第5話 彼の女の死

四章 彼の女の死



食堂の中は静寂に包まれていた。

コツコツと、赤津が飲み物を運ぶ靴音だけが響いている。

希望したのは敦だけだったので、折れていない方の手だけを使えば良かった。

着席しているのは深見家の人間―もう直系は司しかいないが―だけだった。

誰もが赤津の顔を気にしながら、居心地悪そうに座っている。

つまり、後ろめたいのである。

現実に目が眩み、あまりにも短絡的な理由で赤津を犯人にしてしまったことが後ろめたく感じている、というわけである。

当の赤津は何も気にすることなく、少なくとも居石にはそう見えていた。

給仕の態度も、軟禁されていた時と何も変わらず、柔和な笑顔と気遣いが見えていた。

居石は立ってそれを黙って見ていた。

何か言ってやろうかと思っていたが、赤津のプロとしての姿勢を尊重することにした。

美理亜の現場に遅れてやってきた零士を問い詰め、メールの時刻を確認しに行った敦らは、零士の主張が正しいことが分かって、怒りの行き場なく、食堂に集まっていた。

そこに居石と赤津が入ってきた、という形である。

「赤津さん、じいちゃんのことは?」

厨房に戻ろうとする赤津に尋ねる。

「あ、まだ…」

了解っす、と言って居石は二歩前に出ると、長テーブルに両手をついて四人を眺める。

「ようやく皆さんと話しできる状態っすね。母屋で、事件が起こっているときなんすけど…勘三郎さんが失踪したっす」

あっさりと言う居石に四人は最早脱力した。

「失踪?失踪って…」

零士がその中でも最も動揺していた。

「死んだかどうかは分かっていない、ということか」

敦が目つきを鋭くして言った。

「そうっす。俺が見つけてっていうか…いないってことに気が付いて、探したんすけどね。敷地内どころか、落ちた橋まで見に行ったんすけど…」

「いねぇってか…」

裕二の顔には疲労が見て取れた。美理亜が死んだことがまだ現実として受け止められないのかもしれないと居石は思った。

「赤津さんには伝えたんすけど、皆さんが部屋に籠っていたってことで報告が遅れたって事っす」

すんません、と居石は頭を下げた。本来ならば下げる必要は無いのかもしれないが、赤津が駄目なら自分が伝えることはできたのだから。そうする理由はあるだろうと考えた。

「見当たらないということは、遺体も見つかっていない、そういうことなんだな?」

敦が低音で尋ねる。

居石はゆっくりと頷く。

「もちろん、母屋も離れも探したんすけど…見つかってないっすね」

そこで、ちょっと待て、と裕二が立ち上がる。

「そんならよ、オヤジさんが三人とも殺したってことも考えられんじゃねぇのか?」

裕二の発想は、袈裟丸や赤津の考えと同じだった。

「お義父さんが?なぜだ」

敦の声が緊張している。

敦自身も少なからず、その可能性に気が付いていたように居石には思えた。

「だってさ、状況が状況でしょ。娘三人が死んで、その親がいなくなったっていうんだ。だったら、そう考えても不思議じゃないでしょ」

裕二は興奮したように捲し立てる。

「裕二さん、ちょっと落ち着いた方がいいっすね」

居石は諭すように言った。年齢が近いと言っても年上である。

言い方は気を付けなければ、と居石は考えていた。

「お前がそう言ったんじゃねぇか」

「俺はじいちゃん…勘三郎さんがいなくなった、見当たらない、って言ったんすよ。そこから先は裕二さんの想像っすよね」

裕二は納得できないという表情だったが、理解したように着席する。

「居石君、お義父さんの遺体はどこにもないって言ってたよね」

零士が割って入る。タイミングを伺っていたようだった。

