第三十七話

寳山寺ほうざんじ


 弘法大師こうぼうだいしも修行したといわれる、霊験あらたかなその寺の中には、例の男、「雷公」をまつる天神社も存在したが、参道を上がってすぐにあった門で、話を聞いて来た“伍”は、中の様子までは知らなかった。


「よくあんな真夜中に開いていたな?」

「一日中、出入り自由らしいですよ……」

「ほう……」


 みなは、衣櫃ころもびつを抱えて、どこかへ消えた螺鈿らでんの君と天藍てんらんの君に、「遠くへ行かないでくださいよ――」そんな声をかけてから、四君子しくんしのふたりと一緒に、山の中で見つけた広場で焚火をすると、びしょ濡れになった服を脱いで乾かしていた。


「にゃ――」


 黒い子猫は、寳山寺ほうざんじの中にある「雷公」の別の名前、清々しき存在としてあがめられる「天神」をまつる天神を祀るやしろへと近づくと、すっと姿を消してゆく。


「おやまあ……しばらく待機か?……この大雨が憎い! いやはや……」


 比叡山の鬼門の前で、そんな声を上げていたのは、以前、桜姫に腕を落とされた火雷天気毒王からいてんきどくおうであり、子猫は、彼が腰に下げていた「猫丸」の化身であった。そんな彼は、すべての建物を破壊しつくした「真白の神」に、心内でブツクサいいながら、「一旦撤収!」そう言うと、従えていた眷属を連れて、壊れた鬼門から帰って行った。


「一応、鍵かけておくか……あの姫さま、おっかねえもんな……」


 開けっ放しの鬼門から、直接殴りこまれるのは、少し勘弁して欲しかった「天」ちゃんは、鬼門に結界を張り巡らせて、どちらからも、行き来できぬようにしてから、元の世界へ戻ってゆくと、あるじである雷公のやかたへと足を運び、首尾を伝え、彼の住まう黒いやかたの中、寝殿の母屋に座る雷公の前で、頭を下げながら、ことの成り行きを説明していた。


***


「お申しつけの通り、鬼門の結界を戻してまいりました……だれひとり不審には思わぬはず……」

「そうか、よくやってくれた……では、いざゆかん……」

「雷公……!」

「その名は捨てた……我の名は、天満大自在天神てんまんだいじざいてんじんただひとつ、いまより、真白の神を、その位より降ろし奉る……」

「はっ!」


 横にいた眷属第壱位、彼が生きていた頃の北の方、北政所吉祥女きたのまんどころ きっしょう は、いつもは、藤に萌黄色をあわせた細かな文様の浮かぶ、「袿姿うちぎすがた」と呼ばれる、濃い紅色の袴に単衣、その上にも幾枚かのうちぎかさねた、やや、くつろいだ、装いを好んでいるが、そのときは、正式な裳唐衣姿もからぎぬすがた十二単じゅうにひとえを身にまとい、銀の糸の刺しゅうの入った長く白い絹地で織られたを引いていた。


「紅姫の準備もできております……」

「今までよく……否、あのときから、長くよくも耐えて仕えてくれた……」


 雷公のその言葉に、彼女は指先も見えぬ、裄の長い優雅な袖で、そっと目元に浮かんだ涙をぬぐっていた。


 彼に従う眷属は、その数の数え切れず、主だったものだけに、言い渡されていた計略に気づいていたのは、に取り憑いていた、だけであった。


***


 その頃、近江おうみの海に浮かぶ、自分が住む島へと帰っていた、黒髪の龍女りゅうじょは、不思議そうな顔で、使いに出していた蛇の報告を受けていた。


「鬼門が閉じたとな……はて、おかしなこともあるものじゃ。まだ桜姫たちは到着した気配はないのであるが……いや、それどころではなかった!」


 龍女は、この渦巻く嵐のような天候で、自分が暮らす島すらも、近江おうみの海に飲み込まれそうになって、必死で水を操作しながら、たくみに島を守っていたのである。


***


 みなが注目する中、桜姫が目覚めたのは、翌々日の朝、比叡山も近江おうみの海にも明るい青空が広がっている頃であった。それからすぐに彼女は、再び巨大な龍の姿になると、みなを背中に乗せて、比叡山へと向かい、ついに目指していた「鬼門」の前に、舞い降りていた。


「あれ? 鬼門が閉まっている……」

「なんじゃ、来るまでもなかったのではないか?」


 しゅるしゅると、元の小さな姫君に戻った桜姫は、自分には見える、かなり強力に張り巡らされた、土蜘蛛が編んだような、ほのおの糸を張り巡らし、奥にぽっかりと深く続く洞窟が見える結界の前で、しばらく悩んでいたが、その穴の奥から、ひたひたと歩いて来た男と目が合うと、すっと瞳を細め、すがんだ目つきを投げかけていた。


「そなた……雷公の眷属、靑龍󠄂せいりゅうじゃな……」

「お初にお目にかかりまする……」


 ふたりの間では、見えない結界の糸からいきなり、ほのおの結界が、強く噴き出し、螺鈿らでんの君たちだけではなく、それは神ならぬ、真白陰陽師ましろのおんみょうじたちにも、鮮やかに見えていた。

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