今日も、寿命が三分延びました。

甲池 幸

第1話 恋じゃねーし。

 世の中には、難儀な体質の奴が結構たくさんいる。一般的に知られているやつでいけば、花粉症とか。知られていないやつでいけば、人肉を食べないと死んじまうやつとか。体が勝手に肉塊を体内に作っちゃうやつとか。血液が過剰に作られてしまうやつ、とか。


 人間の血を飲まないとぶっ倒れるやつとか。


「人が鼻血出した瞬間に駆け寄ってきてんじゃねーよ」

 ぼたぼたと落ちる血をゴミ箱に垂れ流しながら、血液が過剰に作られてしまう可哀想な体質の藍沢クンに睨まれる。俺は反射で笑みを作りかけて、こいつにそんな労力を払う義務はないんだったと思いなおして、しかめっ面のまま言葉を返す。

「藍沢クンこそ、鼻血出る前に素直に吸血してくださいってお願いした方がいーんじゃない?」

 話している間も、藍沢クンの鼻からは大変いい匂いのする血液がぼたぼたと流れ落ちていて、喉が勝手にごくりと鳴った。藍沢クンに半目で睨まれるが、知ったことじゃない。お前の鼻血がわざとじゃないように、俺の吸血衝動だってわざとじゃないのだ。

 すべては吸血鬼と結婚しちまった何世代も前の頭がお花畑なご先祖様が悪い。そんでもって、吸血鬼に血を与えるためにわざわざ血液を過剰に作らせる遺伝子とかを研究しちゃったマッドサイエンティストが悪い。

「早く、首んとこあけて」

 保健室の白いベッドにギシリと膝をついて、ゴミ箱を抱える藍沢クンを見下ろす。これが可愛い子相手だったら、俺だってもう少しテンションが上がるのだけれど、藍沢クンは俺と身長は変わらないのに体重は二キロも重いゴツイ奴なので、完全に対象外だ。むしろテンションは下がる一方。

「手ぇ離せるように見えんのかボケ」

 ゴミ箱を抱えて、ついでにティッシュまで手に持った藍沢クンに恨めし気に言われて確かに、と首筋に手を伸ばす。閉め切られたカーテンが静かな空調に揺れた。

 外し慣れたネクタイを解き、シャツのボタンをふたつ外す。あんまり外すと初心な藍沢クンに怒られるのは、過去の経験から知っている。お前は痴女か、と冷めた目で見られたときはさすがに凹んだ。

「んじゃ、いただきます」

「気色悪ぃ言い方してんじゃねーよ」

 どこまでも雰囲気ってものを理解しない藍沢クンに苦笑を返して、口をあんぐりあける。普段はマスクで隠している鋭い牙を、健康的に焼けた太い首筋に突き立てる。衝動と一緒に吸血鬼のご先祖様から受け継いだ牙は簡単に人間の肌を突き破って、血が溢れだす。慣れているであろう痛みに、けれども藍沢クンが微かに身じろぐ気配。逃げられないように、肩を押さえる。直後、吸血鬼の本能に負けている気がして嫌になって手から力を抜いた。

 喉に滑り込んでくる甘ったるい血液に俺は今日も生かされていて、俺の鋭い牙に血を抜かれることで藍沢クンは生かされている。相互依存みたいだネって言ったら、多分気持ち悪いと叩かれる。

「あま」

「うるせえそこで喋るな鳥肌たつ」

「敏感かよウケる」

「死ね」

 軽口の応酬もいつものこと。少女漫画じゃエロいことみたいに書かれる吸血行為も、俺たちの間じゃ甘い空気なんて欠片もありはしない。媚薬成分とか牙から出ないし。

 俺たちはただ、死なないために血を飲んで、死なないために血を飲ませてるだけの関係性。乾いた相互依存に、恋はおろか友情すら入る余地はない。

 トモダチ未満、知り合い以上。

 ほんのちょっとだけ、年の近い兄弟とか従姉妹みたいだと思っているのは、俺だけの秘密だ。間違いなく、気持ち悪いって怒られるから。

「もーいいだろ」

「もうちょい」

「駄々っ子かよ」

 ため息を吐きながらも、大人しく首を傾けたままの藍沢クンに、心の中だけで「お兄ちゃんかよ」とツッコみを入れて、いい加減腹を満たすことに集中する。その間も藍沢クンは「いい加減、ちゃんと登録して毎日血ぃ送ってもらえよ」とか「お前、さすがに飲みすぎじゃね?」とか「俺が貧血で倒れるとかシャレになんねーんだけど」とか。その他にもたくさん文句を言っていたけれど、とりあえず全部無視して血を飲んでおいた。

 そもそも、血液過多の発作として出てる鼻血が止まっていないのに、貧血で倒れるなんてあるわけないだろ、とは、思うだけに留める。正直者が馬鹿を見るタイプの藍沢クンは、善人の例にもれず、ちょっとだけ頭が弱い。

