ロマンティック・プランク

「いらっしゃいませ」


 客もまだらな静かな店内に響き渡る物静かなその声は、店員によるものであった。


 ドアからは仕事を終えたといった装いの男二人が入っていき、彼らが来たことによって店員が口を開いたようだった。


 彼らはバーカウンターの端の方に座った。


「今日は誘っていただいてありがとう、ひいらぎさん」


「いえいえ。こちらこそ、仕事終わりなのに来てくれてありがとう。今日は奢るよ。杏里あんりくんはバーが初めてだって言ってたね」


「はい。あんまりお洒落なところで食事することがないんで……」


 恥ずかしそうにそう語る杏里。だが、緊張の中には楽しみにしていたといった様子も含まれていた。


 それを感じ取ったのか、柊はそっとメニューを差し出した。


 カタカナが羅列したように書かれているそれは、酒のメニュであった。


「……柊さん、俺、あんまり酒飲まないから詳しくないんだけど」


「あれ、そうだったんだ。そういえば夜に会うのも初めてだったね。どんな感じのがいいかな?」


「うーん……。さっぱり飲みやすいやつ、かなー」


「分かったよ」


 柊は杏里のためのメニューがすぐに思い浮かんだようで、静かに店員を呼んだ。


「スクリュードライバーとカンパリソーダをお願いします」


「かしこまりました。こちら、チャームでございます」


 そう言って店員が差し出したのは、小皿に盛られたナッツであった。


 こういったものを初めて出された杏里は、きょとんとしながらじっと眺めていた。


「杏里くん、見ているだけじゃもったいないよ」


「あ……、うん。お洒落すぎてちょっとびっくりした……。いただきます」


 一粒取り、上品に口に入れていく。香ばしさが彼の中に広がっていく。


 その美味しさに思わず笑みが溢れる。


 一つの反応も見逃さず、柊は細かな杏里の表情にも気付いていた。


「気に入ってもらえたようでよかったよ」


「うん。柊さんのセンスは俺も好きだし、知らないことがいっぱい学べて楽しいよ。突然呼ばれたのはびっくりしたけど」


「ほんと、突然ごめんね。何だか急に会いたくなっちゃって。今日は金曜日だから大丈夫かなって思ったからつい誘っちゃった」


「ううん。柊さんに会えるのは嬉しいから……」


 照れくさそうにそう呟く杏里。最後の方はナッツで誤魔化しながら、聞こえるか聞こえないかという大きさであった。


 今日会えたことに嬉しさを感じている彼の姿を、柊は微笑ましく思っていた。


 柊が会いたい、ということ以外には特に伝える様子もないが、杏里は突然会えたことにより深く考えることはしていなかった。


「柊さんは、仕事大丈夫? 忙しくない?」


「今のところは落ち着いてるよ。長期休みが終わったら、またちょっとずつ忙しくなるかも」


「そっかー。あんまり無理しないでね」


「ありがと。杏里くんも、体調崩さないように気を付けてね」


 互いに心配し合う他愛もない会話をしていると、店員ができあがったカクテルを持ってやって来た。


「スクリュードライバーとカンパリソーダでございます」


「スクリュードライバーは彼にお願いします」


 柊は杏里の方を手で示し、スクリュードライバーを彼の前に置くように促した。


 オレンジ色の液体が入ったグラスが杏里の前に置かれる。


 普段見かけないような小洒落た形に、杏里は携帯端末を取り出して思わず写真を撮っていた。


「うわー……」


「見てるだけじゃつまらないでしょ? ほら、グラスを持って」


 柊はそっとグラスを持ち、杏里に同じように持つように示す。


 その姿がきちんと似合っており、杏里は一瞬うっとりと見惚れていた。すぐに彼を待たせるのは申し訳ないと意識を取り戻し、同じように持つ。


「それじゃ、杏里くんと会えたことに乾杯」


「……柊さんに会えて、乾杯」


 軽くグラスを鳴らし、ゆっくりと一口含んでいく。


 杏里の口にオレンジの酸味が広がっていき、飲みやすさに目を見開く。


「美味しい……」


「それはよかったよ。でも、一応アルコール入ってるから飲み過ぎには気を付けてね。スクリュードライバーって、レディキラーって言われるくらいだからね」


「あ、ゲームにもそんな感じで出てきてたよ。それが由来なのかな」


「あぁ、そんなのもあったね」


「でも、柊さんになら、お持ち帰りされてもいいかも……」


 言ってから自分は何を言っているのか、と後悔が杏里の中に溢れていく。一口で酔ってしまったのかな、とそんなことを考えていた。


 だが、当の本人は軽く笑って済ませていた。


「あはは。それはちょっと嬉しいな。杏里くんとなら、楽しい夜を過ごせそうな気がするよ」


「えっ……そ、そんなことは……」


「照れてる杏里くんも可愛いな」


「っ……」


