いつかのさけ

 夜の飲み屋街は客を引き寄せるために明るい輝きがあちこちにあった。


 その中に吸い込まれていくように四人組が小さな店へと入っていく。看板は入り口に一応あったようだが、奥まったところに位置するようで目立たないようだ。


 木製の枠で囲われている店の前には手書きの筆文字のようなメニューが大量にぶら下げられており、どれを頼もうかと目移りしてしまう。


 だが、彼らはそれを一切見ることはなかった。


「いらっしゃいませー」


 活気のある声で店員がそう叫ぶ。しばらくするとそこへ別の店員がやって来た。そこへ眼鏡の男が一歩前へ出る。


「予約していた岡崎です」


「岡崎様ですね。……こちらへどうぞ」


 紙に書かれた予約表を確認し、店員が席へと案内する。


 入り口の雰囲気をそのまま店内にも取り入れたようで、木のテーブルと椅子があちこちに並んでいる。その奥に個室空間になっている場所があり、彼らはそこへと案内された。


 岡崎は席に座るなり、メニューの一番上の酒を頼んだ。そこには『本日のおすすめ』と書かれていた。


「何頼んだんすか?」


「おすすめだ。何かは来るまで分かんないが、いつも美味いやつだぞ。桂木、お前は初めてだったな? とにかく美味いぞ」


「それはめっちゃ楽しみっすね。岡崎さんの日本酒のセンス、最高っすから」


 楽しみだ、ということを言葉だけでなく表情にまで露わにしている桂木。


 岡崎の開催する飲み会はかつて何度か行われていたが、桂木は常に都合がつかなかったようで、今日ようやく参加できていた。それまでも岡崎の同席する飲み会には参加していたが、幹事は別の者であった。


