暗くて広い

犬腹 高下

ゆがむ

「お前が、俺を、こういうふうにしたんだぜ」

 目の前の男が淡々と言ったのを、坂井はぼんやりと、しかし鼓動を早めながら、聞いていた。その無感情に響いた声は、わずかな憤りが含まれているようにも、喜びを滲ませているようでもあったが、坂井にはその男の顔を見て彼の本意を伺うことは到底不可能のように思われた。

 坂井は、顔を上げることすらできぬほど、もはや彼という存在が恐ろしくてたまらなかった。


 彼……湯上という存在を初めて認識したのは、小学校五年生の時、つまりは六年前のことだった。湯上は比較的大人しい生徒で、生傷が絶えず毎日服を泥だらけにしては母に叱られている活発な坂井とは正反対の子供だった。ゆえに、割と顔の広い坂井でも、同じクラスになるまでは湯上のことを知らなかったのだ。

 行間休みや昼休みになるとボールを片手に校庭に駆けていく坂井とその友達らの輪に、湯上が加わったことは、五年生にあがって二ヶ月ほど経っても一度もなかった。

「お前も、一緒にやる? ドッヂボール」

 気まぐれに、教室を出る前にそう誘ってみたこともあった。しかし湯上は「いや、俺はいいや」とあっさりと断って、「ありがとう、誘ってくれて」と照れたように笑っただけであった。

 輪に入りたいのに入れないという訳でもなさそうだ。せっかくの休み時間を教室にこもって過ごして何が楽しいのだろうか、と坂井は疑問に思ったがしかし、この手の者は大抵クラスに一人や二人はいるものだし、特に気にすることもなく日々は過ぎていった。

 湯上に一切の関心がなかった坂井が彼に負の感情を抱き始めたのは、夏休みの開けた九月頃だった。発端は、クラスメイトの

「香奈ちゃんと湯上、デキてるらしいぜ」という発言だった。

「なんだよ、それ。噂だろ?」

 坂井は少々ムキになって言った。

 香奈というのはくりくりした大きな目と栗色の髪、そして陽気な性格を持ち合わせている少女で、坂井は一年ほど前から彼女に友達に対するそれとは違う行為を抱いていたのだ。しかし坂井は同年代の女子とのコミュニケーションの取り方がわからず、またクラスの女子と仲良くお話をするなんて恥ずかしいことのように思えて、大抵はスカートをめくって怒らせてみるとか、拾った虫を目の前に突き出して嫌がられるとか、そういった接触したしたことがなかった。

「だって香奈ちゃんと湯上、昼休みとかずっと一緒にいるんだぜ」

 坂井の気持ちを知ってか知らずか、クラスメイトはニヤニヤした笑みを浮かべて続ける。噂好きの男なのだ。

「女子達から聞いたんだ。教室やら図書室やらで、二人きりで話してるらしい。毎日だぜ」

 すると、他の奴らも口を挟み始めた。

「香奈ちゃんが湯上にべったりらしい」「二人とも勉強ができるから、気が合ったんじゃねえの」「じゃあ湯上の奴、あんな大人しそうな顔して香奈ちゃんとエロいこととかしてんのか」「ああいう静かな奴の方が、意外と童貞捨てるのが早いって、うちの姉ちゃんが言ってた」……。

「きもちわりい」

 坂井が腹の中で煮え立ち始めた苛立ちを吐き出すように呟くと、クラスメイト達は訝しげに坂井の方を見た。

「どうしたよ」

「いや、ずっと思ってたけど、アイツって暗いし男とつるまないし、気持ち悪いよな。いつも教室に残ってんのだって、女子目当てなんじゃねえの」

 坂井は注目を浴びていることに気づくと、とっさに小馬鹿にするような嘲笑を浮かべて語気を強めた。湯上のことをそんなふうに思ったことは今まで一度だって無かったが、口に出した途端、本当にそんな気がして来るから不思議だった。