 ありのままの想いを伝えられたところで、杏里は恥ずかしさのあまり視線を逸らしてしまった。自分の指を揉むように触れながら、次の言葉を考えていた。


 当然それは全く思い浮かばず、ただ無言の時間を過ごすだけであった。


 柊に伝わるまでの気まずさを発していたため、それを感じ取った彼は食べ物のメニューを手にしてそっと差し出した。


「何か食べる? ナッツだけじゃ物足りないと思って」


「あ、はい……」


 メニューを受け取り、熱中しているように見ている。


 実際は、あまりにも緊張していて柊のことを視界に入れないようにしているが、隣にいるということを意識しているだけで何も集中できていなかった。


 柊は場の空気に馴染むように気配を消しながら、そっとグラスの酒を飲む。


 微炭酸がしゅわしゅわと口の中へと広がっていき、彼の意識をはっきりとさせていく。


 杏里が必死になっている姿を視線だけ動かして確認しながら、自分は何を食べようかと考えを巡らせていく。


「柊さん……?」


「もう注文は決まったかな?」


「えっと……グリルチキンサラダで……」


「分かった。食べ足りなかったらまた注文してもいいからね」


 遠慮しているということがはっきりと伝わったようで、柊は深く追求することなく流していた。


 柊の視線が杏里から離れて店員の方へと向いていくと、少し緊張がほぐれたようで少し力が抜けた姿勢となった。それでもまだじっくりと味わうには程遠かったようだ。


 注文を終え、再び杏里の方を向くと、自分と視線を合わせてくれない姿を見て思わず手を伸ばしていた。ゆっくりと、杏里の膝の上に置かれている彼の手にそっと触れる。


 いきなりのことに驚き、ビクリと大きく身体を震わせた杏里は、おずおずと柊の方を見る。


「杏里くん、いつもみたいに緊張しなくていいよ。今はただ美味しくお酒を飲むだけ」


「いえ……そんなつもりじゃ……。柊さん、いつもよりかっこよく見えるし……」


 思いがけないその言葉に、彼の手に触れている柊の手がぎゅっと握られる。


「ひっ、柊さん……」


「嫌、だった?」


「そ、そんなことはないけど……。ちょっと、恥ずかしい……」


「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。薄暗いから他の人には見えないから」


「う、うん……」


 杏里は、ゆっくりと柊の指に自らの指を絡ませていき、その体温を少しずつ感じている。そっと触れる指先から、安心感を少しずつ得ているようにも思える。


 まだ頬は少し赤みを帯びているが、落ち着きを取り戻している様子で、熱心に柊の手を眺めながら触れていた。


 そんな光景に、触れられている本人は微笑ましさを感じていた。


 しばらくはじっと眺めていたが、ふと柊の手がぎゅっと杏里の手を掴んだ。そしてその手を自分の口元に近付けていき、杏里の指先に軽く口付けする。


 大胆な行動に、思わず手を振り払ってしまった杏里。すぐに口を開いたが、その視線は柊とは別の方向を向いていた。


「あっ、ご、ごめんなさい……」


「大丈夫だよ。僕の方こそ、突然こんなことをして驚かせてしまったね」


「嫌じゃ、ないけど、二人っきりのときの方がいい……」


「分かったよ」


 そう言って柊の手はゆっくりと離されていった。


 しかし、離れていく温もりが恋しいのか、杏里の表情はどこか物寂しさを醸し出していた。自分で言ったこととはいえ、その胸の内には後悔が残されていた。


 仕方がない様子で酒を飲んでいると、料理が運ばれてきた。


 それは杏里が頼んでいたサラダで、二人分の取り皿と一緒に運ばれてきた。


 柊は自然とすぐに手を伸ばし、杏里の分を取り分けていた。


「どうぞ」


「……ありがとう」


 杏里は小さな一口を食べていく。酒を求めるような濃い味付けは、杏里の心を一気に引き寄せた。夢中になって次を口の中へと入れていく。


 すっかり緊張感のなくなった姿に安堵した柊。少量を取り分けてゆっくりとその味を体感していき、合間に酒を少し挟む。


 彼が半分食べ終わったところで、子どものように食事を楽しんでいた杏里がおかわりを求めて皿の方を見た。


「あれ、柊さん食べないの?」


「杏里くんが美味しそうに食べてたら、杏里くんに食べてもらいたいなって思ったんだ。もっと食べるかい?」


「……いいの?」


「いいよ。遠慮なくどうぞ」


 皿ごと差し出された杏里は、取り分けることもなくそのまま口にしていった。


 そんな姿を見ながら柊はあっという間に自分の皿とグラスの中を空にする。何も口にするものがなくても、杏里の姿をそっと眺め続けていた。


 静かな音楽が流れるこの場所で、今の杏里が食べる姿は非常に不釣り合いであった。だが、音楽が全てを掻き消して落ち着いた雰囲気を作り上げていたおかげか、二人は空気のように溶け込んでいた。


