第七話

〈 少し前の比叡山、とある鬼門のすぐ横に建つ寺の一画 〉


「大僧正に申し上げます!」


 常になくあわただしい足音が聞こえ、周囲が止めるのも気にせず、朝廷と寺の間を行き来する使節が、寺の奥深くにある薄暗い仏像と、大僧正がこもる部屋へと、足早に姿を現した。


 戸を無作法に開けた使節の男は、大僧正がゆっくりと振り帰る姿を見て、少し気が落ち着いたのか、その場にどさりとへたり込むと、のどが焼けたような、しわがれた声を、絞り出していた。


「内裏が……京の内裏が出火にて……全焼いたしました……」

「なっ……」


 大僧正は、思わず絶句すると、絹で織り上げられた、豪奢な御前座布団から立ち上がり、見えるわけもないのに、風鐸ふうたくの揺れる軒下に出ると、木々と夜に飲み込まれた、比叡山の闇を、遠く見透かすように、平安京の方に向けて、しばらく無言でながめていた。


「できるだけのことを……すぐに。食料などを持たせ、出せるだけの僧侶と、治安を守る手伝いができるように、僧兵たちも、平安京に向けて出発させよ」

「はっ!」


 それから数日が過ぎ、『真白陰陽師』たちが桜姫に巻き込まれ、“弐”が金の蛇に首を締めあげられていた、そんな頃、ようやく大勢の僧や僧兵、雑用の者どもをつれて、彼らは到着していたが、すでにあらかたの火の始末は終わっており、京のはずれにある愛宕郡おたぎごおりの葬場で読経を上げたり、大内裏だいだいりの西側にあるえんの松原で、けが人や火傷をした者を相手に、典薬寮の者たちが治療にあたるために大忙しであったため、そこから生き返らなかった者に読経を上げたりと、それなりに多忙な日々を送り、近隣にある貴族たちは、彼らを快く滞在させていた。


 占いに始まり占いに終わる……そんな日々を送る平安の世にあって、僧侶たちは尊い存在であったのである。そんなある日の夜であった。例の『雷公らいこう/菅原道真』が『百の神による夜行』を行ったのは……。


 都中のロウソクの灯りという灯りが、一斉に風で吹き消え、墨で染め上げたように、暗くなった夜空からは、まるで振り落ちるように、不気味な色をした雲が流れ落ち、人々は、すぐにもいかずちが落ちるのではないかとおびえ、すべての僧侶たちに読経を上げさせ、護摩木を焚いていた場所は、まるで火柱でも作るかのように、ありったけの護摩木をくべるが、彼を先頭にした空をゆく行列は、そんな人間の慌てふためく姿など、気にも留めていない様子だった。


「……なんと! あれは、天満大自在天神てんまんだいじざいてんじん、やはりなにか悪しきことが……」


 彼らの夜行行列が通るたびに、そのはるか下にある火柱は次々と消え、恐れおののいた人々は、ただただ念仏を唱えながら、その場にひれ伏して、この凶事が通り過ぎるのを、ひたすらに願っていたが、ひとりの野心を持った、腕に自信のある僧侶が、流れ落ちる雲の落ちる先、朱雀大路の真ん中、土埃の舞う地面に、袈裟を付けた正式な法衣のまま座り込むと、長く黒光りする数珠を手に、なにやら邪気を払う経文を唱え始める。


「ほう……まだ、骨のある坊主がおったか……」


 そう言ったのは、読経を聞きつけた、雷公らいこう の眷属第三位、火雷天気毒王からいてんきどくおうであった。この男、いや、眷属は、あちらこちらの意に染まぬ寺を消滅させてきた眷属であった。


 腰に下げていた、雷公らいこう が練り上げた太刀『猫丸』に手をかけて、はるが眼下に見える僧侶をねめつけていたが、あでやかな朱色を、涼し気な目元の下にひいた、美しい紅姫に、ちらりと視線を送られ自重する。


「あとですることがある。わらわにまかせておきやれ……」


 その言葉のすぐあとであった。紅姫の瞳が金色に変化したかと思いうと、朱雀大路の僧侶の前に彼女が舞い降りたのは。相手が驚いて、思わず経を読むのをやめた、その瞬間であった。


 鴨川の夜の水が、突如黒い濁流となり、まるで一本の滝のような姿になると大路に向かい、紅姫の周りに竜巻のような渦を作り出すと、その中からまるで蛇が鎌首をもたげたように、水が僧侶に襲い掛かり、声を上げる間もなく、僧侶ごと地面に消えてしまった……。


「……人の分際で、神に呪いをかけようとは、なんとおこがましい……。さすが比叡山の、鬼門を封じる役目をおうた者……で、あるか?」


 紅姫が、ひらりと舞い上がり、地上から姿をくらまし、また列の牛車にもどっても、大路の周囲はしんと静まり返ったままで、ただただ、僧侶がいた場所だけが、えぐり取られたように、地面が削り取られ、水が溜まっていた。


「紅姫さま遅れてしまうので、寄り道はやめてくださいませな――、真白の神に叱られまする――」

「紅梅、案ずるな、真白ましろの神は、時間を守ったことはない」


 そう、彼女の行った通りであった。


 彼女たちがいう『真白の神』は、平安京の守り、比叡山の鬼門を破壊するために、わざと雷公らいこう を平安京に向かわせて、僧侶たちを釘付けにしていたのである。


「……まだ、なんにもしていなかったのですか?」

「さっき、公主殿を見つけてのう……知っておったか? 公主殿が平安京に住んでいるのを」

「それは……察知できませなんだが……もうどこぞへと旅立たれたかと……」


比叡山までやって来た雷公らいこう は、案の定? 遅刻をしたせいで、まだ鬼門を守る二人の神と、大僧正を前に、薄い笑みを浮かべていた『真白の神』の気まぐれに、ため息をついた。


「心配するでない……こんなものども、すぐに飲み込んでくれるわ……」

「そうですな……なにせ、悟りを開いたはずの者どもにしては……世俗の匂いが付きすぎておりまするから」


 真白の神が、片手をあげると、どこからか強く生ぬるい風が吹き、烏帽子をかぶった彼の長く伸びた神々しく光る髪を舞い上げる。


「怒れ……そして呪え……それこそが、われわれ“畏れと祟りの世界”を統べる神となりし者の力となる!」


 瞳以外のすべてが神聖な白で覆われた『真白の神』の足元から、じわじわと広がる『血の池』が、やがて球体のように、退治していた三人を飲み込み、細めた視線を向けられた『見えぬ鬼門』は、見えぬままに、なすすべもなく、火雷天気毒王からいてんきどくおうの炎によって、この世とあの世の間から消滅していた。


「さて、いつ、気づくかのう?」

「いまは三途川で、手一杯でしょうから……」


 桜姫を『公主殿』そう呼ぶ彼らは、明けて来た空を、まぶし気に見やると、せっかくだからと、開いた鬼門から、自分たちの世界、“畏れと祟りの世界”へと帰って行った。

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