第1話

 入隊して3年、死に物狂いでくぐったフォートブラッグの門を再びくぐるのに特別感嘆はなかった。それどころか何処の酒場パブで女を捕まえるか考える方が(軍歴のほとんどを過ごした場所に戻れないと知りながらも)よほど重要だった。別れを告げるべき相手はほとんど海外にいるし、多くはアーリントンに眠っている。眠りを妨げるのも悪いのでさっさと消えるのがよいだろう。

 しかし、僕の気遣いなんてこれっぽちも汲まない上司は健康的な小麦色の笑みを携えて来てしまった。

「兵曹長」

「ベイカー少尉」

 基地の内と外を分けるゲートの、その境界線で鈍色の左脚をチラつかせた男と向かい合う。

 ジョン・ベイカー陸軍少尉。僕の尊敬する上司であり、軍隊生活最後の患者でもあり、僕という悪魔に足を捧げて名も知らぬタジク人の娘を救った善人だ。

「別れの挨拶はなしか、兄弟」

「僕なら自分の足を切り落とした男には会わないと思ったので」

「命の恩人には感謝しなきゃ。こうして此処にいて、家に帰って息子を抱き上げられるのは君のおかげなんだ」

 部隊でも飛び抜けて家族を大切にするジョンは、誰よりも人格者で情に厚過ぎるのが玉に瑕だった。一度ジョンの家のパーティに招待された時、奥さんに許可を取って玄関先で煙草を吸おうとしたら酔ったジョンに殴り飛ばされた。

「うちの敷地内で火を付けてみろ、その口縫い合わせてやる」

 彼の息子が一才になる誕生日だったというのもあるだろうが、会場から20メートル近く風下に行っても足りなかったらしい。結局、その日は煙草を吸うことはなく、ジョンにビビリっぱなしだった。ジョンの子煩悩さは勲章ものだ。

 正直、彼の腕前なら軍隊じゃなくて診療医でもしていた方がまだお金に困ることも、ましてや命の危険に晒されることもなかったろうに。

「じゃあな、兵曹長。煙草やめろよ」

「僕の生き甲斐の一つですよ、少尉。奥さんとジュニアによろしく」

 兵曹長。兵曹長。最後まで彼は僕の名前を言わなかった。失った階級名だが、多分この先僕はどこへ行っても兵曹長、元兵曹長と呼ばれるのだろう。名前嫌いの僕としては願ったら叶ったりだ。

 少尉に見送られながら潜り抜けたフォート・ブラッグのゲート。去りゆく元兵曹長の心根には、緑のベレー帽と特殊部隊タブを受け取ったあの日に受けたほどの感動はなかった。辞めたことの後悔だとか仲間への申し訳なさとか、そんなのはなくて、次の仕事のことばかり考えていた。

 凡そ8時間後、僕は美人な女社長とロンドンにいる。



 陰鬱とも、さりとて明るい心境からは程遠い、何とも言葉にしがたい心持ちだった。スモークの立ち込めるロンドンのカフェで新たな上司に、あなたは冷淡で合理的だが同時に夢想家でもあるようだ、と言われたせいかもしれない。

 反論は思いつかなかった。最低でも僕の半分程度の年齢しかない少女の口から放たれた言葉は実に的を射ているように感じて、榴弾の雨の中ですら回っていた僕の思考を停止させた。

「…今までそうした評価を受けたことはなかったな」

 軍のカウンセラーに会ったことはないが。

「確かにあなたは冷めた目をしている。けど後天的にそうなっただけ。根っからの戦争生活者グリーンカラーじゃなかった故の防衛反応でしょう」

 戦争生活者。久しく聞いていなかった単語だ。

「戦場で仕事がないとソワソワしていたんじゃないかしら。元兵曹長さん」

 まるでカウンセリングを受けているようだった。図星をつかれて心臓を握られたような気になる。実際、かのじょは臨床心理学の学位を修めていた。

 最初はこんなやりとりをカフェでするものだから、とても居心地が悪かった。別に店が嫌いなわけでも、この美人が嫌いなわけじゃない。

 ただ、僕の対面に座る女性(というより少女)はとびきりの美形であったので、入店時から注目の的だった。人通りの少ない静かな土地だったが、町人は勿論、観光客もいる。浮世離れしたアジアンビューティが窓辺でご本なぞ読まれていては、注目するなという方が無理があるだろう。深窓の令嬢かくあれかし。