 柊は次に何を頼もうかと考えながら、時折杏里の姿をちらりと眺めていた。


 そうして考えているうちに、頼んでいたもう一つの料理が運ばれてきた。


「おまたせいたしました。マルゲリータでございます」


「ありがとうございます。追加の注文でモヒートお願いします。杏里くんは大丈夫?」


「あ、はい。まだ残ってるから」


「かしこまりました」


 シンプルな薄い生地のピザが六等分に切られていた。


 早速一切れ柊が取り、チーズを伸ばしながら食べていく。シンプルな味わいであるが、チーズの濃厚さが口の中に溶けていく。


 彼の口は思わず緩んでいた。


 そんな意外な姿を目にした杏里。最後の一口を掻き込み、柊を喜ばせたピザをいそいそと手にする。


 濃厚な味わいに隣の柊と同様の反応を示し、しばらくその場で動かなかった。


 ようやく動き出したときには、次の一口、またその次を、と勢いを増して頬張っていた。


 柊が二つ目を食べようとしたところで、杏里は三つ目を食べ終えた。


「杏里くん、もっと食べていいよ。それとも、別のものがいいかな?」


「りょ、両方じゃ、ダメ……?」


「それでもいいよ。杏里くん見てたら、僕ももっと食べたくなっちゃった。何がいい?」


「フィッシュアンドチップス。いい?」


「うん、いいよ。……そろそろ新しいお酒も頼む?」


「う、うん」


 何にしようかと考えを巡らせる柊。


 ふとその姿をちらりと見ると、顎に置かれた手がやけに魅力的に感じた。思わず見惚れてしまった杏里は、そのまま動けずにいた。


 それに気付くと、杏里の方を向いてニコリと微笑む。


 直接的に向けられ、反射的に目を逸らしてしまった。だが、すぐにちらりと見ると、まだその視線は向けられていた。


「柊さん……?」


「よし、次の杏里くんのお酒決めた」


 すると、店員を呼んで新たな食べ物と酒を頼んでいく。


 カタカナばかりの言葉に、杏里は内容を全く理解しておらず、耳に入れてもすぐに忘れていってしまった。


 仕方なく思ったようで、再びピザを口にしていた。そして、新たな酒を頼んだということが頭の中に追加され、時折それも含みながら食べ続けていた。


 ゆっくりとした状態であったが、杏里が飲み終わる頃に柊が頼んでいた酒が出された。


 鮮やかなライムの色に思わず目を奪われていた。


「飲んでみる? 甘めだから飲みやすいと思うよ」


 差し出されたグラスに、コクリと頷きながら受け取り、恐る恐る口にする。


 甘いとはいうものの、アルコールの風味が残っている。杏里は少し飲んだだけで柊にグラスを返してしまった。


「これはちょっと苦手だったみたいだね」


「俺にはちょっと早かった……」


「いつかモヒートの味が分かるときが来るよ」


 再びピザを食べようと杏里が前を向くと、店員が彼の分の酒を持ってやって来た。


「こちら、ロングアイランド・アイスティーでございます」


 まるで普通の紅茶のような液体が入ったものが運ばれてきた。


 これが本当に酒なのか、と杏里は驚きを隠せないでいた。


「柊さん、これ紅茶?」


「違うよ。ロングアイランド・アイスティー。正真正銘のカクテルだよ。紅茶を一切使わずに見た目も味も紅茶みたいにしたものだよ」


「すごい……。えっと、ろ、ロング……」


「ロングアイランド・アイスティー」


 杏里はぶつぶつとその名前を何度か呟いてからゆっくりと口にしていく。


 先ほどのものよりアルコールの味が口に広がらず、本物の紅茶を飲んでいる感覚に目を見開いた。慣れた味わいにどんどん飲んでいく。


「これ、美味しい」


「それはよかった。でも、お酒だからあんまり早く飲むと酔っちゃうよ」


「うん……」


 危うくジュースを飲む感覚で飲み続けそうになったところを柊に言われ、杏里はゆっくりと飲みながらピザをつまむ。


 最後の一切れを食べ終わり、手に付いたチーズを舐め取っていた。


「杏里くん」


 不意に柊に呼ばれて彼の方を振り返る。


 すると、右手が口元に伸ばされていき口の端に触れる。キュッと親指でそこを拭い、柊の口元へと運ばれていく。


「チーズ、付いてたよ」


「はぁっ……」


 だが、食べ物が付いていたことよりも柊の行動に杏里の顔が一気に真っ赤になる。せっかくほぐれていた緊張感が、一気に戻されていく。


 あわあわとその場で動けずにいる杏里の姿に、隣りにいる柊はただ眺めているだけであった。


 下手に触れてしまえば再び緊張してしまうと察し、笑顔を崩さないままどうしようかと悩んでいた。


 すると、注文したものを持った店員がやって来て存在感を消しながら差し出してきた。


 柊の方をちらりと見ると、上手くいくように、といった視線を送る。


 ギクリと背筋を正しつつ、どうにかしようという気持ちが高まったようだ。


「杏里くん、注文したものが来たみたいだよ」


「……あっ、はい」


 ようやく我に返った杏里。夢中になって食べていくその姿は、柊を一切視界に入れようとしていなかった。


