I_do_not_know_about_VTuber.html

 再三自分に言い聞かせているが、今の僕の肉体は女性だ。スーツ専門店の店員、アパレルショップの店員が僕を見て女性と判断するのは当然で、むしろこの場合僕が男性であると主張するのが間違いだ。だが――詳しくないが最近世間は個々人の“性自認”話題に敏感で、仮に僕が先に述べた主張を周りにしたとき、女性の体の僕を男性として扱う人間は少なからずいるだろう。

 日本人の基礎にある国民性、或いは人間性は『気遣い』だと思っている。ジェンダーに係わる話題をそこまで知らなくとも、今を生きる日本人の多くは「そういう人もいるものだ」と自然と理解し、そのうえで接してくる。それは結果的に、僕は相手に気を遣わせていることになる。

 それは駄目だ。

 気を遣わせるわけにはいかない。

 僕は女で、男ではない。しかし心まで女にする必要はなく、外では女性のように行動すればいい。

 手始めに、スカートとストッキング、パンツを脱ぎ、一八〇度回って便座に座る。


「ひゃっ」


 開業年数そこそこのゲームセンター、トイレの個室にウォームレットはなく、新品の便座の白く艶やかな仕上がりと同じような艶と張りを持った腿が冷えた便座を認め、情けない声を漏らした。

 腿を浮かせ、手で自分の接触した部分をさすり、再度座る。今度は声を出さない。

 ――トイレは人間の生理現象だ。我慢のしようがない。我慢する必要もない。

 なんのことはない、出せばいいのだ。


「……」


 肉体が女性に変わった日。家で、初めてトイレに入ったとき。

 便座に座って出す。プロセスは考えるまでもなく行動に移せた。

 問題は――、


「――な、なんか、変な感じがする!」


 義務教育や高等教育で、人間の器官について学んでいる。女の体も例外ではない。

 しかし、異性の体を自分の体で体験するなんて、それこそ原理不明に性転換しなければなしえないことだ。

 で、原理不明に性転換した僕は意図することなく女性の体を実践する羽目になったが……、


「……はぁ」


 この、女性の体によるトイレ遂行――一ヶ月もすれば、否が応でも慣れるものだ。

 初めてのトイレの記憶を遡り、慣れてしまった今の自分を思うと、人間の適応能力の高さには溜息を出さずにはいられなかった。


    ♀


 パーカーが付いた上着――トレーナーでもジャケットでもなんでもいい。頭部をすっぽり覆い隠す。顔は伊達メガネとマスクでカバー。風貌は不審者のそれだが、致し方あるまい。ファンデーションは取れるが、誰かに顔を見せるつもりはないので問題にはならない。

 ――大変不本意ながら、僕の顔は目立つ。この場合端正な顔立ちという意味でだが、これは自慢の一切は含まれていない。中か中の下あたりの顔立ちにしてくれたなら波風立たない大学生活を送れただろうに――全くもって遺憾だ。

 とはいえ、大学生活は否応なしにやってきた。サークル勧誘も既に始まっていて、どういったサークルであろうとチラシ片手に新規加入者を血眼で求めている。不審者ファッションの僕にもチラシやチラシ入りポケットティッシュを渡してきたサークルがいたほどだ。渡してきたのは、複数の大学を股にかけた大規模イベントサークルと、VTuber同好会だった。生憎どちらも興味なかったが、奇しくも双方ポケットティッシュを渡してきた。現在花粉に鼻腔を蹂躙されているため、大いに役に立ってもらおう。

 ちなみにイベントサークルは、飲みサーとヤリサーを兼ね備えた組織だと通りすがりの上級生の発言から知った。一方のVTuber同好会は新興勢力らしく、活動を始めて間もないらしい。この時期は同志を集める絶好の機会なのだろう。


