第三膳(後編)ダメなものは一生ダメ

 俺は牛乳の後味が嫌だっだ。

 いつまでも口に残る甘ったるいような独特の匂いと風味だけでなく、体に良いからと給食に必ずついてくる無理矢理感も牛乳嫌いに拍車をかけた。

 牛乳を飲めば背が伸びるだの親にしつこく言われて正直うんざりした。牛乳飲まなくても、それなりに身長は大きくなったし。


 だが、料理人を目指すにあたって牛乳を使う料理を作ることも増えてくるだろうと思って。夢のために一番身近なシチューを使って、試行錯誤を繰り返した。

 牛乳の甘ったるい後味をあっさりとしたものにできないものかと。


 たどり着いたのは、魚介を白ワインで煮込んだスープとホワイトソースを合わせるというもの。

 使う白ワインはキリッと引き締まった辛口のシャルドネ。魚介の風味を損なわずにお互いの味を引き立ててくれるし、牛乳の後味も緩和してくれる。

 そして極め付けは、味のアクセントにもなるペッパーミルで挽いたホワイトペッパー。

 甘ったるくない大人のシチュー、俺自身もこれで克服できたようなものだし、牛乳嫌いの人達に好評だった。


 だから自信があった。弥生ちゃんもきっと、このシチューなら食べられる。


 弥生ちゃんは銀色のスプーンの先についた白いシチューと、俺の顔とに交互に視線を送ってくる。

 覚悟を決めたのか、大きく深呼吸をして「いきます」と宣言した。

 恐る恐る、スプーンの先を口に近づけていく。

 まるで猫のように舌をちろっと出して、シチューを舐めた。


 フリーズして数秒。弥生ちゃんは、スプーンを置いてしまった。罰が悪そうに俯いて、深々と頭を下げてしまった。


「すみません……やっぱり、食べられません」

「……え?」


 俺も、フリーズしてしまった。

 自慢のレシピだったから、絶対に弥生ちゃんにも受け入れられると思って疑わなかった。

 気まずい沈黙が漂う。理解できないままに「そっか……」と呟く俺の、情けないほどぼそっとした声がどんよりした空気の中を落ちていく。


「……学生時代、お付き合いしてた人がいまして」


 何を言うかと思えば突然の過去の恋愛話に、俺は拍子抜けしてしまう。


「私の一目惚れだったんですけど……思い切って告白したらオッケーしてくれて。明るくて、優しくて、みんなから好かれる好青年で、頭も良い人で。会う度に話す度に、どんどん好きになっていきました。でも」


 言葉を区切った弥生ちゃんは、怪しく眼鏡を光らせて俺を凝視した。


「アノマロカリスちゃんを馬鹿にしたのだけは許せなかったんです」


 そうだね、弥生ちゃんはアノマロカリスのことがとっても大好きなんだよね。恋人よりもアノマロカリスの方が上位なんだ。

 例のごとく隣に座らせたアノマロカリスの頭部を愛おしそうに撫でている。アノマロカリスに向けられた心無い言葉によって傷つけられた心を慰めるように。

 ぬいぐるみ、だけど。大事にされたものには心が宿るとか言うし。たぶん、いや絶対にそのアノマロカリスのぬいぐるみには心が宿っているに違いない。


「私の部屋に来た時、アノマロカリスちゃんを見て『気持ち悪い』って言ったんです。酷いじゃないですか。人の容姿を見てその人の目の前で『気持ち悪い』って普通言いますか? 言いませんよね?」

「もしかして、それが理由で別れたの?」

「当たり前です! その場できっぱりとお別れしました」


 当時のことを思い出したのか、弥生ちゃんは鼻の穴を膨らませて憤慨している。だが、すぐに怒りは鎮まって、今度は肩を落として酷く落ち込んだ。


「でも、古生物がダメな人がいるというのも事実ではあります。それは認めなければいけません。それでも、嫌いなものもいつか好きになる日が来るんじゃないかって心の中ではずっと思ってたんです。私はそれを信じて、古生物の魅力をたくさんの人に知ってもらうために学芸員になりました」


 弥生ちゃんは俺が作ったシチューに目を落とす。

 一舐めしかされていないシチューは、表面が少しだけ固くなってしまっていた。


「私の牛乳嫌いも大人になったらなくなるってどこかで思ってましたが、何をしてもダメでした。理一さんが作ってくれたものなら、もしかしたら食べられるんじゃないかと……だけどやっぱり……牛乳が入ってるって思うだけで、もう、無理でした。きっと古生物だってそうなんですよね。私がどんなに頑張った所で、相手が生理的にダメって思ったら一生ダメなんです。それを、今思い知りました」


 椅子から力なく立ち上がった弥生ちゃんは、もう一度深く深く頭を下げてくる。


「折角作っていただいたのに……本当にごめんなさい」


 声が震えていたのは、申し訳なさで泣いていたからだろうか。それとも別の理由で……。

 俺の顔を見ることなく、黒いリュックを引っ掴んで弥生ちゃんは家を飛び出してしまった。


 俺は、弥生ちゃんを追いかけることはできなかった。

 テーブルに置かれたふたつのお皿の上で、シチューは完全に冷えてカピカピになっている。追いかけられなかったのは、シチューを食べてくれなかったショックだけじゃなくて、俺も思い知ったんだ。何故、俺じゃなかったんだってことを。


 ふと視線を感じて見れば、アノマロカリスのぬいぐるみが俺を見つめていた。


 大好きだった恋人よりも、アノマロカリスをとった弥生ちゃんがそのぬいぐるみを置いていってしまったということは。それくらい彼女も動揺していたのだろう。

 古生物の魅力を伝えたい、きっと弥生ちゃんの大きな夢だったに違いない。

 夢が呆気なく散る様を俺はよく知っている。だから、弥生ちゃんが感じた絶望も手に取るように分かる。


 ダメなものは、一生ダメ。


 弥生ちゃんの言葉をなぞれば、胸の奥にしまっていた古傷が疼いて仕方がなかった。

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