 きっと視線を合わせづらいのであろう、と悟った柊は、特に気にした様子も見せずにそっと手を伸ばして一緒につまむ。


 杏里は先ほどよりも速く食べており、同時に酒もすぐに減っていった。


 その様子に気付いた頃には、だいぶ減っていた。思わず手が止まってしまう。


 どうしたものかと考えていると、杏里が手に持ったまま柊の方を向いてきた。


「柊さん、これ美味しいよ。食べないの?」


「それじゃ、遠慮なく……」


 差し出されたフライを齧る柊。思わぬ行動に喜びつつも、杏里がだいぶ酔っていることを肌で感じていた。


 それでも、普段接しているときと同じ状態であるということがまだ救いであったと思えた。


「美味しくなかった……?」


「そんなことないよ。杏里くんに食べさせてもらって嬉しくなったからね」


「よかった」


 ニコリと微笑んだその姿に、柊は嬉しさが込み上げてきた。酒に酔ったであろう心配はすっかりなくなり、杏里と同じようにフライを持って差し出す。


「今度は杏里くんにお返し」


 そう言われて笑みを崩さないままぱくりと食べる杏里。嬉しさが増したようで、より笑顔が増していく。


 これでようやく落ち着いてくれるだろう、と考えていたが、杏里は残っていた酒を全て飲み干してしまった。


 気付いたときにはすでに遅く、杏里はグラスを差し出しながら口を開いた。


「もう一杯、同じの飲みたいな」


「……うん、いいよ。でも、あんまり飲み過ぎないでね」


「うんっ!」


 今までの陰気な雰囲気とは異なり、無邪気な笑みを向ける杏里。


 まだ大丈夫そうだと少しホッとした様子で、同じ酒を頼んだ。


 すると突然、柊に杏里の内にあった疑問をを投げ掛けた。


「ねぇ柊さん、急に俺に会いたいって、何かあるの?」


「えっ……」


「今までは事前にいつって約束してたから」


「……嫌、だったかな?」


「ううん、そんなことない。むしろ会えて嬉しいよ。たまに、すぐに会いたいなって思うときもあるもん」


「僕も杏里くんに会いたいなって思うこと、あるよ。次はいつかなって待ち遠しいなって」


 優しく語り掛ける柊の姿に、うっとりと視線を向ける杏里。すると、恥ずかしそうに自らの手を柊の手に伸ばしていく。


 動かないその手に、ゆっくりと重ねていく。


「そうじゃなくて、その……。柊さんの温もりが、恋しくて……」


「杏里くん……」


 驚きの中には素直な杏里の言葉への喜びが含まれている。そんな眼差しを向ける。


 酔ってはいるが、まだ意識はありそうだ。そんな確認をしつつ、柊の手のひらを杏里の手のひらに向け、指を絡ませていく。


 それに応えるように、杏里の指も握られていく。


 そのままゆっくりとテーブルの上から手が降ろされ、ぶらぶらとさせていた。


 無言の時間がしばらく続き、ようやく腕を止めたところで、新たな酒が運ばれてきた。


「柊さんはいいの?」


「俺はまだ残ってるから」


「分かった」


 杏里はそう言うと、繋いだ手を離そうとせずに酒を飲んでいく。煩わしさは一切感じられず、むしろずっと同じ格好でいたいと思っているようだ。


 柊も繋いだ手を離そうとせず、杏里の様子を確認しながらゆっくりと飲んでいた。気付けば彼のグラスの中身は半分程度まで減っていた。


 とうとう柊の身体も酔いが回ってきたのか、感覚が少し鈍っているように感じていた。


 そんな中でも、杏里の温もりだけははっきりと感じていた。


「杏里くんは、友達と飲み行くことはないのかな?」


「ほとんど行かないな……」


「何かあったの?」


「ビールが美味しくなかったし、ジントニックが水みたいだった。初めてがそんな感じだったから、今までお酒飲んでないよ。あ、ここのお店のは美味しいよ」


「そうだったんだね。今日は気に入ってくれてよかったよ」


「柊さんが選んでくれるもの、全部飲み慣れたやつみたいで美味しい」


 柔らかい笑顔を向け、そのままじっと見つめる。


 それに思わず、柊の手が杏里の方へと伸びていき、頭を抱き寄せる。


 顔をうずめるように抱かれる状態になり、一瞬驚いた杏里であったが、間近に感じる柊に安堵する。


 自らを擦り付けるように少し顔を動かす杏里。すると、くるりと顔を動かしてもたれ掛かるような格好になる。


 柊の手は離され、グラスへと移動されていく。杏里を身体で感じながら、ゆっくりと酒を口にしていく。


 二人とも言葉を交わそうとせず、ただじっとしているだけであった。


 そのうちに、飾りのように店の空気に馴染んでいき、気配が消えていった。


 杏里の目がゆっくりと閉じられていき、代わりのように口が開かれていく。


「柊さん、そろそろ誤魔化しなしで聞いてもいい?」


 声は普段通りの柔らかい感じであったが、言葉の奥に鋭さが含められていた。


 思わず柊はビクリと身体を反応させてしまった。


「………やっぱり、何かあるんだ」


「そ、それは……」


 柊の表情に焦りと緊張が走る。今まで饒舌だった言葉が急につっかえ、杏里の疑うような視線が向けられる。


