第35話 ずっと一緒に歩いていこう、な

 部屋のチャイムが鳴った。


 はっ、と意識が覚醒した。


 俺は慌てて起き上がり、くるみを探した。


 俺たちは多次元宇宙の収縮から脱出することができたのか。


 必死でくるみを探す。


 が、彼女はどこにもいない。


 ブラックホールに飲み込まれてしまったのか。急激な不安に襲われる。と、同時に妙な既視感にも襲われた。


「あれ?」


 俺は周囲を見渡した。


 見覚えのある部屋だった。


 品性の欠片もない部屋。


 下品な壁紙に、趣味の悪いインテリア。部屋の中央を陣取っているダブルベッド。テーブルの上には、アダルトチャンネルのパンフレットと風俗雑誌が置かれている。


「ここは……」


 どこか見覚えのある革のソファー。


 あ。


 ああ、そうか。


 蒸発した日に来たラブホテルだ。


 くるみと初めて出会った場所。


「どうなっているんだ。俺は、確か、多次元宇宙の交叉特異点にいたはずじゃ……」


 そう呟きながら、自分が何を言っているのか分からなくなる。


 分からない。


 部屋のチャイムがまた鳴った。


「何がどうなっているんだっ!」


 俺は頭を掻きむしった。現状を把握することができない。


 どうしてここにいるのか。なぜここにいるのか。なんのためにここにいるのか。


 分からない。


 まさか、蒸発した日に戻ったのか。


 ブラックホールに吸い込まれ、奇跡的にホワイトホールから排出されたことで、時空を超えて過去にタイムスリップでもしたのか。


 現実的ではないな。


 ならば。


 今までの出来事がすべて夢だったということか。


 殺し屋に襲われたことも、吸血鬼にされたことも、吸血鬼ハンターと戦ったことも、世界を狂気から救ったことも、すべて夢だったのか。リアリティ満載の夢だったのか。


 これが、胡蝶の夢ってやつか。


 否。


 夢の長さと現実の短さからして、邯鄲の夢か。


 確かに夢のような経験だ。殺し屋に襲われて、吸血鬼にされて、吸血鬼ハンターと戦って、世界を狂気から救うなど普通に考えてあるはずがない。


 馬鹿馬鹿しい。


 単なる夢オチか。


 部屋のチャイムがまた鳴った。


 今の状況はなんだ。


 俺は混乱している頭を振って現状を考えた。


 部屋のチャイムが連打された。


 あまりの煩さに、俺は扉へと向かった。


 すると、扉の向こうで透き通った女性の声がした。


 何度も聞いた声。


 今、一番、誰よりも聞きたかった声。


 混乱した頭を何度も振って、俺は扉の方へと向かった。


 心臓の高鳴りが蘇る。


 恐る恐る扉を開ける。


 そこに、


 くるみが立っていた。


 俺は安堵のあまり、その場に崩れ落ちてしまった。


 ※ ※  ※


「マホウのビキニから来ました。くるみです。本日はご指名ありがとうございます」


 くるみはそう言うと、崩れ落ちた俺に驚きの表情を浮かべた。


「ちょ、ちょっと、お兄さん、大丈夫ですか?」


 俺は熱くなる目頭を押さえながら、ふらつきながらも、ゆっくりと立ち上がった。情けないほど足に力が入らない。


「いや、ちょっと眩暈が……」


「だっ、大丈夫ですか?」


「大丈夫……」


 と、言いながらも、よろめく俺に、くるみが慌てて身体を支えた。そしてそのままソファーまで誘導してくれた。


「本当に大丈夫ですか?」


 覗き込むくるみに、俺は顔を反らした。今の俺の目は、間違いなく充血している。


 一体、何がどうなっているのやら。


 ただ、理解できているのが、くるみが生きて目の前にいるということだ。


 すべてが夢であったとしても、俺の心は安堵に包まれていた。


「体調が優れませんか?」


 くるみが心配そうに顔を近づけ、俺の額にそっと手を当てた。冷たく柔らかな感触が伝わり、俺は心臓が高鳴った。


「熱は、ないみたいですね」


 くるみが笑顔を浮かべて言った。


 俺はぐちゃぐちゃになっていた感情を少しずつ整理していき、最低限の冷静さを取り戻した。だが、まだ感情の方向性が定まっていないため、無意識に口が開いてしまった。


「随分と長い夢を見ていたんだ」


 くるみが不思議そうに小首を傾げた。


「信じられないかもしれないが、その夢には君がいて、そして殺し屋もいて、吸血鬼もいて、変な人形もいて、本当に訳の分からない夢だったんだ。そんな夢の中で、俺と君は、命懸けで世界を救うんだ。でも、世界を救う直前で目が覚めてしまって、その後、世界がどうなったかは分からない。夢は唐突にそこで終わりを告げるんだ。だから俺も君も、あの後、どうなったのか分からない。世界は救われたのか、俺たちは生きて戻って来ることができたのか、何も分からない」


