第五膳(前編)お出かけとちらし寿司
餃子作りが相当楽しかったのだろう。洗い物をしてリビングに戻ると、弥生ちゃんはアノマロカリスのぬいぐるみを枕に机に突っ伏して寝ていた。
眼鏡は鼻からずっこけて、時折「そんなにピカイア食べれないよォ」なんて寝言を言っている。夢の中までアノマロカリスになりきってる。無邪気だなと笑ってしまった。
ブランケットみたいなお洒落なものは生憎持ち合わせていなかったから、パーカーを肩にかけてやる。ずれた眼鏡を外してあげると、長い睫毛が扇状に広がっていることに気づく。
綺麗だな、なんて暫くぼうっと眺めてしまって我に返る。人様の寝顔をじいっと見るなど、なんて失礼な男だ。
しばらくしたら寝にくくて起きるだろうと思っていたが、風呂からあがっても弥生ちゃんは夢の中。起きそうにない。
あまりにも気持ちよく寝ているから、無理やり起こすのも気が引けて。だが絶対にその体勢では、寝づらくて夜中に起きてしまうだろう。
だから、弥生ちゃんを起こさないようゆっくりと横向きに抱いた。
アノマロカリスは離してくれなさそうだ。いつも一緒に寝てるんだろうか。本当に羨ましい奴め。
ベッドに静かに下ろすと、弥生ちゃんは一瞬身じろいだが、またすぐに寝息を立てた。
そっと寝室を後にして、この家の家主である俺は床に直に横になった。
ソファーなんて一人暮らしの部屋には贅沢だと宣っていた過去の自分に会ったなら一言物申したい。
買うんだ、渋っていたあの赤いソファーを買いなさい。でないと後悔するぞ。体中がバッキバキになって不快なままに朝を迎えることになるのは、俺自身なんだからな。
◆◆◆
朝起きて『おはよう』のあいさつをするのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
弥生ちゃんは昨日ベッドを使ってしまったことを必死で謝ってきたけれど、俺は爽やかな笑顔で「大丈夫だよ」と返した。体、バッキバキだけど。
朝食を人のために作ったのも久しぶり。
とは言っても簡単なものだ。納豆に、半熟の厚焼き卵、豆腐とほうれん草の味噌汁に、ほかほかの白いご飯。
「理一さんは、お仕事大丈夫なんですか?」
「今日は休みだから」
働いている介護施設はシフト制。今日は月曜日だが俺は休みになっている。
「私も、です」
弥生ちゃんが味噌汁を啜りながら、か細く声を発した。
何秒かの沈黙の間、お互いに視線がぶつかり合っていた。目は口ほどに物を言うとはよくいうが、弥生ちゃんの視線から察するに……。察するに…………。その目は何を訴えてるんだ??
「あのっ、今日の晩御飯は何ですか?」
しびれを切らした弥生ちゃんの言葉に、俺は少しだけ驚いた。晩御飯は何かと聞かれたのは久しぶりだった。それに。
「何が食べたい?」
そう聞くのも久しぶり。
そして返ってきた答えに固まったのも久しぶりだった。
『ちらし寿司』
それがリクエストだった。お、おう。ちらし寿司ね。
なかなか渋いリクエストで。
まぁ寿司よりはハードルが低いか。いや、むしろ高いか?
どの程度本格的に作るかにもよる。
そもそもちらし寿司っていろいろ種類があり過ぎるし。
とにかく見た目はきれいに仕上げたいところ。
と、そんな俺の胸中を知るはずもなく、期待に目を輝かせて見上げてくる。
その様子からして、ちらし寿司には何やら思い入れがありそうな様子だった。
そういえば、ちらし寿司を作るなんて何年ぶりだろう?
そもそも具材は何を入れてたんだっけ?
刺身系の具材は大丈夫なのかな?
