不能
「いっそ死なせてあげたほうが、幾らかマシだわ」
高校二年生の秋、癌が進行した婆ちゃんの病床で、母が険しい顔をして言った。なんていうことを言うんだ、こいつは。婆ちゃんに聞こえたらどうするんだと思ったけど、婆ちゃんはもうずっと意識がなくて、ずっと目がうっすら開いてて、酸素マスクとよくわからない管に繋がれて義務的に延命されているだけだから、当然母の声なんて聞こえていなかった。それでも痛みはあるようで、時々、苦しそうに呻いた。婆ちゃんの口はもう、呻き声をあげるための器官みたいなものだった。
二ヶ月後、婆ちゃんは死んだ。小学五年生の妹は泣きじゃくったけど、俺も母も泣かなかった。看護師さんが、慣れた手つきで霊安室に運んでくれた。
重たい買い物袋をぶら下げて、コンビニを後にする。歩き慣れた道を黙々と歩き続けて十分もすると目的のアパートが見えてくる。ドアの手前に設置された洗濯機の蓋は、砂埃や水垢などで汚れている。
「慶太、来たよ」
ドアをコンコンと叩きながら言うと、少しの間を置いて微かな物音が聞こえてくる。呼び鈴は数ヶ月前から故障しているのだ。
ギィと重い音がして、友人が顔を覗かせる。日差しが眩しいのか、彼は目を細めた。「よぉ」と言うと、目を細めたまま力なく笑う。
「おじゃまします」
部屋に上がると、そこはいつものとおりにカーテンが閉め切ってあって薄暗く、必要最低限の家電が点々と置かれているだけで生活感というものが欠落していた。鉄のような匂いとカビ臭さが鼻をつく。家主である慶太は、何かぼそぼそと呟いたあとに、床に敷きっぱなしの布団に横たわった。多分、ありがとうとかごめんとか、そういうことを言ったのだと思う。俺はコンビニの袋を床に置いて、その隣に腰を下ろす。
「飯は? 食ってない?」
「食ってない」
枕に顔を埋めた慶太が言う。これもいつも通りだ。流し台にレトルトのおかゆの残骸がいくつか放り捨てられていたが、それ以外に食事をとった形跡はない。空のペットボトルが何本か床に転がっているだけだ。
俺はビニール袋の中身を混ぜっ返してチューブタイプのゼリーを取り出す。パッケージには、「元気はつらつ」といったコピーが印字されていた。
「ゼリーなら食える?」
「多分」
濁った目をして頷く。蓋を外して渡してやると、爪の伸びた手がそれを受け取る。
こいつが「こう」なったのは、一年ほど前の、高校を卒業して半年ほど経った頃だった。元々明るい方ではなかったが、それでも普通に笑うし怒るし、ゲームで勝負して勝ったら大袈裟に喜んで腹が立つほど調子に乗るし、負けたら露骨に悔しがるし、好きな女の子と挨拶しただけで舞い上がって報告してくるような、結構愉快な奴だった。それが、突然に、そういった人間として当たり前の機能の一切を失ってしまったのだ。
いや、きっと突然ではなかったのだろう。卒業した後、俺は大学に進学して慶太は就職して家を出たため、住む場所が遠くなり接点もなくなった俺達はほとんど連絡を取らなくなった。その間に彼は、俺の知らないところで徐々に、何らかの理由の元で、弱っていったのだ。
旧友から「慶太と連絡が取れていない」と電話が来て、遠方に引っ越したそいつの代わりに家を訪ねた時にはもう、「こう」なっていた。起き上がることすらままならず、食事や睡眠も困難で、会話もまともに出来なかった。確かに同じ人間なのに、すっかりやつれて表情も乏しくなった彼は、以前の慶太とは違う人になってしまったような違和感があった。
「病気らしい、俺は」
心の病気とよく言われるけど、本当は脳の病気なんだって。比較的調子がいい時に、慶太はそう教えてくれた。言われずともこいつが病気であることは一目瞭然だったが、俺は適当な相槌を打った。よくわからない薬をいくつか出されているけど効いているのかはわからないと、慶太は布団にくるまってもごもごと言って、それからうんうんと呻き始める。
「苦しくて頭がどうにかなりそうだ」
「何が苦しいの」
「ぜんぶ」