 俺は続けた。


「でも、夢だったとしても、君が生きていてよかった」


 気が付くと、目頭から熱い雫が落ちていた。


「本当によかった」


 俺が笑みを浮かべると、くるみも口許を綻ばせた。なぜか彼女の瞳も潤んでいた。


「それはよかったですね」


 そう告げると、くるみはすっと立ち上がり、くるりと後ろを向いた。


「それよりも、お兄さん。今日は、どのコースにするんですか?」


「コース?」


 一瞬、何のことか分からなかったが、そう言えば、現実では、くるみはナンバーワン風俗嬢で、俺は親の遺産をくすねた中年ニートの客だった。


 正直、今はそんな気分ではない。彼女が生きていたことも確認できたし、お金を渡して帰ってもらおう。


 俺が、おもむろに鞄から財布を取り出そうとすると、くるみが振り向いて、笑顔を浮かべた。


「あたし、今日が最後の出勤日なんです。で、お兄さんが最後のお客さん。だから、ナイショで大サービスしますよ」


「大サービス?」


 意味が分からずに首を傾げた。するとくるみが俺の隣にちょこんと座り、これでもかってほどに顔を近づけてきた。俺の心拍数が急激に跳ね上がった。


「そう、大サービス。もう最後だから、お兄さんの好きにしてください」


「えっ?」


 くるみが、ゆっくりと瞳を閉じた。


 これはどういう状況なのか。判断することができない。


 現実では、お互い初見のはずだが。


 何だ。何がどうなっている。


 初対面の人間に対して、ここまで大胆になれるものなのか。


 分からない。分からないが、俺も男だ。大人の男だ。ここで怖気づいてしまえば、そこらのボーイと何ら変わらない。大人の男は、どんなに状況が理解できなくても、女が求めてくれば、受け入れるのが礼儀だ。女性の我儘をスマートに受け入れる男こそが、真の紳士ジェントルマンである。