 それでも、柊の口からはこれ以上何も出てこなかった。


「ねぇ、教えて?」


「っ……食べ終わって、店を出てからでもいいかな?」


「そうしたら、絶対に教えてくれる?」


「もちろん。でも、だからって一気に飲まないでね」


 杏里と繋いでいた手が離され、頭へと移動していく。そして優しく撫でていく。


 そうされながら、撫でられている当人はコクリと頷き、再びテーブルに置いていたグラスを手にした。


 疑いの眼差しがなくなり、ホッと胸を撫で下ろす柊であったが、まだどこか緊張感が抜けきれていなかった。


 それを隠しながら口にしていく酒の味は、あまり風味を感じられるものではなかった。


 一方の杏里は、自分の言ったことなど頭からすっかり抜けた様子で、柊が手にしないフライの残りを全て食べていた。


 すると、店員が何かを持って二人の前に差し出してきた。


 特に注文した記憶がなく、柊は記憶を辿りながら店員に尋ねる。


「あの、こちら注文していませんが?」


「こちらサービスのフォンダンショコラでございます。よろしければ熱いうちにお召し上がりください」


「そうでしたか。それでは遠慮なくいただきます」


 二人はグラスを置き、店員に差し出されたフォークを受け取る。


 柔らかい生地をフォークで切っていく。切れ目からチョコレートソースがとろりと溢れていき、ゆっくりと皿に広がっていく。


「うわぁ……」


 その光景に杏里は感動し、思わず声が漏れる。じっと眺めているうちにも、どんどん溢れていく。


 一方の柊は、珍しいその光景に驚きつつもすぐに一口サイズに切っていた。フォークで刺すと、すぐに口へと運んでいく。


 温かいソースと絡んだ生地は、程よく苦さを含んでおり、ソースの甘みと絶妙に絡んでいく。


 そこまで甘い物を好んでいるわけでもない柊であったが、これであればいくらでも食べられると感じていた。


 チラリと杏里の姿を見ると、ようやく口にしていたようだ。フォークを咥えたまま、目を見開いて感動している。


「お、おいひー」


「僕にも美味しいよ」


「柊さんは甘いものあんまり食べないよね。なんか珍しいね」


「そうだね。杏里くんの前ではごはんものばっかりだったもんね」


「てっきり、甘いものは苦手だと思ってた」


「得意ではないけどね」


 軽口を叩きながらどんどん食べていく二人。


 杏里の方は時折酒を飲みながら先に食べていく。どちらも美味しい、とにこやかな表情である。


「ごちそうさまでしたー」


 手を合わせながらそう言う杏里は、酒もすっかりなくなっていた。血行がよくなっているようで、ほんのり赤かった顔もだいぶ赤くなっていた。


 隣ではまだ柊が食べており、その姿を頬杖を付きながら眺めていた。


 その姿に気付いたようで、緊張感を高めながら口にする柊。徐々にゆっくりになっているが、杏里に何かを言うつもりは一切ないようだ。


 ようやく食べ終わった頃には、酒の味も感じられなくなっており、とりあえず空にしたという状態であった。


 だが、杏里には平然としているようにしか見えていなかった。


「お会計をお願いします」


 杏里が待ちに待っていた言葉が店員に向けられ、思わず笑顔になっていた。


「少々お待ちください」


 そんな姿をチラリと目に入れたのか、店員の動きがやけに素早かった。


 それぞれの胸の内に想いを秘めながら、杏里はじっと待ち、柊は財布を取り出していた。


 しばらくすると、伝票を持った店員が戻ってきた。


 柊は値段を確認してから、クレジットカードを挟んで差し出す。


「お会計失礼致します」


 再び立ち去り、二人きりになる。互いに言葉が出てこない。


 柊は両手をがっちりと組み、少し俯きながら時間が過ぎていくのを待っている。


 この時間が早く終わってほしいような、まだまだ続いてほしいような、複雑な状態である。呼吸が浅くなっているように思える。


 その姿に気付かれないようにただただ必死になっていた。


「お客様、お待たせ致しました」


 店員に声を掛けられて自分が呼ばれていることに気付き、前を見る。差し出されたレシートとカードを受け取ると、財布にしまいつつ身支度を整える。


「……杏里くん、行こうか」


「うんっ」


 ごちそうさま、と告げながら、柊が前に出て店を去っていった。


 杏里にその表情を見られたくないのか、振り返ることなく店を出た。


 だが、一歩進んだところで、杏里がようやく口を開いた。


「柊さん、約束、忘れてないよね?」


「あ、あぁ。もちろん」


 深呼吸をしてようやく覚悟を決めたのか、真剣な表情になりながら柊は杏里の方を向く。


 今までにこやかな笑顔を浮かべていた彼からは予想もできない表情が表れ、杏里の中に急に緊張感が走る。


「杏里くん、君と僕が出会ってそろそろ一年くらいになるよね。出会いは何とも言えないけれど、時々会って一緒に過ごす時間がとても楽しかったよ。杏里くんはどうだったかな?」


