第五.五膳 記念日(弥生side)
その日は張り切っていました。
今日こそ地中にいる古生物の声を聞く、って早朝から歩いて山に登ったのです。
楽しみすぎてご飯が喉を通らなくて結局朝ご飯を抜いてしまったこと、そして夢中になりすぎて昼ご飯を食べ損ねたのもいけなかったのでしょう。
家につく直前で、バッテリーが切れたおもちゃみたいに、体が動かなくなってしまいました。
運悪く今夜は人通りはなくて、私はこのままこの場所でひっそりと……なんて思うと虚しくて泣いてしまいそうになりました。
「君、大丈夫?」
その声は、天からの救いなのなと思いました。
それとも……天使の、声? 私、天に召されるのでしょうか……。
「こんな所でどうしたの?」
ありったけの力で顔を向けると、私より少し年上の男の人が、気怠そうな目で私を訝しげに見ていました。黒い髪は整髪料で整えられていて、ポロシャツにカーゴパンツというラフな服装に大きめのトートバッグを持っています。
「お……」
「お?」
「……お……」
「……お??」
ダメです、お腹が減って喋る力も残っていません。
その時、私のお腹がぐぅぅぅぅと鳴りました。恥ずかしくて顔を伏せていると、頭上から「ああ、そういうことか」と声がしました。どうやらお腹の音が、私の口の代わりに空腹で突っ伏していることを教えてくれたようです。
「何かご馳走するよ」
「えっ」
「とは言っても大したものは作れないけど」
「で、も……」
「このままここに倒れてるつもり?」
うぅ、見知らぬ男の人の家に上がり込むなんて……でも、これを断ったら飢え死に確定です。
それに、男性の目には下心とかそんな薄汚いものを感じませんでした。優しさと同情だけで私に声をかけてきたのでしょう。この人は大丈夫、私の本能はそう伝えてきます。
「立ち上がれる?」
私の目の前に、大きな手が伸びてきました。
節くれだった男らしい手と、男性の顔を交互に見て、その手を取りました。
「せーの」
引っ張り上げる力は強くて、私の体はいとも簡単に持ち上がりました。なんとか二本の足で立ち上がるのを見届けると、男性は私の手を離しました。
「家、すぐそこだから。歩ける?」
こくん、と頷くと何も言わずに前をずんずん進んでいきます。男性の背中を追いかけていけば、なんと美味しい焼きおにぎりのお茶漬けが出てきました。何故だか男性の顔は強張っていて、お茶漬けを食べる私をじっと見つめてきます。
あったかくて五臓六腑に染み渡る、優しい味……。
美味しい、と呟いた私を見て男性の顔は綻びました。
本当はとっても美味しかったことと助けてくれたお礼を言うべきなのに、私の口からついで出てしまったのは……。
「アノマロカリスはどんな味がするかな……」
古生物のことになると話が止まらなくなってしまうのは、昔から悪い癖でした。この日も、お茶漬けでエネルギーチャージした私の口は止まらなくて。
でも、男性は私を馬鹿にして笑うことも、気持ち悪いと罵ることもしませんでした。若干引いていた気はしましたが、学芸員仲間以外でちゃんと話を聞いてくれたのは初めてで、とっても嬉しかったのを覚えています。
「清水、理一さん、か」
帰り際、教えてもらった名前を独言ていました。その名前を口にすると、なんだかくすぐったくて。親切な方が大都会にもいるんだな、としか思っていませんでした。その時はまだ。
先日のお礼に、と博物館名物三葉虫クッキーを手土産に再訪した時。迷惑だったろうにウミサソリの被り物をかぶってくれました。
気怠そうな目はいつもなのでしょう。三十歳くらいの男性が、ウミサソリの被り物をして三葉虫クッキーを品定めする姿がシュールで、でも可愛くて。
ずっと見ていたくなりました。
スーパーでばったり会った時、夕食はサンドイッチ一個で料理が苦手なことがバレてしまうのが恥ずかしくて。咄嗟にカゴを隠したけれど理一さんにはお見通しだったみたいです。
「これから毎日、弥生ちゃんにとびきりの夕食を作ってあげるから」
ねぇ、理一さん。その言葉、どんなつもりで言ったのですか?
きっと理一さんは下心なんてないんでしょう。ただ、理一さんは人助けのつもりで言ったのでしょう。
理一さんは優しい人だから。
私がシチューを食べられなくて出ていっても非難することはなく、それどころか私の夢を応援してくれて。
そんな優しい人が作る料理が、美味しくないわけないんです。
Tシャツの裾から伸びる腕は逞しくて、でも餃子を包む指先はとても繊細に器用にヒダを作っていくのです。
翌朝、理一さんが使っているベッドで寝ていたことを知った時。その逞しい腕で抱えて運んでくれたのだと思うと、胸が早鐘を鳴らしたのです。
この胸の高鳴りの正体を、こんな私でも知っています。
だから、今夜はちらし寿司を食べたかったのです。
我が家では記念日にはいつもちらし寿司が食卓を彩っていましたから。
今日は、理一さんに恋をしたことを自覚した、私だけの秘密の記念日。
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