「『近しい人のためのVTuber同好会』をどうかよろしくお願いしまーす!」

「あ、あはは……」


 同好会の上級生が、人混みからそそくさと離れる僕に手を振る。愛想笑いを返し、小走りでこの場を離れた。


「はぁ――何回、足踏まれたかな」


 ――さて、本日は健康診断があった。僕の大学では、男性は午前中に済ませ、女性は男性の行った日の翌日に一日かけて行われた。

 僕はというと――女性が行った日の翌日、二限が終わったあと、昼の時間に行われた。

 大学での僕の扱い――肉体は“男性”だが、性自認は“女性”。

 行政の書類から大学の書類――なにからなにまで女性として扱ってもらうには、性転換手術を受け、医師から性転換手術を行った証明になる書類を貰い、それを裁判所に提出し、性転換に係る手続きをしてもらう必要がある。手術を受けていない僕では、それら一連の行動は取れない。不可能だ。

 そも僕の身に起こった性転換は人為的なものではない。もしかしたら明日、明後日にも、寝て起きたら元に戻っているかもしれない。性転換する前触れはなかったのだから、元に戻る前触れもない――と、予想している。現状、そう判断するほかない。

 あらゆる可能性を踏まえ、LGBTQの問題に注力している(とホームページに書いてあった)大学側に便宜を図っていただいた。その結果の一つに、僕は他の同級生とは別で健康診断をさせてもらえることになったのだ。


「学食は――」


 熱烈なサークル勧誘から退避。昇降口を入り、廊下を歩く。校内もサークル勧誘で賑々しいが外ほどではなく、少し気を抜いて目的地へ向かえた。

 ガラス張りの渡り廊下を抜けてすぐのところに、目的地のカフェはあった。

 学内には三つの食堂があり、二つは大学創設のときに建てられたものだ。随所に老朽化が見受けられ、一年前にそれらの修繕工事が計画されたが、それに合わせるかのように学生から「他の大学にあるような洒落たカフェを建ててほしい」という要望が多数寄せられた。大学運営陣は学生間の食堂利用状況と集まった要望を踏まえ、ニーズに応えたカフェを、建てることになった。

 それが、コーヒー&カフェ『しをん』だ。

 新たに建てられた、木造建築物――外観はもちろん、店内も他の校舎の古めかしさにそぐわないモダンな作りになっている。テーブルや椅子なども店の雰囲気に合わせ、高級感と木の温もりを併せ持った有名ブランドを使用。テラス席も用意され、収容人数は多い。

 全国の有名な純喫茶チェーンと業務提携を結び、提供される料理は他の食堂の料理に比べたら割高だが、街で食べるよりも安く収まるため、瞬く間に学内の人気スポットとなったのだ。

 ちなみに店名は、提携先の社長の趣味によるものらしい。某作家を頭に浮かべたが、社長は読書家だそうで、恐らく予想通りである。


「一名様ですか?」

「はい」

「空いているお好きな席へどうぞー」


 女性店員に促され、店の角に空席があったのでそこに腰を下ろした。

 カフェの用途は様々だ。小腹を満たすもよし。SNS映えを狙うもよし。課題の提出期限に追われるもよし。複数人でディスカッションするもよし。ちなみに僕は、小腹を満たすためだ。

 ――女性になって変わったことに、摂取できる食事の限度がある。

 元来僕は小食で、胃の許容量はコンビニにある総菜パン三つでもうお腹一杯になってしまうほどだった。必要な栄養素は摂れているのかと友人から度々心配されていたレベルだ。なにか買い食いしようものなら夕餉が腹に入らなくなってしまう貧弱なそれは、性転換の影響をしっかり受けてしまっていた。

 生殖器が変わるのは、まあ分かる。女性になっても男根が残るのは――それは、完全な性転換ではない。ジャンル的には、全く別のものが推奨されるだろう。

 じゃあ、胃が変わるのは、性転換か?