「桂木さん、岡崎さんのこの会のセンスは本当に最高ですから楽しみにしてくださいよ」


「おう。片倉は何回か参加したことあんのか?」


「二回目です。初めてでも感動ものですよ」


「いやいや、ただの趣味だから。とにかく好きなもの食べて楽しんでくれ」


「……岡崎さんの、奢り、ですか?」


 今まで黙っていた若松はそうボソリと呟いた。


 その言葉に、桂木と片倉が目を輝かせながら岡崎を見つめる。


 一切そのつもりはなかった彼であったが、後輩たちからこんな表情をされては拒否する気も失せたようで、財布を確認してから皆の方を向いた。


「分かった分かった。今日は桂木も来てくれたことだし、俺の奢りだ!」


 子どものようにはしゃぐ桂木と片倉の一方で、若松は一瞬ニヤリとしたかと思えば、真剣にメニューを眺めていた。


 そこには魚介類の名前が並んでおり、どうやら刺し身のメニューのようだった。珍しい名前も多く並んでおり、若松は悩んでいた。


 だが、独り占めしていたのを隣に座っていた桂木が阻む。


「俺にも見せろー」


「いや、岡崎さんにも、じゃないですか」


 片倉は慣れた手付きで全員がメニューを見やすくするように並べた。刺し身以外にも様々なメニューが書かれており、中には値段の書かれていないものもあった。


 主に桂木と片倉の二人であれだこれだとメニューを選んでいき、増えたり減ったりしていた。


 そしてようやく決めたところで、店員がお通しと酒を持ってやって来た。


「こちらお通しになります。こんにゃくの煮物でございます」


 唐辛子が少し入ったそれは、程よい辛みがしてきそうな煮物であった。


 その光景に目を奪われている桂木であったが、メインはこれではなかった。


 枡が置かれていき、その中へグラスが置かれる。そして酒の入った大きな緑色のボトルが四人の前に置かれる。


「こちら、本日のおすすめの七力しちりきでございます」


 ボトルを開け、グラスの中へ注がれていく。溢れ出したものは枡が受け止めていき、少しでも動かせば溢れてしまうところでようやく止められた。


 四人分注ぎ終えたところで、店員は立ち去ろうとした。


「すみません。注文してもいいですか?」


 岡崎はそっとメニューを取り、四人で選んだものを注文していった。そうしてようやく店員は去っていった。


「とりあえず、乾杯するか」


 岡崎がそう言うと、他の三人はゆっくりと枡を移動させていく。慎重に、ほぼ加速をさせないようにしながら、自分の前に運んでいく。


 ようやく目の前に並んだところで、お通しも並べる。


 全てが揃ったところで、桂木はグラスを慎重に持ち上げて前に出そうとした。


「桂木、溢れるから持ち上げなくていいぞ」


「えっ……?」


 そう言われて桂木が前を向くと、他の三人はお通しの器を手に持っていた。どうやらこの会では、溢れそうな日本酒のグラスの代わりにお通しで乾杯をするようだ。


 意図を理解したところで、彼も同じように器を手に持つ。


「えー、それでは、桂木もようやくこの会に参加してくれたことを祝って乾杯!」


 岡崎のこの合図に、四人は器を軽く交えた。


 すぐに器を置くと、一斉にグラスへ口を付けて酒を啜る。


 水のような透き通った味わいが、彼らの中へと入っていく。たった一口だけでも、それが伝わっていく。


 この美味しさを初めて口にした桂木。目を見開いたままじっと動かずにいた。


「どうした、桂木?」


「岡崎さん……。これ、めっちゃ美味いっす!! もっと早く来たかった」


「気に入ってくれてよかったよ」


 笑顔を向けてもっと飲むように促す岡崎。目の前にある酒は、誰よりも減っていた。


 桂木は再びグラスの中のものを飲んでいく。ようやく持ち上げられるところまで減ったところで、グラスを持ち上げて底面を枡の中の液体に擦らせてから外へと出す。


 酒に夢中になるあまり、隣にあったお通しの存在を忘れていたようだ。グラスを置いたところでようやく思い出したようで、箸を持って一切れ口にする。


 絶妙とも言える辛さが彼を刺激していく。こんにゃくと酒を交互に口にしていき、どちらもほとんどなくなってしまった。


 枡に残っていた酒をグラスに移し替え、再びグラスを煽る。


 しばらくすると、料理が運ばれてきた。


「こちら、サーモンのサラダと刺し身の盛り合わせでございます」


 大きな皿が二つ、テーブルの中央に置かれていく。食べたいものを選んだ盛り合わせは、全員の目を輝かせるくらいには印象が強いものであった。


 若松はさり気なく小皿を並べていく。


「ありがとな、若松」


 醤油を入れながら岡崎が礼をする。そのまま桂木に回していき、自分は盛り合わせの端にあるわさびを摘んで醤油の皿の端に置く。


 全員が入れ終わったところで、一斉に刺し身へと箸が伸びていく。各々が食べたいように食べていき、酒も進んでいく。


「はぁ、美味い……」


 そんな感嘆が桂木の口からボソリと呟かれる。


 耳に入ってきた小さな喜びに、主催の岡崎の表情がより一層柔らかくなっていく。


「気に入ってもらえたようでよかったよ」


「はい。今めっちゃ幸せな気分です。悔いがあるとすれば、もっと早く来ればよかったこと、ですかね」


「あはは。そんなこと気にすんなって。ほら、もっと楽しめよ。酒もなくなってきたな。何か飲んでみたいのあるか?」


 岡崎からメニューを渡され、パラパラと捲っていく。


 それと同時に、岡崎は店員を呼ぶ。


 まだ全然決まっていないようで、急に桂木が急ぎながらメニューを見る。だが、達筆とも言えるその字はすぐ理解するには難しいものだった。


「お決まりですか?」


「え、えーっと……。あ、これください。徳利で二合、お猪口は四つで」


「……不動ですね。その他のご注文はよろしいですか?」


 ふぅ、と酒の注文を終えて安心しきった桂木は、くたりと背を寄りかからせていた。


 そして気付かぬうちに、片倉と若松が追加で食べ物を注文していたことに全く気付いていなかった。


 店員が去っていくと、ようやく桂木に元気が戻ってきたようで再びテーブルに向かった。


 サーモンのサラダの存在に気付き、誰も手を付けていないと思われる皿へ手を伸ばす。トングで適量を取ると、再び置いてあった場所へ戻す。