「柊さんと過ごした時間、どれも温かくて、どれも楽しかった。今までこんなに楽しいことはなかったよ」


「……ありがとう」


 杏里の素直な言葉に、ようやく柊に笑顔が戻った。


 自然と溢れたその表情に、杏里は思わず胸がときめいた。


「杏里くんと過ごしていくうちに、もっと君のことを知りたい、もっと君と一緒にいたい、幸せにしてあげたいって思うようになったんだ。君のことが、四六時中思い出すくらいに好きだから……」


 急に早口になっていた柊の言葉が止まり、じっと向けられていた杏里への視線が離されていく。


 少しの間を置いたところで、再び柊の顔は杏里の方を向いた。


 そして、ゆっくりとその口が開かれる。


「杏里くん、僕と付き合ってください。そして誰よりも幸せにします」


 杏里はその言葉に驚かされた。


 大したことではなく呼び出されたと思っていたため、特に意味もない言葉が向けられるのかと考えていた。


 その結果、柊から向けられた言葉は、柊の想いがしっかりと乗せられた愛の言葉。誰よりも自分のことを考えている言葉。


 杏里は改めて柊の想いを確認し、それと同時に嬉しさが込み上げてきた。


 ようやく実感したその言葉に、彼の目からはすっと涙が溢れていた。


「柊さん……ありがと……。こんな俺のこと、好きでいてくれて、本当に嬉しい……。俺も、柊さんのこと……大好きだよ」


 泣きながら柊への想いを告げる杏里。


 その姿をあまりにも愛おしく感じ、柊の腕がそっと伸ばされていく。杏里の肩に手を回し、自らの身体へと寄せ、彼をぎゅっと抱き締める。


 何度も杏里の名前を呼び、ゆっくりと宥めている。


 包まれるように感じる温もりに癒やされていったのか、徐々に杏里の呼吸が落ち着いていく。


 すると、杏里の手がもぞもぞと動かされていく。するりと移動されていくその手は、柊を抱き返すように背中へと回されていった。


 鼻をすすりながら見上げるようにし、潤んだ瞳で柊の顔を見つめる。


「柊さん……。俺を、柊さんの恋人にしてください……」


 その返答を聞けた柊の腕に込められている力が強くなり、さらにぎゅっと抱き締められていく。


 杏里もそれに応えるように、ぎゅっと抱き締める。


「柊さん……」


「どうしたの?」


「なんだか、柊さんと一緒にいたいな……」


「じゃあ、僕の家へおいで。今夜は帰さないよ」


 名残惜しそうに柊の腕が離され、そのまま優しく杏里を導きながら、二人はこの場を去って歩いていった。


 二人の姿は人混みに紛れるように馴染んでいった。



 ***



 杏里が目を覚ますと、慣れないベッドの感覚と見慣れない景色を認識した。


 必要最低限の家具が並んだその部屋は、男の一人暮らしのモデルルームのようであった。


 自分の部屋はこんなお洒落ではない、ここは一体どこなのか。そんなことを考えていると、自分の格好がいつもと違うことに気付く。


 バスローブのような心地よい肌触りの服を、下着を一切纏わないで着ていた。普段の生活上はこんな格好をすることはあり得ない。


 どうしてこんなことになっているのか記憶を辿ってみる。


 寝る前に会っていたのは、曖昧な関係であった柊だ。突然呼び出されてバーで酒を飲んでいた。


 帰り際に、柊から想いの詰まった愛の言葉を向けられた。


 そして、一緒にいたいと彼に告げると、彼の家へと連れてこられた。


 全てを思い出した杏里は、自分の行動に恥じて一気に耳まで赤くなっていった。


 顔を両手で覆いながら数時間前の自分に後悔していると、指先に柔らかい感触がした。


「おはよ、杏里くん」


 柊の声が真横から聞こえた。そちらへと視線を向けると、引き締まった身体を晒したまま横になっている柊が、杏里のことを見ていた。


「ひっ……柊さん……。おはよ」


「よく眠れたみたいだね。よかった」


 柊の唇が杏里の額に触れる。


 一瞬の出来事に杏里の思考は追いつかず、間を開けてようやく理解したところで顔が熱くなるのを感じていた。


「あはは。照れてる姿も可愛いな」


 左手が杏里の腰へと伸びていき、そのまま彼を抱き寄せる。


「ひゃっ!」


「大丈夫。こうして触るだけだから」


「っ……」


 間近に感じる柊の姿に慣れず、杏里はされるがままになっている。


 そんな姿をからかうようにしつつも、柊の手は優しく包み込みながら温もりを感じていた。


 宣言通り触れるだけでじっと動かないおかげで、杏里はじっくりと柊の温もりに触れていた。それは杏里の緊張感をゆっくりと解していっている。


 ようやく慣れたところで、杏里の手が自らを抱き締めている柊の手へと向かっていきそのまま指を絡ませながら重ねられていく。


 知っているはずの温もりなのに、何だか初めてのように感じている杏里。


 鼓動が早くなっているのを感じ、柊に気付かれないように一定の距離を保とうとしている。


 だが、柊にはそれがすぐに気付かれてしまった。