「そうっすね。どこにも見当たらないっす」

「いなくなったのが分かったのって?」

「江里菜さんが…その…残念な状態で見つかった時は、まだトンネルにいたんすけど、恵令奈さんの時に見に行ったらすでにいなくなってたんすよ」

居石はなるべく、死んだや亡くなった、という言い回しを避けていた。配慮にならないかもしれないが、少しでも思い起こさせることは言わないように、という気遣いだった。

「ということは…橋が落ちた後、っていうことだね?」

零士は確認するように尋ねる。

「そうなるんすよ。つまり…えっと…生きてたら…」

「居石君、気遣いは有り難いが、普通にしてもらって構わない。私たちにも気遣う必要は無い」

敦が居石を睨むようにして見つめる。会話に不自然さがあったのだろう。

「…すんません。了解っす」

居石は短く息を吐いた。

「じいちゃんが生きてるんなら、まだこの敷地内にいるってことになるんすよね。死んでいても同じかもしれないんすけど、その場合、少し事情が違う」

「どういうことでしょうか」

質問をしたのは赤津だった。

いつの間にか、居石の立っている正面に飲み物が置かれている。

「えっと、じいちゃんが死んでたら、隠すための難易度としては低くなるんすよ」

「そうかぁ?」

小さい声だったが、裕二が反論する。

「もう死んでるんで、物体なんすよ」

怖っ、と司が呟いた。

「君も…なかなかな考え方だな」

敦は椅子の背もたれ身体を預けて言った。

あえてリラックス状態にしているのかもしれない。

敦の言葉に居石は返答しなかった。

「生きている人間が自分で隠れようって思っても、限度があるじゃないっすか。案外、人間が隠れるって難しいんすよ。かくれんぼとか大人になってやんないっすか?」

「君の学生生活が少し垣間見える気がするな」

零士が呆れたとも、非難とも言えない表情で言った。

「たまにやるんすけどね…。まあいいや。死んでいる人間は好きなように隠せるじゃないっすか。隠そうと思えば。文句も言わないし、黙ったままだし。小さく切って隠すことだってできるんすよね」

深見家の男たちは黙ったままだった。

「何が言いたいかっていうと、現実問題、道具はあってもじいちゃんの身体を切ったりするのは難しかっただろうから、殺されているっていうセンは無い気がするんすよね」

「だったら生きているのか?」

「それも難しいっすよね。現時点で見つかってないんで」

「なんじゃそりゃ」

裕二が不貞腐れた様にコーヒーを飲む。

「だから、これは不定ってことっす。今決めることじゃないんすよ。状況としてはじいちゃんがいなくなった、これだけっす」

「長々喋ってこれか…」

「零士さん、もっと目の前のことに注目してみないっすか?」

零士はそう言われて居石と目があう。まだ生気が宿ってない目である。

「この家の三姉妹が殺されてんすよ?で、今残ってんのってここにいる人間と、離れで静養している俺の友人だけなんすよ」

わかりますか、という表情で居石は全員を見渡した。

「この中に三人を殺した人間がいるってことか…」

敦の発言の後に、大きく溜息を吐いた裕二の声が響く。

「おい、動機は?俺たちがなんで殺さなきゃなんねぇんだ?」

裕二の居石に対する視線には敵意が籠っていた。

「あ、俺、それ、パスで」

「この国に来て間もない奴かよ」

「すんません…あれ、最近こんな会話あったな…。まあいいや。あの、俺はそういった動機とか、知っているほど皆さんと付き合いは長くないんすよ。知ってたって、何が理由になるかなんてわかんないっすよね?そこ、問題にしても誰かなんてわからないと思うんすよ」

