②大雨の日
雨の音で目が覚めた。息を吐くようにスマホをつける。時刻は8時40分。あと20分で仕事が始まる。今日は9時からミーティングだ。世田谷にある自宅から品川のオフィスまでは電車で30分、駅までの徒歩時間を含めると小一時間かかる。数年前の環境なら完全にアウトだが、僕はのんびりと布団を片付ける。3年ほど前から新型のウイルスが世界中で流行したせいで、現代の仕事の半数がリモートワーク化した(中にはリモート化できない業種もあるが、幸いIT系に就職したため、完全リモート化されている)。
布団を片付け寝癖を整える。大学生の時に、Takaの真似をしてあてたパーマがまだ取りきれていない。元々直毛の髪が、毛先の一部だけ円を描く。ざっと寝癖を落としたら髭を剃る。口髭だけでいいのですぐに終わる。顎の髭は伸ばしている。これもTakaの影響だ。歯を丁寧に磨いたら、パジャマから襟付きのシャツに着替える。下半身は着替えなくていいのですぐに終わった。これもリモートワークの特権だ。
時刻は8時50分。まだ少し時間があるが、新卒2年目なのでパソコンの前に座り起動する。先輩後輩という文化は面倒くさい。若手だから早くしろだのと、年齢による障壁がいまだに根付いている。だが出社しなくていいだけマシだと思い、10分間先輩がログインするのを待つ。雨はさっきよりも勢いを増している。
先輩が来るまでの10分間ボーッとする。こういう時間でネットニュースを見たり、経済新聞などを読んだりするのが理想的なのだろうけれど、面倒くさくてそんなことはしない。雨音を聞きながらボーッとする。
ふと高校時代を思い出す。同じくらい大雨の日だった。
「おいおい、めちゃくちゃ雨降ってるじゃん。俺、傘持ってきてねえよ」
傘を忘れた僕の友達が呟く。改札を出て学校に向かおうとすると、大雨だった。こんな中を傘をささずに歩けば、滝行をする僧侶のように全身がぐちゃぐちゃになるだろう。
「滝行かっての」
傘を忘れた僕の友達が、僕が思っていたことと同じことを呟く。日頃から何かを例える事の多い友達だが、こういう時に「滝行」というワードが一致するのはなんとも奇妙で、心地よい。
「今日雨の予報だったっけ。予報外れるにしても降りすぎだろ。詐欺だよ詐欺。なんで学校行く前に滝行しなきゃいけないんだよ。もう帰ろうぜ」
矢継ぎ早に言葉、もとい文句を並べる友達。高校に馴染めていないので、最近の彼の口癖は「帰ろうぜ」となっている。
「せっかく電車も乗ってきたんだから行こうよ」
「いや、逆に駅にいるうちに帰るべきだろ」
「次の電車40分後だよ」
「40分待てばいいじゃん」
「何するの」
「宿題」
「真面目か。なら学校行こうよ」
「だってつまんないじゃん。まじで俺高校に馴染めてない。クラスの奴らとウマが合わないっていうか、波長が合わないっていうか、空気が合わないっていうかさ」
「それ全部同じ意味だよ」
「学校まで歩いていくのもめんどくさい」
「言っても5分じゃん」
「でもさー」
そんなやりとりをしている間に、僕らと同じ制服を着た生徒たちが続々と学校へ向かって走っていく。皆、朝の天気予報を信じたのだろう。傘をさしている学生は数人しかおらず、ほとんどは滝行をしている。
「5分つったって絶対濡れるじゃん。着いた頃には疲弊し切って授業どころじゃないね。きっと学ランは絞れるレベルで、シャツなんかスケスケだよ、恥ずかしい。せめて女子がいればなぁ、まだ学校に行く元気が出るのに」
友達が言うように、確かに女子がいれば、透けたシャツから何色かの何かが見えるかもしれないが、あいにく教室に入ってもむさい野郎どもの上裸しか拝めないことは想像に易かった(僕たちは男子校に通っていたのだ)。
「じゃあ仮に地元まで電車で戻ったとして、駅から家までどうするの」
「それは・・・」
「帰れないじゃん」
「確かに『滝行・改』になる」
「滝行・改のレベルは?」
「着衣泳レベル。絞れる絞れないの問題じゃないの」
僕らは奇跡的に駅から高校までは徒歩5分という恵まれた環境にあったが、地元の駅から自宅までは自転車で20分強、距離にして5キロほどあるのだ。だから、地元まで戻ったとしても、そこから帰宅するまでに滝行は避けては通れないのだ。奇跡的に雨が止めばいいのだが、スマホで天気予報を確認すると、午前いっぱいは雨が降り続けるそうだ。ニュースでは気象予報士が謝罪をしていた。
「仕方ない、学校へ行こう」
「V6かよ」
「そうだ、学校行こう」
「じゃらん」
「僕も帰ろ、おうちへ帰ろ」
「日本昔話、てか帰るなよ」
「でんぐり返ししちゃおうか」
「捕まれ」
「滝行の一貫です」
「そんな滝行は嫌だ」
「今日ツッコミ冴えてるね。俺らお笑い芸人にならない?」