 塩だれのようなドレッシングが掛けられており、とろりとした液体が掛かっている。


 野菜とサーモンが一緒に口の中へと運ばれていく。シャキシャキと音を立てて砕かれていき、ゴクリと桂木は飲み込む。


 そして箸を休めることなく、取った分をすぐに完食してしまった。


「……美味い、のか?」


「これもいい。お前も食べろよ」


 若松もサラダに手を伸ばすと、今度は片倉も取っていく。


 最後に残った分は岡崎が全て取ったため、皿は空になった。


 桂木に促されて先に食べていた若松。元々無口であった彼であったが、それが余計に加速した。


「あ、俺あんまりサラダ好きじゃないんですけど、これはいいですね」


 片倉がやけに笑顔でそう言い、酒を飲みつつサラダを食べ進めていく。


 先に食べ終えた桂木は、再び刺し身に手を付けていた。帆立の刺し身を取り、醤油と少しのわさびを付けて口へと運んでいく。


 蕩けそうな表情をしたまま、最初の一杯であった酒を全て飲み干してしまった。


 余韻を味わいながら、次に何を食べようかと考え始めた。


「桂木、すぐ来ると思うから安心しろよ」


「安心って。そこまで不安になってないっすよ。どれも美味しくて迷ってただけっす」


「そうか? ならよかった」


「岡崎さん、本当にセンスいいっすね。最高っす」


 まだ始まったばかりだというのに、桂木の表情は満足したといった笑顔であった。


 それにつられて岡崎も同じような笑顔を向ける。


「まだまだこれからだぞ。酒だっていっぱいある」


「いやー。俺あんまり日本酒詳しくないんで岡崎さんに頼りたいっすね」


「俺の好みに偏るけどいいか?」


「それ、絶対美味しいやつじゃないっすか」


 二人の笑い声が同時に響く。何かが二人の笑いのツボに嵌ったようで、それはしばらく続いていた。


 その様子を傍から見ていた片倉と若松。視線を合わせることなく黙々と飲み食いを続けていた。


 ほとんどのものがなくなったところで、店員がやって来た。


「クエの唐揚げとあん肝とかに味噌、不動が二合です」


 料理が三品、徳利、お猪口が四つを置いていく。


 その間に片倉と若松は最初に頼んでいたものを自分の小皿に乗せて空にした状態で店員に渡していった。


「すいません、後で注文お願いします」


「今でも大丈夫ですよ」


 店員が隣の空いているテーブルに空になった皿を置くと、注文を取るためにメモに持ち替えた。


 すると片倉は矢継ぎ早に注文していく。


王禄おうろくをグラスでロックと、梅酒のロックをグラスでお願いします」


「あと明太コロッケと、なす焼き、なめろうを二つずつ……」


「……かしこまりました。失礼致します」


 あっという間に店員は去っていった。


「おい若松。お前、頼みすぎじゃねーか?」


 注文の多さに桂木は思わず心配になり、そう口走っていた。


 しかし、若松からは何の感情も見えてこない。


「……食べたりない」


「気にしないでいいぞ。俺も食べたりないからな」


 何も気にしていない様子の岡崎は、熱々の唐揚げに真っ先に箸を伸ばし、付いてきたおろしポン酢を少し付けて食べた。


 それでも桂木は少々心配しつつ、岡崎の分の酒を注いだ。


 自分の分も入れたところで、岡崎と同じように唐揚げを口にする。


 半分齧ると、中から白い身が見える。さっぱりとした風味が酒をぐいっと進ませる。柔らかい酒の味が口を包むと、新たなものを欲するようになっていく。


 桂木は不思議といつもよりあらゆるものを求めていた。


 食べかけの唐揚げの残りを口にする。だが、噛んだ途端に鋭いものが彼の口腔を攻撃した。


 何事かと思い慎重に取り出してみると、それはクエの骨であった。


「……大丈夫?」


「あ、あぁ。油断してた」


「魚だから一応骨はあるからな。気を付けろ」


「はい」


 他にも何本か残っていたようで、取り出しながらゆっくりと食べていった。


 それに気を取られていると、片倉と若松が新たに来たものをどんどん食べていく。酒から食べ物、全てを一通り口にしていた。


「そういえば、桂木に会うのは久しぶりだな。いつぶりだったっけ?」


「えーと、サークルの集まり以来だったと思うんで、四ヶ月ぶりっすかね」


「それ以来かー。あんまり会ってないのに久々って感じが薄いな」


「そりゃ、しょっちゅうやり取りはしてましたからね。飲み会のお誘いは全然予定が合わなかったっすけど」


「何だ、彼女でもできたのか?」


 突然桂木はむせた。恐らく、彼女、という言葉に引っ掛かったのだろう。


 思っていた反応に、岡崎はクスクスと笑っていた。


 しかし、桂木の反応はあまりいいものではなかった。自分を落ち着かせながら、ゆっくりと岡崎を見る。


「そんなんじゃないっすよ。サークル引退してからずっとフリーっすよ。えーっと、何年だ……?」


「もう三年くらいだな。桂木はかなりモテてたからずっといないのが不思議だと思ってたんだ」


「俺、そんなにモテてました……? まぁ、普通に出掛けるのは楽しいっすけど。でも今は、男友達と飯食ってる方が楽しいっすね。これからは岡崎さんの会っていう楽しみもできましたし、それに……」


 急に手に込められた力が強くなり、彼の瞳は岡崎を見据えていた。


「俺、岡崎さんのお酒の話聞いてるの、すっごく楽しいんで! 予定断ってこっちに早く来ればよかったって後悔してるんです」


「後悔って、そんな大袈裟な……」


 桂木の勢いに若干岡崎が引いていた。それでも、彼の目の輝きだけは全く失われていなかった。


 もうすでに酔っ払ってこんなことを言っているのではないかと疑いながら桂木を眺めているが、全然酔った気配はなく全て本気のようである。


「ふぅ。桂木の熱意に俺まで熱くなりそうだよ。俺くらい詳しくなってデートでも行くのか?」


「そっ、それは、ないっす。ただ単に岡崎さんみたいになりたいなって……」


 少し視線を逸らしながらお猪口に残っていた酒を一気に煽る。そしてグラスを注視しながら再び注いでいく。


「そうだな……。俺もまだまだそこまで詳しくないからあまり言えたもんじゃないが、とにかく自分で味わってみることが大事だな。自分が美味いって思うものは、誰かに共有したくなることあるだろ?」