ゆっくりと居石は説明した。

「動機は問題視しない、といことか…」

「それよりも、誰が殺せる機会があったか、っていうことの方が重要っすね」

まあそうだけど、と裕二が納得するのを見て、居石は続ける。

「江里菜さんから始まって、恵令奈さん、美理亜さんが殺されたっつー時に、皆さんが何してたか、教えてもらえないっすか?」

その前に、と敦が手を挙げる。

「敷地の外から来た得体の知れない人間が引き起こしたということは無いのか?」

心情としてはこの中に犯人がいるとは考えたくないのだろうと居石は考える。

「そうっすね…だったら楽なんすけどね」

「やはり考えられないのか…」

「最初に殺された江里菜さんと同じような装飾を後の二人もされてるんすよ…」

「殺害後の類似性というやつか…」

「まあ、病床のツレは見立てだって言ってるんすけどね」

見立て、と言う言葉に全員が反応していた。

「しかし、石橋が壊れるより前に敷地内に入って、身を隠しながら殺害の機会を伺っていた可能性もあるのでは?」

零士が投げかける。


「じいちゃんの行方が見当たらないっていうことへの考察で否定できるんすよね…。まあ、犯人がかくれんぼの天才っていう可能性もあるかもしれないんすけど…」

「現実的ではないな」

これだけ人間が集まっている空間で見つからずに移動し、対象を殺害、装飾までするのだから姿を見られないで動くことは困難である。

「まだ否定要素ってやつはあるんすよ。美理亜さんの殺害時っす」

美理亜の名前に裕二が反応する。

「外部の人間なら、あの渡り廊下に入る手段がないんすよ。指紋認証も暗証番号もクリアできないんす。それに、恵令奈さんの時は本人を呼び出している可能性があって、それができんのって親しい人たちだけっすよね」

もう反論はできないだろうが、居石は同意を促すように尋ねた。

誰も口を開くことは無かったので、居石は続ける。

「一番記憶が新しい美理亜さんの時の事から聞きたいんすけど…皆さんどこにいたんすか?」

四人とも言いづらそうにしていた。

その状況を見ていた赤津が口を開く。

「ちなみに私は軟禁されておりました」

「了解っす」

一言、居石は言った。赤津も居石も笑顔だった。

敦が口を開く。

「確か…我々が赤津さんを軟禁した時に、君もいたな。あの後君は離れに行ったのだったな」

居石は頷く。

「それ以降、と言うことであれば、交代で赤津さんの部屋を見張ることになった。まずは私だった。他の三人の事は分からない。私は食堂にいることにした。扉を両方とも開いておけば、赤津さんの部屋を見ることが出来るんだ」

