候巡の丘、笛の音

崇期

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 ここ数日のくさくさを追い払ってやろうと思い、候巡コウジュンの丘のてっぺんへのぼったら、小作りな女が横笛を吹いていた。闇に沈みゆく前の余光が、なかなか愛嬌がある顔だよ、とわざわざ示してくれたものだから、風に流れる黒髪とともにしばらく眺めながら、軽快なメロディーにも身を傾けてみた。


 それからというもの、風景を愉しもうという興が女とのおしゃべりにすり替わった。一日中ずっとここにいるのか? と訊くと「ずっといるよ」という答えで、胡散うさんなところが、なにかいわくが、あるだろう女。とはいえ、私も街で用事を済ませると必ずこの丘へ引き返し、付き合う形となった。


「どこかで聴いたことがあると思ったら」

 何度も何度も聴かされては当然曲の話になり、互いがよく知る故郷のわらべ歌だとわかった。

「『熊になったおじさん』──曲もかわいくて好きだけど、歌詞もおもしろいわよね」彼女はそう言って笛を膝に置き、口ずさむ。風が作りだすたおやかな穂波が私たちを包み、今にも消え入りそうな歌も私の心のメロディーが補強して、ノスタルジーを立ちあげていく。



  熊になって 魚を採る

  鳥になって 種を撒く

  月になって 丘の上


  人であったおじさんは

  何度も別れを惜しむうちに……



 彼女の名前はルノウと言った。歳も知り、誰かの妻であった、という話も聞く。

「独占欲が強いっていうのかしら。結婚したら、もう誰の前でも笛を吹くのはやめてくれって言うの。だから私もずっと、この笛を封印してたわけ」

「悲しくなかったかい? 好きなことをやめるって」と私は訊いた。彼女はほとんどわらべ歌一辺倒だったのだが、この腕前でもっと小洒落た曲でも演奏されたら、金を出したくなるかもしれないな、と雰囲気に呑まれて私は思っていた。

 月が冴える夜。むき出しの岩の上に座って、ルノウは微笑む。「好きな人と一緒になるなら構わないって最初は思ったんだけど。でもね、そういう、幻想を愛するっていうの? あいつは私という人間を愛したんじゃない、なにか別のものに執着していた。そういうものは、長くは続かないわね」

「やはり……やはりそうなんだね」私は酸っぱい味のする草の茎を噛んで、わざわざ味わった。「で、嫌になって逃げてきたのか」

「違うわよ。私、捨てられたのよ?」

 ルノウは先ほどとは趣の違う笑みを浮かべ、笛をてのひらに乗せる。吹くでもなく、今度は夜空へ眼差しを乗せる。

「そういう男は捨てられるのが相場だと思っていたからさ」私は言う。

「まあ、長い時間をかけて」とルノウ。「あいつの心をそういうふうにしたのかもしれない。それは幻想なんだって教えてやったのかも、態度でもってね。わらべ歌のおじさんが人であることが嫌になって熊や鳥や花になりたいと思う、その気持ちは誰でもわかるから、だからこういう歌って、たいしたことなさそうでも永く受け継がれていくのかもね」

「それは結局、君が捨てたのと同じことだよ」

「あなたはどうなのよ」


 私は私の物語を話して聴かせた。いつも肌身離さず肩に掛けている袋の中の木の板を取りだして見せながら。「鐘文ショウモン染めは結構重労働だからどこも大所帯でね。タダ働きなんて当たり前なんだが、我慢できなかったんだろう連中がついに暴れだして、親方をぐちゃぐちゃに殴りはじめて。ほかの仲間も今までの分って、その辺の物を適当に掴んで屋敷を飛びだしていくもんだから、私も右にならえとこいつを盗んで逃げてきたわけさ」

 ルノウは正方形の板を裏表返し、物めずらしげに眺めながら訊いた。「なにか文字が書いてあるけど、これ、一体なんなの?」

「戦時さいさ」

「戦時債? 債券なの? これ」

 私は頷く。「古いものだよ。当時、紙をむだ遣いするなって風潮があってね。で、潰れた寺に経文きょうもんが刻まれた板があったから、その裏に刻印してそれを債券として国が売りだしたわけだ。今の名は『ゴミ屑』と言う」

「慌てて逃げたから選ぶ暇がなかったのね、ついてなかったわね」

「別になんでもよかったんだ」私は銀色に照る丘を見つめた。「私は親方を恨んじゃいなかったし、でも、あんなふうに人が人でいられないような荒れた場所で修行を続けるのも嫌だった」