 俺は、ごくりと喉を鳴らし、くるみの肩に手を当てた。びくっ、と彼女の肩が反応した。俺は決意を固め、彼女の薄いピンク色の唇に向かって顔を近づけた。


「そこまでだ!」


 こめかみに冷たく固い何かが押し当てられた。その底冷えするような声に、俺は恐る恐る視線を上げた。


 そこに、殺し屋が立っていた。


 殺し屋は、躊躇なく俺のこめかみに拳銃を押し当てていた。


 次の瞬間、どこからともなく霧が立ち込め、小さな手が、俺の胸に押し当てられた。


「それ以上の愚行は許さぬ。厳命にて貴様の心臓を握り潰すぞ!」


 霧の中から、吸血鬼が姿を現した。


 吸血鬼は、躊躇なく俺の胸に鋭い爪を立てた。


 俺は今、殺意に満ちた獣どもに挟まれている。


 前門の虎、後門の狼。


 待ちたまえ、君たち、これは一体どういうことなのだ。


 俺が必死で問おうとした時、くるみの背後からくるみが現れた。否、知っている。くるみそっくりのラブドールだ。


《ドッキリ大成功!》


 ラブドールが手作りの看板を掲げた。看板には「ドッキリでした」と書かれていた。


「ドッキリ……?」


 くるみが「ごめんね」と笑って、小さく舌を出した。


 俺は、おもむろに壁に掛けられていた鏡へと視線を向けた。


 俺のこめかみに銃を押し当てる毒島獣香。


 俺の胸に爪を立てるエヴェリーナ・チェイテ。


 無表情を貼り付けたまま看板を抱えるホェン。


 そして、嬉々として俺を見つめているくるみ。


 ああ、そういうことか。


 俺は、鏡に映った自分の姿に納得した。


 青白く若々しいその姿には、人間とは違う剣呑さがあり、口の端からは牙が顔を出していた。


 そして、頭のてっぺんには、小さな朱色の花が揺れていた。


 おめでたいことだ。


「おじ兄さん、安心して、世界も救われたし、あたしたちも無事に帰って来れたよ」


 そんなことは分かっている。


 俺は笑ってしまった。


 殺し屋に拳銃を突き付けられ、吸血鬼に心臓を鷲掴みにされ、異世界人の無表情な視線に晒されているにも関わらず、笑ってしまった。


 色々な感情がごちゃ混ぜになって笑ってしまった。


 ただ一つだけ明確に分かる感情があった。


 俺は、嬉しくて笑っていたのだ。

 

 ※ ※  ※


 どうやら俺は、深い眠りに落ちていたらしい。


 多次元宇宙を破壊した俺は、くるみと共に霧化することに成功し、無事、この世界への生還を果たした。しかし交叉特異点に充満していた濃密な狂気に汚染されていた俺は、生還後、そのまま意識を失ってしまったらしい。しかし、吸血鬼には吸収能力が備わっており、血液や精気はもとより、闇、陰、邪、悪などの負のエネルギーも吸収できるらしく、邪悪の権化ともいえる狂気も例外ではなかったようだ。それでも俺の体内に取り込まれた狂気の量は膨大だったため、すべてを吸収し尽くすまで、あらゆる機能を停止させる必要があったようだ。つまり肉体と精神に溜まった毒素を完全に吸収して無害にするため、眠りについたというわけだ。これらは、俺が眠った後、ホェンとエヴェリーナの研究によって解明されたらしい。


 その間、この二人に散々玩具されていたのはいうまでもない。


「どうしたの、おじ兄さん。険しい顔しちゃってさ」


 突然、助手席のくるみが、顔を覗き込んできた。俺は咄嗟に目を反らした。


「もしかして、ドッキリのこと、まだ気にしてるの?」


 俺が永い眠りについていた頃、くるみの発案でしょうもない寝起きドッキリが計画された。くるみと出会ったホテルで目を覚ましたらどうなるのか。そこでくるみともう一度出会ったらどうなるのか。結果、ドッキリは見事成功したのだ。ちなみに眠っていた俺をホテルまで運んだのはホェンだ。彼女から放たれた無数ナノマシンが俺の体内へ潜り、強制的に脳と筋肉に電気信号を送り続け、強引に動かしていたそうだ。想像するだけでもおぞましい。


「まさか、おじ兄さんが泣いちゃうなんてね」


 俺は頬が熱くなるのを感じた。


「でも、ちょっとだけ、嬉しかったかな」


 くるみが小声で言った。


 俺は彼女のほうを向くことができなかった。


 間違いなく赤面しているからだ。


「さあ、みんな着いたよ」


 くるみが言った。後部座席で眠っていた毒島とエヴェリーナが、ほおけた顔で目を覚まし、傍らで機能停止していたホェンも反応した。


 俺は、綺麗に整備された公園の駐車場に車を停めた。


 車を降りると、長く巨大な橋が眼前に広がった。


 一ヶ月ぶりに見る光景だ。


 橋は等間隔で設置された幾つもの街灯によって明るく照らされていた。しかし橋があまりにも長大なため、橋の先端付近は濃厚な闇に呑まれおり、街灯が放つ光だけが暗い海の上に浮かんでいるように見えた。


 随分と懐かしく思える。


 洞角島大橋。


「誰もいるわけないか」


 時刻は午前4時35分。波の音が聞こえる。


 俺は公園内を見渡した。公園の中心には、海と橋を象ったモニュメントが設置されており、そのモニュメントを囲むように、観光施設や土産屋が並んでいる。当然だが、どこも堅く閉ざされている。また公園内には小高い丘があり、その頂上には洞角島大橋を一望することのできる展望台が作られている。