 莫迦野郎。これ以上胃が小さくなってどうする。

 どういうわけか影響を受けた胃は、摂取できる許容量が小さくなってしまっていたのだ。

 今までは総菜パン三つで限界。それが今や――一つ食べただけで限界に達してしまう。

 え、女ってこんなに食が細いの? そんなはずないよね? 頭を抱えたが、しかし現実は実に無常だ。

 僕のキャパシティに合わせて作ってくれた夕食すらも残してしまった卒業式の日。あのときの家族の顔――特に母さんのあの驚愕に満ちた表情を、忘れはしない。


「ご来店ありがとうございます。ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

「あ、今いいですか?」

「はい、お伺いいたします」


 お冷とおしぼりを持ってきたのは、先ほど僕を出迎えた店員。多分、大学の上級生だろう。大学で学び、敷地内の店で働く。移動の手間が省けてちょうどいいのかもしれない。

 ――メニューにあるウィンナーコーヒーは、初めてこの店に訪ねたときからのお気に入りだ。小腹を満たすにはちょうど良く、数時間後の食事にも障りはない。

 店員にはそれだけを頼む。そしてその飲み物が本日の昼食となる。

 注文を聞いた店員は引き下がり、僕はスマホのブラウザーを開いた。


    ♀


 随分と厭な状況に陥ったものだが、こんなときにすら、そのうち来る遠くない将来について考える。

 僕は一応、図書館司書を目指している。司書になるには司書資格が当然必要だが、大学で資格取得に必要な科目を履修すれば、大学卒業をもって取得となる。

 性別が変わろうと、将来の夢までは変わらない。少し高い位置の本を取るにはジャンプするか踏み台が必要だが、資格は相応の努力で確実に取れる。司書として採用してくれるかは四年後のことで分からないが、勉学は怠らず励もうじゃないか。

 ――と、やる気に満ちた僕の手が持つ、一枚の紙。

 これは大学の保険管理課が郵送で送ってきた健康診断の結果だ。大判の封筒に入れられたそれに、診断時の体の状態が記されている。

 どの項目も軒並みA判定。本の虫の自覚はあるが、しかし視力も問題なし。健康そのものだ。


「あれ」


 結果に満足し、検査結果の紙を戻そうとして封筒を開いたが――そのなかに、まだ紙が一枚入っていた。

 宛名が書かれた紙ではない。検査結果にしては余白が多く、中心あたりに短い明朝体が記されていた。

 気になり、その紙を出して見てみるが――、


「――っ!!」


 その短い文章、僕の目を引ん剝き、呼吸を忘れさせるには十分だった。


    ♀


 十九時。夜の街にサラリーマンたちの賑わいが生まれる時間帯。

 ――自宅の最寄りから二〇分弱で到着する大学の最寄り、都心のターミナル駅。三つある出口の一つ、東口から出て、乱立するビル群で構成された毛細血管のような隙間を歩く。

 目的地は、とある雑居ビルの一室。五階建てで、鉄筋コンクリート製。

 一階と二階は居酒屋。三階はキャバクラ。四階はホストクラブ。五階は入居者なし。

 事前にネットで調べてみたが、居酒屋の評判は……可はないが不可はあり。酒は薄く、飯も特別美味しいわけではない。注文してから三〇分以上出てこないのはざらで、その割にお通しは高い。最近なにかとネガティブな話題でいっぱいな某グルメレビューサイトで付けられた星1.7と評価は、この場合むしろ信頼に値するだろう。

 キャバクラやホストクラブの評判は、他の場所と遜色ないように思える。この手の店は居酒屋以上に無知だが、レビューを書き込む客層を考えると、低評価はそこまで重要視しなくていいだろう。

 さて、僕の目的地は居酒屋やキャバクラやホストクラブ――そのどれでもない。

 五階、店はない。入居者なし。ビルの袖看板やテナント案内板にはなにも記されていない。一年前までそこにあった風俗は未成年も違法に働く、いわゆる“ヤ”の付く自由業の隠れ蓑だったそうだ。

