第34話 俺たちの人生はこれからだっ!

「おじ兄さんっ、おじ兄さんっ!」


 その声に目を開くと、そこにくるみの顔があった。


「よかった、気がついた」


 くるみが涙目でこちらを見下ろしている。何が起こっていたのか分からず、俺は視線を漂わせた。くるみは倒れている俺を抱きしめ、泣きながら喜んでいる。彼女の柔らかさと温かさが全身に伝わった。


「ここは、どこだ……?」


「なに言ってんの。ここがホェンさんの言ってた交叉特異点でしょ!」


「交叉特異点……」


 真っ白な光に包まれた世界。あらゆる方向から光が流入し、凝縮、そして濃縮され、あらゆる方向へと放出されている。現実の世界とはかけ離れた空間。俺はようやくここが異次元であることを認識した。


「俺は、一体、どうなっていたんだ」


 混濁していた意識が、徐々に鮮明となる。


「あたしがここに来た時、おじ兄さんは、ここで倒れていたんだよ」


「倒れていた?」


 気を失っていたのか。ならば今まで見ていたのは夢だったのか。恐ろしいほどリアルな夢だった。


 恐ろしいほどリアルな過去の夢。


 心の底より忌避したい記憶。


「震えながら、憎い、寒い、って叫んでたの」


 ああ、それは分かる。胸の奥底で怒りの残滓が感じられる。


 あの怒りは何だったか。


 光に満ちた空間を見渡す。


 混濁していた意識が、徐々に戻っていく。


 そう、この空間には狂気が満ちている。


 幾千、幾万、幾億もの狂気が、この空間に濃縮されている。


 俺は、その狂気に汚染されてしまったのだろう。


 傲慢、暴食、色欲、嫉妬、憤怒、強欲、そして怠惰。


 これが狂気の根源だ。


 俺は、怠惰とは決別したつもりになっていた。だが、心根には怠惰が存在していた。狂気に支配されるほどの濃密な怠惰が存在していた。そして、怠惰へと押しやった人間への憤怒。また同時に怠惰を受け入れ、現実から逃げ続けた自分への憤怒。それらが狂気となり、汚染へと繋がってしまったのだろう。この濃密な狂気に満ちた空間では、吸血鬼であっても、強い狂気を宿していれば、汚染されてしまうということだ。


 と、俺は勝手に納得して、くるみを見上げた。


 涙目の彼女は、いつになく美しかった。


 ふと、俺は思った。


「なぜ、お前がここにいるんだ?」


「なぜって、おじ兄さんが心配だったから」


 俺は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。誰かに気付かれ、誰かに気に掛けられ、誰かに想われることは、もう何十年と感じたことはない。


俺は、心の底からくるみへ「ありがとう」と告げた。


くるみの頬が赤く染まった。


照れた表情も美しかった。


彼女は変わりなく、美しく、そして愛らしかった。


ふと、俺は思った。


「ちょっと待て、お前、平気なのか?」


「えっ、なにが?」


「ここは狂気が蔓延しているんだぞ。吸血鬼であるにも関わらず、俺は狂気に汚染されて意識を失ったんだ。お前は平気なのか?」


「うーん、なんか空気がどんよりしているなぁ、って思ったけど、別に平気だよ」


 俺は嘆息した。


「なるほど、お前は狂気とは無縁だということか」


 狂気と狂気は引き合う。


 俺は内に狂気を宿していた。よって外から狂気に汚染された。そして怒りによって自我を失い、崩壊しかけた。そこをくるみが救ってくれた。彼女の温かさによって溶かされた狂気は、徐々にその存在を曖昧なものへと変えていっている。


 燃え盛っていた怒りの炎は、消えかけた蝋燭の灯のように、か細く揺らいでいた。


 もう、消え去るのも時間の問題だ。


 そうか。


 狂気は、誰かの優しさに触れることで、その存在を失うのだと知った。


 狂気によって進化した現生人類。そして、幾星霜を重ねて食物連鎖の頂点に達するまで進化した。果たしてそれは、狂気によるものがすべてなのだろうか。狂気だけでここまで繁栄することができたのだろうか。そこに優しさはなかったのだろうか。膨大な狂気の中に、僅かばかりの優しさが存在したからこそ、現生人類は種を存続し続けることができたのではないか。人を想う優しさ、それを受け入れる優しさがあったからこそ、現生人類はここまで進化する事が出来たのではないか。少なくとも俺は、その僅かばかりの優しさに救われた。