「確かにそうっすね」


「俺はそれを日本酒で繰り返していっただけだ。今飲んでる不動の味はどうだ?」


「うーん……。後味がさっぱりしてて、他のものが食べたくなりますね」


 そう言いながら、桂木はテーブルにある食べ物を一口ずつ小皿に乗せていき、あん肝を真っ先に口へ運んでいた。


 口の中のものがなくなると、再び酒を口にする。


「結構センスあるな。そんな感じでどんどん味わうといいぞ」


「お酒はあんまり飲み過ぎると気持ち悪くなりますって」


「そんなこと言って、お前サークル時代たくさん飲んでただろ」


 二人は再び息を合わせたように笑っていた。


 そうしているうちに再び店員がやって来たが、片倉と若松の二人で対応していた。再び新たな注文をしていたが、二人だけで頼むのはどうかと思ったのか、片倉が声を掛ける。


「岡崎さん、桂木さん、新たに注文するんですけど、何か食べたいものありますか?」


 話し掛けられたところで桂木は腹の具合を確認しながら、何が食べたいかを考えた。それはすぐに思い付いたようだ。


「そろそろがっつり食べたいなー」


「すみません、おすすめの鍋ってありますか?」


「この時期はあんこう鍋がおすすめです」


「じゃあそれを四人分お願いします」


「以上でよろしいでしょうか?」


 はい、と岡崎が返答し、再び会話に戻っていた。


「メニューに迷ったらおすすめを聞くといいぞ。いいところは、だいたい美味いものが出てくるからな」


「岡崎さんなら何でも詳しいって思ってたんで意外っすね」


「俺は食べ物に関してそこまで詳しくないぞ」


「何言ってるんですか。どれも美味しいものが出てくる店選んでるじゃないですか。あ、なすとなめろうが来たんで食べてください」


 横から片倉が割り込んできてその二品を二人の方に差し出してきた。


 なすは焼き立てのようで、湯気が出ている。


 その光景に、桂木の手はすっと伸びていき、すぐにかぶり付いた。半分に切られたなすはしっかりと焼けており、柔らかい感触はすぐに桂木の歯によって簡単に切れてしまった。


 口の中に広がる熱を冷ましながら、その味を堪能する。今までの魚とは違った味わいに、酒もどんどん進んでいるようだ。


 半分程度食べたところで酒もなくなってしまい、再び注ごうとした。同時に岡崎もなくなったようで、桂木が手を伸ばしたところで手がぶつかりそうになった。


「岡崎さんどうぞ。俺ばっかり飲んでる気がするんで」


「そうか。ありがとな」


 手で差し出すようにして桂木は譲る。


 岡崎のその手は桂木よりも慣れた様子で注いでおり、彼はその姿をじっと見ていた。


 お猪口に並々と注がれたところで、徳利をくいっと上にする。すると、無意識のうちに桂木の首も同じような動きをしていたようだ。


 その姿を他の三人は眺めていたようで、クスクスと笑って視線を逸らしていた。


「な、何すか。変なことしました?」


「桂木……。俺の手の動きと同じ動きしてた……ははっ!」


「えっ……」


 自分の行為が思い出せないでいたが、想像しただけで急に恥ずかしくなったようで、一気に顔が赤くなっていった。


 そんな姿に、さらに笑う三人。岡崎と片倉は、堪えていた声が盛大に漏れていた。


 余計に恥ずかしさが増していく桂木だったが、ずっと笑っている二人にそろそろ限界が来たようだった。


「お前ら……いい加減に……」


 言い掛けているところで、最初に岡崎がその様子に気付いた。ピタリと笑いと止めると、片倉と若松の方を向いていた。


「ほら、桂木が怒ってるからそれくらいにしておけ」


 ようやく二人の笑いが収まったところで、徐々に桂木も静まっていった。


 冷静になったところで、自分は何をやっていたのか、と少々反省しながらちびちびと酒を口にする。


 落ち込んだせいか、急に酒の味が薄くなったように感じたのか、怪訝な表情を浮かべながらグラスを眺める。


 再び口にしてもそれは変わらなかった。


「桂木、そんな顔してると美味いものも美味くなくなるぞ」


「岡崎さん……」


「俺は別に、どんなことしてても別に何とも思わないよ。とりあえず笑っておけ。笑顔笑顔!」


 ニッと歯を見せながら笑う岡崎。どうにかして桂木の調子を戻そうと必死になっているその姿は、当の本人にもしっかりと伝わったようだった。


 きょとんと驚いた表情を浮かべたと思ったら、今度は笑いだした桂木。あっという間に元の調子に戻ったようだ。


「あはは、岡崎さん、その表情いいっすね。ずっとそう思ってましたよ」


 笑いながら再び酒を飲む。


 ようやく美味しさを取り戻したようで、桂木は一気に残りを飲み切った。再び徳利から注ぐが、半分程度入ったところで空になってしまった。


「あれ、もうない……」


「じゃ、新しいの頼むか」


 岡崎が店員を呼ぼうと振り返ったところで、店員は注文したものを持ってやって来た。


 そこには、大皿が一つとグラスが二つ乗っていた。


「明太コロッケと、王禄のロックと梅酒のロックでございます」


「すいません、獺祭だっさいのグラスをストレートで二つお願いします」


「獺祭ですね……。かしこまりました」


 手短に用件を済ませ、店員はすぐに去っていった。


 岡崎は勝手に注文していたが、桂木はその酒の名前を知っていたようで、すぐに彼を見ていた。


「俺、それなら知ってます。飲んだことはないですけど」


「獺祭はいいぞ」


 たったその一言であったが、岡崎の目は輝いていた。


 あまりの気迫に驚きつつも、そこまで彼を興奮させるからにはどんな味なのかという興味が湧いてきた桂木。当分注文が来ないことを理解し、熱いうちに明太コロッケをつまむことにしたようだ。