居石はすぐに食堂の両開きの扉を二つとも開く。

「どこに座ってたんすか?」

敦は真下を指差す。つまり今座っているところだった。

居石は敦の隣に行って目線を同じ位置にした。

確かに赤津の部屋の入り口を見ることはできた。

場所を移動して確認するが、赤津の部屋の扉はどこに居ても見ることはできる。

玄関までは見ることはできないが、赤津の部屋はしっかりと見張ることができるようだった。

「俺がまた戻ってくるまでここに居たんすか?」

「そうだ。常に赤津さんの部屋を見ていた」

「そうっすか…。不審な音とか、なんか聞きました?」

「いや、聞いてないな」

了解っす、と居石は言うと、四人と対峙する場所に戻る。

「他の三人はどうっすか?」

最初に口を開いたのは裕二だった。

「俺は部屋で飲んでたよ。途中までは零士さんと飲んでて、途中から一人になったけど」

零士がいなくなってからの行動を証明できない、ということである。

「俺が母屋に戻ってきて…敦さんと話している時、降りてきましたよね?」

「ああ、酒のアテが欲しくなってなんかあるかなぁって台所覗きに来たんだよ。階段降りる途中からお前の声が聞こえてきて、うるせぇなって思った」

そうっすか、と居石は言う。

「じゃあ零士さんはどうっすか?」

「裕二君の言う通り、二人で談話スペースのソファで飲んでいて、途中から退席した。さっきも言ったが仕事のメールを確認しに行った」

そのメール自体は、敦たちが疑った際に送受信の記録を確認している。

「一応、聞きたいんすけど、その相手って…」

言い終わる前に零士がムッとした表情になる。

「実在する人物だ。時間を合わせて自動送信しているわけじゃない」

「あざっす…。了解っす。それって確認できます?」

零士は不満そうな表情でスマートフォンを取り出し、電話を掛ける。

相手と少し話した後、居石にスマートフォンを手渡す。

相手は零士の会社の同僚で、現在現場で調査を行っているということだった。

その調査内容のことで、至急尋ねることがあったため、データと共に零士にメールを送った、ということだった。

居石は可能であれば、通話の状態で同じメールを送ってもらえないかお願いすると、快く了承してくれた。

通話後、口頭で告げられたメールアドレスとPCに届いているメールアドレスが同じことを確認する。

「どうかな。これでもまだ疑うかい」

「とりあえず、ありがとうございます」

零士の疑問に回答しなかった。

「司は…どう?」

「僕は部屋にいたよ。証明はできないけど」

「親父の部屋にいなかったの?」

司は零士を横目で見る。

「一緒にいても、父さんは母さんを思い出すだけだから。一人にしてあげた方がいいかなって」

零士は目を潤ませて俯く。我が子に気を遣わせている、ということが情けないのかもしれない。

わかった、というと、居石は頭を掻きむしる様にした。

「居石君、アリバイを調べているみたいだが、忘れないでほしい」

頭に手を置いたまま、黙って敦に視線を向ける。

「ここにいる我々には…赤津さんを除いて、美理亜ちゃんを殺害できない」

敦の言う通りだった。

いくらアリバイを知ったところで、美理亜殺害のためにはあの渡り廊下に入らなければならない。

しかし、赤津以外の誰も、その現場に入ることすらできないのである。

「正確に言えば、姿の見えないオヤジさんも、だろ?」

裕二は腕を組んだ。

つまり、赤津といなくなった勘三郎しか、あの扉を開けない。

「だとしたら、我々には無理だな」

敦が締めくくろうとしたところで、居石が割って入る。

「いやー、それはまだ分かんないっすね」

「なぜだ?明らかだろう?」

「んーもし、皆さんが渡り廊下に入れないっつーことで容疑を外そうとしているんなら、それはまだ早いっすね」

四人とも怪訝そうな表情だった。それは入り口近くで使用人らしく立って見守っていた赤津も同じ表情だった。

「やり方ってあるとは思うんすよ。渡り廊下に入る方法が無いっつーんなら、開けられる人にお願いすればいいわけで」

まだ四人とも結びついてないようだった。

「もしかして」

口を開いたのは赤津だった。

「美理亜様、でございますか?」

居石は赤津の方を向いて、正解、と言った。

「どういうことだ?」

「美理亜さんがまだ生きている時点で、渡り廊下に入れたのは、母屋に限って言えば美理亜さんだけなんすよ。赤津さん軟禁中だから」

「そりゃそうだろ」

裕二も参加する。

「だったら、美理亜さんに渡り廊下を開けてもらえばいいんすよ」

「犯人は…お姉ちゃんと一緒に渡り廊下に入った、ってこと?」

司が口を開く。美理亜をお姉ちゃん、と呼んでいたのだとその時初めて居石は知った。

「確定じゃないけどな。その方法だったら、入れるんじゃないかってこと」

「つまり、居石君が仰りたいのは、その…美理亜様を呼び出した犯人は一緒に渡り廊下に入って、その後に殺害に至った、と…」

