第二十七話

 桜姫は、水の入った鉢の中を、じっと見つめていた。耳には、梅竹丸の注意する声が聞こえる。


「いいですか? ここに必ず明日の朝日が昇るまでに、帰って来てくださいね。この鉢は、そう長くは持たぬと思いますので」

「あい分かった。梅竹丸、世話になるのう……」


 梅竹丸が、自分の能管のうかんを指さしながら、桜姫にそう言うと、彼女は軽くうなずいて、そんな感謝を伝えて、小さな龍になって、鉢の水に浮かぶ、雲の上の寝殿に向かって飛んで行った。


「よかったのかな?」

「あんなやつ、どうでもいいのにね?」


 四君子しくんしのふたりは、自分たちのせいなんて、少しも思わずに、「鉢」のなかに映る世界を見つめていた。


***


 鉢の中と繋がった世界へと飛び込み、元の大きさの巨大な龍の姿に戻った桜姫は、腕に金の飾りのように、金の蛇を巻きつけて、白い雲海の広がる中を、ゆうゆうと泳くように飛んでいたが、遠くに見えた寝殿に近づくにつれ、周りの天気は急激に悪化してゆき、もくもくと黒い雲が湧き出す。すぐそばからは、なにやら異形の気配がした。時間がなくてあせっている桜姫ではあったが、寝殿につくまで、自分の存在は、なるべく多くには、悟られたくはなかった。


「ちっ、そこな小者、姿を現せ!」

「小者は酷いなぁ……」


 桜姫の声を合図かのように、目の前に現れたのは、雷公の眷属第三位、腰には雷公自身が鍛え上げた、「猫丸」と呼ばれる身の丈より大きな御神刀と、小さな革袋を下げている、火雷天気毒王からいてんきどくおうであった。


 赤い髪を長く伸ばして高い位置で、銀色の組紐でくくり、真っ赤な血の色をした狩衣姿。背の高い、鋭いまなざしの男であった。彼は、あるじと同じ、金色の目で、しゅるしゅると、人の姿に戻った桜姫を、面白そうに眺めている。


「さてはて、あるじは、ただいま取り込み中で、留守にて、このままお帰りいただければ、何も……おっと!」

「邪魔をするな! 早くね!」


 桜姫は、高慢な色を瞳に浮かべ、男に向かって光を放っていたが、あの雷公が、人の世界で、清涼殿落雷事件を起こした折に、帝の身体をただれさせ、死に至らしめ、数々の寺を炎滅させた、そんな火雷天気毒王からいてんきどくおうは、軽く光を片手で受け止めると、刀を抜く代わりに、同じように腰に下げていた革袋を、愉快そうな表情を、整った顔に浮かべつつ、桜姫に投げてよこしていた。


「……なんじゃこれは?」

「一体なんでしょうか?」


「馬鹿にするのもほどほどにせよ……」


 桜姫は、そんなことを思いながら、皮袋を開けてみると、中には“伍”の臭いがする臓器がひとつ入っていた。


「そなた……なんのつもりじゃ……? このような腐れ物で、わらわが騙されると思うてか!?」


 火雷天気毒王からいてんきどくおうは、びしゃりと投げ返された「鹿の臓物に“伍”の臭いをつけた物」を、またよけてから、今度は臣下の礼をとり、「このたびは、わが主の愛娘であり、眷属でもある最上位山崎紅姫天王さいじょういやまさきべにひめてんのうのことで“伍”の君を、お招きしております……ご容赦くださいませ」そう言っていた。


「そなたは雷公の眷属、紅姫のことで“伍”を呼んでいる……というのであらば、あの神は知らぬ……そういうことか?」

「はて? たくしめには、お答えできかねますが、あるじの元へ行くのを、これ以上、邪魔だてはいたしません……ああ、ひとつだけご忠告を……」

「宝は絡めとられた中に包まれております」


 桜姫は、「なんじゃそれは?」そう言って、少し迷った顔をしていたが、火雷天気毒王からいてんきどくおうが、すぐ近くにある雲の間に、いつの間にか隠れていたらしき使い魔を、一刀の元で切り捨てたのを見て、「ああ、今度のことは、あの神(真白の神)の知らぬことで、なにか誰かと間違っているのか」そう勝手に、合点がゆくと、その場をあとにして、再び、遠くに見える寝殿へと再び向かって、今度は小さな龍の姿になって飛んで行った。


***


「もう出てきてもいいよ……」

「損な役割だ……」


 火雷天気毒王からいてんきどくおうの声に、反応して現れたのは、先程切り捨てられたはずの「使い魔」であった。

 ふたつに割れた使い魔は、みるみるうちに、煙に包まれたかと思えば、真白の神に「銀の松葉」を渡した『老松大明神』へと姿を変える。

 もとの姿に戻った彼には、傷ひとつなかったが、それでも、痛みがなかったと言えば、ウソになる。


「思いっきりネコ丸で叩いただろう? しばらく痛みがひかんぞ?」

「そう言うなよ、俺だって損な役回りだ……いてて……」

「天、お前その腕……」

「ああ、あの龍神の姫君、真白の神が欲しがるはずだよ。いてててて……」


 『天』と呼ばれた火雷天気毒王からいてんきどくおうの左腕は、桜姫の放った光のせいで、手先からじわじわと焼けただれ、やがて、すっぱり肘から先が、焼け落ちていた。


「痛い痛い!!」

「……とても他には見せられん姿だな」

「うるさいな! 松も一撃くらってみろ!」


『松』と呼ばれた『老松大明神』は、焼け落ちた「天」ちゃんの腕を拾うと、彼を連れて、自分たちの暮らす小さな家に消えていた。


「やれやれ……それにしても、われらが、なぜ、ここまで準備をせねばならぬのか?」

「すべては雷公の命だからだ。たとえ、この天の世界の摂理に逆らい、いつの日か我ら眷属一族郎党が、滅する日が来ようとも、あの方のために我らは存在し、嬉々として、命に従うのが定め……」

「まあな」

「ゆえに、ご息女、紅姫さまの件……許しがたい」

「ああ、許しがたいな」


***


「桜姫を止めよ。余のもとへ連れてこい」


 それが、彼らが「真白の神」から受けた命であったが、ふたりは、いけしゃあしゃあと、「われらの力不足でかないませんでした」そんな弁解をするために、わざと、火雷天気毒王からいてんきどくおうは、その腕を落としていたのであった。


「いつ治るかなあ?」

「さあね、梅丸大明神うめまるだいみょうじんを呼んでおいたから!」

「え? あいつ、皮膚病専門じゃないか!?」

「まあ、気は心というから、あとは自力で治せ……わたしは、まだ仕事があるから、じゃあな。頑張って治せよ!」

「ちょっとまて! おいっ!」


 片腕が取れた天ちゃんは、やがてやってきた梅丸大明神うめまるだいみょうじんこと「梅丸」を、大焦りで追い返すと、必死で、自力で治そうと、なんとか頑張っていた。

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