 箸で半分に割ると、中からはピンク色のとろりとしたものが垂れてくる。それを掬いながら一口サイズにしていく。


 かなり熱いと確信した桂木は、しっかりと冷ましながら口にしていく。


 口の中でクリームの濃厚な味わいが一気に支配していき、他の何もかもの味を忘れさせている。


 箸休めに酒を飲むことをなく食べ続けていく。しかし、半分食べたところでようやく酒を口にしていた。


 躊躇うことなく、残っていた全てを飲み干してしまった。


 さてどうしようか、と考えていると、カセットコンロと鍋を持った店員がそれぞれやって来た。


 コンロと鍋を準備し、火を付けて去っていった。まだ全然火の通ってない野菜とあんこうでぎっしりと埋められた鍋は、全員の胃をとても刺激していた。


 気付けば皆で鍋を凝視している。


「早くできないっすかね……」


「桂木さん、すぐにできたら誰も困らないですよ。その気持ち、分かりますけど」


「味噌……美味そう……」


「片倉、若松、酒は残ってるか? ないなら早いうちに頼んでおけよ……」


 冷静を装いつつも、内心は鍋が早くできないか待ち遠しい様子であった。


 飲み食いしていた手が完全に止まり、じっと鍋を眺める男四人。その様子はまるで何か実験をしている様子であった。


 その横を店員が何事もないように通っていく。


 片倉はその存在に気付いたようで、呼び止めて若松の分の注文もしていた。


 そして店員が去っていくと再び視線を戻す。


「皆さん……俺たち、だいぶ怪しい集団になってますよ」


「えっ、あっ……。いやー、あまりにも美味そうだからつい」


「これで追い出されないといいですね」


「まぁ、大丈夫だろ」


「岡崎さんの言う通り、大丈夫だろ。別に人に迷惑掛けてるわけじゃないし」


 桂木はそう話しながら、中途半端に残っていた明太コロッケを食べる。程よく冷めたそれは、頬張っても問題ない状態になっていた。


 彼が食べたのを合図にしたように、各々が自分の小皿に残っているものをつまんでいた。


 そんな中、岡崎だけは少し残っていたなめろうを器ごと食べていた。ゴクリと飲み込んでから、グラスに残っていた酒を飲んでいく。次に頼んだ酒のために空にしたようだ。


 すると、テーブルの上にあったものは鍋以外になくなってしまった。


 テーブルからはぐつぐつと鍋の音しか聞こえず、再び無言になっている。


「失礼します。獺祭のグラスお二つと、不動のグラスと、梅酒のロックです。空いたお皿はお下げしますね」


 店員がやって来て意識をテーブルに戻したようで、皆で協力しながら空いたものを片付けていった。


 再び全員の手元に酒がやって来たが、鍋と一緒に楽しみたいのか誰も口にしない。


「岡崎さん、上の方火が通ってないんで混ぜた方がいいですか?」


「おう、そうだな。味噌もほとんど上にありそうだしな」


 片倉はお玉を手に取り、そっと沈めるように混ぜていく。味噌があっという間に溶けていき、汁が味噌の色になっていく。


 それに浸っていくあんこうや野菜も、徐々に火が通って色が変わる。


 手際のよさに再び胃が刺激され、じっと視線を離せないでいた。早く、その一口を味わいたい。ただその一心であった。


 これでよし、と鍋からそっとお玉が離れていき、再びじっくりと火を通していく。


 そして完全に色が変わったことを確認して片倉がコンロの火を止める。


「もう大丈夫そうですね」


 若松が片倉にそっと器を差し出し、盛り付けるように軽く圧力を掛ける。


 自分が鍋に最初に手を付けたので、と了解した様子で再びお玉を手に取ると、バランスと見た目を両方重視しながらよそっていく。最も年下ということもあり、率先してやっていたと想像できる。


