第三.五膳「君の料理には配慮が欠如しているよ」
東京の老舗ホテル『ホテル紫蘭』。そこのレストランが俺の元職場だった。
調理専門学校を卒業すると、新人は洗い場から始まる。誰よりも早く出勤して、厨房内を隈なく掃除をする。
宿泊客の朝食提供が始まれば、厨房は戦場だ。洗い場担当の新人は下げられた皿や調理器具を洗って洗って洗いまくる、そして時折シェフから飛んでくる指示を仰いで調理補助をする。
朝食から夕食まで休む間もなく働き詰めて音を上げる者もいたが、俺はめげなかった。お願いされた仕事はキャパオーバーだったとしても引き受けた。
心身共に疲れていたけど。
俺が作った料理で笑顔になってほしい。
そんな夢があったから、今にも千切れそうな心を繋ぎ止めることができていたのに。
二年前。副料理長の席に空きができて、当時のシェフ達の中から選ばれることになった。
俺の名前が呼ばれるだろう、などと思っていれば、呼ばれたのは三年後輩の女性だった。
「総料理長、何故俺じゃないんですか!」
誰よりも頑張ったのに。
納得がいかなくて食ってかかれば、総料理長は表情ひとつ崩すことなくはっきりと言ったんだ。
「君の料理には配慮が欠如しているよ」
配慮、って。思いやってるよ。なのに、何故それを感じてくれないんだ。
その時プチン、と切れたんだ。
夢へと繋いでいた心の中の糸が。
心も体も限界に達していたから、総料理長からの言葉ですぐに崩れていったんだと思う。
シェフを辞め、お酒に走り、家にあった調理器具は全部捨てた。
そんな自堕落な生活を送ること一年半。見るに見かねた友人が無理矢理、俺を部屋から引き摺り出して何度か説得されて。その友人が厨房を取り仕切っている介護施設の職員として働くことになった、無理矢理。
始めは厨房に入らないかと言われたが、断った。酒のせいで舌が多分バカになってたし、料理に向き合うのが怖かったし。
だから、弥生ちゃんにお茶漬けを作ったのが、誰かの為に作った久方ぶりの料理だった。
味に自身はなかったけれど、弥生ちゃんが「おいひぃ」って目を輝かせてくれて。
たぶん驕りが出たんだろう。今回のシチューも絶対に食べてくれるはずだって。
配慮の欠如。
今になって総料理長から言われた言葉が身に染みる。
このレシピで俺は牛乳嫌いを克服できたから、弥生ちゃんも大丈夫だって思い込んでいた。
でも、そのレシピは俺専用のであって、弥生ちゃんに寄り添ったものではなかったんだ。
苦手な理由は人それぞれある。弥生ちゃんが何故牛乳が嫌いなのか、どんなものなら食べられるのか、ちゃんと聞かなかった。配慮に欠けていた、ようやく気付いたんだ。
『気づくの遅すぎだろ』
「……は?」
誰か喋った……?
若めの、いきがったような男の人の声。だが部屋には俺しかいないはず。
ふと目が合ったのは、アノマロカリスのぬいぐるみ。
そっと抱きかかえて、黒目がちの瞳を覗き込んだ。
「お前……喋れるのか?」
恐る恐る聞いてみると——。
アノマロカリスは何も喋らなかった。
そりゃそうだ。ぬいぐるみなんだから。
「喋るわけないか」
視線を落とせばカピカピになったシチューが嫌でも目に入る。弥生ちゃんが一舐めしたスプーンにも、シチューの白がこびりついていた。
去り際の弥生ちゃんの涙と、「おいひぃ」と言って微笑んだ顔が交互に押し寄せて頭から離れない。
『何ぐずぐずしてんだ。さっさと追いかけやがれ、ボケナスが』
やっぱり喋ったよな、コイツ。そういえば、弥生ちゃんは楽しそうにアノマロカリスのぬいぐるみに話しかけていたっけ。やっぱり、大切にされているから心が宿ったに違いない!
「……って、今はそれどころじゃないよな」
早く追いかけないと。このままさようならじゃ呆気ない。ちゃんと謝らなければ。
アノマロカリスのぬいぐるみを小脇に抱えて玄関の取手に手をかけた、と同時にインターフォンの音が控えめに鳴った。
覗き穴の向こうには、気まずそうに俯いている弥生ちゃんの姿があった。
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