第四十話
空に浮かんでいた大きな檜扇は、飾り紐をなびかせながら、下へと舞い降りてくる。くったりとした、傷だらけの桜姫を、手のひらに乗せた“伍”は、静かに比叡山の鬼門の近くに降りていた。
「おやまあ、なんて痛ましいお姿に……」
「やかましいわ……」
そう返事を返した桜姫は“伍”の手の平に乗ったまま、鬼門へ近づくようにと細い声で告げて、最後の力で結界を閉じようと、震える手を掲げていたが、奥の方から黒い影が、ぞろぞろと出てくるのを見て、もうできることはないと思い目を閉じる。
しかし、そこから姿を現したのは、例の「ひと仕事」を終えて、眷属を連れた雷公であった。
「雷公……そなた……」
「……その名前は窯の中へ置いてきた」
「うん?」
「いや、迷惑をかけたが、邪魔をされたくはなかったのでな」
「邪魔……?」
「ふたつ名を、ようやく捨てることができた。これからは、
そう言った雷公、いや、
「あの祟り神め……おのが
「え? なんの話です? 桜姫!?」
「雷公は、一切合切の
「桜姫!?」
すっかり疲れ果てた彼女は、“伍”の手の平の上で、深い眠りについていた。
***
〈 それから数年後の呪いのやかた 〉
「“伍”鉢を持って来いよ! どうせ今日も桜姫は眠ったまま……いや、まあ、そのままでいいか……」
「…………」
あの騒ぎから、すっかり時は流れ、
元にもどった内裏には、預かった数々の宝物も、すべて返されていたが、肝心の中身である
なにせ肝心の桜姫は、戻って来てからも、御殿飾りの中で、こんこんと眠りについていたからである。
寝殿の真ん中にある鉢を、毎日こっそり覗いては、ため息をついていた“伍”は、今日も同じように、種そうめんだけが浮かぶ、
そこには、自分がかつて、「ここで、お暮しになってはどうですか?」そう言って用意した『御殿飾り』がぽつんと置いてあり、あの頃と同じように相変わらず、金色の蛇が、桜姫を守るように、巻きついている。
あれから少しして、出雲から帰った雷公ではなくなった
「え? まさか!? ほんとに!?」
“伍”が、急いで御殿飾りの屋根を外してみると、そこには花の女房に囲まれて、すっかり
『“伍”なにか食べさせて……』
そう、彼女が、再び目を開いたのは、京へ戻り、内裏が再建された、数年後のことであった。
「ちょっ、ちょっと待っていて下さいね!」
“伍”は、大急ぎで台盤所へ駆け込むと、なにごとかと唖然としている“弐”から、朝餉にと用意していた、お
御殿飾りの中から、そっと取り出した桜姫を、彼女の小さな畳に乗せて、鍋に入っていた桜姫の顔よりも大きい匙を、目の前に持ってゆくと、彼女は匙の中に顔を突っ込んで、「熱い熱い!」そんな風に騒ぎながらも、結局、鍋ごと、「お粥」を食べてしまったが、その日は誰も、なにも言わなかった。
「おはようございます……」
「“伍”よ、少し大きくなったか? いい年をして、なにを泣いておる?」
「桜姫……」
「苦しい! 苦しい!」
感動のあまり強く“伍”に握り締められている桜姫を、みなは、ほほえましく眺めていた。
それからまた数日がたち、桜姫が、
「
「もう、いいかげんにやめてもらわないと、入れる場所がない!」
そんな声を上げた“弐”のうしろには、大量のそうめんが入った桶の並ぶ、
「全部食べる、あとは、全部食べるから、大丈夫である!」
「もう、本当にお願いしますよ?」
“弐”は、そう言いながら、休みであったので、そうめんを売り歩きに、やかたから出て行った。
***
やがて夜が訪れて、みなが寝静まった頃、桜姫は自分が眠っている間に、花の女房たちが、せっせと用意していたらしき、銀糸の菊の二重文様の入った、うっすらと輝く白い夜着のまま、そっと御殿飾りから外をのぞいて見ると、やはり、そっとこちらを覗いていた“伍”と目が合う。
「あ……」
「えっとその……」
『
その言葉を思い出した桜姫は、ふいと御殿飾りを飛び出すと、人の大きさになって“伍”とならび、月明かりに冴え冴えと浮かんでいるやかたの庭を、じっとながめ、やがてふたりは外に出ると、池にかかる反橋の高欄の上に、並んで腰かけていた。
「えっとその……あのですね……」
「しっかりいたせ……あれから何年も経つというに、そなたなんにも変わってはおらぬではないか……」
相変わらずの桜姫は、そんなことを言っていたが、『その変わりのなさが、よいのだけれど……』そう思い、白く小さな手を少し大人びた“伍”に重ねていた。
「あっ……!」
驚いた様子の“伍”は、おろおろと、彼女が眠っている間に起きたことや、あの時の
「あの日、京を立った時に、蔵人所の別当のやかたに行ったことを、覚えていますか?」
「え? うん。覚えてる。それがどうかしたのか?」
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