 最後に汁を適量入れると、それを岡崎に渡す。


「ありがとな」


 岡崎は真っ先にあんこうへと箸を伸ばす。柔らかくなった身をそっと掴み、少し冷ましてから口へと運ぶ。


 味噌の風味がじんわりと広がっていく。そこまでしつこさはなく、割とさっぱりしたその風味はどんどん食べることを促すような味であった。


 口の中が空になると、今度は野菜を口にする。ある程度の食感を残しつつ、しっかりと汁を吸い込んだ野菜は、噛めば噛むほど深い味わいを出していた。


 そんな岡崎の様子を眺めている桂木は、早く自分も食べたくてしょうがなくなっていた。


 片倉がすっと差し出すと、それを受け取るなりすぐに掴んで口にしていた。熱さなんて関係ない、ただその味を楽しみたいという一心であった。


 一気に広がる熱を冷ましながら桂木はその味を堪能していく。徐々にその味が染み渡っていき、彼の口からは溜め息が漏れた。


「美味い……」


 ボソリと一言だけ呟き、完全に無言になってしまった。


 ふと前を見ると、岡崎が酒を手にして飲もうとしていた。


 桂木は無意識のうちに同時に味わおうとしたようで、気付けば箸を置いてグラスを手にしていた。


 ゆっくりと一口を入れる。濃密な味わいが舌の上を駆け巡っていく。


 初めて飲む風味に桂木は一旦グラスを離して飲み込む。飲み込んだその後には風が吹いたような爽やかさが通っていき、再び求めようとグラスを口にしていた。


「桂木、どうだ?」


「不思議な感覚っす。なんというか、初体験、です……」


「初体験か。なかなか面白い表現だな」


「へ、変な意味じゃないですよ。味? 感覚が全然違うって言うんですかね。それです」


「分かってるよ」


 そんな他愛もない会話をしながら二人は酒を味わっていた。


 すると、片倉が自分の分の鍋をよそわずにさり気なく立ち上がって席から離れていく。誰も気にした様子はなく、各々で口にしているものを楽しんでいる。


「これって確か、結構高いやつだった気がしますけど」


「ピンキリだな。高いやつはなかなか手を出せないが、今飲んでるやつはそうでもないな。安くてもそこそこするけどな」


「匠の技を感じます。それから、岡崎さんの素晴らしいセンスも」


「素晴らしいって何だよ。褒めても何も出ないぞ」


「俺は事実を言ってるだけっすよ」


 桂木の笑いが少し力の抜けたようだ。顔もすっかり赤くなっている。意識ははっきりとしているが、酔いが回ってきた様子である。


 その一言でも岡崎には相当嬉しいようで、桂木につられて笑顔になっていた。


 お互いに笑い合いながら酒を飲み進め、合間に器の鍋をちまちまと食べていた。


 傍から見ていた若松は、二杯目を食べ終えたところで存在感を消しながらそっと席を外していった。


 二人きりになったテーブルで、岡崎と桂木は夢中になって話し続けていた。


「岡崎さんって大人数の飲み会のときから美味いもの選んでた気がしますけど、そこまで詳しくなったきっかけって何っすか?」


「親の影響かな。特に親父が日本酒好きだったからな。二十歳になってすぐにいい酒の味を覚えろって教えながら飲まされたんだがな」


「へぇー。初めての味はどうでしたか?」


「飲みやすいやつを選んでくれたおかげで、ジュースを楽しむ感覚で美味かった。どこでも買えるやつだけどな」


 岡崎はメニューを手にし、その名前を探す。当然のようにその名前は書かれており、見つけるなり指で示しながら桂木へと見せる。


 岡崎よりも疎い彼でも当然のように知っている名前で、相槌を打ちながらかつて飲んだときのことを思い出していた。


「あ、これなら俺も飲んだことあります。夏頃にスーパーで小さい麦わら帽子が被せてあったのが一つだけ売ってましたね」


「小さい麦わら帽子?」


「ボトルのキャップくらいの大きさの、ミニチュアみたいな感じでしたね。これくらいだったかな」


 指でその大きさを示す。鍋の中身が入った器よりも小さなその大きさは、結局岡崎に伝わっていなかった。


 岡崎も同じように指を広げてみるが、それでも分からないようで首を傾げていた。


「んー、よく分からん。夏だったからそれっぽくしたのかな?」


「多分そうっす。俺、思わずそれ買いましたね」


「桂木ってそういうもの好きだな。しかも写真に撮ると面白いし。俺はそのセンスが羨ましいと思ってるよ」


「これでも結構続いてる趣味なんで。料理だって上手く撮れると思いますよ」


 そう言いながら、指でカメラを構えるポーズをしてみせる。その中央には岡崎を覗き込ませていた。


「俺を撮ったってしょうがないだろ」


「そんなことないっすよ。一緒に楽しく食事をしてる気分になれますって」


「いやいや、写真と一緒に食べたってしょうがないだろ。俺を呼べ、俺を!」


 自らを主張する岡崎の姿に、桂木は次の言葉を考えていた。


 咄嗟に思い付いた言葉を出そうとしたが、それはあまりにも恥ずかしかったのか言い出せないでいた。


 そしてしばらくしてようやく口に出せることが思い付いたようだ。


「もっと美味しいもの知りたいんで、もっとたくさん岡崎さんと食事に行きたいです」


「もちろんだ。いつでもいいぞ」


 笑みを浮かべた岡崎につられ、桂木も自然と同じ表情をしていた。


 照れくさそうに笑いながら再びグラスを持つ。そして意味もなく二人で乾杯する。


 テーブルには二人だけしかいないことに一切気付かず、酒と料理を楽しみながら、二人の会話はどんどん弾んでいったのだった。



 ***



 トイレから出てきた若松は、店の入り口にあったベンチでタバコを吸っている片倉を見つけた。音を立てないようにゆっくりと近付いていく。


「あ、若松さんも席を外したんですね」


「……鍋、もっと食べたかった」


「しゃーないですよ。また今度にしましょう」


 ふーっと吐きながら喋る片倉。その表情は酔いが完全に覚めている。


「……いい加減、あの二人もお互いに好きだってことを自覚してもらいたいですよね」


「桂木は、結構鈍感だから。モテてたけど、相手から一方的だったから」


「そういえばそうでしたね。岡崎さんにだけはやけに懐いてましたけど」


