第2話 頭俺の先祖かよ
翌日、教室に入った瞬間、なんとなくいつもと空気が違うことに気がついた。
別に仲良くない奴から投げられる視線とか、その温度とか、漏れ聞こえてくる会話とか。
生憎、俺はこの教室で平然と数学の課題を解いている藍沢クンみたく図太くはないので。気づいたうえで知らないふりをするのもしんどくて、友達に挨拶がてら軽口を投げて事情を探る。
「なに? 俺、時の人って感じ?」
「調子のんなー」
笑いながら否定されて、どうやらこいつは事情を知らないらしいと首筋を爪でなぞった。じゃあ誰に探りを入れよう。鞄を置いてそれとなく周囲を見渡したところで、高い声が耳に飛び込んでくる。「え、まじで、付き合ってんの?」「だって私見ちゃったんだもん」「えー僕、違うって聞いたけど」
――あぁ、不快。ため息を吐くわけにもいかなくて、ぐっと飲み込んで笑顔を保つ。大方、昨日保健室から一緒に出て来た俺と藍沢クンを見て、ソウイウ関係だと誤解した奴が居たんだろう。不快、不愉快、放って置いてくれ。声にも顔にも出せないどす黒い感情がどろどろと腹の奥を焦がしていく。
「え、だって、私、昨日保健室で抱き合ってる二人、見たよ」
わーお、出てくとこよりヤバいとこ見たのね、君。
名前しか知らないクラスメイトの言葉に首筋を強く爪でひっかいた。白い肌には簡単に跡が付くのを知っていたけれど、不快感を逃がす方法をこれ以外に知らない。
「トモ? 聞いてる?」
「え、わり。なに?」
「ぼーっとすんなよなぁ。だから昨日のサッカー、トモも見たでしょ?」
「俺昨日は真面目に数学やってたんで見てないでーす」
「真面目とかぜってえ嘘じゃん」
げらげらと笑うリクの声で遠いクラスメイトの声はかき消されていく。ちょっとだけ、どろどろが止まる。馬鹿正直なリクにちょっとだけ救われる。そういえば、同じ馬鹿正直でもこいつは好きで藍沢クンはムカつくのなんでだろうネ、やっぱ顔の好みの問題かな。
「で、真面目なトモくん」
ようやく笑いが収まったらしいリクは今度はわざとらしく俺の前で手を合わせている。
「課題みーせーてー」
「小学生のいーれーてーみたいなテンションやめてくんね?」
「みーせーてー。トモくーん」
お願い、と可愛い子ぶってみせるリクには正直一ミリもときめかなかったものの、可愛かったのは確かなので、大人しく数学のノートを見せてやる。自分がなまじデカいので、可愛いものには弱いのだ。
「えー、それってやっぱり、ソウイウ事?」「やだー」「私狙ってたのに」「全然そんな風に見えないのにねー」
リクが課題を写すのに一生懸命で、静かになったせいで振り払った声がまた耳にしつこく絡んでくる。全然そんな風に見えないのにねー、ほんとねー。じゃねえよ。見えないも何も、ソウイウ事じゃねえっての。無駄に下手くそなペン回しを繰り返してはシャーペンを落として、苛立ちを逃がすための行為で逆にストレスが増える。クソ。
「おい。シャーペンと戯れてないで、職員室行くぞ」
話題にされていることに気が付いているのか、いないのか。たぶん気が付いていない鈍感で呑気な藍沢クンが俺の頭を叩く。ゲェッと黒板を見たら、案の定。日記の欄に佐伯と藍沢の名前が仲良く並んでいる。
なぁんで、この教室には『か行』で始まるやついねーのかなぁ。
ぼやいたところで日直の仕事はなくならないし、この馬鹿正直鈍感野郎が気をつかって一人で片付けてくれるとか、俺に全部任せてくれるとか、そんな事は一向に望めない。仕方なしに立ち上がって、露骨にため息を吐きながら、連れ立って教室を出る。
「今のため息、照れ隠しかな」
沸き立つ声にいっそ殺意を覚えた。
頭俺の先祖かコノヤロウ。
職員室に行く途中でも、すれ違った同級生の何人かが振り返っていて、あぁ、昨今の情報の拡散スピードは恐ろしいねぇ、と心の中で他人事のように呟く。いつもは交わす軽口もなく、淡々と職員室に向かい、連絡簿を貰って、来た道を戻る。