「第一、頭がいいのか知らないが、それを鼻にかけてるような態度がムカつくんだよな。絶対に俺たちを下に見てるぜ、ああいう奴は」

「それ、俺も思ってた」

 すぐに他人の意見にのっかる性質の奴が、案の定、坂井の言葉に同意する。すると、それぞれ思うところがあったのか、ただ単に流されただけなのか、彼らは「偉そうだよな」「馬鹿にされてる気がする」「気に食わない」などと口々に否定的な意見を挙げ連ねていく。坂井は、仲間達が湯上のことを散々悪く言っているのを聞いて、幾らか気が晴れた。

 しかし、それからというもの、湯上の言動がやけに鼻につくようになった。最初は、香奈と一緒にいるところを見て憎く思っていたはずだった。テストの答案が返却されると、湯上と香奈がそれを見せ合って楽しげに喋っていたり、休み時間を迎える度に香奈がごく自然に湯上の席に向かっていき、湯上が当然のようにそれに応じている。坂井はそんな、湯上と香奈が仲良くしている姿を、湯上に親しげに笑いかける香奈の顔を見るたびに、言いようのない激しい怒りを覚えた。気に入らない。ムカつく。どうして自分ではなく、そんな陰気なつまらない奴に笑顔を向けるのか。坂井は、その感情が嫉妬が生み出した逆恨みだと自覚できるほど成熟してはいなかった。

 坂井は、粗を探すように湯上のことを目で追うようになる。彼の気に入らない部分を見つけ出し、自分の苛立ちを正当化させるためであった。朝の読書の時間に、小難しそうな本を読んでいること。授業中に教師に指されて音読する彼の声が、自信なさげに小さく、震えていること。給食の時、余ったデザートを巡ってジャンケンで大騒ぎしているのに、絶対に参加してこないこと。湯上のたったそれだけの行いも、坂井の妬み嫉みの炎に薪を焚べるには不足しなかった。


 初手は、自分で仕掛けると決めていた。放課後、湯上が一人で昇降口を出て校門の側にある池を通りかかるのを待ち、坂井は彼を思い切り突き飛ばした。ぼちゃんと重い音が響く。びしょ濡れになった湯上が言葉を失ってこちらを見ている。その間抜けな面を見て吹き出しそうになったが、堪えて言った。

「ああ、悪い悪い、よそ見してた」

「う、うん。大丈夫」

 坂井の言葉を真に受けたのか、湯上は頬を引きつらせながら答える。坂井はとうとう堪えきれずに笑い出した。湯上は浅い池に手をついたまま、茫然としている。

「汚ねえから、早くあがれよ」

 言い捨てて、少し離れたところでこちらを伺っていた仲間達の元まで走った。いい気味だ。達成感と快感で、坂井の口角は上がりっぱなしだった。

「見たかよ」

「見てたよ! お前、容赦ねえな」

 友人のほとんどは、まるで帰還した勇者を迎え入れるかのように興奮した様子だった。湯上に対する良くない感情を日々浸透させていたのだから、当然と言えば当然だ。だが、もちろん何か言いたげに眉を顰めている物もいる。坂井はそんな不穏分子を見つけると、肩を抱いて「湯上の奴、『う、うん。大丈夫』だってよ」と小馬鹿にした物真似を披露して周囲を笑わせた。それは静かな牽制でもあった。坂井は、自らがその場の空気を左右しえる存在であることを自負していた。

「笑えるだろ」

 肩に回した腕に力を込めて、不服げな友人を引き寄せて笑いかけると、彼はしぶしぶといった感じで「うん」と下手くそに笑うしかない。無力感を味わせ、反骨心を潰すには、このくらいでじゅうぶんなはずだ。坂井は確証を得て、彼の背中を手のひらで強く叩き、念を押した。

 ここまでお膳立てをすれば、あとは自ら手を下さなくても周りが勝手にことを運んでくれた。湯上はクラスの男子達の中で「もの静かな奴」から「何をしてもいい奴」へとランクダウンしたのだ。

