春のさなか

小西オサム

春のさなか

 帰路の途中摘み取ってきた野花を、あなたは手に取って顔に近づけた。花の名は知らないが、春風のような一瞬のあなたの表情の変化で、正解だったと気が楽になる。病に呻くあなたの孤独な総力戦によって踏みにじられた大地に花を捧げたところで、それが終わらないことは知っている。


 あなたは目をつむったまま花に安らいでいる。外で小鳥がささやく。あなたは独りよがりな憧憬をその声がした方へと向ける。それから抱えきれずに露わになってしまったさびしさをすぐに隠し、一輪の花を両手に持ちながらこちらを見る。


 「わざわざ遠くから来ていただいただけでなく、こんな花まで持ってきてもらってありがとうございます」


 「そんな丁寧にしなくていいよ。もっとわがままでいいって。病院に会いに行っていた時からずっと言っているけれど、って。ごめんね。きっとこんなこと言われても困るだけだったよね」


 「いえ。そんなことは」


 できるならばあなたを花園へと導きたい。それは横暴で傲慢な思いつきでしかない。あなたとの日常会話は思ったほど続かない。あなたは別世界の煌めきを求めているように見えるが、それほど華やかな世界には住んでいない。気分を紛らわせることのできる小話もたいしてない。


 「あの、私のためにここまで来るのって大変ですよね」


 「いや、全く。そんなことより普通に話したい」


 「普通って何でしょう。たぶん。私は普通ができません」


 「あっ。ごめん。電車やバスに乗りながらずっと、今日こそはおせっかいな命の恩人以外で認識されたいって考えていて、だから。どうしたかったんだろう」


 やはり結論や問題の解決策にまで至らない。あなたのためと思考するほど煮詰まってしまう。こういう場面の最適な選択肢など知らず、あなたを暗くさせてしまうばかりだ。あなたに関わろうとすることは迷惑だろうか。きっとあなたは命の恩人をぞんざいに扱えない。


 「ごめんなさい」


 「そうじゃなくて。ごめん。そんなに無理して気を遣わないでほしいって意味で。だから」


 「命を救ってくれた方ですから、礼儀をわきまえるべきだって思います」


 「そうか。そうだよね。でも」


 あなたは花に目を落としている。それを見守ることしかできない。最初は、あなたに土産の食べ物を買って渡す予定だった。しかし、あなたには制限されている食べ物があるのかもしれないと思い直し、わざわざあなたの両親に踏み込んで聞き出せるはずもなく、隅に咲いていた花しか渡せていない。


 「私は戸惑っている。なぜなら気を遣わない話し方を知らないからだ」


 「えっ」


 あなたの突然の口調の変化に驚く。あなたのその行為には何か意味があるのだろうと想像しようとする。


 「変でしたか。話し方をまねてみたんです。それで普通になるかもって」


 「そんな風に、話しているかな」


 「はい」


 間があって、笑い合う。花が揺れている。春風が力強く通り過ぎたかのようだ。


 「あの。外の話を聞きたいです。何かありますか」


 ささやかな期待とともにあなたが話題を変える。実は道中で、非常識な恩人以外の印象を得るために何度も記憶をあさっていた。しかしどうにものめり込んでくれそうな笑い話が見つからなかった。そのため学問の話であなたが興味を持ちそうなものをいくつか挙げてみる。


 あなたがその中から一つ選ぶ。抑揚を少しつけてときどきあなたの顔色を窺いながら話を進める。こうして会う度にあなたの心根が素直であることが強く伝わってくる。あなたが疑問を交えながら前のめりに耳を傾けてくれるものだから、だんだん話に力が入っていく。


 気がつけば帰る時間がすぐそこに迫っている。なんとか話の終着点を見出して、あなたにそろそろ帰らなければと切り出す。時計を見たあなたの顔に名残惜しさを見出したのは、あなたにそう思ってほしいと願ってしまっているせいだろうか。今、あなたにこれを質問したところで、返事は紋切り型だろう。