 若松は片倉の横に座りながら、遠くを眺めるようにして話す。


 二人は学生時代の頃から現在に至るまでの桂木を思い出していた。常に岡崎と行動していた桂木の姿は、当初は犬のようだと言われていたが、徐々に変化していったようだ。


 それは岡崎にも言えたことであったが、お互いにその変化には気付いておらず、一部の者が察していた程度であった。


 片倉と若松はそのうちに入っていた。


 そして二人はどうにかして岡崎と桂木をくっつけようと気を遣い、何かしらを企てていくようになったが、今日も含めて全て空回りで終わっている。


 どうしたら上手くいくものか、とただひたすら考えていた。


「現状の二人を見ていると、もどかしくてしょうがないんですよね。一歩進めば、お互いに幸せだと思うんですけど」


「確かに」


「だからって、俺たちが何かできるのかって言われたら二人きりの空間を作るだけですけどね」


「……二人が話してる、隣にいるの辛い」


「先に出てってすみません。でも、若松さんなら気付いてくれると思ってました」


 不満そうな若松はそう言われ、すぐにいつも通りの様子に戻った。


 自分もタバコを吸おうと胸元から取り出し、ライターで火を点ける。


 ゆっくりと吸い、今溜まっている不安と共に吐き出していく。


「あれ、若松さん禁煙したんじゃないんですか?」


「……疲れた。でも、本数は減ったから」


「それ、失敗って言うんじゃないんですか」


「…………そんなこと、ない」


 片倉に失敗と言われても、頑なにそうではないと言い張りながら吸っていく。


 先に吸っていた片倉のタバコはすっかり短くなり、もう限界となったところで火を消す。今度は片倉が若松の方を手持ち無沙汰に見ていた。


 だが、特に話すこともなくただ火と煙を眺めているだけだった。


 他の客がガヤガヤと話す声が耳に入ってくる二人の空間は、そこだけ少し切り離されているようである。


 特に不快感を覚えている様子はなく、このままでも十分という様子であった。


「片倉」


 不意に若松が呼び掛ける。タバコはすっかりなくなり、もう火を消して捨てていた。


「何ですか?」


「……いつまでここに?」


「若松さんがいるまで、ですかね」


「帰るまで、ずっとか?」


「そこまでですか……」


「一人で戻りたくない」


 そう言って動く気配を全く見せなかった。


 するとそこへ、トイレへと向かう桂木がやって来た。


「あれ、若松も片倉もそこにいたんだ。全然戻ってこないからどっちかが限界かと思ってた」


「そんなことないですよ。ヤニ吸ってただけです」


「あれ、若松はやめたんじゃなかったっけ?」


「……本数は減った」


「そっか。早いところ戻らないと岡崎さんと鍋食べつくすからな」


 それだけ残して桂木は去っていった。


 自分たちが色々考えてここにいるという苦労を一切理解していないという様子に、怒りのような感情を抱いたがそれもすぐにどこかへ行ってしまった。


 桂木の自然な様子を見ていると、そんなことなどどうでもよくなってしまっていたのだった。


 クスクスと二人で笑いながら結論はまとまっていた。


「一旦戻りますか」


「鍋……」


 二人は同時に立ち上がり、何事もなかったかのように席へと戻っていった。


 そこには、半分より多く食べつくされた鍋と一人酒を嗜んでいる岡崎がいるだけである。


 戻ってきた二人の姿を見つけるなり、笑みを浮かべて座るように促した。


「遅かったな」


「ヤニ吸ってました。あ、まだ鍋残ってたんですね」


「おう。冷めてきたから少し温めるか」


 コンロの火を付けて再び熱する。


 中途半端に温まっていたため、強火ですぐに火が通っていく。汁がぐつぐつと言い出すと、若松の手はすぐに伸びていた。


 かなり食べてきたとは思えない量をよそうと、勢い衰えずにどんどん口にしていく。


 そしてようやく片倉は鍋を口にすることができた。他の三人にかなりを食べられてきたので、あんこうは小さいものばかりしか残っていなかったが、丁寧に拾い上げていく。そうして鍋には野菜のみが残っていた。


 若松が半分ほど食べきったところで、ようやく片倉も口にしていた。


 煮えて味が少し濃くなっていたようだったが、それでも絶妙な味わいは彼を唸らせた。飲みかけだった酒にも手が伸びていく。


 そうして二人はあっという間に酒まで飲み尽くしてしまった。


 若松は、片倉が残していた野菜を全て掬い、鍋の中を汁だけにしてしまった。


 そこへ桂木が戻ってきた。


「あれ、もう鍋終わっちゃった?」


「俺ので最後」


「まぁまぁ。鍋といえば最後はシメだろ」


 そう言うと、岡崎は店員を呼んだ。


 すぐにやって来ると、岡崎の注文をしっかりととっていた。


「他に何か頼むか?」


「八海山をグラスでお願いします」


「もう一つ」


「八海山のグラスをお二つですね。他にはよろしいですか?」


 桂木は自分のグラスに残っている酒の量を確認する。少し物足りないが、頼んだら飲み切れるのかといったところであった。


 どうしようかと悩んでいたら岡崎が先に注文していた。


西條鶴さいじょうつるをグラスでお願いします」


「……あ、俺もお願いします」


「西條鶴のグラスをお二つですね。お済みの食器をお下げしますね」


 鍋と鍋の中身を入れていた器と箸以外の全ての空になっていた器を下げ、テーブルの上はすっきりした様子であった。


 若松以外の三人は、ちびちびと残った酒を飲んでいた。だいぶ満足したようで、上機嫌になっていた。


「片倉と若松はだいぶ席外してたみたいだけど、美味かったか?」


「はい。シメもどんな感じなのかすごい楽しみですね」


「今日も、最高でした」


「桂木は今日初めてだったが、酒の味含めてどうだった?」


「酒も!? そりゃ、後悔するくらい最高。それだけっすよ」


 そんな調子で再び会話が盛り上がっていた。


 桂木を見つめる岡崎の視線、それに気付かずにじっと見つめる桂木の視線。それぞれ特別な想いをは持っていたが、それに気付いているのは他人事として見ている片倉と若松だけであった。


