墜落

 美術館で会った人だろ。そうさあんた間違いないさ。

 母親は今日もヘンテコな歌を聴いて、何を考えているんだかわからない顔をして皿を洗っていた。俺はあんまり味のしない飯に醤油をぶっかけて食べる。変な曲を受動的に聴かされながら、ほぼ消音に近い音量でとりあえずつけられているテレビの画面を眺めながら、別に美味しくもない飯を食う。

「あんた、今日も学校行かんかったんか。先生から電話来たわ」

「行こう思ってんけどな、公園の鳩に餌やってたら、気付いたら二時間くらい経っててな。鳩ってよく見ると気色悪い顔してるやろ、首のくいくいする動きもキモいし。それ見てたらさらに三時間くらい経っとってな。学校終わってしまってた」

「鳩の話なんかせんといて!」

 母親が金切り声をあげて、せっせと拭いていた皿を床に叩きつけたらしい音が聞こえた。俺はテレビ画面の中の乳がデカい女が口をパクパクさせているのを真っ直ぐに見ていたからそのがしゃーんって音が本当に皿の割れる音だったのか母親が破裂した音だったのかは正確にはわからなかったけど、母がキーキー言うのと物を壊すのは大抵がセットで行われるのだし、母親が破裂したんだとしたらもっとぼむっみたいな重たい音がするだろうから、やっぱり皿が割れたんだろうと思った。そんなのもう慣れっこな俺はちょっとびっくりするだけでデカい乳から目をそらすこともなく飯を食い続けることができる。母親はなんか早口で喋ったあとに、今度はしくしくと泣き始めた。本当に泣いてるのかは知らない。

 父親がよく「あの女は嘘泣きをするからあんまり信じんな」とめんどくさそうに言っていたことを思い出す。俺は、自分の嫁をあの女とか言うなよ、と思ったし、そんな女をほっといて他に女を作ってそいつの家に入り浸っている父親を見て、何で結婚して子供まで作ったんだよコイツらと思ったりした。

 時計を見ると、二十二時を過ぎていた。俺は財布をポケットにねじ込んで立ち上がる。

「どこ行くん」

 母親はすっかり悲しいふりをやめて聞く。いや、本当にさっきまでは悲しくてこの一瞬で悲しくなくなったのかもしれない。

「優也ん家」

「傘持ってき。今日はずっと雨やから」

 俺は当然鍵だけ持って家を出る。今日は朝からずっと晴れてたし、明日も晴れだってさっきテレビでやってた。あんたも一緒に見てたやろ。

 門扉をくぐると、そこには既に優也がいた。チャリに跨って、開口一番「お前のきちがい母ちゃんまた叫んどったな!」と笑う。

「人の母親んこときちがいとか言うなや」

「じゃあ何て言えばええんや」

「運悪く人に生まれてしまった猿や、あんなもん」

 俺はチャリの荷台に跨った。ジーパン越しに鉄の冷たさが肌に食い込む。優也の足が地面を蹴り、俺たち二人の体重に頑張って耐えているおんぼろママチャリはふらつきながら発進する。

「そしたらお前は猿から産まれた合いの子か。半分猿なんか」

「そうや」

 だから、勉強もできない。学校にも行かない。何もできないし、したくもない。辻褄の合う話じゃないか? 俺は優也の横腹をこしょばした。優也はぎゃーぎゃー喚いて、チャリンコはぐらぐら揺れる。俺はたまらなくなって大笑いする。



「ここの坂道でな、人がよぉ死ぬんやて」

 ひとけのない林みたいな森みたいな坂道をくだっていた優也が、やっと止まってそう言った。俺は上り坂の途中で降ろされて、荷台を押してやったり前カゴを引っ張ってやったりしながら歩いてたから、もう汗だくだった。