 もう一度、俺はくるみを見つめ、小さく口許を綻ばせた。


 少しだけ慌てた表情を浮かべ、目を反らすくるみ。そして、落ち着かない様子で口を開いた。


「そ、そういえば、ホェンさんが伝え忘れたことがあるって」


「伝え忘れたこと?」


《はい、それでは説明を致しましょう》


 くるみの口から機械的な音声が聞こえてきた。


《現在、私のナノマシンは、彼女の体内にいます。単体による音声の情報伝達は困難なため、彼女の声帯に電気信号を送り、言語を発しています》


「それで、伝え忘れたことってなんだ?」


《交叉特異点崩壊後の多次元宇宙についてです》


「どういうことだ?」


《以前に説明したように、交叉特異点は、幾条もの多次元が幾重にもなり、巨大な空間を構築しています。多次元宇宙は不安定な空間であるため、無数のナノマシンによって空間を安定させるための物質が絶えず放射されています。それらナノマシンを貴方の異能であるマンドレークの叫びによってすべてを破壊すれば、交叉特異点は安定物質を失い、多次元は崩壊します》


「そうだった、か」


 ふと、俺は違和感を覚えた。


「ちょっと気になったが、なぜ多次元が崩壊するんだ? 理論的には、多次元は元の不安定な状態に戻るんじゃないのか?」


《いえ、現在、多次元は人工的な力によって強制的に安定させられています。例えるならば、限界まで空気の入った風船のような状態です。私たちは風船の内部にいて、内側から風船を破裂させようとしているのです。そうすればどうなりますか?》


「風船が割れて一気に縮むな」


《はい、私たちのいる風船は、丸い風船ではありません。ここを中心に無数の風船が触手状に伸びた状態です。破裂させれば、それらも一気に収縮します。そして収縮時に発生する膨大なエネルギーが、この交叉特異点に集中します》


「エネルギーが集中したらどうなるんだ?」


《瞬間的に重力が圧縮されます》


「まさか……」


 嫌な予感がした。


《ブラックホールが発生します》


 通常、ブラックホールは、恒星の超新星爆発で発生されるとされているが、粒子加速装置で粒子と粒子を衝突させ、重力を上昇させることができれば、人工的にブラックホールを発生させることが可能だと本で読んだことがある。


《しかも多次元崩壊によって発生したブラックホールは、通常のブラックホールより小型で濃縮されているため、事象の地平面までの境界が短く、吸い込まれれば、即座にブラックホールの重力圏内に取り込まれ、その中心まで引き摺り込まれていきます》


 事象の地平面とは、ブラックホールの重力の影響が及ぶ範囲と、それ以外との部分を分ける境界のことだ。事象の地平面の内側に入れば、ブラックホールの重力により、光すら出ることは不可能となる。


「つまり、ブラックホールが発生する前に、多次元宇宙を脱出しないと命はないってことか」


《そうです。貴方が異能を放ってから空間が収縮までの時間は約三十秒。その間に肉体を霧へと変化して、多次元宇宙から脱出しなければなりません》


 俺は辟易した。


「よくもまあ、そんな重要なことを言い忘れたものだ」


 霧化は一度しかしたことはない。決してコツを掴んでいるわけでない。


 事前に言ってくれていたら、多少なりとも練習したのだが。


 まあ、この状況下で練習が役立つかは甚だ疑問ではあるのだが。


 とにかく、ぶっつけ本番である。


――自然と一体化する感覚で異能を発動しろ。


 エヴェリーナの言葉に従い、洞角島の風景を必死に思い浮かべることで、霧化することができた。しかし、あの時と状況が明らかに違う。ブラックホールを目の前にして冷静にあの風景を思い浮かべることができるだろうか。


 正直、自信はない。


 だが、もう選択肢は他にない。


 やるしかない。


 こうなったら一か八かだ。


 小刻みに震えていた指先を、柔らかく温かい手が優しく包み込んだ。


 隣を見ると、くるみが笑顔でこちらを見ていた。


 そうか、くるみはそんな状況になることを知った上で、俺を助けに来てくれたのか。


「おじ兄さん。失敗した時は、あたしも一緒に行ってあげるから、心配しないで」


 その言葉に、俺の身体はすっと軽くなった。


「えらく不吉な励ましだな」


 くるみは「えへへ」と照れた笑いを見せた。


「ありがとう」


 俺は素直にそう告げ、くるみの手を強く握り返した。


 くるみの大きな瞳がこちらを見上げた。


「だが、失敗するつもりは毛頭ない」


 俺は多次元空間を睨みつけた。


「俺たちは絶対に生きて帰る」


 俺は、ゆっくりと視線をくるみへと移した。


「俺たちの人生は始まったばかりなんだぜ」


 くるみが大きく目を広げ、そして、微笑みながら小さく頷いた。


「そうだね、あたしたちの外れすぎの人生は始まったばかりだもんね」


 俺は頷き返し、静かに頭頂部に咲く一輪の花を掴んだ。


「こんなとこで、くたばってたまるかよっ!」


 俺は、力任せに花を引き抜いた。


「俺たちの人生はこれからだっ!」

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