「まあ、同じタイミングじゃなくてもいいんすけどね。例えば先に美理亜さんが屋上の階段室にいて、その後、合流すれば良いんで」

なるほどね、と裕二は欠伸をする。

「どちらにしても、誰もしっかりとしたアリバイっていうやつは無いっすよね。零士さんはかろうじてあるんすけど…」

「あの装飾の事はどうなんだ。何であんなことをした」

敦はより一層低い声で尋ねる。

「どうっすかね…。まあ実際こうやって聞いてたらなんかわかんのかなって。見切り発車なんで、こっちも」

逆切れ、と司が呟いた。

「じゃあ、遡って恵令奈さんのときっすけど…皆さん部屋に籠ってたんすよね?」

全員頷く。

籠っていれば安心安全神話が構築されていた時である。

「部屋の外に出た人っているんすか?見かけたっていうんでもいいんすけど…」

言い終わった時に、赤津に聞くべき質問だと思った。

「僕は部屋にいた」

司が言った。

「私もそうだ。裕二君は?」

「俺は美理亜の部屋にも一回だけ行ったな。自分の部屋と往復したよ」

「誰かに会わなかったっすか?」

「赤津さんくらいだな。俺がすれ違ったのは」

居石は赤津の方を見る。赤津は静かに頷いた。

「赤津さん、他に見かけた人、いなかったっすか?」

「はい。確か三本木様は恵令奈様が美理亜様をご心配されて何度か見に行った、と」

敦に視線が集まる。

「確かにそうだ。恵令奈は美理亜ちゃんのことを心配していた。二回ほど部屋から出て行ったよ」

つまり、三回目に部屋から出て行った時に文字通り帰らぬ人になったわけである。

「最後に美理亜さんの部屋に向かった時に何か変だなって思ったことなかったっすか?」

「美理亜ちゃんを心配していたっていうこと以外は、変だと思わなかったな」

敦が回答したのを確認した後、あの、と赤津が口を開く。

「恵令奈様は、本当に美理亜様の所に行ったのでしょうか?」

「赤津さん、どういうことだ?」

表情が変わったのは敦だった。

「三本木様は、恵令奈様を送り出しただけだったのですか?」

逆に質問をしたのは赤津である。

敦はまだ質問の意図が掴めていなかった。

「あの時は、誰が江里菜様を殺害したかはっきりとしない状態で…そんな時に恵令奈様一人で出歩かせていたのですか?」

赤津の口調が強くなる。

「そういう訳ではない。私も一緒について行く、と言ったさ。しかし、彼女がそれを断ったんだ。姉妹で話をしたいと懇願していたし、外には赤津さんもいるから大丈夫だと」

最後は悔しそうに言った。

「すんません、敦さん。恵令奈さんは…何回も美理亜さんの部屋に行って、何を話していたかって教えてもらったんすか?」

敦は横に首を振った。

「何も言っていなかった。いや。聞けなかったという方が正しいかもしれん。帰ってくるたびに泣いていたからね」

江里菜が死んでしまったことをまだ受け止められなかったのかもしれない、と居石は考える。

しかし、敦が言っていることは、居石に違和感を抱かせた。

自分の奥さんが泣いていたら、何があったのか尋ねても良いのではないか、そう思った。

確かに江里菜が死んだことが原因であることは自明だが、あの時、江里菜が死んで食堂に皆が集まった時点で、恵令奈はそこまで泣いていなかったのではないか、という記憶があった。

勝手に毅然とした人物であるというイメージが居石の中にあることに気が付く。

「敦さん、ありがとうございます。そうすっと…江里菜さんの時が…みんな自由に動いていたんすよね」

「お義父さんの誕生会が終わった後から江里菜が…死体で見つかるまでということだね」

零士が力強く言った。

「そうっすね」

「私と恵令奈、零士君たち家族はパーティーが終わっても談話スペースにいたな」

敦が零士の方を向いて同意を求める。

「はい。そうでしたね。司も含めて二組の家族でその後も談話スペースにいたかな。久しぶりに会ったから、近況とか仕事の話とか、お義父さんの話とかいろいろ話したと思う」

「どれくらいまでいたんですか?」

「一時間ぐらいだろうか…パーティーがああいった形で終わったから、本来その席で交わす予定だった会話を済ませたら、お互い疲れていたから自室に戻ったんだ」

敦が代わりに回答する。

「そん時、江里菜さんは?」

「司を部屋に送って行くと言って…それから私は部屋ですぐに寝てしまったので」

後は分からない、ということだった。

「司はどう?」

「父さんが言う通りだよ。送らなくて良かったのに…」

「その時、江里菜さん…お母さんはなんか言ってなかった?」

「いや、何も、おやすみってだけ言って戻って行った」

「それ、何時ごろか覚えてる?」

司は天井を見て思い出すような表情を浮かべる。

「確か八時くらいだったと思う」

なるほど、と言って居石は考える。

袈裟丸が屋上のプールで天使を見たのが八時半だったはずである。

それが誰だったのか、まだ判別していないが、江里菜の死に関係するのであれば、さらに言えば江里菜本人だったのならば、司が言う八時から八時半の間に何かが起こった、と考えることもできる。