 最初のうちは、巧妙にやった。湯上の私物を取り上げてキャッチボールをして遊んだり、遊びと称して技をかけたり、背後から突然キックを入れたり、仲間内では日常的に行われている類の悪戯を強めに行う程度だった。しかし湯上はそれらの暴力に対し怒ったり泣いたりを一切せずにただ黙って耐えていたため、そうなると坂井たちの行動もエスカレートしていく。教科書を破ったりページをぐしゃぐしゃにして読めなくしたり、下駄箱に泥や虫を突っ込んだり、給食にチョークを混ぜて食わせたりもした。教師にはバレないように、細心の注意を払ってそれらは行われた。例えそうしなくとも、元々担任は生徒にあまり関心のないタイプの若い男であったし、湯上も被害を訴えるような素振りも見せなかったので、彼らの悪行が露見することはなかった。

 学年が上がって六年生になっても、湯上への暴行や嫌がらせは続いた。それどころか、より過激になっていった。放課後、人目につかない公園に湯上を引き摺り込んで殴る蹴るを日課とした。さらには金を用意させてそれを巻き上げ、坂井らはそれを資金に駄菓子屋やゲームセンターなどに入り浸るようになった。湯上の家は結構裕福だったようで、持ってこいと言えば多少の抵抗は見せつつも、毎回ちゃんと用意してきた。その頃にはもう香奈のことなんてどうでもよくて、ただ湯上をいたぶること自体が楽しくて仕方がなくなっていた。

 そんな、ある日。別件で職員室に呼び出されていた坂井が用件を終えて教室に戻ると、湯上が彼の戻りを待ち構えていたかのように、一人静かに自席に座っていた。

 坂井は一瞬ギョッとした。湯上と二人きりになるなんて、ほとんど初めてのことだったからだ。しかし、例え今彼が反撃を試みたところで、自分にはやり返す力がある。腕っ節には自信があるのだ。坂井は毅然とした態度で教室に入った。

「坂井くん」

 湯上に名前を呼ばれ、坂井は彼の方へ目を向ける。

「君は、俺の何が気に入らないの」

 そう言った湯上の顔は何の感情も示していなかったが、声は少し震えているように思えた。どうしてこんなことをするのだとか、もうやめてくれだとか、そういうことを言われるのではないかと思っていたが、予想は外れた。それすらも気に入らない。坂井はランドセルを引っ掴んで「全部」と言い、足早に教室を出た。例えばもう許して欲しいと泣き付かれたならば、考えてやったかもしれない。しかし、彼は諦観したような口ぶりで坂井の真意を探ってきただけだった。坂井はそんな湯上の態度にますます不快感を募らせ、以降も彼を追い詰めてやろうと決心した。


 湯上への「いじめ」と形容される暴行や恐喝は、卒業するまで続いた。湯上は学校を休むことが多くなっていき、卒業間近になるとほとんど顔を見せなかった。が、どこか遠くの私立の中学に進学するらしいのだと風の噂で知った。同じ中学だったら進学してからもねちねちといじめ続けられるのに惜しいと誰かが笑って言ったが、坂井には正直どうでもよかった。目の前からいなくなってくれるのなら、それに越したことはないのだ。ただ、彼の代わりとなるストレス発散の道具が必要だと思った。

 中学に上がるとすぐに、坂井は湯上の代わりとなる生徒を見つけ出した。特に意識せずとも、己がやりたいようにやっていれば周りが勝手に自分の言うことを聞く。小学校時代と同じように、あるいはそれ以上に、坂井の学校内での地位は向上していった。気に入らない奴がいれば揶揄い、過度な嫌がらせを行ない、自分の強さや権威をより確実なものとして周りに誇示し、その優越に浸った。その頃にはもう、自分が学校という世界において支配者たり得る人間なのだと、確信していたのだ。


 しかし、高校に入ってすぐ、その世界は崩れ始めた。何をしたわけでもないはずであった。だが、明らかに周囲から避けられ始め、入学してから二ヶ月も経つと、今まで自分がされてきたような事を周りからされるようになった。中学が同じで、昔は自分に従っていた奴も見て見ぬ振りをした。いや、それならばまだ良い方で、仕返しとばかりに坂井を悪く言ったり、暴力振るう輩まで出てきた。

 坂井はその状況に順応こそしたが、納得はしていなかった。自分はこんな扱いを受けるべき人間ではないはずだ。こういう役を請け負うのは、もっと鈍臭くて頭の悪い人間であるべきだ。自分は、そういった人種とはほど遠い立場にあったはずだ。しかし、現実に坂井がいじめのターゲットにされているのだから、何を言おうと負け惜しみに違いなかった。

