熱く、ひそやかな戦い

かんなり

熱く、ひそやかな戦い


 壁の薄いアパートだ。お隣さんもこちらもかなり気を遣って生活しているが、先ほど、盛大なくしゃみが聞こえてきた。夜になるにつれてぐっと気温が下がるようになったのが先週の終わり。冬服を取り出すのは今度の休みにしようと思ったが、もう、明日仕事から帰ったらクローゼットの隅をあさるべきかもしれない。

 壁越しのくしゃみに引きずられたのか、友子の鼻の奥がむずりと疼いた。鼻を摘まめば今からでも抑えられるだろうが、いかんせん、友子の両手はゲームコントローラーを握り締めており、その視線の先、テレビ画面の中では操作するカートが一位の背中を必死に追いかけている途中だった。ゲームのボリュームは絞っているが、画面は爛々と昼間よりも明るく煌めいている。

 まずい。いろいろな意味で、まずい。まず、来るべき衝撃は大きいだろう。お隣さんに間違いなく響く。そして、混戦するレース展開。先ほどから画面の下隅に、カーブの度に映る影がある。友子が一位を追うように、二位の座も虎視眈々と狙われているのだ。今は一瞬たりとも気が抜けな──。

「くっしゅん!」

 レース結果は五位であった。友子はオンラインモードから抜け、壁にかけておいた薄手のコートと厚めのストールを身に付けた。


 改めて、壁の薄いアパートだ。「室内の行動だけでなく、ドアの開閉もよく響くので慎重に行ってほしい」とは、内覧の時に気弱そうな担当員に告げられた言葉だ。シンと静まり返った時刻なら尚更だ。友子はドアに張り付いたフック付きマグネットから、キーホルダーがじゃらじゃらとついた鍵をそっと手に取り、スニーカーも靴べらを使って丁寧に履き、ドアノブに触れた。生ビールが入ったグラスを思い出させる冷たさだ。仕事疲れにとっては有難いそれであるが、今の友子が求める温度は真逆のものである。ゆっくりとドアノブを回し、押した。

 途端、肌を刺すような空気が吹き込んできた。わ、と声が溢れそうになった。寒いだろうとは思っていたが、ここまでとは。部屋の中に戻りたい気持ちをぐっと堪え、一歩踏み出す。セメントとスニーカーの靴底が擦れて、じゃりりと鳴る音さえ耳についた。ドアを閉めるのも、鍵をかけるのも静かに済ませて、友子は廊下を歩き始めた。ほ、と息をつけば白い靄がかかる。もう一度くしゃみが出そうになったが、今度は躊躇なく鼻を摘まんで我慢した。

 アパートから歩いて僅か一分足らずの場所に、友子のお目当てはあった。遥か遠くから救急車のサイレンがかすかに聞こえてくるくらいで、車通りも少なくなった時間。電灯も少ない住宅街で、どんと鎮座した自動販売機が、眩しい白を放っていた。

「……あった」

 自販機の前に立ち、友子は鼻を鳴らしながら呟いた。視線の先には、「あったか~い」の文字。そして、黄色の缶。昨日まではなかったものだ。ボタンを押して、電子マネー読み取り装置にスマートフォンをかざす。ぴぴ、というさりげない電子音もよく響いて聞こえるな、と思ったところで、ガコン、と今度は派手な音を立ててコーンスープの缶が取り出し口に落下した。

 別に、家で適当に湯を沸かして、茶を入れても良かった。仕事仲間の出張土産で貰った紅茶のティーバッグがまだいくつか残っている。それ以外にも、ミルクを電子レンジで温めて、ココアでも作ったって良かった。その方が安上がりだ。けれど友子は、この季節に訪れるこの小さな贅沢を楽しみにしていた。特にメーカーはどれがいいという拘りはないが、とにかく、自販機で買う「あったか~い」コーンスープが飲みたくなるのだ。

 取り出し口に手を突っ込み、端の取り辛い位置に落ちている缶に触れた。スチール缶から火傷しそうな熱さが指に伝わる。外の冷気に手が晒されていたという相乗効果もあるだろう。コートの下に着てあるトレーナーの袖を引き伸ばし、手を覆うようにして、ようやく缶をその手に掴んだ。

 今すぐにでも飲みたいが、缶がまだ熱すぎるので、唇を火傷しかねない。コートの左ポケットに突っ込んで、ほどよく熱を保たせながら帰路についた。


 ほぼ音を立てずドアを開けようと鍵を差し込むと、お隣さんの室内がたがたと音がした。ドア付近にいる。友子がドアを開けるのと、お隣のドアが開いたのはほぼ同時だった。お隣さんも廊下で物音がしていたのは聞こえていたのだろう。お互いに驚かなかった。お隣さんはたしか、学生だ。友子とは違い、しっかりとした厚手のジャンパーを着ていた。そのポケットから、じゃら、と小銭の音がした。友子とお隣さんは、こんばんは、と常識的な挨拶をするだけでそれ以上は言葉は交わさなかった。

 友子は部屋に戻ると、コートとストールを壁にかけ、ポケットのコーンスープを取り出して再度テレビの前に座る。ゲームのメニュー画面のままだ。床に置いたままだったコントローラーのボタンを指でつつき、オンラインモードへ移行する。

 接続中、という文字を眺めつつ、缶を軽く振ってからプルタブをかしゅりと開け、ようやく一口目を口にした。コーンの粒が二つ三つ流れてきた。とろみが強く、甘さ控えめのタイプ。こくん、と飲み込む。熱すぎず、しかし体の芯から熱がじんわりと行き渡るのを感じる。

「はあー……」

 至福の時だった。恍惚とした溜め息を全力で吐くことが出来たのは、おそらく、お隣さんがいないと分かりきっているから。おあの様子だと、お隣さんも自販機に向かったのかもしれない。コーンスープか、はたまたお汁粉派か。

 テレビ画面が切り替わる。メンバーが揃ったようだ。先ほどよりも日本人が幾人か減って、海外の国旗を掲げたアイコンが増えている。

 アパートのほとんどの住民は寝静まったはずだ。このアパートだけではない。日本全体が眠りに就こうとしている。その一方、友子の熱くひそやかな戦いはまだまだ始まったばかりだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

熱く、ひそやかな戦い かんなり @kanda-nari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