「こっち、こっち」


 くるみが展望台の方へと歩き始めた。促されるまま彼女の後をついていく三人と一体。


 小高い丘を縫うように造られた緩やかな階段を、軽やかに登っていくくるみ。そんな彼女の後を嬉々としてついていく、毒島とエヴェリーナ。


「ここが、くるみちゃんの言う絶景スポットか。楽しみだなぁ」


「東洋の絶景は初めてじゃな。実に興味深いのう」


 そんな二人の後を無言でついていくホェン。


「ふと気になったんだが、なぜお前は、まだこの世界にいるんだ?」


 無表情でこちらを見つめる人形。


《多次元宇宙の崩壊により狂気は宇宙へと拡散しました。狂気は宇宙を漂い、やがて私たちの星へと下りてきます。それが数年後なのか数百年後なのかは分かりません。それでも脅威は眼前に迫っています。それらに対処するためにも、貴方たち吸血鬼の生態をより深く研究する必要があります。吸血鬼の持つ吸収能力を人間が有するようになれば、狂気による汚染を防ぐことができ、狂気との共存が実現するかもしれません。私は吸血鬼という特異な生物を調べ尽くし、自国へ持ち帰る責務があります》


「左様でございますか」


 このくるみそっくりのラブドールとは、長い付き合いになりそうだ。


 秋も深まり、朝方の海は、以前訪れた時よりも、遥かに冷たい潮風が吹いている。しかし吸血鬼となり寒さに強くなったせいか、妙に心地良く感じてしまい、軽く両手を広げてしまった。くるみも気持ち良さそうに階段を上っている。


 景観を楽しんでもらうため、展望台へと向かう階段は緩やかな弧を描いている。一ヶ月前は、息も絶え絶えに階段を上っていたが、吸血鬼となったことで、体力の消耗はない。むしろ薄闇によって血が活性化しており、いつもより足取りが軽い。前を歩くくるみの姿はもう見えなくなっていた。


 軽やかに丘の頂上に辿り着くと、円形の小さな公園が待っていた。公園の周囲は木製の柵に囲まれており、丸太を組んだデザインのテーブルとベンチが各所に設置されていた。


「気持ちが良いものだな」


 俺は周囲をぐるりと見渡した。展望台は街灯で照らされているため明るいが、柵の向こう側は漆黒の闇だ。そんな闇の中に皓々とライトアップされた一本の線が浮かんでいる。洞角島大橋だ。駐車場では、橋の先端部分が闇に溶け込んでいたため全体を見ることはできなかったが、ここからだと全体を視認することができた。


 俺は、柵に手を掛け、遥か彼方の闇へ視線を向けた。


「なんだか、すごく久しぶりな感じがするね」


 くるみが笑みを浮かべながら近づいて来た。


「この一ヶ月、いろいろあったね」


 くるみも柵に手を掛け、遠く見つめる。


「ああ、いろいろあったな」


「おじ兄さんなんてさ、世界を救っちゃったしね」


 逡巡した。


「俺だけじゃ、何もできなかった」


 俺は、狂気に汚染され、抗うことすらできなかった。


 あの時、気付いてくれなかったら。


 あの時、包んでくれなかったら。


 俺は、獣へと堕ちていただろう。


 そう、くるみがいなければ。


 彼女がいたから、今、俺は、ここに存在することができている。


 そう、くるみがいたから。


 俺は、くるみへと視線を向けた。


 彼女の大きな瞳がこちらを見え上げた。


 沈黙。


 結局、何も言い出せなかった。


「そう言えば、ここでいろんなこと話したよね」


「ああ、お前がドSってことだろ」


「そう、あたしは常に主導権を握りたいの」


 と、言って、くるみは小さく俯いた。


「でも、今はちょっと違うかなぁ」


 くるみが恥ずかしそうにこちら見つめた。どこか気まずくも、心地の良い空気が流れた。


 また沈黙。


「なあ、どうしてまたここに来たんだ?」


 耐えきれず口を開いた。


「ドクちゃんやエベちゃん、ホェンさんに、ここの景色を見てもらいたかったのもあるけど、やっぱり、最後に思い出の景色を見ておきたくて」


「最後?」


「あれ、おじ兄さんには言ってなかたっけ? 明日には日本を発つんだよ」


「は?」


 どういうことだ。


「エベちゃんの故郷に行くんだよ。なんか狂気のせいで吸血鬼ハンターの組織が壊滅したらしくて、やっと故郷に戻れるようになったんだって。よかったね」


 吸血鬼ハンターであるダムピールは、吸血鬼と人間の混血児だ。狂気に汚染されても不思議ではない。しかも殺戮大好きの狂人集団だ。全員もれなく狂気に汚染されたに違いない。中途半端に人間だったことが仇となったか。ざまあみろ。とにかくこれで命を狙われずに済む。よかった。よかった。めでたし。めでたし。