 何よりも都合が悪かったのは、この学校に湯上がいたことだった。

 入学したての頃は、まさか彼が同じ学校に入学しているだなんて、夢にも思わなかった。成績優秀で私立の中学に進んだような奴が、自分が通うようなレベルの高校に入っているとは想像できるまい。湯上は坂井とはいくつも離れたクラスで、平和な学校生活を送っているらしかった。かつて見下して侮辱の限りを尽くした相手に、今の無様な己の姿を見られることは、坂井にとっては何よりも耐え難い屈辱であった。一度、クラスメイトに足蹴にされているところを湯上に見られた時などは、あまりにも恥ずかしくて、三階の窓から飛び降りて逃げようかと本気で考えたほどだった。


 そんな状況でも湯上という男は、過去の報復として坂井に攻撃するようなことは一度もしなかった。それどころか、彼は坂井に当たり前のように挨拶をし、古くからの友人のように話しかけ、積極的に坂井と交流を図ろうとまでしてきた。この学校でそんな行いをする生徒は、湯上ただ一人と言っても過言ではなかった。

 最初、坂井は気味が悪くて無視を決め込んだ。彼は坂井を恨んでいるはずで、何故声をかけてくるのかわからなかったからだ。おちょくりたいのかとも思ったが、彼の口調からしてどうもそういう様子ではない。蔑みや嘲笑といったものを感じさせず、ただ、不安げな顔で近づいてくる。そして、人を安心させるような笑みを浮かべて、なんでもない言葉を坂井に投げかけるのだ。

 同情されているのだと気づいた時、坂井は羞恥で顔を真っ赤にした。すぐに怒りが湧いてきて、絶対に奴に返事などしてやるものかと強い反発心が生まれた。しかし、湯上は一人でいる坂井を見つけると、飽きずに毎度毎度話しかけてきて、坂井はそのうちに、ついに折れて彼に言葉を返した。校内で四面楚歌となり孤立しきっていた坂井は、誰でもいいから人と会話をしたいという欲求に負けたのだ。

「お前、どういうつもりだよ」

 本館と体育館とを繋ぐ外廊下。その端っこの階段に座り込んでいた坂井が、正面に突っ立っている湯上を見上げて言うと、彼は面食らったように目を丸くした。

「やっと喋ってくれたと思ったら、何のこと」

「いいザマだとでも思ってるんじゃないか」

「どうしてそんなことを、思うんだ」

「恨んでるだろう、俺のことを」

  彼の顔をこんなにもまじまじと見つめたのは、初めてかもしれなかった。造形自体は小学生の頃と変わっていないはずだが、あの頃よりも雰囲気がずっと明るくなった気がした。

 湯上は、眉尻を下げて笑う。

「昔の話じゃないか」

 その声は、少し困っているように聞こえた。坂井は彼のその言葉に、挙動に、安心している自分を自覚し、絶望的な気持ちになった。情けなさと恥ずかしさと煩わしさが坂井の体内で噴き出し、混ざり合って、胸を重くした。湯上は言う。

「君は、一人でいた俺をドッヂボールに誘ってくれたことがあったろ。あの時、本当はすごく嬉しかったんだ。馴染めてない俺を気にかけて誘ってくれたんだってわかったから」

 そんなことも、あっただろうか。湯上の声はあの頃よりも低くなっていた。当時のような自信のなさそうな口調ではなくなっている。

「仲良くなりたいと思っていたんだ。だから、高校ではよろしく頼むよ」

 その言葉にも、表情にも、悪意なんてものは少しも含まれていない。坂井は学校の中でこんなにも誰かに親切にされたのは、随分と久しぶりだった。この時になって初めて、坂井は自分が悪い事をしたのだと思った。「あぁ」とぶっきらぼうに応えたが、その実、この上なく嬉しく、救われた気持ちになった。


