第4話 波旬

 傷をそっと癒やす。

 重力に平伏す我が身を起こす。

 そこは――――――――何もなかった。


 鈍痛、痙攣、擦過傷――――――全てがどうでもよくなり、身体の内側から込み上げる何かを焼ける喉から遮二無二ひたすら吐き出した。


 視界は明滅している。辛うじて見えるそこは、無の球体が押し潰したかのような、そんなクレーターが存在していた。


 好きや嫌いなど何も感じない。

 投げ捨てられたような父親の右腕を。

 はたき落とされたような母親の左手を。


 無の球体から逃げ延びたそれらが、だんだんと色素の抜けていくような感覚がした。

 そして知覚する。


 少年はそれらによって生きながらえたのだと。

 更に知覚する。

 記憶の隠す嫌な光景を。


 高く、高くそびえる無彩色のはなによって。


 どうでもいい

 どうだっていい

 どうしたっていい

 どうなったっていい

 だから、少年は。





 だから、虚宮躍一は機造花を滅す兵となった。





 ◇◇◇


 そして今、虚宮躍一は――――――


「離せ! ちょっ、おま! クソっ!」

「えへへぐへへへ〜♪ 守ってくれるんでしょ〜?」


 最悪のテロリスト、黒百合刹菜に腕をがっしりとホールドされて、身じろぎ一つ取れない状態に陥っていた。


 暗く光る髪。それはまるで機械のような光沢を持っており、見える瞳は紫玉アメジストのように鮮やかないろどりをしていた。顔の様は透明な水面の如く綺麗で、『傾国傾城の』という謳い文句が一番似合う少女だと、改めて躍一は認識する。


 事の発端は数日前――――――――世界を滅ぼす天災に主犯が発覚し、躍一は見事に殺害を失敗。それだけでなくその忌むべき敵に愛されるという惨めな失態を侵した挙げ句容認するという事態にまで陥った。


 相変わらず頭痛がする。

 蓮華は変わらず躍一をむすっとした眼で見遣りつつ、クッションを抱きかかえて躍一宅で手作りの焼き菓子をたしなんでいた。

 白露蓮華…………彼女は躍一の幼馴染であり、妹とも仲の良い美人という言葉が似合う同級生。すらっとした容姿で、身長も躍一よりは少し小さく、肌や姿容は常に綺麗さを保っている。

 薄桃色の髪は肩口を越えた辺りで揃えられており、端正さが滲み出ていた。


 妹こと或手水あるてみすは俺を尻目に、同じように菓子を食べつつテレビに齧りつくように暇を過ごしている。


 時刻は午後の五時。躍一達は「え? ねぇ私の紹介は?」部活もなく、出動命令もないということでリビングでゆっくりしていた。


 のだが、かれこれ数分に一度は抱き着かれ身体を触られ集中を欠かれる様。無理くり放置しようとも気が気でない。


 前回の件での報告書を書かねばならないのだが、ここ数日はまるっきり刹菜に時間を取られ蓮華にも急に頬をつねられこの有様である。


 なんとかせねば……というのも自然の流れだ。

 といっても躍一とて刹菜には未だに解せない点が多い。真相を知っていながらも明かさない情報は数しれず。だが友好的に接するというのも心中では些か癪だった。むしろ願うならばこの二人に任せきりたい……というのも。