「っていうことは…司が最後に江里菜さんを見たっていうことになるんかな…。零士さんは江里菜さんが部屋に戻ってきたかどうかって分かってないんすよね?」

「そう…だな。悔しいがすっかりと寝てしまった」

零士は悔しそうに言った。

敦は、君が悪いわけではない、とだけ言った。

「そういえば、今まで言ってなかったんすけど」

そう居石が切り出すと、全員が注目した。

「病気で寝てた友達が、離れの窓から、母屋の屋上のプールサイドに天使が立っていたって言ってんすよね」

天使、と言うワードに、裕二はあからさまに口が半開きになっていた。

「それが…どうしたんだい?」

恐る恐る零士が尋ねる。

「いやぁ、心当たりあるかなって」

「心当たりって…天使のか?」

敦もなぜか慎重になって尋ねる。

「そうっすね。それを見たっていう時間が江里菜さんの死体が見つかった場所っていうのがやっぱり引っかかるし…見たっていう時間も結構近いんすよ」

居石は司が江里菜と別れたのが八時で、袈裟丸が天使を見たのが八時半であることを説明する。

「確かに時刻は近いな。だが…」

敦は言い淀む。やはり天使の件が引っかかるのだろうと考える。

「天使って…熱でうなされてたんじゃねぇか?」

裕二は直球で否定する。

「もちろん、本人もそれは言ってるんすけどね。ただ、時間もはっきりと覚えているくらいなんで、まあ見間違いっていうのは無いんじゃねぇかなって思ってますけど」

自分の立ち位置を明確にした後、再び尋ねる。

「皆さん、天使について、身に覚えはないっすか?」

「ある訳ねぇだろ。なあ?」

裕二は隣の司に同意を求める。

司は困惑したような、苦笑いのような何とも言えない表情だった。

「僕も…ちょっと覚えはないな」

「私もだ」

零士と敦も訴える。赤津は前に聞いたことがあったし、勘三郎にも尋ねたことがあった。勘三郎が知らなければやはり深見家として天使に覚えはない、ということになる。

「そうっすか…あ、脱線してましたよね。裕二さんは、誕生会の後、何してたんすか?」

「美理亜を部屋に送って行って、そこで少し話をしたんだよ」

「ちなみに何の話っすか?」

「そんなこと言う必要あんのか?そもそもなんでお前が仕切ってんだよ」

「俺は深見の人とは関係ないっすからね。第三者っていうやつっすよ。話は念のためっすね。嫌ならいいっすけど」

「話すよ。そんなんで疑われたら嫌だからな。結婚の話だよ」

赤津が僅かに動揺していた。

「そろそろってやつっすか?」

「まあ付き合って、家まで遊びに来れるようになって、俺も身を固める決心っていうのができてきたからさ。美理亜の気持ちを聞いてみようって思ってたんだよ」

裕二はそれなりの覚悟でここまで来たということになる。

「聞くことじゃないかもしんないっすけど…どうだったんすか?」

「じゃあ聞くなよ…。まあ、玉砕だ。今となっちゃ、美理亜がこうなることを予想して断ったんじゃないかって思うよ」

力なく裕二は言った。

それは自分が前に進むために、自分で納得したことなのだろうと思う。

食堂は静けさに包まれた。冷蔵庫の音か、壁の時計の秒針の音だけが響く。

深見家の人々は静かに時を過ごしていた。

もう警察は救助活動を始めているのだろうか、そんなことを考えていると、ふと思い出したことがあった。

「あの…赤津さん」

静かに移動して、ずっと壁際に立っている赤津に声をかける。

「ちょっと聞きたいんすけど…恵令奈さんたちの携帯電話ってあります?」

「ああ…それは…調べていないですね…」

赤津は気の抜けた表情の敦らに尋ねる。

「そう言えば、見てないな…」

「僕も知らない」

「どうだったかなぁ…」

深見家三姉妹のパートナーでもその所在は把握していなかった。

「なんか手がかりでもあるかなって思ったんすけど…」

「じゃあ。見てこよう」

敦が立ち上がるのと同時に三人とも立ち上がる。

司だけは零士が座らせたままだった。

「あんまり死体を動かさないようにして欲しいんすけど…」

無感情に、わかっている、と敦が言って食堂を出て行った。

「では、裕二様には私がついて行きましょう。渡り廊下には入れませんから」

裕二は赤津を無視するように不貞腐れたような態度で出て行った。

食堂には司と居石だけが残された。