 「楽しかったです。学問の醍醐味のようなものを感じられたなと思います」


 「こちらこそ。興味を引けるような日常にいないから、こんな話になっちゃって。飽きたら言って」


 「はい。それで。あの、もう来なくていいです」


 あなたの突然の拒絶を受け入れられない。あなたのことだから遠慮をして言っているのかもしれないと考えてみる。


 「どうして」


 「あの、こんな遠方まで来るのは大変だと思って。命の恩人にそこまでされたら、もうどうお返しすればいいのか分からなくて」


 「気にしなくていいよ。また来るよ」


 「どうしてそこまでしてくれるんですか」


 咄嗟の言葉が出てこない。あなたには隠し事をしている。それだけは打ち明けられない。


 「それはあの時、すれ違って、初めて見た顔から漂う香りに、もっと関わってみたいと思ったからかな」


 「あの時、倒れた私をすぐに助けてくれてありがとうございます。救急車まで呼んでくれて、きっと用事とかあったはずなのに」


 「いいよ。あとこれは勝手にしていることだから、そんな気兼ねしないでいいって」


 「でも」


 あなたのもとへ訪れたとき、あなたは申し訳なさそうな表情を見せることがある。やはりこれはあなたの心労になってしまっているのだろうか。命の恩人という立場に甘えて会い続けることは、許されない行為だろうか。あなたにとって命の恩人でしかないのだろうか。


 「では、さようなら」


 あなたの両親とあなたが許す限りは会い続けたい。しかしこの日々はそう長くは続かないだろう。あなたが体を起こし、ついて来ようとするものだから、それを止める。あなたはその間もずっと花から手を放そうとしない。そのことに思い至り、心にほんのり微熱が満ちる。


 「無理したらだめだよ。ご両親に怒られてしまうよ」


 「でも。あの。さっきの関わりたいって言葉、本心からですか。それとも建前でしかないのですか」


 「嘘じゃない。もっと教えてほしい」


 「じゃあ。あの。これ」


 あなたは毛布の下の手帳を取り出した。


 「受け取っていいのかな」


 「はい。会ったときに話したいことを書き留めていて、結局あまり話せなかったので、読んでほしいです」


 「分かった。しかしそれでは手帳がなくなって困るのでは」


 「大丈夫です。父がまだあると言っていましたので」


 あなたは花を置いて両手で手帳を差し出す。顔はこちらを見ないまま床に視線がある。しかしあなたの感情はこちらに向けられている。初めてあなたから差し出された物であるその手帳を、落とさないように両手で手にする。手帳を鞄にしまうと、あなたが安堵しているように見えた。


 さようならとあなたと言い合ってから、この部屋を後にする。玄関で靴を履いていると、あなたの両親がこうやってあの子に会いに来てくれる人は少ないので喜んでいたでしょうと言うが、そうだといいですねとしか返答できない。あなたの本心と嘘を区別できないからだ。


 あなたの両親は泊まったらどうかとは言わない。それを望んでいないことは分かっている。あなたの両親は死を目前に控えたあなたと家族だけで過ごしたいのかもしれない。感謝の言葉を交わしてから、あなたの家を後にする。あなたの両親に渡した以上のお土産を手にして帰る。


 バスを降りた後、電車の座席に腰掛けながらあなたの手帳を読む。予定は何一つ書き込まれていないにも関わらず、あなたが美味しいと思えた食べ物や、あなたの思い出、あなたが窓辺から見る夕暮れの景色などはひたすらに書きつづられている。そのどの言葉もこの体に染み込んでいく。


 あなたの死が近いために、あなたには決して口に出せない一言がある。あなたには未練など残してもらいたくない。病室に見舞いに行き、あなたの両親からあなたがもう長くないことを知らされてから、あなたには心残りや病痛に苦しまないでほしいと願っている。


 あなたには春昼に静かにこの世から離れてほしい。命の恩人の立場を利用して命の恩人以外で認知されたいと願いながら、あなたの心に波風を立てておきながら、あなたの心の静寂を望んでいる。あなたに好きですなど言えない。あなたに会わなくなることもできない。


 あの時の一目ぼれ以来の、果てのない恋をしている。

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春のさなか 小西オサム @osamu55

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