「あれ、杏里くん緊張してる?」


「そっ、そんなこと……」


「隠さなくてもいいよ」


 柊の空いている手が杏里の頭を抱き寄せ、自分の胸元へと押し付けていく。


 熱いと感じるようなそこから、やけに速く脈打つ鼓動が響いてくる。


 平常通りではないのは、自分も同じであるということをはっきりと示していた。


「僕だって緊張はするからね」


「柊さんは、いつもかっこよくて、しっかりしてて、そんな風には見えなかった……」


「そう見えるように頑張ってたからね。特に、大好きな杏里くんの前では」


「柊さん……」


 頬を赤く染め、潤んだ瞳で柊の顔を見つめる。その顔はニコリと微笑み返し、ゆっくりと近付いてくる。


 杏里は思わず目を閉じて少し近付けて待ち構えていた。


 思い浮かべていた感覚は予想していた場所にはやって来ず、額に押し付けられるような感覚がしてすぐに離れていった。


 突然の出来事に驚き、杏里の目はパッと見開かれた。


「っ……」


「驚いたかな?」


 柊の口からそう一言漏らされると、ぽかんと開いた杏里の口を塞ぐように唇を重ねていた。


 形容しようがない、求めていた最高の感覚に、杏里はそれ以外何も考えられずにいた。柊を貪っているつもりが、気付けば自分がそうされている状態になる。


 触れているだけだったじゃれ合いは、より一層深くなっていく。


 唾液まで一つになっていくように舌を絡ませ、互いに激しく求める。


 無意識のうちに杏里の手は強く握られ、それに柊も応える。


 まだまだ足りない、と柊の脚が杏里へと伸ばされていく。


 割り開くように差し込まれ、足先まで離れないように絡めていく。


 全身のうちに互いを感じている場所がないくらいに密着する。


 杏里は無意識のうちにより一層柊を求めていた。もっと彼の温もりを得たい、ただそれだけで身体が動いていた。


「っあ……」


 だが、不意に柊の方から唇が離れていってしまった。


 もっと、と求める杏里から顔だけ離し、じっと彼の顔を見つめていた。


「ひ、柊さん……」


「これ以上触れていると、杏里くんのことを離せなくなっちゃう……」


「……い、いいよ。俺のこと、もっとあげる。あげるから、離れないで」


「杏里くん……」


 理性でどうにかしようとしていた柊を誘惑し、杏里は再び柊をより深く感じようとしていた。


 あまりにも艶めかしいその仕草に、理性が崩壊しかけている柊。


 プツリと何かが切れる音が彼の中に響き渡り、杏里の身体をぐっと引き寄せる。


「あっ……」


 そして二人はベッドの上でしばらく過ごしているのであった。



 ***



「杏里くん、本当に大丈夫?」


「大丈夫だよ。そうじゃなきゃ俺、今の仕事できないから」


 二人がベッドから出たのは昼過ぎのことであった。


 空腹が限界まで達したところでようやく何かを食べたい気分になり、柊がありあわせのもので簡単なものを作った。


 それと同時に、洗っていた杏里の服もすっかり乾いており、きれいになった着てきたものを再び纏った。


 こうして食事のためにベッドからテーブルへと移動していき、杏里はずっと柊を褒めながら笑顔で食べていた。


 彼に釣られると同時に褒められていることもあり、柊も終始にこやかになっていた。


 そうして楽しい食事の時間が過ぎていき、今度は二人でソファの上でじゃれている。


 杏里は柊の上に座るようにしながらもたれ掛かり、互いの手を握りながらずっと話していた。


 まだまだ互いのことを知るには時間が全然足りないようで、ずっと同じ姿勢でいるだけで外は薄暗くなってきた。


 再び動き出す合図となったのは、杏里の腹が鳴ってからであった。


「あっ……」


「すっかりこんな時間になっちゃったね。何か食べに行こうか」


「うん」


 柊は部屋着から着替えるためにクローゼットへと向かった。


 そこから取り出したのは、普段杏里が見慣れたようなきっちりとした服ではなく、ラフな服であった。


 自分の荷物を確認していると視界にそれが入ってきたようで、杏里は思わず見惚れていた。


 着替え終わったところでそれに気付き、近寄りながら話し掛けていく。


「ん? どうしたの?」


「……柊さん、何着ても似合うなーって」


「ありがと」


 杏里の額に軽く口付けをしてから、家の中を確認していく。


 その後ろに付いていくようにしながら、杏里も一緒に移動していた。


 全ての確認を終え、玄関を出て施錠をし、ようやく二人並んで歩き出す。


「杏里くん、何か食べたいものはある?」


「んー。柊さんと一緒なら何でもいいよ。ちょっと欲を言うなら、ゆっくりとカクテルについて教えてもらいながら飲みたいなー」


「昨日はそんなに美味しかった?」


「うん!」


「いいよ。また同じところに行こうか」


 目的地を決めて二人は並んで歩き出す。


