第四十話

 空に浮かんでいた大きな檜扇は、飾り紐をなびかせながら、下へと舞い降りてくる。くったりとした、傷だらけの桜姫を、手のひらに乗せた“伍”は、静かに比叡山の鬼門の近くに降りていた。


「おやまあ、なんて痛ましいお姿に……」

「やかましいわ……」


 そう返事を返した桜姫は“伍”の手の平に乗ったまま、鬼門へ近づくようにと細い声で告げて、最後の力で結界を閉じようと、震える手を掲げていたが、奥の方から黒い影が、ぞろぞろと出てくるのを見て、もうできることはないと思い目を閉じる。

 しかし、そこから姿を現したのは、例の「ひと仕事」を終えて、眷属を連れた雷公であった。


「雷公……そなた……」

「……その名前はへ置いてきた」

「うん?」

「いや、迷惑をかけたが、邪魔をされたくはなかったのでな」

「邪魔……?」

「ふたつ名を、ようやく捨てることができた。これからは、天満大自在天神てんまんだいじざいてんじんの名の下で、眷属とともに、人々を見守ってゆく所存である。迷惑をかけたな……」


 そう言った雷公、いや、天満大自在天神てんまんだいじざいてんじんは、鬼門を二度と開かぬように、結界を貼り直し、門神のふたりを復活させ、守りを元通りに戻すと、この此岸しがんに降り注いでいた死者の魂すらも、彼岸へと送り返して、祟り神の辞退届け出を出すべく、()@のある出雲へと旅って行った。


「あのめ……おのがけがれを払うために、真白の神を、飼っておったな……」

「え? なんの話です? 桜姫!?」

「雷公は、一切合切のけがれを、あの男に押しつけるために、わざと、真白の神の臣下についておったのじゃ。もうあの男は、こちらの世界を厭うのに飽きたのであろう……すべて、やつにもてあそばれておったのじゃ、わらわも含めてな……おやすみ……」

「桜姫!?」


 すっかり疲れ果てた彼女は、“伍”の手の平の上で、深い眠りについていた。


***


〈 それから数年後の呪いのやかた 〉


「“伍”鉢を持って来いよ! どうせ今日も桜姫は眠ったまま……いや、まあ、そのままでいいか……」

「…………」


 あの騒ぎから、すっかり時は流れ、真白陰陽師ましろのおんみょうじたちは、内裏から正式な謝罪と復帰の要請があったので、いまは昔のように、毎日、陰陽寮へかよっては、定時定刻きっかりに、やかたへ帰る生活に戻っていた。


 元にもどった内裏には、預かった数々の宝物も、すべて返されていたが、肝心のである螺鈿らでんの君たちは、このやかたへと、住み着いてしまっていたので、いまではあれらが、宝物と呼べるかどうかは怪しかったが、みななにも言わずに黙っていた。


 なにせ肝心の桜姫は、戻って来てからも、御殿飾りの中で、こんこんと眠りについていたからである。


 寝殿の真ん中にある鉢を、毎日こっそり覗いては、ため息をついていた“伍”は、今日も同じように、そうめんだけが浮かぶ、からの「鉢」を見つめていると、なにか懐かしい声が、うしろから聞こえた気がして、振り返っていた。


 そこには、自分がかつて、「ここで、お暮しになってはどうですか?」そう言って用意した『御殿飾り』がぽつんと置いてあり、あの頃と同じように相変わらず、金色の蛇が、桜姫を守るように、巻きついている。


 あれから少しして、出雲から帰った雷公ではなくなった天満大自在天神てんまんだいじざいてんじんが、真白の神から取り返してくれて預かったままの、本来の輝きを取り戻した、桜姫のきらめく水晶の『玉』も、下に小さな御前座布団を置いて、御殿の横に飾ってある。そして、御殿からは、確かに声が聞こえていた。