 坂井が湯上に親しみの感情を持つまでに、そう時間はかからなかった。湯上は自分のクラスに多数の友人がいるようだったが、度々坂井のクラスを訪れた。相変わらず、日常的に暴力や嫌がらせを受けてはいたが、一人だけでも自分の味方が存在するというのは心強かった。自分たちの小学校時代を知る者の前で湯上と連むのは、自分が湯上の恩恵を受けているように思われる気がして癪ではあったが、坂井は屹立したプライドには目を瞑って湯上と交流した。坂井は得意の見栄を張ることも忘れるほどに、孤独というものに対して耐性がなかったのだ。

 初めのうちは一言二言交わすのにもぎくしゃくして居心地が悪かったものだが、やがて湯上の飾らないおおらかな態度に、いきり立っていたねじ曲がった自尊心がすっかりほぐれて、坂井は彼に心を許すようになっていた。

 湯上という男は、言動から嫌味や毒気を削ぎ落としたような柔らかさを持っていた。それでいて知識に富んでいて適度に冗談も言う、なかなかに面白い奴だった。数年前に抱いていた憎悪は、あっという間に好意にひっくり返された。

「俺は、お前のことを誤解していたよ」

 廊下の壁にもたれた坂井が言うと、湯上は窓の外に向けていた視線を坂井の方に移す。

「へぇ。どんなふうに思っていたんだ」

「もっと、陰気で嫌な奴だとばっかり思っていた」

「そんなことはなかったよ、多分。俺はただ、あの当時、君みたいに人と気軽に接することが苦手だっただけさ」

 彼はそう言って、また窓の外に目をやった。

 いや、きっと、わかっていたのだ。わかっていて、あえてこの男をターゲットに選んだのだ。坂井は、過去の自分の行いを恥じた。醜い嫉妬心に任せて、ひとつも落ち度のない彼を、長い間苦しめ続けたことを。


 やがて、季節は春から夏へと移り変わった。学校は夏休みを迎え、坂井は憂鬱な気持ちから一時的に解放されることとなった。今までは退屈でしかなかった長期休みを、これほどありがたかく思ったのは初めてのことだ。

 連日、これといって何をするでもなく過ごし退屈がのさばり始めていたある日、湯上から連絡が入った。遊びの誘いであった。学校では頻繁に話すようになったが、学校外で彼と会うのは高校に入ってから初めてだ。少し気恥ずかしさを感じつつも、二つ返事で了承する。断る理由など一つもない。

 家を出て待ち合わせ場所の公園へと向かう間、坂井はどこへ行こうかと考えた。自分は遊びと言ったらもっぱらゲームセンターかバッティングセンターだが、湯上はそういったものに興味があるのかわからない。湯上は普段、何をして遊ぶのだろうか。そもそも、湯上は何が好きなのだろうか。よくよく考えてみると、坂井は湯上の趣向や趣味などを何一つ知らなかった。まぁ、いいだろう。これから知っていけば。夏休みは始まったばかりだし、高校生活だってあと二年半もあるのだ。時間はいくらでもある。

 強い日差しを浴びて額に汗を滲ませながら、坂井は奥まったところにある公園に入った。住宅街から少し離れたところに位置し、遊具は砂場と鉄棒くらいしかなく、あまり人が寄り付かない。小学生の頃は、ここによく湯上を呼び出したものだ。当時の記憶が蘇り、坂井は眉を寄せた。湯上はまだ来ていない。

 久しぶりに訪れた公園をぐるりと見渡して、手の甲で額の汗を拭う。それをシャツに擦り付けて、塗料の剥がれたベンチに腰を下ろそうとした時だった。複数人の話し声が近づいてきたのだ。

 聞き覚えがある声だと思った。突っ立っていると、その集団がぞろぞろと公園に入ってきて、当然のように坂井の元へと向かってくる。それらは、坂井の同級生で、坂井のことを特に酷く扱う男達だった。