 そこに待ち合わせた彼氏よろしく僕が現れたのでより騒がしくなった。人と関わるのに苦労はないが、こういった空間は苦手だった。好奇な視線を浴びるのは特に。

 けれど、そういったものにはすぐ構っていられなくなった。薄ら笑いを浮かべたこのお嬢さんは、それは愉しそうに相手を掌の上で転がすのだ。まったく、転がされる方からしたらたまったものではないが。

「さて、元兵曹長さん。沖縄とノースカロライナでの生活はどうだった?」

 お嬢さんが質問する。僕は大して思案することなく、率直な感想を述べる。

「楽しくはあったけど、カンダハールにいたときの方が気分は良かった気がする。沖縄や基地が嫌いなわけではないけど、あそこは僕を必要としていなかった。アフガンやイラクは僕を必要としていたし、僕はそれに満足していたと思う」

 実際のところ、それすらも勘違いだったのだけど。

 そう付け加えて、僕はやってきた給仕ウェイトレスに紅茶を注文オーダーした。君は、と訊けばお嬢さんも同じものを頼んだ。花の咲くような笑顔でもって。年若い少女だったが真っ赤になって下がっていった。

「おそろしいが便利だな、美人というのは」

「あの娘、可愛いでしょ。何度も来ているけど、いつもああなの。飽きなくていいわ」

「僕にはそういったサービスはないのかい?」

「貴方みたいな人に、ああいった反応ができて…?」

 肘をついて、気怠そうに吐き捨てた。

 残念ながら、僕には女性に突っ込まれる可愛げもないらしい。打って変わった冷淡な反応に、肩をすくめるしかなかった。

 紅茶が出されてから、が再開された。

「さて、我が社の主な業務内容はご存じかしら」

「ホームページにある程度には」

 業務。戦争業務。うすら笑みを浮かべた少女の口から漏れた言葉は、戦争は結果でなく過程であることを思い出させてくれると同時に、戦争の主導権が指導者ではなく民衆の手にある証左だった。

 僕が退役する少し前、新ソビエト連邦軍がキーウ共和国の国境線を越えた。当初は圧倒的物量と砲火力を有する新ソ地上軍と空挺軍に為す術もないと思われたが、世界各国からの融資を受けたキーウは大健闘。何十年かぶりの高強度紛争は、思わぬ変化を遂げながら今も続いている。

 中でもおもしろいのが、キーウ軍として戦う人々の中に外国人が多く集まっていることと、彼らの殆どは使い物にならないということだ。元軍人でさえ、素行の悪さや戦闘能力の低さは著実に現れていた。

 そういった出来損ないの傭兵や市民兵をただの兵隊にするのが、僕ら合衆国陸軍特殊部隊群グリーンベレーなどの特殊部隊が担う役割で、今現在幅を利かせる民間軍事会社の主な業務内容だった。

 イラク戦争の辺りから戦争の民営化はゆっくりと、そして東欧の一件で急激に加速した。その多くはアフリカと中東地域で発生し、武装民兵組織の正規軍化や内戦地域の治安維持、政府や大使館職員らの警護等の通常業務に加え、酷いところは敵対組織や競争組織の幹部暗殺や通商妨害、電波ジャックに労働者や兵士の徴発などのなんかも提供している。