 適当な相槌を打ちながら、先ほど二人だけで会話していたことを再び思い出していた。


 それでも、この場から動こうとしないのは、再び席を外したらもう戻ってこれない気がしたからである。


 二人は大人しく微妙な空気の中残っていたのである。


 しばらく手持ち無沙汰でやり取りを聞き流していると、ようやく店員が注文したものを持ってきてくれた。


 若松は注文した酒に、片倉はシメのごはんに飛びついて動かしていく。


 再度火を付けた鍋はすぐに沸騰し、さっとごはんが入れられる。


 白をなくすように全体をほぐしながらゆっくりと火を通していく。


 その光景を岡崎と桂木もすっかり見入ったようで、酒を口にしながら眺めていた。


「……あの、そんなに見られるとちょっと恥ずかしいんですけど」


「えっ、あっ、ごめんごめん。片倉は本当に上手いなーって思ったからつい」


「俺が下っ端なんで慣れてるんで」


「そういえばいつも率先してやってもらってたな。ありがとな」


「どういたしまして、桂木さん。岡崎さん、できたんでよそいますよ」


 片倉は岡崎の方に手を差し出し、器を渡してもらうよう促す。


 自然と差し出された手に器を渡し、一人分を入れてもらう。


 汁を吸ったごはんがどろりとしたものとなって入っていく。味噌の風味が彼を刺激し、真っ先に口にしていった。


「美味い。いい具合だ」


「それはよかったです。あ、桂木さんもどうぞ」


「おう」


 次に受け取った桂木も一口入れる。岡崎と同じような反応を示し、次々と口にしていく。


 合間に酒を挟み、少し休憩する。果物のような甘みの強いそれは、まるでデザートのようなものである。鍋とは違う刺激が、またそれで桂木には心地よかった。


 そして再び鍋を口にして全てたいらげると、全員分よそい終わっていた。


 桂木はおかわりのために自らよそっていく。すると、岡崎も同じことを思ったようで待っている様子だった。


「岡崎さん、俺がよそいますよ」


「ありがとな」


 遠慮なく、と差し出されて同じようによそっていく。すぐによそい終わり、器を返す。


「残りは……若松が食べるか?」


「もちろん」


「了解」


 桂木はお玉を若松の方に向けて置き、よそったものを口にしていった。


 美味い以外の言葉がほとんど出てこない四人。その表情は幸せが溢れている。


 そのまま全員食べ終わり、各々が残りの酒を嗜んでいた。


「ふぅー。美味かったー」


「桂木も満足そうで嬉しいよ。また来てくれよ」


「そりゃもちろんですよ。店っていつも違うんすか?」


「そのときの気分で変えてるな。この店は俺のお気に入りだ」


「こんなに美味ければ俺もっす」


 再び二人の会話が広がっていくが、酒がもうほとんど残っていなかった。


 それに気付いた片倉と若松も、飲むペースを少し早めて合わせていく。そろそろお開きになると察していたようだ。


 最初に飲み終わったのは若松だった。自然に飲み終わったように装い、そっとグラスをテーブルに置く。


「……ごちそうさまでした」


 ボソリとそう呟き、もうこれ以上食べないということを示した。


 その次に片倉、桂木が飲み終わり、最後は岡崎という順番になった。


 話しながら一息付き、ある程度胃が落ち着いたところで岡崎は店員を呼んだ。


「岡崎さん、本当に奢りでいいっすか?」


「いいぞ。桂木が参加してくれた記念だ」


「やった! 岡崎さん、ごちそうさまでした」


 テーブルに額が付きそうなくらい深々と頭を下げる桂木は、しばらくそのままの姿勢でいた。


 顔を上げるよう岡崎に言われ、ようやく元の位置に戻った。酒に酔っている様子で、少々フラフラしているようにも見える。


 だが、特に誰も気にする様子もなく、店員によって伝票が運ばれてきた。


 岡崎は金額を確認すると、財布からカードを取り出して店員に渡した。


「今日は楽しかったか。また次も来てくれよ」


「はい、もちろん行きます。まだまだ岡崎さんから教えてもらうこといっぱいありますし」


「あはは。そう言ってくれるのは嬉しいよ。次も期待しておけよ」


「俺も次回の飲み会、楽しみにしておきます」


「美味いもの、楽しみです」


 片倉と若松も楽しみにしていることを伝える。


 それは事実でもあり本心でもあったが、二人がそれ以上に望んでいることは、岡崎と桂木が完全に二人きりで食事を楽しむことであった。


 その思いを胸に秘めたまま今日の感想を伝えていくと、岡崎はとても嬉しそうは反応を示していた。


 また別の機会に美味しいものを堪能しよう。そう決めた二人は、流れに合わせた会話を続けた。


 しばらくすると会計を済ませた店員がやって来て岡崎のカードを返した。


 それを合図にしたように、身支度をして四人は店から出ていく準備を始めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る