Do_not_bring_on_any_more_shame.html
卒業から一ヶ月――元の体に戻るか分からない現状、今後を考えると女性の肉体には無理矢理にも慣れなくてはならない。背の低さから始まる体のサイズの変化は日常生活において不便であり、可及的速やかに変化を生活に適応させる必要があった。入学式までのひと月で生活に支障がない程度には慣れたが、心のどこかでは『このまま慣れてしまったらもう戻れなくなってしまいそう』と一抹の不安を感じていた。
――今まで着ていた衣服、履いていた靴のサイズが合わなくなったのは痛手だった。境子と忍の二人で街に繰り出し衣類を買いに行ったときは朱乃の衣服と靴を拝借したが、それでも今の僕にはサイズが少しばかり大きく、悔しいのやら恥ずかしいのやら――僕を着せ替え人形にしていた妹を前に抱いた感情は、形容しがたく、名状しがたい。
それはそうと、僕の肉体が女性に変貌したのは高校の卒業式があった日で、大学の入学式までは一ヶ月弱の間があった。そのため、その時点で入学式のためのスーツは買い揃えていず、男性用スーツを買った後に女性用スーツを買う、という二度手間と余計な出費が発生しなかったのは不幸中の幸いとして見てもいいかもしれない。
背丈が極端だと、ファッションのコーディネートには苦労するらしい。僕は中肉中背の平凡な体格で、それ以前に男であったため、ファッションには当然無頓着だったが、身近な人間にいる極端な背丈の代表である境子は「私は肩幅広いからレディースだと大体攻撃力が上がる」と言ってレディース物を避け、メンズライクな服を多用していた。同じように背丈が逆の方向で極端になった僕も、自分に合うコーデを考える必要がある。
それは、大学の入学式に着ていくような、フォーマルスーツにも言えることだった。
ショッピングモールにあるスーツ専門店――女性店員に「低身長の方はシンプルに、大人らしく見せるといい」という旨のビジネストークを頂戴したが、要は「ここまで低身長だと、『子供がスーツを着ている感』が出てきてしまう」という意味だと思われる。それは自分も嫌だった。
店員主導で、店の中から自分に似合うスーツを一式取り揃えてもらい、入学式の準備は整った。
これから、四年間の大学生活が始まる。始まりから波風立ち放題だが、これ以上荒れてほしくはない。なにごともなく、必要最低限の遣り取りをもって、大学生活を平穏に終わらせるのだ。
♀
大学式当日。スキンケアで肌を整えてから、境子と朱乃、母の三人からご教授頂いたメイクアップを顔に施す。
母のドレッサーでのメイク――これから、こうして自分の顔をまじまじと見つめる日々が続いていくのだろう。人前に出ても恥ずかしくないメイクは随分と時間がかかる。一ヶ月余り、補助してもらわず自分一人でメイクができるよう練習を重ねてきたが、どうしてもミスは起こる。いかに抑え、朝の忙しい時間を余分に使わないようにするか。これは女性の最重要課題だろう。
「……よし」
メイクを終える。寝起きで目をシパシパさせながらバタートーストを食べる朱乃に所感を伺う。
「最高」
よし。続いて、誰よりも早く準備を終え、スマホ片手に自らの手で豆を挽いて淹れたコーヒーを飲む母。
「綺麗ね」
よし。あとは境子の所感を得るのみ。
スマホで鏡に映る自分を撮り、写真をLINEで境子に送る。
今の時間、どの家庭も忙しくLINEの応対どころではないのは分かっているが、境子に送ったそれは五秒と経たずに既読マークが付いた。
少しして、単語が一つ。
「……
調べてみると、あまりのも素晴らしく天に昇る、またはその様子。尊くて死ぬ、死にそうになるというような意味を持っていた。
喜んでもらえてなによりだ。
♀
四月が始まってまだ十日と経っていないが、随分と暖かく、過ごしやすい天気だった。紫外線が気がかりだが、日焼け止めクリームで対策はしている。
駅前、待ち合わせ場所まで、二人と決めた時間に遅れないよう早歩きで向かう。
しかし、今履いているこの黒いパンプス……随分と歩きづらい。ヒールが付いた履物はこれが初めてで、革靴とはまた違った心地悪さがある。どこかのニュース記事で読んだが、ハイヒールなどを履き続けていると足の骨が変形してしまうらしい。パンプスにこれが通づるか分からないが、そこまでして履く理由があるのだろうか。
――あるのだろう。就活、就職後、冠婚葬祭――日本では画一的なマナーを求められることが多い。嫌でも履くしかないだろう。
ヒール部分が低いものも、探せば出てくるだろう。その辺り、自分で対策しなくては。
あと、ストッキング。これ……穿く必要性が感じられない。
碌な防寒性がない。怪我からも守ってくれない。なにかに引っ掛かったら簡単に伝線、破ける。
肌の化粧だなんだと言って売り出されているが、ビジネスの場で生足が否定されるのはどうも日本の体質にあるようで。
女になって、面倒事が一気に増えた。現時点でもハードモード。僕の人生は、実に前途多難だ。
「……」
あと、僕を悩ます問題は、実は現在進行形で起こっている。
これは最初から女性として生まれたなら、別段気にするようなことではない。突如男から女に変わった者だけが味わう、かといって自分の意思で避ければ済む問題。
それは――、
「パンツにすればよかった……」