 どちらだろう、と、坂井は瞬時に考えた。

 一つは、湯上が彼らに脅されて自分をここに呼び出した可能性。そして、もう一つは……。

 しかし、坂井が立ち尽くしたまま思考している途中で、挨拶もそこそこに拳が飛んできたため、坂井の脳はそれ以上を考える猶予を得ることができなかった。


 視界いっぱいに、青い空が広がっている。坂井は地面の硬さを背中に感じながら、薄い雲がとろとろ流れていくのをしばらくの間眺めた。

 空っぽになった財布を回収すべく身体を起こすと、太ももに焼けるような痛みが蘇ってきて小さく呻く。その拍子に唇にも鋭い痛みが走り、ぬるつく口元を拭うと手が赤く染まって、その赤が強い日の光を反射し、肌色の上で強烈に色を主張した。服の袖に鮮烈な赤を擦り付け、拾い上げた財布をポケットに押し込む。顔のそこらじゅうがまだベタベタしている気がした。坂井は至るところに鈍痛と熱を感じる身体を引きずり、公園の隅にある水道へ向かい、ぬるい水で顔を洗い始めた。流れ落ちる水は赤く染められており、昨日飲んだアセロラジュースを彷彿とさせた。

 排水溝に吸い込まれていく水が本来の透明さを取り戻してきた時、流水音にかき消されそうなほどの微かな足音が聞こえた。坂井は、そのじゃり、という音が、鼓膜を突き破って脳天に突き刺さり全身を震わせたのを、やけに冷静に受け止めていた。

 足音は、坂井のすぐ後ろまで接近し、止まった。

「ごめん、遅くなった」

 坂井はやっと蛇口を捻り、水を止めた。振り返ると、そこにはやはり湯上が立っていた。灼熱の太陽を背にした彼は、しかしその暑さを感じさせない涼しげな佇まいで、陽の光を背に浴び、坂井に影を落とした。

「どうかしたの。服が汚れているけど」

 本当に、何も知らないのではないか。そう思わせるほど自然な口調で、態度で、湯上は言った。だが、その声は隠しきれない弾みを含んでいた。坂井を見下ろす目には、心配や戸惑いの色などひとつも感じ取れない。

 湯上はもう、取り繕う気なんてさらさらないのだ。

 そうか。と坂井は呟いた。ひりついた喉から搾り出された声は、情けなく掠れていた。

「いつからだ。最初からか、最初から全部、お前が……」

「何の話?」

 白々しく言いながら、湯上は笑っていた。真っ青な空によく映える、晴れやかな笑顔だった。彼がこれほど無邪気な表情をするだなんて、坂井は知らなかった。

 言葉を失ってその顔を呆然と見上げていると、

「君が案外バカで助かった。まだ昔の方が、頭がキレたんじゃないか。いや、俺が君を追い詰めたせいで、感が鈍ったのか」

 君みたいな奴でも、孤立させれば簡単に弱っていくんだね。湯上が同意を求めるかのように明朗に喋り出した。頭がやけに熱いのは、日差しのせいなのか目の前の男のせいなのか、坂井にはわからなかった。今自分の身体の中で沸き立っている感情が怒りなのか似て非なるものなのか、それもわからなかった。それでも坂井は精一杯の虚勢を張って、無理矢理に口角を持ち上げる。

「すっかり騙されたよ。中学で演技でも習ったのか?」

 だが湯上はそんな苦し紛れの挑発には少しも取り合わず、懐かしむように柔らかい声で言う。

「中学はね、平和だったさ。小学校に比べたら天国だったな。友達もたくさんできて、毎日が楽しかったよ」

 頭上から降ってくる湯上の声を聞きながら、坂井は立ち上がろうとした。この場から逃れようとか、湯上に掴みかかろうとかそういった考えからではなく、ただ同じ目線に立たなければ不利だとその時急に思い当たったのだ。しかし行動に移った時にはもう遅く、膝を伸ばした瞬間に湯上のスニーカーの底が坂井の肩を思い切り蹴った。坂井は簡単にバランスを崩して、陽に焼かれて熱を持っている砂の上にごろりと転がる。 

「でも、君を忘れたことなんて、一度もなかったよ」

 坂井は、怯んだ。湯上という、人畜無害の象徴的な存在だと思い込んでいた男に蹴り飛ばされたことにも、その蹴る力に一切の躊躇が感じられなかったことにも、衝撃を受けざるを得なかった。