「お前今しつれーなこと考えたろ」

 言いながら、後頭部を叩かれる。

「考えてないし、証拠もないのに殴んないでくれる? 藍沢クンみたく馬鹿になったらどーすんのさ」

「俺は馬鹿じゃねーし、殴ったくらいで馬鹿になんなら、そいつは元々馬鹿だろ」

「国語二十三点に馬鹿じゃないとか言われたくないんですけど」

「二十三点じゃねーよ、二十二点だ、間違えんな」

「一個もドヤれるとこないし、低いならいっそ訂正すんなよ。相変わらず馬鹿正直ですね」

「正直に馬鹿をつけんな。世の正直者に失礼だろ、ウソツキ王子様?」

 はっきりと嘲笑を含んだ声で藍沢クンは肩眉を上げてみせる。

「ネクタイぐだぐだのまま煽っても効かないね、つか王子は俺が言い出したわけじゃねーし」

「え、ちげーの?」

 今度は素で驚かれた。なんとなくムカついたので、ネクタイを直してやるついでに首を軽く絞めておく。誰が自分で王子を名乗るか頭お花畑はお前もか。

「ぐぇ」

 潰れたカエルのような声を引き出すことに成功して、へっと嗤いながらようやく溜飲を下げる。憎らしげな顔でネクタイを直す藍沢クンの首元が僅かに血で汚れているのが見えて、余計に愉快になった。

 血の汚れは落ちにくいので。

 制服を洗う彼のお母さんに今日はたくさん怒られることだろう。

「なんだお前、急ににこにこして気持ち悪い奴だな」

「そういうとこ、ほんと直した方がいーよ? 俺以外にやったらクラス中からいじめられるぜ」

「安心しろ、お前以外に気持ち悪い奴なんかいねーから」

 失礼なことを続けて、藍沢クンは鞄とゴミ箱を抱えてベッドから立ち上がった。カーテンを開けて待っていれば、ありがとう、と普通に感謝の言葉を落とされて、なんとなくムカついた。素直な人間は、その素直さゆえに鬱陶しい。

「あら、今日は早く喧嘩終わったのね」

 事情を知っている保険医の先生が朗らかに笑って、藍沢クンに血液過多の発作処理用のゴミ袋を渡す。

 血液が過剰に生産されてしまう例のマッドサイエンティスト産の遺伝子は、なんと最悪なことにただの人間には簡単にうつる。マッドサイエンティスト様は本当に はた迷惑なものを生み出してくれたものだ。専用のゴミ袋に鼻血の浸み込んだティッシュを片付けている藍沢クンの横顔は、なんというか、真っ白で。虚無で。感情が抜け落ちてしまったみたいで、こういう時だけ俺は、気まぐれに心配になったりする。揶揄うように頭を撫でてみたら、悪態ではなく、虚無なままで小さな本音が返ってくる。

「なぁんで、俺たちこんなメンドー背負わされてんだろうな」

 知らねーよ、と。

 返そうとして、それはさすがに冷たすぎるかと飲み込んで、それでも結局返したい言葉が見つからないから、俺は黙ってゴミ箱を片付けるのを手伝った。

「だから俺と出会えたんでしょ、とかは、気持ち悪ぃから、絶対言うなよ」

「嘘吐く前に俺が吐くっての。んなセリフ。どっかの怪盗もびっくりの気障さだぜ」

「へっ、王子様には、怪盗も名探偵も叶わねーだろ」

「だから俺が名乗ってんじゃねーって言ってんだろ、ゴミ頭から吹っ掛けるぞコラ」

「ほらほら、はいはい、兄弟みたいな喧嘩してんじゃないよ。終わったんならさっさと授業もどんな」

 保険医に半ば追い出されるようにして、俺と藍沢クンは保健室を出る。悲しいかな、目的地は同じ教室なので、軽口の応酬は保健室を出ても続く。ほんと、どういうつもりで学年主任は俺と藍沢クンをおんなじクラスにしたんだか。

 猫のじゃれ合いのような言葉のやり取りを、先に切ったのは俺の方だった。二階に入って、同じ学年の奴がちらほらと見え始めて、露骨に藍沢クンから距離を取る。

 別に、一緒に居るところを見られるのが嫌というわけではないけれど。

 普段一緒に居ない人間同士が一緒に居る、とか。一見空気の合わない人間同士が連れ立ってにこやかに──俺と藍沢クンが互いににこやかだったことなんてないけど──喋りながら歩いている、とか。そういうのを、なんでもかんでも恋愛に結び付けたがる奴らに見つかるのは、ちょっとだけ、面倒だなと、思う。

 恋とかじゃねえし。

 頭の中で言ってみたら、いかにも言い訳らしくて、ちょっと笑えた。

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