「見てや、あれ」

 途中で偶然出会ったためノリで連れてきた久森くんが、前方を指差した。その先には、ぐにゃぐにゃにねじ曲がったガードレールがある。

「あすこに突っ込んで死ぬんか、みんな」

 久森くんは楽しそうに俺の方を見た。俺はこの坂のことなんか全然知らないから、優也に視線をパスする。

「うん。キツい坂やし結構急なカーブやからな、曲がりきれんでそのまま突っ込んで転落。十中八九お陀仏ってな」

「恐ろしいなぁ」

 久森くんはニヤニヤしながら、全然怖くなさそうに言う。俺は久森くんをこんなに至近距離で見たのは初めてかもしれなかった。クラスは一緒だけど、まともに話したことはあまりない。でも、少し気になる存在ではあった。

「久森くんて、空飛びたいんやっけ」

 俺はずっと気になっていたことを聞いてみた。入学したての頃、何かの授業で将来の夢を発表するってなって、生徒が順番に野球選手だとか医者だとか先生だとか言う中、久森くんは「空を飛びたいです」と言い放った。俺は「は?」と思ったし、俺が思うってことはクラスのほとんどが「は?」と思ったってことで、教室の中が変な空気になった。先生が気を利かせて「飛行機のパイロットってことか?」と助け舟を出したけど、久森くんは「いや、俺が飛ぶんや」とそれを跳ね除けてしまった。

 それ以来、久森くんは無事にやべえ奴認定されて、気持ち悪がられたりからかわれたりし始めた。元々身なりがちょっと汚なかったり意味もなくニヤニヤしてたりと気味悪がられる要素は持っていたので、当然の流れだとは思う。そんな彼が何を考えているのかということに、俺は興味があったのだ。

「飛ぶんよ、空を」

 久森くんは俺の質問にそう答えた。

「それってどういう意味なん?」

「そのまんまや」

「そのまんまか」

 俺はよくわからないまま頷いて、優也に耳打ちする。

「どういうことや」

「知らん」

「お前久森くんと仲良いんと違うんか」

「全然」

「じゃあなんで誘ったんや」

「そこにおったからや。人数多い方が退屈凌ぎにええわ」

 まぁ、それもそうか。俺はまた頷いた。

「ほんじゃ、始めよか。ノーブレーキでどこまで走れるか、チキンレースや。いっちばんギリギリまで行けた奴の勝ち。買った奴には、ビリがジュース奢り」

 優也は得意げに説明する。俺もこいつも、こういう度胸試しみたいなことをしょっちゅうやっている。別に楽しいわけではないけど、たまらなくなる瞬間があるのだ。途方もなく続く気の狂いそうな退屈を一瞬だけでも誤魔化せる行為なんて、俺はこの遊びとオナニーくらいしか知らない。オナニーは終わった後とんでもなく虚しくなってやってられなくなるから、やっぱりこっちがちょうどいい。

 この遊びで俺が勝つことはほとんどない。八割くらいは優也が勝つ。こいつは死ぬギリギリまで攻めるのだ。俺にはそこまでの度胸を持ち合わせていない。別にどうなったっていいと思ってるはずなのに、いざとなるとビビってしまう。そういう時、俺は自分がかなり嫌になる。

 でも、今日はビリにはならないだろう。俺はその余裕から、久森くんに優しく声をかけてやる。

「別に、無理に付き合わんでもええよ。危ねえから」

 彼がこういった遊びに慣れているとは考え難い。今日ジュースを奢らされるのは久森くんで間違いないのだ。しかし

「うん、だいじょぶ」

 久森くんは相変わらずニヤニヤして俺の好意を無碍にする。棄権してもいいよと言おうとしたら、優也が「俺から行くで」と叫んで、足を真っ直ぐに伸ばして坂を下って行った。俺はいつも通り、テレビドラマのワンシーンを眺めるような感覚でその様子を目で追う。久森くんも隣で黙って見ている。マジで死んじゃうんじゃねえか、と思った瞬間にぎぎーと悲鳴みたいなブレーキ音が響いた。優也のママチャリは、ガードレールに触れるか触れないかの位置に止まっている。



 優也の次は俺の番だった。勢いよく滑り出して気持ちよく風を切ったはいいものの、予想よりも遥かにスピードが出て焦った俺は結構早めにブレーキをかけてしまい、優也にすこぶる馬鹿にされる結果に終わった。