スカート、滅茶苦茶スースーする。
こればっかりは本当に慣れない。下着を外から完全に守れていないスカートを、ファッションとしても、またビジネスの場でも穿く女性は随分と強かだ。
女性はこれを穿いて、なにも思わないのだろうか。捲れ上がった先にはストッキング越しの下着がある。
スーツ専門店で「入学式で必要だから」とスカートを選んだが、よくよく考えてみるとパンツスーツという選択肢もあった。店員が最初にスカートを進めてきたため、その流れのままスカートを買ったのが悔やまれる。しかも、パンツの存在を自分はすっかり失念してしまっていた。
タイトなスカートは自分の細いシルエットをよく魅せている。しかし風は通す。春の心地良い風が布を通り、心地悪い。
それに、スカートを穿くという行為そのものに恥ずかしさを感じる。今は女性であり、なにも恥ずかしがることはないのだが、男としての僕がそれを許さなかった。今も多分、頑張ってやった化粧を通り越して顔が赤くなっているに違いない。
全くもって前途多難である。
♀
三人と合流。
境子は高校卒業前とあまり変わらない装い。スーツを着ているだけだった。ただしパンツスタイル。似合う。僕のと交換してくれないかなぁ。
忍は髪をワックスでオールバックにしている。普段目にかかっている前髪が後ろに取り除かれ、端正な顔立ちが露わになった。眼鏡も相まってインテリな雰囲気が漂っている。
「追加で買えばよかったのに」
「本当にね……どうして前日まで気付かなかったんだろう」
「やっぱり、気持ち悪いか」
「気持ち悪いというより、なんだろう。女っていう性別に慣れるために、女性の服を着て街に出る練習とかしてきたけれど、少しずつ男として大切なものを失っていっている気がして……」
「そうか……」
「一番大切なブツは最初に取られたけどね」
「おい」
「……」
忍が即座に異議を唱えてくれたが……いや、もう本当――仰る通りです。
「もう、行こうよ。電車に乗り遅れたら困るのはこっちだし」
「まっそうだね。座るなら、脚はしっかり閉じるようにね。見えちゃうから」
「気を付けます……」
♀
入学式を終えた。専攻別のガイダンスで学生証を貰ったが、性別欄には“女”の一文字と、顔写真は今の僕の写真が。急な申し出に対応してくれた大学側には感謝申し上げたい。
キャンパスを出た僕らは、そのまま昼食へ。通学路の途中、ターミナル駅の駅ビルにあるレストランで昼食を終えたあと、入学記念にプリクラを撮ろうと境子が言いだし、最寄りのゲームセンターに立ち寄った。
一階、プリクラが立ち並んだ少々窮屈な空間。境子の御眼鏡に適なうプリクラに入り、写真を撮る。最近のプリクラはポーズを機械が自動音声で指示してくれるようで、境子は言わずもがな、僕はそれに従い指ハートを作ったり、ぎこちなく笑って見せた。忍は怖ろしく無表情だったが、三人等しく小顔補正がかかり、目が巨大化した。
プリクラのついでに、格闘ゲームや弾幕STGでちょっとした賭け事をして楽しんでいた。その途中、
「ごめん。ちょっと、トイレ」
催してきたため、トイレへ。
入ると、アンモニア臭と消臭剤の臭いが混ざった悪臭の前に、少々ヤニ臭さを感じた。店の注意を無視し、今さっきまで誰かがトイレで煙草を吸っていたのだろうか。マナーがなっていないなと呆れ、便器の前に立つ。
チャックを下げようと手を当て――あるはずのチャックがないことに気付いた。
「……?」
下を見る。黄ばんだ便器と、自分の下半身が視界に入る。
股あたり――チャックがあるはずの部分を見ると、そこにはなにもない。ただ三六〇度繫がった黒い生地が腰から膝までを筒状に隠していた。
これは、女性が穿くスカートと呼ばれる衣服だ。
そっか、スカートを穿いているからないんだ。
スカートのファスナーは横にある。早速ファスナーを下げようとしたところで――、
「あれ?」
なにかがおかしいと、やっと気づいた。
自分はなぜスカートを穿いている? 性転換してしまったからだ。
自分はなにを見ている? 男性用の小便器だ。
自分はどこにいる? 男子トイレだ。
自分の性別は? 前まで男性だったが、不本意ながら今は女性だ。
そう、女性だ。今の自分は、女だ。女なのだ。
「あっ……!」
さっと青ざめる。気付いたときにはもう遅かった。
出入口を見る。ゲームセンターに遊びに来て、同じように催してきたと思われる中年男性が僕を見て、目をひん剝き、口をぱくぱくと開け閉めしていた。
なんで男子トイレに清掃員でもない女がここにいて、男と同じように小便の構えを取っているのか。そう思っているに違いない。
中年男性は驚愕のあまり声が出せない様子だった。
これは不味い。非常に不味い。
「ごっごめんなさい!!」
ほとんど絶叫に近かった。一言謝罪し、男性の横をするりと抜け、隣の女子トイレへ。
一番手前の個室は空いていた。そこに入って、勢いよく施錠した。
「はああああぁ……」
極度の緊張から解放され、一気に力が抜けてしゃがみ込んだ。
嗚呼、こんな調子で大学生活を送っていけるのか。不安で仕方がない。なんだか泣けてくる。
目の端に浮かんできた涙は、メイクを崩すには十分だった。
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