「司、なんか飲むか?」

司は頷く。

「冷蔵庫にあるもんで良いよな」

再び首肯。

キッチンからグラスに飲み物を注いで戻ってくると、居石さん、と司が呟く。

「父さんたちの中に母さんを殺した奴がいるの?」

グラスの中の炭酸の泡が途切れなく液面で弾ける。

「さあ…どうだかなぁ」

「でも…居石さんはそう考えているんでしょう?」

すぐに言葉を続けることはできなかった。

司から見れば、この状況は親や親戚を追い詰めている状況に他ならない。

「それを確かめたいんだよ。でも司、俺は最初っからお前の父ちゃんやおじさんたちが殺人犯だって思ってるわけじゃねぇからな。ちゃんとそれ、頭に置いておいてくれ」

司が居石の顔を見た瞬間、食堂に赤津と裕二が戻ってきた。

「駄目だ。ねぇな」

開口一番、裕二はそう告げた。

「渡り廊下の美理亜様の身体、お部屋ともども調べさせていただきましたが…」

赤津は首を振る。

そのすぐあと、敦と零士が続けて戻ってきた。

「どこにも見当たらない」

零士の言葉に敦も首を振った。恵令奈に関しても同じだったようである。

「三人とも携帯持ってたんすよね?」

三人の返事は肯定だった。

「何度か鳴らしてみたけど、電源が入ってないか電波が届かない所に、っていう奴だったよ」

零士の言葉に二人も頷く。

なぜ携帯電話が無くなったのか。一人だけならばまだしも、全員の携帯電話が無くなっている。

ならばこれは意図されたものである。

食堂の固定電話が鳴ったのはその時だった。

赤津が飛びつくように出て対応する。

すぐに電話を切ると、居石たちの元に駆け寄る。

「警察が、対岸に到着したようです。これから救助ということで…」

食堂の緊張感が、僅かに緩んだ。



「ん?もう救助?」

ベッドに寝転んでネットサーフィン中だった袈裟丸は、居石の報告に寝ころんだままの体勢で言った。

ノートPCを胸のあたりに乗せて頭を不自然に曲げて話したので声が籠っていた。

「…さっきまでの俺の緊張感返せよ」

部屋の入り口辺りで立ったまま居石は袈裟丸を睨んだ。

「たまには俺の気持ちも分かっただろ?」

「訳わかんねぇこと言うな」

袈裟丸はPCを物理的に閉じると、ベッドから立ち上がる。

「まあ、逃げ出せるくらいには回復したかな」

「良かったじゃねぇか。こっちは全くどうにもなってねぇわ」

袈裟丸は荷物を整理している。帰宅の準備をしていた。

「アリバイだろ。どうだったんだよ」

「どうにもこうにも誰にもねぇよ」

「まあそうだろうな。勝手に部屋に籠ってたんだから。まあそういった意味じゃ赤津さんが疑われるのも分かるけどな」

キャリーケースをドン、と立てて袈裟丸は言った。

「そんなこと言うなよ。赤津さんが出来ねぇってことはお前が言ったんだろ?」

まあそうだけど、と言って袈裟丸は再びベッドに座る。

「でも…携帯が無くなっているっていうのは気になるな」

居石は対面のベッドに腰を掛ける。

「やっぱ、殺した奴が持っていった、ってことだよな…」

「他の可能性はあるか?」

そう言われても居石にはすぐに考えがまとまらない。

その様子をじっと見ていた袈裟丸が口を開く。

「お前さ、無駄に考えるよな」

「は?なんだよ、それ」

「大学入ってからの付き合いだけどさ、要って理論系じゃないだろ?」

「大学院で学んでるやつに言うセリフじゃねぇな…」

「それは別問題だろ。そうじゃなくて…考えのプロセスっていうか方法論の話だよ。俺とかは筋道立てて考えるのが好きだけどさ、要は直感系だろ」

「バカって言ってるように聞こえんだけど…」

「バカなんて一回も言ってないだろ?そうじゃないんだよ」

居石は腕を組んで不機嫌な表情になる。

「まあまあ。あのな、うーんと…さっき俺は筋道立てて考えるっていったろ?つまりあれはこうだからこうなって、するとこうなるから、って考えるんだよ」

うん、と素直に居石は頷く。

「でもお前はそうじゃない。俺には説明できないけど、一瞬で正解に辿りつく…それは言い過ぎかもしれんけど。少なくとも方向性だけは間違っていない」

少し痩せた様に感じた袈裟丸は、少し堀深い顔になっている。

「なんか今日の耕平、格好良いな。病気になったのが良かったのかな」

「俺の話聞いてるか?」

本気で言ってたようで、袈裟丸は真剣な表情だった。