 休日の住宅街は全然人がおらず、二人きりの空間を話しながらゆっくりと進んでいく。


「ねぇ柊さん」


「何?」


「どうしたら柊さんみたいにお酒に詳しくなれるの?」


「僕はそこまでお酒に詳しいわけじゃないよ。お酒だって、分類すればいっぱいある。その中で、僕はカクテルに一番興味があるだけだよ」


「あ、そうだったんだ。でも、俺と比べたらいっぱい知ってるよ」


「そうだね。杏里くんはあんまり飲んでこなかったから知らないだけで、興味を持って、いっぱい飲んでいくうちに詳しくなれると思うよ」


「そうかなー……」


 今まであまり勉強という勉強を詳しくしてこなかったためか、知識を取り入れることがあまりよく分かってない杏里。


 すると、何かを閃いたようで、パッと明るい表情で柊の顔を見る。


「あっ! 柊さんと一緒に飲んでれば詳しくなれるかも!」


「あはは。そうだね」


 柊は杏里に近寄り、耳元に顔を寄せてそっと囁く。


「じっくり時間を掛けて、ゆっくり丁寧に、教えてあげるね」


 そこから響く優しい声に、杏里の身体が疼く。それはすぐに頬を赤らめることによって表れていた。


 そんな杏里の姿に、声が一切出ていなくても柊は察し、心の中で可愛いと思っていた。


 徐々に人通りの多い道に差し掛かっていき、すれ違う人も増えてきた。


 二人きりのような空間が終わり、人混みに紛れるようにして歩いていく。


 他愛もない会話をしながら歩いている二人は、傍から見れば友人同士が歩いている光景である。


「俺、このあたりに来ることほとんどないけど、お店がいっぱいあっていいね」


「便利だと思ってここにしたんだ。ちょっとした買い物なら十分だよ」


「へぇー。お金が貯まったら引っ越そうかなー……」


「僕の家に?」


「そっ、それは、まだ……」


「残念。僕はそれでもいいって思ったんだけど」


 ダメかな、と笑顔を向ける柊。


 あまりにも眩しいその表情に、自然と視線を逸らして黙り込んでしまった。


「あんまり深く考えないで、気が向いたらでいいよ。僕は、考えてくれるだけで嬉しいから」


「うん……」


 コクリと頷くその仕草に、柊は心躍らされていた。だが、ここは人が多いところである、と自分を制して笑みを浮かべるだけに留めていた。


「あ、あの……」


「ん?」


「さ、最初はお泊りからでいい……?」


「もちろん。いつでもおいで」


「うんっ!」


 大きな交差点で信号が変わるのを待つために立ち止まる。


 車が通るこの場所で、二人の声はかき消されてしまいそうになるが、それでも何とか互いに声を拾っていく。


 時折見える仕草は、笑顔だけでなく恥じらいや喜びも含まれている。


 それは信号が変わって歩きだしてからも変わらず、ただひたすら楽しいという感情が二人の中にあった。


 昨日の杏里とは似ても似つかない状態で、緊張感が一切感じられなかった。


 柊も、今まで秘めていた想いを全て吐き出していたせいか、やけに饒舌で柔らかい表情である。杏里はそのことに一切気付いていないようである。


 駅前を通り過ぎ、いくつか交差点を渡ったところで、再び人通りが少なくなっていった。


 街路樹の雰囲気が少し変わり、落ち着いた雰囲気になっていく。


 店の並びが少しずつ減っていくが、薄暗くなっているこの時間帯では、どの店も看板によって明るく照らされていた。


 杏里はそれを眺めながら歩いていく。チェーン店ではない店が並び、どれも個性があって彼にとっては目新しさがあった。


 そうしてしばらく歩いていくと、昨日来たばかりの店の前へと到着した。


 昨日の記憶を思い出し、店内の風景を思い浮かべる。


 青い光を基調とした店内は、とても落ち着いた雰囲気であり、まるでピアノの生演奏を聴きながら楽しめるような場所であった気がした。


 そんなことを思い浮かべながら店の前を観察する。


 青を全面的に押し出し、心を静かにしてくれるような印象を与える。


 杏里の目にはそう映っていた。


「杏里くん、どうしたの?」


「ううん。昨日はあんまりじっくり見えなかったから、見てるだけだよ」


「あぁ、そっか。昨日は遅かったし、僕がすぐに入っちゃったからね」


「お店の外もいいね。柊さんみたいに落ち着く」


「ありがと」


 柊はメニューと杏里のことを交互に眺めながら、杏里が満足するまで待つ。


 しばらくすると、杏里はようやく隅々まで堪能した様子で柊の方へと向く。


「おまたせ。もういいよ」


「うん。それじゃ、中に入ろうか」


 そう言って柊が店のドアを開けると、静かな店内には来客を伝えるベルの音が静かに響き渡っていった。

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酒と談話【期間限定全公開】 まつのこ @simca_ac

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