第四膳(前編)餃子と共同作業

「「ごめん……痛っ!!」」


 ドアを開けた瞬間、下げた頭どうしがぶつかって鈍い音がした。ふたりして痛みを堪えて涙目になりながら「ごめんなさい」と「大丈夫?」の応酬が五分くらい続き、ようやく口を閉じて沈黙が漂う。


「俺が間違ってた」

「私こそ、折角作ってくれたのにあんな言い方をしてしまって……」

「弥生ちゃんは悪くない。自分が作ったレシピで克服できたからと言って、相手もそうだとは限らないわけだし」


 自分がおいしいと思ったものを人に食べさせたい。俺が考えていたのはそればかりで、相手に対する思いやりが欠けていた。


「俺はそもそも料理人になんて向いてない。失格だったんだ」

「それは違います!」


 一通り思ったことを口にすれば、弥生ちゃんは首をぶんぶん横に振った。


「理一さんの作る料理は、本当に美味しいんです! 失格だなんて言わないでください」

「……ありがとう。でもさ、お客様のことを考えることができない時点で、失格なんだよ。弥生ちゃんに出会えてそれに気づけて良かったと思えた。だから、あの約束をもう一度取り付けていいかな?」

「約束?」


 首を傾げる弥生ちゃんの目を、真っ直ぐ見つめる。真剣なのだとわかるように。アノマロカリス、脇に抱えてるけど。頭のぶつけた部分がひりひりするけど。


「とびきり美味しい夕食をご馳走様するって約束。弥生ちゃんの為の、弥生ちゃんが満足できる最高の料理を今度こそ作るから」


 ふたりでたくさん話そう。何が好きとか嫌いとか。どうとしたいとか、したくないとか、なんでもいい。とにかく弥生ちゃんのこと、全て知りたいんだ。


「……明日、究極の餃子を作ろう。ふたりで」


 まずは『やり直し』の料理を作る。弥生ちゃんとの関係もそうだし、俺がもう一度きちんと料理に向き合う為にも。明日から、全てリスタートだ。


「究極、の?」

「そ。俺は弥生ちゃんが満足する料理が作れるまで諦めない。だからさ、弥生ちゃんも諦めてほしくないんだよ」


 俺の夢は頓挫してしまったけれど。弥生ちゃんの夢は絶対に叶えてほしいんだ。

 小脇に抱えていたアノマロカリスを、弥生ちゃんへと掲げた。


「古生物の魅力をたくさんの人に伝えるって夢。苦手な人は確かにたくさんいると思う。でも、その中には食わず嫌いな人もいるんじゃないかな。少なくとも俺は、最初はアノマロカリスとか分からなくて『何だコイツ』って思ってたけど、よくよく見てたら可愛いなって思えてきたし。ただ、知ったとしてもダメな人もいると思う。弥生ちゃんにとっての牛乳みたいに。苦手なものは苦手なままで仕方のないことだ。人間ひとりひとり感性が違うから、それをちゃんと受け入れなくちゃいけない。けどさ、地球には七十億人をはるかに超える程の人間がいて、まだ古生物のことを何にも知らない人が大勢いて。その人達の為に古生物の魅力が届くように発信し続けなきゃ。自分が発信したものを通じて、名前も知らない誰かが古生物を好きになってくれたら最高だろ? だから、弥生ちゃんは絶対にここで諦めちゃダメだ!」


 君はまだ夢を追いかけることができるだろ?

