穢れた手

 詰め襟の学生服を着た白髪の少年が、美しいシャム猫を連れて、もう何年前のものかも分からない廃ビルの前に立っていた。周囲の辛うじてその形を留めているビルは、軒並み水没してつたまみれになっていた。空は朝からずっと黒い雲が立ち込めていて、水没都市に水紋すいもんを作り続けている。

 

 少年の名は11。特徴的な赤い瞳と右目には眼帯をしている。軍が使っていたというリュックを背負い、首からは、ミリタリーペンダントと双眼鏡をブラ下げている。オッドアイのシャム猫の名は、リリックと言った。右目が金色、左目がサファイアブルーのオッドアイ。不思議な事に、人間の言葉を話した。

 

 11の手からスルリと降りたリリックは、雨が嫌いなのだろう。廃ビルの陰に移動すると丁寧に毛づくろいを始めた。


 「リリック。ここに人類がいるって本当なの?」


 生まれてから一度しか人類を見たことがない11は、どうにも実感が沸かない口ぶりでリリックに話しかけた。


 「見てみれば分かるわよ、イレヴン。」

 「挨拶は……はじめまして、で良いんだっけ?」


 「そう。世界共通よ、はじめましては。」


 リリックは、やたら物知りな猫だった。この世界のこと、その全てを知り尽くしている。11はこの猫が人間だったら良いのにな、と思ったことが何度もあった。抱いていればその温もりを感じる事はできるけれど、所詮、毛皮越しだ。人間で言えば、服を着ているのと同じじゃないか。


 「考え事は、イレヴンの癖ね。」


 毛づくろいの終わったリリックは、11を一瞥いちべつすると廃ビルの中へと入っていってしまった。猫だから、こんな暗闇でも平気なんだ。11は眼帯を左目に付け替えると、水浸しの床で滑ってしまわないようゆっくり中を進んでいった。


 「んーーーー!!!!ん、んーーー」

 

 動物の声みたいなものが聞こえる。中に狼でもいるんだろうか。殆どの動物は滅びてしまったけれど、何種類かはこの環境下でも適応して生きている。その中で一番怖いのが、狼という生き物だった。

 

 声の方角にポゥッとランタンの灯る気配を感じた11は、慎重な足取りで声と灯の方へと進んでいった。

 

 「――……君は……」


 11が目にしたのは、もうずっと昔に一度だけ見たきりの人類だった。確か、少女。そう、少女ってリリックは言ってた。黒髪のボブ、半袖のセーラー服とルーズソックス。瞳は、青みがかった深い黒色をしている。


 何があって、そんな状態になっているのか全く不明だったが猿轡さるぐつわをされ、両手両足共に縛られていた。拘束を解いてやると、余程喉が渇いていたのか。11のリュックにぶら下がっていた水筒を、何も言わずにひったくってしまった。


 「デナイ。水、デない。」


 違うよ。挨拶が、違う。

『はじめまして』が、世界共通じゃないか。この生き物は、はじめましてって言わない。本当に人類なんだろうか。確かめないと。


 11は水筒を逆さにして中を覗きこんでいる少女の首を、後ろからそっと締めた。


 カランッ


 水筒が音を立て落ち、少女が11の指を離そうと、必死になってその手を引き剥がそうとした。ウッ……という少女の苦しそうな声が漏れる度に、11は締める手を強めてしまっていた。

 

 なんだろう、胸がドキドキする。

 もっと、その声を聞かせてよ。


 いよいよ少女がグッタリし始めたので、11は手を緩めると慌てて声を掛けた。


 「君、人類?人類は『はじめまして』って挨拶をしなきゃいけないんだよ。」

 「う……ゲホッゲホッ……はじメましテ。」


 「そう、はじめまして。」


 少女の瞳には、さっきまでの行為で涙が浮かんでいた。まるで深海のような色をした瞳に浮かぶ、透明の涙。11はもう何年もリリック以外の生き物と遭遇そうぐうしていないのに、キョロキョロと周囲を見渡すと、こっそりと少女に近付き涙ごと瞳を舐めた。


 「これも、はじめまして。多分だけど……さあ、言って。」

 「アゥ……コレも、はじめマして。」


 「違うよ!は要らない。」


 11がその両手を再び首へ伸ばそうとすると、少女は咄嗟とっさに距離を取りながら、身を小さくした。


 「記憶を失くしてるのね。」


 ランタンの向こう側から、オッドアイが覗いている。ビックリした11は、頬を赤らめて視線を逸した。見られてはいけないものを見られてしまったような気がすごくする。


 「いつからそこにいたの。」

 「――……イレヴン、この子に何かやましい事でもしてたの?」


 やましい事?リリックから聞いてきた、人類の道徳。暴力を振るうなんて、そんな事はしていない。だって、はじめましてって言わなかった、あの子が悪いんだ。人類がやらなきゃいけないことをやらなかったんだから。

 

 「やましい事なんてしてないよ。リリック。この子、僕が前に見た人類?。」

 「――……そうかもしれないわね。」

 