これだけ頭を使う料理も珍しい。
そうだ。それをいっぺんに解決する方法があった。
「よし、お互い休みなら、今日も一緒に買い物に行こうか」
◆◆◆
「あの」
「何?」
「理一さんがよければなんですが、昨日言ってたトレーニング、今日、行きませんか?」
行く、と即答してしまった。だって気になるし。腕力の秘密を暴きたいし。
服は普段着で大丈夫です、と言われて、現地で服はレンタルする系のスポーツなのだろうかと考えを巡らす。
昨日の服のままの弥生ちゃんは、着替えをしに家に帰ると言ってきた。だから、家まで送ってそのままトレーニングの場所まで行こうって提案して。車の助手席に乗せた。
よくよく考えると、この車に変えてから女性を乗せたことなかったな。心の中の言葉を、知らぬ間に呟いていたらしい。
「初めてが……私でいいんですか?」
弥生ちゃんが恐縮して少し恥ずかしそうにしている。
「良いんだよ」
「彼女さんに怒られたりとかしません?」
「俺、彼女いないから」
「いない、んですか」
心なしか弥生ちゃんが微笑んだ気がする。何の笑み? それはどういう意味の笑顔なんだ?
彼女いないんだ、へー、やっぱりね、っていう感じ?
まあ何でもいいか。彼女いないの事実だし。
弥生ちゃんに案内してもらいながら、車を走らせる。
いつも部屋でふたりきりの空間にいることに慣れているはずなのに。胸のざわめきが止まらないのは、車内の狭い空間だから弥生ちゃんを近くに感じてしまうからだろうか。
弥生ちゃんの住むアパートは、車で十分もかからない所にあった。
「博物館から家まで歩きで通ってるの?」
「はい、私は車持っていないので」
「夜恐くない?」
夜中の女の子の一人歩きなんて危なくて仕方ない。そう思っていたら弥生ちゃんはリュックからアノマロカリスのぬいぐるみを引っ張り出した。
「平気です。この子と話しながら帰ってるんで」
なるほどね。アノマロカリスのぬいぐるみに話しかけてるってだけで、防犯になりそう。ぬいぐるみに話しかけてるなんて、側から見たらさ不思議ちゃんだからね。話しかけたらやばい奴だろうなって思ってしまうよね。そのアノマロカリス優秀だな!
「アノマロカリスは喋ってくれるの?」
ふと、アノマロカリスとふたりきりの時に話しかけられたことを思い出した。俺が聞いたあの声は、こいつからだったのかすごく気になる。
「喋りませんよ。ぬいぐるみですからね」
「だよね」
だとしたらさ、あの声は何だったんだ?
「私がアノマロカリスと話をする時は、自分の悩みを聞いてほしい時とか、考えがまとまらない時です。アノマロカリスに話してるだけで、なんとなく答えを教えてくれる気がして。その時に声が聞こえてきたりします。自分の内なる声、みたいな感じですね」
内なる声、か。なるほど、あの声は俺の心の声だったのか。すごくいきがった声だったけど。俺の深層心理はやんちゃ野郎なのか?
弥生ちゃんの準備が終わるのを車で待っていると、慌ただしく助手席の扉が開いた。
「お待たせしました!」
隣に乗り込んだ弥生ちゃんから、優しいシャンプーの香りが漂ってくる。
「じゃあ、行こっか」
「お願いします!」
薄化粧した弥生ちゃんが向けてくる笑顔が眩しくて、視線を逸らしてしまう。その先にいたのは、弥生ちゃんの膝の上にちょこんとのったアノマロカリス。朝も夜も弥生ちゃんに抱きかかえられてるなんて、やっぱり羨ましい奴だな、こいつ。
前世でどんな徳を積んだらその座にいられるんだ。というより、ぬいぐるみに前世という概念はあるのか?
「理一さん、どうかしました?」
「え? いや、何でもない……行こっか」
「はい、お願いします?」
アクセルを踏んで大通りに出る。弥生ちゃんが案内してくれる道をひたすら運転していけば、いつの間にか山道を走っていた。
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