 俺とは違う。弥生ちゃんの古生物への愛は、純粋そのものなんだから。


 眼鏡の奥の瞳が潤んで、部屋の光を反射している。その光が澄み切っていて綺麗だと思った。宝石、みたいだ。

 ひとつ瞬きをすれば一筋の涙が頬を伝っていく。惚けていると、目尻から雫が次から次へとこぼれ落ちていく。

 決壊していくその姿が儚げで、止めなくてはと咄嗟に動いた。

 細い体を抱きしめようと近づくと、弥生ちゃんが先に両手を伸ばしてくる。


 弥生ちゃんは、俺——ではなく、俺の手からアノマロカリスのぬいぐるみを奪い取り、ぎゅうぎゅうに抱きしめていた。

 弥生ちゃんを抱きしめようとした俺の両手は相手を失い、虚空をあてもなく彷徨って、自分の胸の前で両腕を組むことで落ち着いた。

 なんか、自分自身を抱きしめて慰めてるみたいで悲しくなってくるよ。アノマロカリスが羨ましい……いや、待てよ。弥生ちゃんの腕力をすっかり忘れてた。


 抱きしめてるアノマロカリスのウエスト(そもそもウエストなど存在するか分からないが)辺りが原型を止めないほどぎゅうと絞られ、苦しそうだ。もしそれが俺の体だったら、背骨と肋骨が折れるんじゃないか?

 そもそも何で弥生ちゃんは腕力強いんだ。それも後で聞かなくては。


 弥生ちゃんが抱きしめている相手に選んだのがアノマロカリスで良かった、と心底ほっとしてしまった。



 ——次の日の夜。

 待ち合わせは行きつけのスーパーの前。何故ならば情報収集の為。好みの食材を片っ端から知る。まずはそこからだ。


 餃子を選んだのには訳がある。

 ふたりで料理を作るのは良いコミュニケーションになる。餃子の皮を包む作業は簡単だし、いろんなアレンジができる。餡はもちろん、タレだって。弥生ちゃんの好みのものに変えられる。


 仕事帰りだから、Tシャツにカーゴパンツというラフな格好でスーパーの前で突っ立っていると、遠くから弥生ちゃんが駆け寄ってくる姿が見えた。

 走ってきてくれている、それが嬉しいやら申し訳ないやらで半笑いの中途半端な顔になる。


「お待たせしました!」


 昨日の涙はもうそこにはない。弥生ちゃんは晴れやかな笑顔を浮かべていた。弥生ちゃんの涙は宝石みたいだったが、やっぱり笑顔の方がよく似合う。そんなことを思っていたら、俺の胸が妙にざわついてしまっていた。


 スーパーを野菜コーナーから巡りながら、食材を買い込んでいく。弥生ちゃんの好きな物はだいたい把握できた。

 牛乳はダメでもチーズは大丈夫、生のトマトはダメでもトマト煮込みにすれば食べられる、しわしわの梅干しはダメでもカリッカリの梅干しなら良い。

 こうして聞いてみると人の好みって面白い。何で今まで気づかなかったんだ。損してたなぁ、俺。


 会計を済ませて食材をエコバックに詰め込んで、いざ家へ。


「俺が持つよ」

「いえ、私が持ちます!」


 女性に重たいものは、と言葉が出かかって、そっか弥生ちゃん腕力強かったよなと思い出す。


「そういえば、弥生ちゃんってトレーニングでもしてるの?」

「え、何故それを??」


 分かるよ、普通に生活してたらそんなに腕力強くならないからね。


「そうだ! 今度理一さんも一緒にトレーニングしませんか? 日頃の仕事のストレスも解消できて良いですよ?」


 弥生ちゃんの言うトレーニング……きっと俺の斜め上をいくものに違いないのだけれど。その腕力の秘密、めちゃくちゃ気になってるんだ。


「分かった」

「今度お休みの日を合わせて行きましょ! 楽しみにしてますね」


 楽しみにしてる、とはお世辞ではなくて本心なのだろう。弥生ちゃんのわくわくした笑顔からすぐに分かる。


「俺も、楽しみ」


 ぽろりと本音が淀みなく口からこぼれ出た。弥生ちゃんが楽しそうな顔をしていたら、自然と俺もそう思えてきたんだ。

 荷物は俺が私が、と押し問答を繰り返して、ふたりで取っ手を片方ずつ持つことで同意した。

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