「…………!」


 刹菜を小突いてた肘を止めて、はっと顔をしかめる。

 そうだ、蓮華と或手水に仲良くなってもらえれば良い。或手水に限っては何故か真相を知っていそうだし、頼りになるだろう。

 その表情を察したかのように、或手水はこちらをふっと振り返り――――――


「あア私宿題あるの思イ出しちゃったナあ~!?」

「っ! …………こいつ」


 或手水はわざとらしく何かを思い出したかのようにテレビを切って自室へ向かっていった。

 躍一は大きな溜め息を吐き、深く頭を下す。蓮華は今のところ刹菜に好感を持っていないだろうから、有り体に言ってしまえば今の状況は躍一にとっては地獄そのものだった。


 すると、躍一の携帯に着信音が鳴った。

 気になって開けてみると、そこに書かれていた宛先は『親愛かつ神聖なる妹』。因みにこんな風に名前を変えた覚えはない。

 青ざめた顔でパスワードを変えておこうと決めた後、躍一は訝しげに内容を覗き込んだ。


『今から三〇分以内にデレシーン二つ。できなきゃ政府にバラしちゃうぞ☆』


 あ、殺す


 そう瞬間思った。

 誰にどうとは何も書いてはおらず、ありったけの自由と翻弄を投げつける妹につくづく噴気を漏らした。


 携帯を他所へ投げつけそうになるも、すんでのところで自制する。

 致し方なく、嘆息とともに躍一は報告書の執筆を続けた。

 知ったことではない。どうせ刹菜の方から進んで事を為すのだからこちらから何かをする必要がないのだ。真面目に取り合うだけ損である。


 躍一は冷静に自分を判断し、きょとんとしている刹菜と蓮華を無碍にペンを取る。

 だが、再度の着信。


『あ、躍兄からしないと駄目だよ?』


 ピシッ、と。眼鏡のレンズが割れた。


 骨の髄まで木っ端微塵にしてやる、という危険思想を押し込めて、宥めすかして、押し殺して、ようやっと喉の奥に溜まる熱をゆっくりと放出した。


 数秒の思考。その間に常人の数十倍数百倍の回転力を誇る躍一の脳髄は、嫌々ながらも最善手に困惑する。そして、意を決したように深呼吸をした。


 頬をほんの僅かに震わせながら、今生のクール顔で刹菜に言伝る。刹菜はおずおずとこちらを覗きながら、不思議そうな顔を向けていた。


「黒百合、少し集中したいから体勢を変えていいか」

「…………?」


 躍一の上擦った声に眉根を寄せる刹菜。

 彼女とて何か理由があったことには察しがつく。

 その上躍一が嫌悪感を隠すほどのことだ。刹菜を害することならば喜んでする人間がこうも表層に感情を漏らすのだから、刹菜にとって悪いことには繋がらない。


 首肯をそのまま。躍一は更に決意を固め、取り立てて異な事をやってのけた。


「…………へっ?」


 彼女の頭を自身の膝へ置く。


 背中にこれでもかと纏わりついていた彼女は、いとも容易く言葉を奪われていた。

 何が起こったのか全く理解していないようである。


「仕方ない。これが最善だ」

「っ…………」


 つんとした表情のままに、躍一は口を噤んで報告書に集中した。

 刹菜は出来事の理解をするまでの数分を硬直したまま、ゆっくりと臆しながら彼の腰に手を回した。

 顔を埋めて両者とも耳を真っ赤に燃えさせている。


 上階から「ごっつぁんですッ!!」と猛々しい声が聞こえてくる。



(一体どこから見てるんだよ……)



 それから経つこと十数分。躍一と刹菜は身動きを一切変えぬまま、報告書を書き終えた躍一が刹菜の頭をぽんぽんと叩いた。


 だが、気付くような素振りはない。


「黒百合? …………って、寝てるのか……」


 顔を起こして見てみると、すやすやと規則的な寝息を立てて眠っていた。

 彼女とて生活をするなかで疲れてしまうこともあるのだろう。特に慣れない学校や人間との協同を短時間で濃密に行ったのだ。夕飯までの数時間、寝かせておいても構わないだろう。


 側方でじっとめつけていた蓮華に声をかけ、ソファに寝かせる。

 蓮華は蓮華で変わらずぷいとこちらに顔を背けたまま、やけに不満そうな行動をとっていた。


 気付けば彼女は一人で焼き菓子を平らげてしまっていたようだった。いつもはいくつか残すのだが…………今回は明らかに理由があった。


「白露? そろそろ夕飯でも作り始めるか?」

「…………躍一のバカ」


 心中を伺うように問うたものの、やはり怒られていることに気付く。蓮華は躍一の背中に付いて、肩に手を置き上から見下ろす形を取った。


 躍一は見上げ、蓮華の顔を覗き込む。

 やはり不満気だ。頬を膨らませ、頬をつねられる。


「いひゃい、痛いって」

「ばーつっ。私が怒ってる理由もわかんないでしょ」

「…………返す言葉もない」

「〜~~〜!」


 そう答えると、肩をぐわんぐわんと揺らし更に躍一を責める。蓮華は自身が顔の紅潮させているのをバレないようにし、躍一を困らせた。


「躍一は果たすべき仕事を完遂できなかったので罰が必要です」

「もう受けたろ…………」

「だーめ。私も躍一に膝枕する!」

「そこは逆なのかよっ」


 あーだこーだと言い続け、躍一の肩を掴んでいた蓮華がぐいっと後方に引っ張った。順当に彼女の膝についてしまうはずだが、躍一は咄嗟の出来事に身をのけぞらせてしまった。


 結果――――――――――


「あっ…………」

「っっ! ……っ」


 仰向けに倒れる蓮華と、それに覆いかぶさる躍一。

 柔肌が間近まで近づいており、乱れた吐息も触れてしまう。

 薄桃色の髪の感触が手に伝う。

 小刻みに動く彼女の手は、ぐっと力を込めて固まった。

 きゅっと目を瞑られる。


 その数秒に、躍一は硬直したままに。



 カシャッ






「これァやべぇモンが撮れましたぜぇ兄貴!!!」





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2024年7月1日 19:20 毎週 月曜日 19:20

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