変素晴らしかった。来年『椿姫』を上演しようと計画しているんだが、アルフレード役にどうかしら」

 藤原は、二つ返事で承諾した。伊庭は山田に厚く礼を述べた。あき子は喜びのあまり、藤原に抱きついた。ようやく彼らの夢が叶うときが来たのである。

 公演は翌年二月に歌舞伎座にて、原語であるイタリア語で行われることになった。

 山田のところでも厳しい稽古が行われているようだったが、藤原は時間を見つけては伊庭のもとにもやってきて練習に励んだ。伊庭はピアノで伴奏をしながら、声が枯れるほど藤原に助言をした。あき子はその様子を見ながら、部屋の隅に座り込んでひたすら舞台衣装を縫っていた。オペラ公演には多額の金がかかる。節約のため、美術家が作成した図案をもとに、あき子が全員の衣装を仕立てることになっていた。

 藤原に急な仕事が入り席を外している間、伊庭も衣装作りを手伝うことにした。

「伊庭さんは、裁縫がお得意なのですね」

 あき子は、器用にヴィオレッタの衣装を縫い上げてゆく伊庭の姿に目を丸くした。

「ああ、浅草でオペラをやっていたおかげでね。あの頃は次々と新しい演目を上演しなければならなかったから、私もこうして歌手たちに混じって衣装を作っていたんだよ。特に、女性用の衣装を作るのには慣れているんだ」

 伊庭は手を動かし続けながら、話を続けた。

「藤原も、この公演が成功すれば、たくさんオペラに出るようになるだろう。浅草時代、藤原は、客が歓声を上げるとすぐ良い気になってな、歌詞は飛ぶし、演技も音楽もめちゃくちゃになるんだ」

「何となく、想像できる気がします」

「だからあき子さん、藤原がそういう風になったら叱ってやってくれ。あなたはこれから、ずっと藤原と一緒にいることになるのだから」

 あき子は手を止めて伊庭の方をまじまじと見た。伊庭は彼女の方は見ないで、黙々と作業を進めていた。あき子は「ええ」と答えた。

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