「お前さすがにチキりすぎや。俺の妹でももっと行くわ」

「お前の妹まだ幼稚園やろが」

「三輪車でもお前より良い記録出せるわ。今度連れてきてやろうか」

 優也は、最速で俺を嘲るためにわざわざ走って坂を下ってきた。俺が中々戻らないであろうことを見越してだ。腹が立ったので、停めておいた優也のチャリンコを蹴っ飛ばす。がしゃんと音が鳴ってチャリが倒れ、そこら辺にとまっていたらしい鳥が一斉に飛び立った。

「ほれ、鳥もお前のことバカにしよる」

「違えわ。こいつらは羽のねえ俺ら人間のことバカにしとんのや」

「マジかよ。生意気やな殺したる」

 もうほとんど見えない位置にいる鳥たちに、優也が小石を投げ始めた。「皮をずるんって剥いで、うちの犬に食わせてやる。常に腹すかしてるからなぁ、喜ぶぜ」

 犬じゃなく妹に食わせてやれよ、お前の妹野犬よりもガリガリやんか。言って俺は、「翼をください」を歌い始める。今、富とか名誉ならばいらないけど、翼が欲しい。全く、なんて素晴らしい歌詞だろう。こんなもん素面で歌える奴の気が知れない。

 俺が胸焼けを起こしそうになっていると、坂の向こうから「なあもう俺いくで」と声が聞こえてきた。久森くんだった。

「あ、忘れとった」

「おう、来い」

 優也が小石を捨てて叫ぶ。久森くんは大きく右手を上げてぶんぶん振り、すぐにチャリに乗っかって地面から足を離した。それからペダルに足を置いて、立ったままハンドルを掴む手に体重をかける。俺はおお、と関心する。

「見ものやなぁ」

「お前よりいくんちゃうか」

 優也が意外そうな声で言った。

 久森くんはどんどん近づいてくる。直立の久森くんを乗せたチャリンコは、バランスを取るのが難しいのかふらふらしている。でも倒れない。

 タイヤが地面を踏みつける音が真っ暗い空間に響き渡った。

 加速した久森くんは、ブレーキをかける気配もなく直進する。ぐんぐん進む。視界の中の久森くんが、大きくなっていく。

「え、全然止まらんけど」

 久森くんは、俺たちの目前まで迫って来ていた。

「ヤバい、ヤバい」

 でも、彼は全然止まらなかった。ブレーキに手をかけてすらいなかった。俺は久森くんの顔を見た。その顔はいつも通りニヤニヤしていた。

 俺たちは大慌てでねじ曲がったガードレールの側から離れる。勢い余って転びそうになる。すぐにゴシャっと暴力的な音が響き渡って、俺は反射的に目を閉じそうになったけど、反射神経をねじ伏せてそれを見た。

 久森くんを乗せたチャリの前輪が、ガードレールを乗り越えた。車体が半回転しながら宙を舞う。久森くんは、それよりもさらに高く飛ぶ。

 飛んだ!

 俺は叫んだ。久森くんは、飛んだ。夜空に向かって、完璧に飛んでみせた。

「久森くんが、飛んだ!」

 俺と優也は一緒になって叫んだ。遠くの方で、がしゃーんとけたたましい音が聞こえた。それは母親が皿を割る音の、何十倍も鋭く俺の鼓膜に突き刺さった。

「久森くんの一人勝ちや!」

 俺の歓声が、久森くんが飛び立った夜空にこだました。それにかき消されそうなぐらい鈍く、ぼむって重たい音が聞こえた。

 下方からバサバサと何羽もの鳥が飛んでくる。俺の頭の中では、「翼をください」が大音量で流れていて、上空では小さな赤い光がちかちかと点滅を繰り返していた。俺はその明滅を見ながら、家の台所で砕け散ったままになっているであろう皿の破片のことを考えていた。


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暗くて広い 犬腹 高下 @anrhrhr

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