慶太は、ただ寝っ転がって息をしているだけでも、得体の知れない苦痛や恐怖に押し潰されそうになるらしかった。一体何がきっかけだったのかは教えてくれなかったから、俺には慶太が何に苦しめられているのかわからなかったけど、慶太自身もわかっていないのかもしれないと思った。
辛いとか苦しいとかこわいとか、そういうことしか言わなくなった慶太に俺はどんな言葉をかけるべきかわからなくて、とにかく励ましたり慰めたり、明るい話を振ってみたりした。彼は買い物はおろか外出もろくにできなくなっていたので、定期的に食糧を買って届けるようになった。ゴミを捨てたり部屋を掃除したり、空気を入れ替えてみたり、好きだったCDを流してみたり、慶太が元に戻るようにと色々とやってみた。でも慶太は全然よくならなくて、「ごめん」と言って布団にしがみついて苦しそうに呻いたり、死んだように押し黙ったり、時々泣いたりするだけだった。それで、その後には必ず「もう終わりにしたい」と言うのだ。
俺が「きっと良くなるよ」と、なんとも当たり障りのない言葉をかけると、「どうしようもないんだ」と低い声でこたえた。その声は、変にさっぱりした調子だった。
「壊れるべくして、壊れたんだ、きっと。それで、一度壊れたら、もう二度と元には戻らないんだ」
慶太は、珍しくそんな長い台詞を喋ってみせた。俺は、でも、完璧に元には戻らなくても、修復して元に近い形に戻すことくらいできるんじゃないかと思ったが、炭酸の抜けたサイダーとか溶けたアイスとか、そういうものが思い出されて、言葉にするのをやめた。
「ありがとう」
ほとんど口をつけていないゼリーを枕元に置いて、慶太は何に対してかわからぬ感謝の言葉を口にする。伸びた髪が顔を隠しており、ただでさえ薄暗い部屋の中、彼の表情は伺い難い。手入れのされていない髪が伸び放題となったその姿は、幼い頃に近所の図書館にたむろしていたホームレス達を彷彿とさせる。
「カーテン、開けてもいい?」
慶太が頷いたので、立ち上がって遮光カーテンを掴み、少し乱暴に引っぱった。シャッとカーテンレールが鳴いて、薄闇に包まれていた世界に眩しい光が降り注ぐ。
空は真っ青に晴れ渡っている。窓を開けると、少し遠くから子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきた。少しぬるい空気を肺いっぱいに吸い込む。すぐ目の前に小さな花壇があり、そこで咲いている花が風に揺らいでいる。全てが、幸福の象徴のような景色だった。
差し込んだ光は、横たわったままの慶太をも照らす。慶太は薄目を開けて少しの間どこかをじっと見つめてから、また目を閉じた。子供達の声が遠ざかっていく。どうして世界はこんなにも明るくて幸福に満ちているのに、慶太はこんなにも底なしの泥濘に沈んでしまっているのだろう。俺は窓辺に突っ立って、彼の骨張った腕や、やつれた頬なんかをぼうっと眺めた。そうして、ひどく虚しくなった。
鉄とカビの臭いが染み付いた部屋を後にした俺は、来た道を辿って駅へと向かう。この後、大学に寄らなくてはならない。
家を出る直前に、慶太は「もう、来なくたっていいよ」と、落ち着いた声音で言った。
「学校とか、大変だろ?」
俺はできるだけ無邪気っぽく笑って「来るよ、また」と手を振り、ドアを閉めた。
足が重いような気がするのは、軽い上り坂だからだろうか。額を拭うと、汗で濡れていた。もうすぐ夏が来る。
──いっそ死なせてあげた方が、いくらかマシだわ。
いつかの母親の言葉が、頭の奥でリフレインしていた。病院のベッドで無理矢理に生かされていた婆ちゃんと、布団に横たわってただただ呼吸を繰り返す慶太の姿が重なる。
ふと視線を落とすと、コンクリートを青い芋虫が這っていくのが見えた。俺はそれを踏み潰さないように、気をつけて歩いた。
了
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