 肩が鈍く痛む。湯上の挙動に全神経を集中させながら、地面に手をついて上体を起こす。

「それで……わざわざ、俺の入る学校を調べて、入学までしやがったのか」

「そうだね。いや、賭けだったんだ。もし二年経って君を許せるようになっていたら、綺麗さっぱり水に流して、俺は俺の幸せのために生るって決めていたから」

 でもダメだった。あんなに毎日が楽しくて成績も良好で、もう君のことなんて忘れてしまいたかったのに、少しも許そうだなんて気にならなかったんだ。湯上は、そう言う割には怒気や憎悪を全くと言って良いほど感じさせない機械的な口振りで、今に至るまでを語る。それが、坂井にはより恐ろしく感じられた。

 気味が悪い、と坂井は思った。自分の知らないところで、長年自分を恨み仕返しを計画していた人間がいたのだという事実が、未知のおぞましさとなって全身に絡みついてくるような心地だった。そんなおぞましさの触手を振り払うように、湯上を睨み上げて口を開く。

「執念深いにも程があるぜ、もう何年も前の話だろ。そりゃあ、少し行き過ぎたところはあったかもしれないけど、ガキのやったことじゃないか」

「ああ、そうか」

 湯上は笑った。それは、出来の悪い生徒に教師が向けるような、諦めと嘲りが入り混じった笑みだった。

「いい、もう、いいんだ。君といくら言葉を交わしたところで何も意味がないことはわかり切っているから」

 言ってから、小さく息を吐いて目を伏せた。坂井はその動作を、ぼうっとした頭で追う。熱いのだ。照りつける陽光も、尻をついている地面も、熱くて仕方がないのだ。

 湯上の視線が坂井に戻る。彼の顔からはもはや薄気味悪いとしか思えなかった笑顔がすっかり消えていた。軽く結ばれていた薄い唇が動く。

「君のような奴には、一生わからないだろうね。俺は夢の中で何度も君を殺したんだよ。君が俺のことを忘れて笑っていた時も、君が呑気に飯を食っていた時も寝ていた時も、俺は君の人生を滅茶苦茶にする方法をずっと考えていたんだよ。知らなかっただろう、夢にも思わなかっただろう。想像もつかないだろうね、君のような奴には」

「だからって、ここまでするかよ。普通、何年か経ったら忘れるもんだろう」

 いやに激しく拍動する自身の心音を全身に感じながら、湯上を否定しようと声を絞り出した。だがその言葉はもはや、悲鳴に近い。

「変だよ、おかしいよ、お前」

「お前が、そうしたんだぜ」

 湯上が、再び坂井の肩を蹴った。さっきよりも弱い力だったが、坂井は簡単にバランスを崩して地面に肘を付く。頭がぐらぐらして、身体中が鈍く痛む。ひどく気分が悪い。

「俺はさ、高校なんて選び放題だったんだ。親からも先生からも、期待されていた。俺自身、目指してた学校だってあった。お前のことなんて忘れて普通に進学すれば、俺はずっと被害者で、善人で、真っ当な人間でいられたんだろうね」

 湯上の、小学生の頃とあまり変わらない耳触りのいい中音が、容赦なく鼓膜を震わせ、坂井は彼が地面に落とした影を見つめる。したたる汗がこめかみを、背中を滑り落ちていく感触が不愉快だった。

「でも、どうでもよくなったんだ。いや、多分もうずっと、どうでも良かったんだ。俺の正しさも善性も、そんなものがゴミ屑に思えるほど、俺はお前を地獄に突き落としたくて仕方がなかったんだ」

 汗で濡れた腕に、砂が張り付く。それを払い落とすことも忘れて、坂井は身体を起こそうとしたが、足に力が入らなかった。

「お前が、こうしたんだ。全部、お前なんだよ、坂井」

 坂井はその顔を見上げることができなかった。ただただ、五年前にあの教室でこの男をドッヂボールに誘った時の光景が脳裏に映し出されていたが、その記憶はあまりにもおぼろげで、彼がどんな表情をしていたのか、はっきりとは思い出せない。

 遠くで蝉が一回だけ鳴いた。それは断末魔の叫びのように聞こえたが、坂井はそれを、可哀想だとは思わなかった。


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