 「きっとそうだよ。狂ってしまったって言ってたの、リリックじゃないか。」


 リリックは、少女に近づくと鼻とおでこを擦りつけた。恐怖で小刻みに震えていた少女は顔を上げると、懐かしいものを見るような目をして、そっとリリックの頭に手を伸ばして撫でた。


 その様子を見ていた11の赤い瞳の奥が醜く歪んだ事に、本人を含む誰も気が付かなかった。


 「触っちゃダメだよ。リリックは僕の家族なんだから。」


 無慈悲な所作でリリックを取り上げた11が少女を見下ろすと、瞳の色が絶望で益々深い色へと変化していった。もう一度、涙を浮かべないかな。苦しそうな声も上げてほしい。すごく、ドキドキするんだ。

 

 瞳を舐めた感触を思い出した11は、呼吸の熱さと早さに眩暈めまいを覚えながら、再び少女の両手を縛り始めた。


 「イヤ……ヤメて……」

 「これは暴力じゃない。元の姿に戻してるだけだ。」


 11は、笑っていた。 

 

 「イレヴン、このまま縛って置いていくつもり?」


 リリックの醒めた声に驚いた11は、言い訳を何も用意していなかった事を後悔して項垂うなだれた。少女は両腕を掴まれたまま、必死にその手を振りほどこうと抵抗を続けている。


 「いや、そういうわけじゃ……」

 

 「この子、記憶がないのよ?縛る前に、やることがあるわ。」


 「――……?」


 「まずは名前をつけてあげないと。」


 「僕がつけていいの?」

 

 「当然でしょ、だって私は猫だし。」


 「――……じゃあ、オリガ。君の名前はオリガだよ。」


 オリガと名付けられた少女が振り向いて、怯えた目を11に向ける。

 確かに、リリックの言う通り名前は大事だ。

 

 だって今、僕はこんなにゾクゾクしているもの。オリガという名前をつけただけなのに。

 オリガは、僕のものだ。


 「いい?オリガ。全部、僕が教える。痛いことはしない、約束する。」

 「ホントウ……に?」


 「だけど、ひとつだけ約束。この部屋からは絶対に出ないで。」


 オリガの表情が怪訝けげんになり、11から距離を取り始める。痛いことはしないと約束した11は、眼帯を外すとその特徴的な赤い瞳で、オリガの深海色をした瞳を覗き込んだ。白髪が動いて、唇を重ねる。


 知識としてのキスは知っていたが、11はその意味を理解していなかった。唇の温もりに力が抜けてゆくオリガの身体を感じながら、ようやく理解を噛み締めていた。


 キスは親愛の証。

 親愛の意味は、


 オリガ、食事は僕が食べさせてあげる。

 シャワーも

 トイレも

 着替えも

 全部、僕がやって、教えてあげる。


 僕のやり方以外は、出来ないようにする。

 僕以外、何も見せない。


 

 リリックは既に廃ビルから出てきていて、そのオッドアイを縦長にしながら空を仰いでいた。

 

 「アダムとイヴを作るのも、簡単じゃないわね。」

 

 ため息をついたリリックは、しばらく二人から離れる事にした。自分が側にいると、11は加虐的になる。動力源のミリタリーペンダントは、11の元に置いたままだ。最も、オリガと名付けた少女の動力源は元々時限式だった。

 

 最初から10日で止まるよう、少女の動力源は設定してある。


 この地球上で、現存する人類はリリックのみとなってしまった。干ばつ期が長く続いたため、人間の身体では環境に適応出来なかった。ここ千年でまた雨が降るようになり始めたので、様々な……いわゆる試みを始めるようになった。


 10日後、リリックが様子を見に再び廃ビルへ訪れた時、11。彼女が着ていたセーラー服とルーズソックスは、11が身につけていた。


 西洋人形のような造形をした彼にはよく似合ってはいたが、今まで行った様々なテストの結果予想を遥かに超えており、リリックは驚きを隠せなかった。

 

 この行動は……猟奇殺人犯と呼ばれていた人類タイプのものじゃないかしら。

 私が生まれてから、初めて見たわ。こんなタイプ。


 11は仕方ないよね、という表情でリリックを見た。


 「ずっと一緒にいるには、こうするしかなかったんだ。」

 「――……使えるデータなのかしら、これ。」

 「え?」


 「いえ、良いわ。さっ、行きましょ。。」


 11――自分の遺伝子情報を元に、データ収集を繰り返して作ったアンドロイド。とは言え、かなり変わったタイプだと知ったリリックは、久しぶりに好奇心が満たされてゆくのを感じていた。


 マトモだったら、アダムとイヴは知恵の実なんて、そもそも食べなかったものね。

 人類も同じ。

 マトモだったから、滅んだ。


 リリックは、11の「待ってよー」と言う声を聞きながら、尻尾を楽しそうにピンッと立てていた。


 

 

 

 

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悪魔の子 加賀宮カヲ @TigerLily_999_TacoMusume

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