「え? まさか!? ほんとに!?」


“伍”が、急いで御殿飾りの屋根を外してみると、そこには花の女房に囲まれて、すっかりしなびた桜姫が、目をうっすら開けて、口をパクパクさせながら、横たわっていた。


『“伍”なにか食べさせて……』


 そう、彼女が、再び目を開いたのは、京へ戻り、内裏が再建された、数年後のことであった。


「ちょっ、ちょっと待っていて下さいね!」


“伍”は、大急ぎで台盤所へ駆け込むと、なにごとかと唖然としている“弐”から、朝餉にと用意していた、おかゆの入った鍋を奪い、蔵で見つけて勝手に調理に使っている大きな匙を持ち、桜姫のもとへ走ってゆく。


 御殿飾りの中から、そっと取り出した桜姫を、彼女の小さな畳に乗せて、鍋に入っていた桜姫の顔よりも大きい匙を、目の前に持ってゆくと、彼女は匙の中に顔を突っ込んで、「熱い熱い!」そんな風に騒ぎながらも、結局、鍋ごと、「お粥」を食べてしまったが、その日は誰も、なにも言わなかった。


「おはようございます……」

「“伍”よ、少し大きくなったか? いい年をして、なにを泣いておる?」

「桜姫……」

「苦しい! 苦しい!」


 感動のあまり強く“伍”に握り締められている桜姫を、みなは、ほほえましく眺めていた。


 それからまた数日がたち、桜姫が、祓詞はらえことばを、「鉢」の前で唱えていた。あれから何年も沸いていなかった「鉢」からは、再びそうめんが沸き上がり、やかたに暮らす、陰陽師たちすべて、そして螺鈿らでんの君、天藍てんらんの君、豆粒ほどの四君子しくんしたちは、桜姫と一緒に、いつまでも舞い踊っていた。


一二三四五六七八九十ひふみよいむなやここのたり布瑠部ふるべ由良由良止ゆらゆらと……」

「もう、いいかげんにやめてもらわないと、入れる場所がない!」


 そんな声を上げた“弐”のうしろには、大量のそうめんが入った桶の並ぶ、龍頭鷁首りょうとうげきしゅが、仲良く二艘、浮かんでいた。


「全部食べる、あとは、全部食べるから、大丈夫である!」

「もう、本当にお願いしますよ?」


“弐”は、そう言いながら、休みであったので、そうめんを売り歩きに、やかたから出て行った。


***


 やがて夜が訪れて、みなが寝静まった頃、桜姫は自分が眠っている間に、花の女房たちが、せっせと用意していたらしき、銀糸の菊の二重文様の入った、うっすらと輝く白い夜着のまま、そっと御殿飾りから外をのぞいて見ると、やはり、そっとこちらを覗いていた“伍”と目が合う。


「あ……」

「えっとその……」


吾妹わぎもの君……愛おしいあなた……』


 その言葉を思い出した桜姫は、ふいと御殿飾りを飛び出すと、人の大きさになって“伍”とならび、月明かりに冴え冴えと浮かんでいるやかたの庭を、じっとながめ、やがてふたりは外に出ると、池にかかる反橋の高欄の上に、並んで腰かけていた。


「えっとその……あのですね……」

「しっかりいたせ……あれから何年も経つというに、そなたなんにも変わってはおらぬではないか……」


 相変わらずの桜姫は、そんなことを言っていたが、『その変わりのなさが、よいのだけれど……』そう思い、白く小さな手を少し大人びた“伍”に重ねていた。


「あっ……!」


 驚いた様子の“伍”は、おろおろと、彼女が眠っている間に起きたことや、あの時の靑龍󠄂せいりゅうは、近江おうにの海で、龍女に助けられ、元気にしていること、雷公はすっかり「学問の神様」として出直して、たいそう繁栄していることなんかを、取りとめもなく長々と話していたが、最後の最後に、困りごとを持ち出していた。


「あの日、京を立った時に、蔵人所の別当のやかたに行ったことを、覚えていますか?」

「え? うん。覚えてる。それがどうかしたのか?」


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