第三十五話

 黒髪の龍女は、少しの間、桜姫の言い分を聞いて、白く半透明な状態で、桜姫の額に浮かぶ梵字ナウを、じっと見つめていたが、やがて口を開き、透き通るような声を出す。


「なるほど……しかし、難陀竜王なんだりゅうおうは、お忙しい御方、桜姫の無礼に気づいていらっしゃらぬ……と言うこともある……」

「疑り深い女じゃの……」


 もう、ふたりの激突は避けられないのか? 周囲が息を飲んだそのときである。“伍”が、ふたりの間に割って入り、桜姫を庇うように、両手で小さな彼女を覆い、黒髪の龍女に必死に訴えたのは。


「あの、そのっ、桜姫はウソをついていません!」

「なにものじゃ、そなた!? 邪魔だてすると、容赦はせぬぞ!?」

「桜姫は、いまから真白の神が壊した鬼門を閉じて、湧き出る鬼たちを退治しにゆくところなんです!」

「なんと……それは、まことであるか!?」

「はいっ! 周りにいるみなも一緒です!」


『勝手に巻き込むな……』

『どこかで逃げ出すか……いますぐの方がいい?』


 そんな思いが“伍”の言葉のうしろで、様々な思いが錯綜していたが、さすがは『神に愛される存在』“伍”であった。


“伍”の素直でまっすぐな気性を見抜いた龍女は、「顔が痛むとはいえ、誤解して、すまなんだ……」そう言うと、「気をつけてな……」そんな言葉まで“伍”にかけていたのである。桜姫は、完全に無視されていた。


「あ、そういえば、そのお顔の傷は痛むのでしょう……お痛わしいことです……」

「うん? まあな……しかし、そなたが、どうこうできる物でもないので、気にするな。わらわの失態であるゆえに……」

「いえ、大丈夫です。まだ願い事を叶えることができますので!」

「願い事をかなえる……誰が?」


『いやな予感がする……』


 桜姫が“伍”の両手の中から、そろりと抜け出す前に、彼は残りの「お願い」を口にして、手の中にいた桜姫は、「あ――あ、やっぱりな……」そんな顔をすると、なにやら“呪”を詠唱して、黒髪の龍女の顔から、すぐに火傷の痕を消し去っていた。


「ほれ、鏡……」


 龍頭鷁首りょうとうげきしゅの龍の方から取り出した、小さな鏡を桜姫に言われて、取り出した“弐”が差し出すと、彼女は痛みの引いた自分の顔に、しばらく見入っていた。


「なんと……きれいに元に戻っておる……」

「わたしとそなたでは、出来が違うのじゃ……分かったら、わらわの邪魔をするでない」


 そんなことを言う桜姫を、龍女はじっと琥珀色の瞳で、疑り深く見つめていたが、「今回は、この陰陽師に免じて、一度だけ機会をやろう……」そう言うと、沢山のアユが入ったカゴを置いて、再び龍の姿になると、高く空に浮かび上がり、いつしか近江おうみの海に浮かぶ、自分が住む島へと帰って行った。


「うまいことやったな……」


 “伍”に、そんな声をかけたのは、早速、アユの入ったカゴに近づいて、今日はここで一休みするかと言いながら、アユを捌きだした“弐”であった。


 パチパチと起こした焚火の火の中で、なにかがはぜる音を聞きながら、“弐”が、てきとうに見つけて来た枝に刺したアユが、なにやら香ばしい匂いを漂わせながら、よい感じに焼けるのを、みなは焚火をとり囲んで、とりとめもない話をしながら、じっと待っていた。


 螺鈿らでんの君は、横に美しい絹織物を敷いて、小さな畳に座っていた天藍てんらんの君へ話しかける。


「わたくし新しい小袿こうちぎを、仕立てたところでしたのに……」

「それ? とってもきれいですわね。色といい織の文様といい、生地の地質まで、さすがは、螺鈿らでんの君ですわ!」


 天藍てんらんの君は、じっくりと螺鈿らでんの君の姿をながめて、再び口を開く。


「最近流行の少し長めの仕立てですのね……わたくしは、なかなかに迷う性格なので、その才が、うらやましいですわ……」


 彼女は、そんなことを言いながら、うらやましげに、ほうとため息をついていたが、褒められた螺鈿らでんの君といえば、真っ黒な煙でもでるのではないか? そんな重苦しいため息をついていた。


「こんなところで着ていても、仕方がございませんけれどね……見ているのは、焼けてゆく死んだアユのにごったまなこだけ……」

「あ……」


 気落ちしている螺鈿らでんの君を、どうしたものかと、天藍てんらんの君が慌てていると、やはり絹織物を敷いて、小さな畳に座っていた桜姫が、この災いの当事者が、無自覚にも程がある言葉を口にしていた。


「一蓮托生、いまさらなにを、たらたらと文句を言っておる? アユが、いらんのなら、わらわが食べるぞ?」


 つねに美しく上品な螺鈿らでんの君であったが、「もういいや……」そんな風に思ったのか、「こっちのアユ焼けましたよ――」そんな“弐”の声に反応し、普通の人の大きさになると、さっとアユの刺さった枝を、両手でつかみとり、交互にかぶりついていた。


「そこまで自棄やけにならなくても……」


 天藍てんらんの君は驚きのあまり、「わたくしは、あとで頂きますので、ひとつ、ふたつほど取り置きを……」そう言って、龍頭鷁首りょうとうげきしゅの「げき」水鳥の方へと舞い上がると、そこに設えてある自分の部屋(漆塗りの琵琶の箱)へと戻ってゆこうとしたが、いつの間に潜り込んだのか、それはそれは愛らしい、真っ黒な子ネコが、船に乗り込んでいて、こちらをじっと見つめていた。


「にゃ――」

「あらあら、かわいらしきこと……しかたがないわね。あなたもアユを食べる?」

「にゃ――」


 子猫は、天藍てんらんの君の言葉が分かっています。そんな仕草で、うしろをゆいてゆき、みなのいる焚火の方へ、ぴょこりと顔を出すと、「沢山あるから、好きなだけ、お食べなさい……」天藍てんらんの君に、そう言われて、うれしそうに大人しくアユを一匹だけ食べていた。


「かわいい……」


 それからしばらくして、みながそれぞれに、船にのって休んでいると、子ネコも同じように、船の中で丸くなって眠っていた。

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