第二十九話

 驚いた真白の神を、桜色の稲妻のような光が襲う。


 彼をとりまいていた、御帳台みちょうだいを囲んでいた四方のとばりは、柱を残してすべての布が吹き飛び、彼の頬からは、だらりと赤い血が流れ落ちて、うすいふすまを被っていた紅姫は、その勢いでふすまが吹き飛んで、その朽ち果てようとする姿を見せていた。美しく艶やかであった彼女は、いつぞやの金になった女人に近づいてゆくような、ようやく形をたもっている。そんな有様であった。


「紅姫……そなた、一体なぜそのような姿に……」

「ほほほ……このような姿で、挨拶もできず、お恥ずかしい限り……」

にえは黙っておれ……余の邪魔はゆるさんぞ?」

「そなた、おのが眷属を踏みつけてでも、その意思を通すというのか……」


 桜姫は、唖然としていた。


 紅姫、最上位山崎紅姫天王さいじょういやまさきべにひめてんのうといえば、この目の前の狂気で練り上げたような、「真白の神」を自称する存在を支える「雷公」の眷属であり、なによりも彼の愛娘であるというのに、この扱い……である。


 桜姫は、ふと自分の過去を思い出し、心の奥底から怒りがこみあげて、本来の姿に戻って、この寝殿ごと吹き飛ばしてやろうかと思ったが“伍”の姿は相変わらず見えず、その存在を示す僅かな気配だけが漂っていた。


 それゆえに、すこし逡巡しゅんじゅんしていた彼女は、朽ちてゆこうとしている紅姫の視線に気づくと、さっき出会った火雷天気毒王からいてんきどくおうとやらの言葉を思い出す。


『宝は絡めとられた中に』


 紅姫の視線の先には、銀の網で、「御角みつの」のひとつがぶら下がっていたのである。


「そなた、いつか、いつの日か、必ず破滅するぞ……そなたの横には、死神がついておる方が、よほどに相応しい……」

「はっ、神につく死神なぞ、おる訳がなかろうて!」


 桜姫の滑稽な言葉に、真白の神が皮肉気な口調で、そう答えていると、彼女は袴の間に挟んであった小さな檜扇を取り出して、ニヤリと笑い、死者すら復活するヒフミの祓詞はらえことばを、に素早く詠唱し、それからすぐに、彼女の開かれた檜扇からは、黒いもやが湧き出していた。


「……いでよ、死者、死神の世界をすべる者よ! そなたに預かりし“神へ憑く死の舞踏”を、長公主、“  ”の名の元に、いまこそ解放する! いまこそ現れ、そこな無礼者に憑くがよいっ!」

「なっ!!」


『承知つかまつった……龍の姫君よ……我を解放してくれた礼を……あらためて申す……さらば……御身、いましばしは、幸多き時を刻まれるように……』


 桜姫は、死神へ向かって、実に愛らしく、花のように笑うと、目の前にいる真白の神へと飛んで行った、死神を見送り、「御角みつの」に近づいて、中に閉じ込められていた“伍”を覗き込み、無事をたしかめると、彼を中に入れた状態で、「御角みつの」を抱えて、寝殿から飛び上がり、慌てふためく鬼たちを、うしろに、空高く駆け上がると、再び巨大な龍の姿に戻り、元来た「鉢」のある穴の開いた場所を目指して、遠く飛び去っていた。


 そして彼女が檜扇から出した死神がつかさどる“死の舞踏”とは、本来、いかなる身分や貧富の差にかかわらず、死神によって、「人」にもたらされる、「無」を、表現した言葉であったが、確かに神々の世界にも、「死神」が存在しており、彼らは、いかなる世界にも属さずに、密やかに天の世界を巡りゆき、ときには「信仰者」を失った神々ですら、その腹の中へと吞み込んでいたのである。


「ええい、うっとおしい! 離れよ無礼者! あまたの信仰者を抱える余が、そなたに憑かれる覚えはない! 離せ!!」

「信仰者多き……それもまた、いつも我が取り憑く神が、不遜にも口にしたセリフよ……」


 檜扇に潜んでいた死神は、相手かまわず……そう、それがたとえ、祟り神である「真白の神」であっても、離すことはできなかった。そして、死神の王は、彼のつかさどる力でもってして、真白の神を抱え込み、床に引きずり降ろし、隙間なくとらえて捕まえていたのである。


***


 寝殿をあとにした桜姫が、梅竹丸が用意した能管のうかんから、元いた「呪いのやかた」へ戻ったのは、朝日が「鉢」に差し掛かろうか、そんなギリギリの時間であった。桜姫が姿を現すと、ほっとしたふたりが声をかける。


「桜姫さま!」

「姫さま! よくご無事で!」


 四君子しくんしのふたりは、ハラハラしながら覗いていた「鉢」の底から、桜姫が飛び出し、元の小さな姫君の姿に戻って、持ち出した、「御角みつの」の下敷きになっているのを、大慌てで助け出す。


「重い! 重すぎる!!」

「すぐにお助け申し上げます!」

「せ――のっ!」


 そして、「御角みつの」の中に閉じ込められていた“伍”は、やはり鉢のそばで、ことのなりゆきを見守っていた、他の陰陽師たちの力によって、ようやく元の姿に戻っていたが、当然ではあるが、しばらくの間、すっかり寝込んでいた。


 なお、この騒ぎで無理矢理、桜姫が「鉢」から出て来たことによって、「鉢」がふたつに、ぱっくりと割れてしまい、「そうめん」は、二度と湧いて出ることがなかったので、桜姫もやはり寝込んでいたのである。


 しばらくして、鉢が割れたことで、心に深い傷を負った桜姫が、御殿飾りの中で、まだ寝込んでいると、ようやく起き上がれるようになった“伍”が、心配そうに、外から声をかけていた。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫なものか……そなたのせいで、わらわの、わらわの大切な大切な鉢が……」

「すみません……でも、ありがとうございました……桜姫のお陰で、ここに戻ってくることができました」

「ふん……もう元気そうじゃの、紅姫ともなにやら仲が良いようであるし、その様子であれば、助けにゆかねば良かったかもしれんの……?」


 桜姫はそう言いながら、それでも、差し出された“伍”の手のひらの上に、ひょいと乗ると、もう片方の手で差し出された、「ひろき餅」と呼ばれる菓子の皿に目を輝かせ、もうすっかり“伍”からはじまった大騒動を忘れたように、いつも用意されている小さくて豪華な畳に座ると、小さな自分と同じくらいの大きさもある餅を、うれしそうに食べていた。


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