「ならないよ」
息を吐くようにポンポン単語が出てくるのは一種の才能なのだろう。芸人はともかく、何かお喋りを活かせる仕事についたらいいと、この時友達に対してそう思った。
「走れば2、3分で着くかな」
友達は真面目に屈伸と伸脚をしている。走る気満々だ。
「よっしゃ行こう!」
意気揚々と走り出そうとする友達を、僕は引き止める。
「何か忘れていないかい?」
「ん?傘を忘れたんだよ」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ何?」
僕はリュックから黒い折り畳み傘を取り出す。
「1本しかないけど」
「なんだよ、傘持ってんのかよ!」
「いつも入れてる」
正確には入れているではなく出していないのだが、「準備してました感」を出した方が面白いと思ったのでそう言った。
「なに、いつも準備してんの?」
「面白いでしょ」
「面白くはない」
友達にはウケなかった。「そんなんだから傘を忘れるんだよ」と、心の中で呟く。
「持ってるなら最初に言えよ」
「だって聞かないから」
「それは聞かなくても言おうよ」
2人で1本の傘をさすと、いわゆる相合傘になるのだが、お互いそんなことは気にしない。今はただ滝行を避けるのが優先だ。こういう時、思春期特有の変な気恥ずかしさがないのは助かるし、心地よい。
「まあいいや。助かる」
そう言うと、友達は躊躇いなく僕の傘を取り上げ足速に歩いていく。
「え、ちょ、おま!」
「この傘を俺に貸してくれるんでしょ」
「なんでそうなる!?じゃあ僕は?」
「滝行」
前言撤回。心地よくない。
「なんでだよ!」
「スレイブ・タカ」
「いや、主従関係出来とるやないかい」
心底くだらないやりとりだが、この主従関係『ネタ』は向こう10年続くことになる(slave=奴隷:このフレーズはあまり綺麗な言葉ではないので卒業後に使うことは無かったが)。
「じゃあ相合傘する?」
「なんか口に出して聞くと恥ずかしい」
「恥ずかしいならしなくていいよ」
そう言って傘を忘れた僕の友達は再び歩き出そうとする。困った僕は懇願する。
「相合傘してください」
「スレイブっぽく」
「相合傘させていただけますで奉らんで候わん!」
本当に心底くだらない。その会話に意味なんてないし、若干不謹慎だし、文法もめちゃくちゃだ。でも楽しかった。僕は沢山話す方ではないが、ここ最近はなぜか顎が痛くなる。きっとつられて僕も沢山笑いながら喋っているのだろう。
僕は昔から無駄なことが嫌いだ。意味がないと思ったら途端に興味がなくなる。だからといってサボったり、批判したりするわけではないが、無駄な話で盛り上がる学生をどこかで馬鹿にしていた時があった。そんなことして何か生まれるのか。何かのためになるのか。自分に得があるのか。そう考えていたのに、ここ最近は無駄に顎の痛みと闘っている。でも決して嫌じゃない。この痛みが出た時は、僕は人間らしく言葉を沢山発している時だから。それは決して無駄なことじゃない。最近はそう思えるようになった。
それに学校に着いたらまた暗い雰囲気で1日を過ごすのだ。それまでの数十分間くらい、ふざけていてもいいだろう。
「許可する」
そう言って傘を忘れた僕の友達が、僕の傘を我が物顔で開く。小さな折り畳み傘に男子高校生2人が入る。側から見たら気持ち悪いが、やはり滝行よりはマシだと思い、学校へと向かう。時折肩がぶつかるが、ぶつかった方の肩は濡れずに済みそうだ。
そんな高校時代を思い出していると、先輩がログインしたという通知音が鳴った。
「おはようございます」
画面越しに挨拶をする。この2年ほどで、こうした画面越しのやりとりにも違和感を感じなくなった。直接会わないことで無茶な要望も少なく感じるし、何より気を使い過ぎなくて楽だ。仕事でも飲み会でも、直接会えば後輩は先輩に気を使うが、リモートであればそこまで気を使わずに済む。だからこの距離感は嫌いじゃない。・・・嫌いじゃないのだが、ふとしたときに、ここ数日間誰にも会っていないことを思い出す。最低限の会話はしているが、誰かと肩がぶつかるほどの距離で会うことも、雨に打たれることも、顎が痛くなるほど喋ったり笑ったりすることも、もう数日、いや数ヶ月していない。夜は久しぶりに、あの日傘を忘れた僕の友達と飲みにでも行こうか。そう思い、画面越しの先輩とのミーティングに臨む為にカバンの中から資料を取り出す。カバンの底にはここ数ヶ月取り出されていない折り畳み傘があった。外は相変わらず大雨のままなので、ついでに傘も取り出しておこう。
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