 私とルノウは夜を日を候巡の丘の上で継いでいった。歌詞の意味の薄まった笛の音とたわいないおしゃべりしか埋めるものはないのに。ここでは街がものすごく遠い。見下ろすたび、さっきまであの地面に自分はいた、と思う。そんなセンチメンタルなことをわざわざ望むなんて、ばかばかしく思えど、人間らしい趣味だと笑えた。私たちは知っていたと思う。誰かの憂いを担う宗教家である必要はない。いつかあの地面のあの石の上に刻まれる詩を遺す芸術家である必要も。ただうらぶれた男女が、なまめかしい色もなく、しかし有意義な、幻想的な時間を持った気がした。


 

 ある夕、いつもと様子が違って見えたルノウが激しく震えはじめ、「すごく寒い」とこぼした。私は草が途切れているところを軽く掘り、木の枝を組み、火をおこした。袋から板を取りだして炎の中に放り込んだ。

「いいの? それ、燃やしちゃって」

 私は「いい」と言った。「言ったろ? こんなもの、たいした値打ちはないんだって」

 すると、ルノウは突然立ちあがり、握っていた横笛を火に投げ入れた。

「おい!」私は思わず両腕を伸ばして炎の中をまさぐった。私の中では、私の持つ木の板と彼女の横笛は等価値ではなかったから。

 しかしルノウは強い行動を起こした。怒気どきを吐いて私を突き飛ばしたのである。

「なにやってるの!」

 おかげで私の腕の火傷やけどは軽く済んでくれたが、しばらくの間、ズキズキ痛んだ。ルノウがすぐに川の水で冷やしてくれたし、薬草をすり潰して貼ってくれた。


「ねえ、私のあの話、本当だと思ってたわけ?」


 彼女が努めて、冷たい声を降らせているのがわかった。私は腕をまっすぐに伸ばし、草の上に寝ていた。


「私の夫はね、単なる暴力男。飲んだくれでもあったけどね。あいつにとっちゃ笛も棒っ切れも一緒。音楽なんてこれっぽちもわかりゃしないの」


 私は火傷のせいで一言も口を利きたくなかったが、どちらにしろ、なにも言うつもりはなかった。


 その日、騒ぐ風もなかったので、知らない足が草を踏み分け近づいてきていることにすぐに気づき、私たちは怯えた。現れたのは痩せた、暗い顔をした長身の男で、手負いのなにかに似ていなくもなかった。ああなりたいと誰も思わないだろう、悲しみの極致にいる、傷ついた獣だ。私たちの丘にいびつな影が落ち、腹ばいの私の睫毛まつげに届くほどに迫ってきた。


「やっと見つけた」男は鼻から荒い息を噴きつつ、ルノウを睨んで言った。「どうして君はいつもそうなんだ。僕から逃げようとする。この男は何?」


「やめて。ほら、この人、腕をケガしてるのよ」ルノウは鋭利な目を男に返して、わらった。「鐘文染めの職人さんでね。私、手先が器用な人ってはじめてで、どんなだろうって興味があって。昨夜、満月だったじゃない? この人に目隠しして絶対に見ないでねって約束させたのに、この人ったら、途中で目隠しを外しちゃったわけ。あんたが私の体につけたあの傷、見られちゃった。だからお仕置きとして、腕を潰してやったのよ」


「僕がいつ傷つけたと言うんだ、そんな嘘をいけしゃあしゃあと──来い!」

「きゃあ!」


 私が立ちあがる間もなく、男はルノウの腕を掴むと、そのまま引きずっていった。

 勝てない勝負に諦めがつかないみたいに私はいつまでも、遠くなっていく悲鳴や嗤い、怒声を目で追い続けていたが、結局一歩も動くことはなかった。 




 私は一人きりになった。候巡の丘の、ルノウの定位置だった岩の上に腰かけ、黒焦げになった横笛を唇に当てた。わらべ歌らしいものをなんとか浮かばせたいと、苦心している。これから念を入れて練習すれば、ルノウのメロディーが復活させられるのじゃないか。


 街へ戻ろうなんて気持ちは湧かなかった。にせの経文が書かれた木の板を全部売りさばけたら弟子にしてやるという話だったが、私も幻想を愛しているやわな男で、海千うみせんといった商売人にはとてもなれっこないと思っている。

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候巡の丘、笛の音 崇期 @suuki-shu

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