第二十八話

 自分が去ったあとに起きた、ふたりの騒ぎも知らず、桜姫は、やかたへと近づくと、龍の姿から、いつものように、「小さな桜色の姫君」の姿になり“伍”の気配をたよりに、丸い光で自分を包み、気配を消して正門の隙間を、ふわりと潜り抜けて進みゆく。


 正門から入ってすぐには、広い馬場のような場所があり、東の対屋と呼ばれる建物が見えた。

 東の対屋の近くには、「侍処むらいどころ」と呼ばれる、いわゆる「警備員の詰め所」があり、通りすぎるついでに、中をちらりと覗くと、「侍処」の中には、様々な鬼や疫神えきしんが、うろうろとしていた。


 いまは相手にしている暇はない……桜姫はそう思い、こっそりと、静かにそこを通り過ぎ、鬼たちも、桜姫を覆っている丸い光のせいか、彼女には気づかぬ様子であった。


 遠くに見える大きな池には、朱塗りの反橋そりばしがかかり、龍頭鷁首りょうとうげきしゅと呼ばれる、赤、緑、そして金色で装飾された、二隻で一対、一隻の船首に「龍」の形、もう一隻に、「鷁・げき(想像上の大空を飛ぶ水鳥」の形の彫物のついた、不思議にも乗っているはずの楽士もいないのに、雅やかな音を静かに奏じながら、ゆるゆると無人のままに、池の中を回遊していた。


“伍”の気配は、池の遠くに見える、中央の寝殿からしている。桜姫は少し迷ったが、おそらくは先ほどの眷属のような、手のかかる存在が、多数いるであろう建物の中を進んで、見つかる危険よりもマシであろうと思い、ひょいと空に上がり、池の上を飛ぶと、池に続く庭から、中央の寝殿へと続く木階もっかいの上を通り過ぎ、自分が住む京のやかたであれば、例の小さな御殿が置いてある場所の近くで、彼女は目を細めて、様子をうかがっていた。


 そこには、四方を様々な刺繍がほどこされた、絹で仕立てたとばりを垂らした、寝台である御帳台みちょうだいが置いてあった。

 周囲には、やはり人ではない、そんな匂いのする女房たちが、数人控えている様子が見てとれる。

 御帳台みちょうだいの中を透視してみようと、試してみたが、“伍”と、例の紅姫の気配は感じるものの、やはり中は見えない。

 桜姫は、天井の薄い紙が張られた「明障子あかりしょうじ」の上に舞い降りて、少し考えてから、小さな手の人差し指の先で、明障子あかりしょうじに穴を開け、そっと中を覗きこんでいた。


 中には、繧繝縁うんげんべりという、高貴な身分の者が使う、精緻な模様が施されている縁のついた、高さのある畳が二枚敷いてあり、八角の花形の魔除けの鏡がふたつ、反対側には、銀の網で包まれた、「御角みつの」と呼ばれる邪気よけの「サイの角」が、やはりふたつ、ぶら下がっていた。


「祟り神のくせに、厄除けとは、片腹痛い……うん?」


 畳の上に何枚かの敷物しきものを重ね、うすいふすまと呼ばれる賭け布団のような物を被った、紅姫らしき女が眠る側にいる“伍”は、彼女の横で、心配そうに静かに座って“ヒフミの祓詞はらえことば”を唱えていた。


『なんじゃ、心配して来てみれば、紅姫のところで、さぼっていただけか!』


 桜姫は、そう思い、なんだか分からないモヤモヤとした気持ちがしたが、ふすまの中にいる「紅姫」のあたりから漂う、どこか腐敗しているような匂いに気づく。


「紅姫ともあろう女が、なにごと……うわっ!?」


 つぶやきと同時であった。いたはずの“伍”の姿が消えたかと思えば、そこには、どこまでも美しく、残酷な笑みを浮かべる。そんな、「真白の神」が“伍”の白い装束を着て、にたりと笑って、こちらに手を伸ばしているのが見えたのは。


「そっ、そなた! “伍”は? “伍”をどこへやった!?」

「はて……どこへやったかのう? あのようなつまらぬ者に成り代わっていたのは大層苦痛であったが、ようやく来てくれたので助かった。よく来たな桜姫、否、公主殿、わが、おそれとたたりの世界へようこそ……さあ、こちらへ……わが、愛しき内親王殿下、この世界に残る、たったひとりの長公主殿よ……」

「わらわを、その名で呼ぶでない……そう呼べる者が、いまだおったとしても、それは、そなだ如き“出来損ないの神”ではないわ、この痴れ者が……」

「……余が出来損ないの神であるなら、そなたは何者か? 最後の神獣、龍と言う名の、見さかいもない、たかがけものではないのか? のう……よいではないか、われらは似合いの“つがい”となろう。さあ、こちらへ……愛おしき、我の長公主殿よ……」

「そなたよくも……」


 真白の神が、そんな会話をしつつも、桜姫を愛おし気に、そう呼びながら、手を高く上げ、明障子あかりしょうじの上にいる桜姫を、その手の中へ捕まえようとしたときであった。

 桜姫が、火雷天気毒王からいてんきどくおうへ放った光よりも、さらに強い、さながら桜色の稲妻のような光を、真白の神へと放ったのは。


「ややっ……!」


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