帰り道の方が振り返る人数は多くて、これはあの馬鹿正直なリクにも話が伝わっている頃だろうなぁ、と一人憂鬱なため息を吐く。意味も分からず泣きそうだった。俺と同じく噂の当事者であるはずの藍沢クンは、誰の視線にも気づく様子がなくて、それがまた苛立ちを募らせる。お前も困れよ馬鹿、と今は吐くわけにいかない悪態を心の中に留めて、その背中を睨んだ。
「な、な、トモ!」
教室に入った瞬間、とびきり驚きましたって顔をしたリクが駆け寄ってくる。ちらちらとこちらを伺う教室中の視線。
「トモ、藍沢さんと付き合ってんの?」
一応気を使ってくれたらしいリクが耳元に口を寄せて囁く。それじゃ「お前が藍沢さんと付き合ってんのバレたよ」って報告してるみたいだから、いつもみたいに馬鹿デカい声で聞いてくれてよかったんだよ、リクくん。なんて本音は飲み込んで、聞こえなかったふりで大声を引き出そうと試みる。
「なんて?」
「だぁから! トモ、藍沢さんと付き合ってるってほんと?」
それでも本人は十分気を使っただろう声量は、静まり返った教室の隅まで届く。
「んなわけねーじゃん。俺別に藍沢クンと仲良くねーよ? なんでそんな話になってんの?」
こえー、と笑いながら言えば、ムスッと唇を尖らせてリクはクラスの誰かに聞いたらしい情報を並べた。
「だって、××さんが、トモと藍沢さんが保健室で抱き合ってんの見たって。昨日、鼻血でた藍沢さんの介抱行くのもめっちゃ早かったし」
ムー、とまるきり子供の顔で抗議してくるリクをあやしながら、クラス全体に説明する意味も込めて、適当な言い訳を口にする。
「抱き合ってたって……藍沢クンが貧血起こしかけて倒れたの助けたときじゃね? 俺、保健委員だからそういう子が居たら助けてあげなさいって、サト先に委員会でいっつも言われてるから早く対応しただけだし」
言いながら、顔が引きつっていくような、妙な感覚を覚えた。ウソなんて。今までも別に普通に吐いてきたのに。それに罪悪感を覚えたことなんて無かったのに。
「好きじゃないの?」
まだちょっと疑うような顔で見上げてくるリクににっこり笑みを返す。
「むしろどっちかと言えば嫌い」
リクはそれで、ふーん、とゴシップにならなかったことを残念がりながらも引き下がってくれたけれど、教室の空気はまだどこか浮ついている。
かばったんじゃない? とか。それにしたって嫌いはかわいそーとか。私、みんなの前で嫌いとか言われたら泣くかも、とか。
そういう、くだらない、本当の俺たちにかすりもしない言葉が耳から入って腹の奥に溜まっていく。
どろどろ、どろどろ。
深呼吸して、心を落ち着けろ。ただでさえ敵を作りやすい顔の作りをしてるのに、面倒事に正面から向き合うな、馬鹿。言い聞かせる声と、どろどろと、どっちの方が強いかなんて、分かり切っていることで。
落ち着くために吸い込んだ空気は、乾いた声になって教室を転がる。
「うるせー」
乾いた、嘲笑の混じった声。人の苛立ちには無関心を貫くくせに、自分に向けられた敵意には敏感なやつらは、会話をやめて俺を見た。クソ喰らえ。
「俺が誰を好きとか、誰と仲いいとか、誰が嫌いとか、どーでもよくね? 過干渉キモ」
言ってしまった、と顔から血の気が引いていく。教室の空気は簡単に氷ついて、睨むような視線がいくつも肌に刺さる。あぁ、だから、落ち着けって言ったんだ。人生で何度目かの後悔を苦く心の中だけで吐いて、首筋をかく。
「お前こそ寝不足か? 普段と人間性かけ離れすぎてて気持ち悪いぞ。八つ当たりなら家族か鏡にしろ、馬鹿」
淡々と、静かな声。つい、と視線を向けたら、藍沢クンの目が在った。黒くて綺麗だなと吐き気がすることを思って、ぐしゃりと自分の前髪をかき混ぜる。
「ゴメンネ。俺寝不足だから、屋上行って寝てくるわ。後の仕事よろしく」
「放課後の雑用係は押し付けるからそれまでに戻れよ」
ふらふらと片手を振って、教室を出る。今更心臓が痛いくらい脈打っていた。歩きながらも、ずっと泣きそうだった。うっかりで口から飛び出した失言で。この無駄に整っているらしい顔のせいで。無駄に栄えた実家が理由で。孤立することは今までも何度もあったのに、どうしたって、まだ慣れない。
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