 お嬢さんの会社はこの通常業務に加え、国連刑事裁判所からの依頼のもと行う脅威査定スレッドアセスメントがある。

 民間企業とはいえ従業員は元軍人。中には素行不良や精神面での傷痍除隊もある。途上国や紛争地などは犯罪者が階級章を付けていたりするし、そうでなくとも某社のイラク人射殺という前例もある。

 そういった戦争犯罪が行われていないか現地で捜査し、抑止力となり、必要なら武力でもって阻止するのがお嬢さんがCEOの椅子に座るの主要な業務だった。

「今や正規軍の拡大は急務だけど、どこも国力が足りてない。どころか指導者の警護すらまともにできない国だってある。そうして規制を強めて、セキュリティを高めれば高めるほどわたし達請負業者コントラクターは儲かる。皮肉よね」

「哀しい、必要なジレンマってやつかな」

 僕の返答が気に入らないのか、少女は目を細める。不自然なほどに、感情的な表情をする。こんなセリフ、ヒトラーやスターリンだって言っただろうに。

「随分と他人事なのね。結果として命を奪われるのは民衆か、貴方達軍人でしょう?」

「それも仕事の内さ。漁師をしていて波に攫われたって、電気屋が感電したって、規約にない、する必要もないほど当たり前のことさ。“注意、この仕事は業務の過程で死亡する可能性があります”って」

「あなた、衛生兵でしょう?命を救う仕事にもそれが適用されるって?」

「もちろん。助けたことで誰かしらから恨まれることもある。場合によって患者からも。適用除外は無職だけさ」

 それより、いい加減くさい演技はやめにしないか、ミス。

 冷たさがぶつかり合う。冷めた男の目と、情の温かみを被った冷たい女の笑みが。

 よほど面白いのか、笑みはより深くなった。

「元衛生兵だというから、どれほど人情に溢れたひとかと思えば…あはっ、冷たいを通り越して人でなしよ、あなた」

「人のことを言えた口じゃないだろうに」

 こう見えても人殺しは嫌いよ、という女の顔にはやはり笑みが浮かんでいる。殺人への忌避感などまるで感じられなかった。

「ふむ。求人情報が人でなしの衛生兵なら期待通りかな?」

「いいえ、期待以上。たまにいるの、わたしの問いに激昂するひと。そんな人間じゃ、地獄廻りはできないもの。方向性にもよるけど」

 あなたの様なひとは大歓迎。鼻先がこすれるほど近くに寄って、そう囁くように言った。

 随分と楽しそうに、嬉しそうに少女は立ち上がる。すると示し合わせたかのように、店前へ黒のレンジローバーが到着した。

「お仲間かな?」

「ええ、迎えを頼んだの。早速だけど仕事よ。ギリシャにいる同業なんだけど、なんでも日本赤軍のシンパだそうよ。任務は査察と、必要なら武力の行使。一緒にいかがかしら」

 西日を背に、青い少女は右手を差し出す。

「人殺しは嫌いなんじゃなかったのかな」

「ええ、なので偽情報だと、切に願っていました。けれどモサドからの情報だし、間違いないでしょうね」

 少しだけ陰鬱そうな表情。

 たぶんヒトラーやスターリンだって浮かべたであろう、本当に悲しそうな表情をしている。いつか僕が、ジョン・ベイカーの片脚を切り飛ばした時の表情だ。

 僕は右手を差し出した。

「無意味な罪悪感はひとを怒らせるだけだよ」

「それが分かってたら十分。これからよろしく、兵曹長」

 僕の硬い右手と、少女の柔い右手が重なる。ひどい話だと思う。肩を並べる人を失って、尽くすべき国を捨て、残ったのは人殺しの技と医術だけ。おまけに、今度はそれをビジネスの為に使おうだなんて。

 楽しみで仕方がない。

「イズミと呼んで」

「了解、イズミ。命令を」

 商談は成立した。

 この日より僕は、元スペツナズ率いる実動チーム“アルファレイヴン”の衛生管理者になった。

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老兵達 〜軍靴の足跡を、もう一度〜 原野光源 @KougenHarano

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