 ちなみにその自由業は、一年前にどこかの商売敵との抗争でもろとも消滅。生き残った構成員は一人残らず捕まり、現在拘置所生活二年目とのこと。

 ともかく僕は――そういう全く別の意味の心理的瑕疵がある物件に、自分の足で向かっている。

 メッチャ行きたくねぇ。死ぬほど行きたくねぇ。

 不安が心に渦巻く。今更後悔している。やっぱり家で本を読めばよかった。

 しかし、あの紙に書かれていた内容の真意について、僕は確かめる必要がある。

 もしかしたら、僕のを解決する糸口が見つかるかもしれない。

 もしかしたら、糸口が見つかるどころではなく、そもそも解決するかもしれない。

 このまま女として生きるより、男に戻ったほう断然いい。明白だ。

 なにか別の目的で利用するために僕を呼び出した可能性は捨てきれないが、しかし賭けてみる価値はある。あの紙に書いてあった怪しい『誘い』に乗る価値はある。

 だから僕は今、ここにいる。


「……」


 例の雑居ビルに着いた。居酒屋の利用客と狭いエレベーターに乗る。

 二階で停まったエレベーター。乗客のサラリーマン二人はここで降りた。残ったのは化粧をばっちりキメた女性と僕。ボタンを押して扉を閉め、上階へ向かう。

 三階を通り越し、四階で停まる。女性はこの階で降りない僕を不思議に思っただろう。後ろを振り返って僕を見ようとし、しかしその視線は閉まる扉により遮られた。

 ――五階には、なにが、いや誰が僕を待っているのだろう。シノギの跡地という厭な場所だ。碌でもない人間が複数人いて、僕をいいようにする可能性だってあるのだ。だが、それだけの理由で性転換した人間を呼ぶだろうか。

 いや、呼ばない。というかそれでは前提がおかしい。そもどうして僕が女になったと知っている。事情を知っているのは僕の近しい人たちだけだ。

 息を吸う。エレベーターが五階に到着したのを簡素なベルの音で告げる。

 息を吐く。口を引き締め、開いた扉から廊下に出る。

 階下からホストのコールが聞こえてくる。このフロアは静寂だ。人っ子一人いない。

 廊下の突き当り、右手にある扉。扉の向こうに人の気配はない。そこに“SOS”のモールス信号でノック。


「……」


 それから二十数秒。あの紙のことを疑い始めそうになったとき、やっと反応があった。


「流浪人」


 しゃがれた、老いた男性の声だった。

 これは合言葉だ。「山」には「川」と返すように、紙に書かれていた通りに言葉を返す。


「『剣心』」


 返すと、さらに言葉が返ってくる。合言葉は一つで終わりではない。


「女優」

「『夜凪』」

「リーダー」

「『たけし』」


 三つの合言葉(調べてみたが、全て週刊少年ジャンプで連載されていた作品の主人公だった)を返すと、ドアノブの鍵が開き、扉が開いた。

 ――果たして、スキンヘッドの老人が、白衣姿でそこにいた。

 医者だろうか。しかしまあ、この鋭い眼光。見られた者全員が委縮してしまいそうな眼差しを、しかし僕は伊達メガネ越しに見据え、あの紙を眼前に示した。


「あなたですね、これを僕に寄こしたのは」


 その、健康診断の結果と一緒に入っていた、たった一枚の紙。そこに記されていた、短く、しかし重要な文章。これの真相を、確かめるときが来たのだ。

 曰く――、


「『私は、貴方の性別が突然変わってしまったのを知っている』――どうして僕のことを知っているのか、この際聞きません。あなたは、なにが目的ですか」


 声は震えている。へっぴり腰なのも見て取れる。なんとも情けない。しかし仕方ない。正直怖いのだから。

 でも目の前の老人は僕の言葉を聞くなり、ふっと微笑んで、僕に言った。


「私は、貴方のような人を助けるのが目的です」


 その言葉、果たして信用に値するか。

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