 ふと、何かが引っかかった。


「もしかして、俺も行くのか?」


「もちろんだよ。だって、おじ兄さんもエベちゃんの眷属でしょ」


 俺の頭頂部で、一輪の花が揺れた。


 吸血鬼の眷属は、主の厳命により、肉体と精神ともに雁字搦めとなっている。そこに自由はない。下僕であり奴隷なのだ。


 俺は陰鬱な気持ちになった。


「エヴェリーナの故郷ってどこだ?」


「どこだったかなぁ、あんまり聞いたことない国だった。東欧だってことは間違いないけど」


「東欧、か……」


 遠いな。別に日本に未練があるわけではないが、あまり気分は乗らない。そりゃそうだ、元々は親の遺産で余生をぐうたら生きるつもりだったのだ。まあもう吸血鬼になってしまったので余生もクソもないのだが。


「楽しみだなぁ、あたし海外旅行って初めてなんだ」


 嬉々とするくるみに、俺は嘆息した。


「で、お前は大丈夫なのか。日本に未練はないのか?」


「うん」


 どこか悲しげに目を細め、遠くの景色を眺めた。


 今はまだ闇が立ち込めている。


「ねえ、あの日、ムリヤリおじ兄さんについていったとき、迷惑だった」


「ああ、迷惑だった。とんでもなく迷惑だった」


「だよね。それでもおじ兄さんは、あたしを連れていってくれた」


「まあ、散々、脅されたからな」


「分かってる。でも、こうやって今も一緒にいてくれてる」


 大きな瞳で、こちらをじっと見つめるくるみ。


 俺は息を呑んだ。言葉は出てこない。


「あたしは、おじ兄さんがずっと一緒にいてくれたら、未練なんてないよ」


 くるみの掌が、優しく、そう、あの時の毛布のように、俺の手を包んだ。


 それは柔らかく、とても温かった。


「これからも、ずっと一緒に歩いてくれるなら、あたしはそれだけで幸せだよ」


 突然の告白。


 俺はどうしたらいいのか分からず、黙りこくってしまった。情けない。


 潮風が彼女の髪を優しく撫でた。さざ波のように揺れる彼女の長い髪から、微かな潮の匂いがした。刹那、ぼんやりと薄明かりが射した。彼女の輪郭が徐々に鮮明になっていく。


「ほらっ、見て、始まるよ」


 くるみが海の方向を指した。俺は彼女の指す方角へと視線を向けた。


 俺の網膜に映し出された光景が、記憶と重なった。


 洞角島大橋の先端部分に明かりが射した。橋から垂直に伸びた水平線の一点が輝き始め、ゆっくりと静かに真っ赤な太陽が顔を出した。太陽を起点として、橙の光が水平線に沿って左右に伸びていく。濃い闇に覆われていた海に眩い光が射し、漆黒に固まっていた海面を朱色に溶かしていく。放射線状に拡散する光によって、橋以外の風景が輪郭を取り戻していった。


 一直線に伸びる洞角島大橋の遥か先に、緑樹の生い茂った島が見えた。


 洞角島である。


 広漠たる大海原にぽっかりと浮かぶ緑色の島。やはり牛の角のように細長く見える。島中を覆っている樹木が、降り注ぐ陽光を浴びるために必死で背を伸ばしているように見えた。目を覚ました鳥たちが、一斉に島から飛び立っていく。そんな自然の躍動感に包まれた島から一直線に伸びる橋。相容れないはずの自然と人工物が見事なほどに調和しており、それらを包み込む紺碧色の海が凄絶な光景を生み出していた。


「やっぱり、絶景だね」


 くるみの笑顔に幾条もの光が射し、彼女の笑顔がきらきらと煌めいた。


 純粋に彼女が美しいと思った。


 そして、愛おしいとも思った。


「そう言えば、ここで約束したな」


 俺はくるみの手を握り返した。彼女の頬に微かな朱が射した。そんな気がした。


「一緒に外れすぎの人生を歩むって」


 くるみが嬉しそうに頷いた。


「気が遠くなるほど長い人生だけど……」


 俺は満面の笑みを返した。


「ずっと一緒に歩いていこう、な」



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そうだ、蒸発しよう みほあした @mihoashita

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