居石は、すまん、と言って続ける。

「だけどさ、何が言いたいんだよ。俺と耕平の考え方の違いっていうのは分かったよ」

「今のお前はさ、頭使ってああだこうだって考え過ぎているんだよ。もっとお前らしくやれって」

強調して言われているが、居石にはまだ袈裟丸の意図を理解できていない。

それが袈裟丸にも分かったのか、小さく溜息を吐く。

「もう、分かってんだろ?」

急に空気が張り詰めた。

居石の耳に金属音が響く。それは実際に響いているわけではない。耳鳴りに近いが不快ではなかった。

「何が?」

袈裟丸は答えなかった。

「救助って明け方だって言ってたよな?」

袈裟丸はスマートフォンの時計に目を落とす。居石もつられて自分のスマートフォンに時計を表示させる。

午前三時を回ったところだった。

朝日が昇るまでは二時間から三時間と言ったところだろう。

「このままじゃ駄目だろ。ちゃんと終わらせて来いよ」

居石は口に手を当てたまま固まっていた。

「できると思うか?」

「知らん」

「無責任じゃねぇか」

居石は鼻で笑う。

「みんなそうだろ?責任を持つのは自分の事だけで十分だ。もう次に戻ってきたときは帰る時だからな」

袈裟丸が欠伸をする。つられて自分も欠伸をした。

早く帰ってちゃんと寝たいな、と思った。

「じゃあ、腹減ったし、帰るか」

居石は立ち上がる。

「さっさと片付けてくるかな」

また欠伸が出た。袈裟丸は欠伸をしなかった。

「いってらっしゃーい」

軽い言い方で言うと袈裟丸はベッドに寝転ぶ。

「お前も来るか?」

袈裟丸は追い払うように手を振った。

へいへい、と言って居石は部屋を出た。

離れの玄関から外に出る。

玄関で、クロックスを履こうとして少し考える。

クロックスはやめて、自分のビーチサンダルを履くことにした。

母屋と離れを何度往復しただろうか。

回数なんて忘れてしまった。そんなことは覚えていてもしょうがないことである。

最も夜が深い時間帯だが、母屋も離れも室内照明が消されていないので窓からの光が漏れている。

そのため、存外明るい。

学校の校庭みたいに広く、草木もない庭の感触も最後になるのだと思うと一歩が重く感じていた。

「ん?」

踏み出した自分の右脚に横方向から何かが貼りついた。

下を見ていたために張り付く瞬間まで見ることができた。

山から吹き下ろしている風にパタパタと揺れるそれを慎重に手に取る。

「羽…か…」

根元を持ってクルクルと回してみる。

鳥の羽根を手に持つとなぜか回してみたくなるのは何故だろうか、と居石は思う。

ふと手を止めて考える。考えるというよりも映像が浮かんできた、という方が正しかった。

母屋の屋上を見上げる。

手に持っていた羽は自然と自分のハーフパンツのポケットに仕舞った。

居石は母屋に戻る。玄関を入ると、しんと静まりかえっていた。

赤津くらいは顔を見せても良いものだが、誰の姿を見ることもなかった。

律儀にスリッパに履き替えて、玄関ホールに入ると、真直ぐに階段へと向かう。

一歩一歩階段をあがり、そのまま屋上の階段室に向かう。

左手の渡り廊下へ続く扉は今、開け放たれたままだった。

裕二と赤津が美理亜を調べに来た時に開け放したままにしておいたのだろう。

扉から廊下を見ると、美理亜の遺体がそのままにされている。

居石は振り返ってプールへ向かう扉を開く。

庭を歩く時よりも強い風が身体をすり抜ける。

正面にプールが伸びており、その脇にブルーシートに包まれた江里菜の遺体が置かれている。シートは六個ほどのブロックで押さえつけられており、山風にも飛ばされないようにしてあった。恐らく赤津の気配りだろうと居石は想像した。

足だけ見えている、と言う現実が恐怖を煽っている。

真直ぐにブルーシートの脇に向かうと、頭部が視界に入ってくる。

ピンポールが刺さった頭部、それが無ければ江里菜の表情は眠ったままの様に見える。

その脇にしゃがむと、ブロックをいくつかずらして、シートを捲った。

居石はじっくりと観察する。

その結果、頭の中で霧の様になっていたイメージが固定化された。

ブルーシートを戻して、立ち上がると、スマートフォンを取り出して袈裟丸に電話を掛ける。

「どうした?なんか風か?ごわごわ音がしてるぞ?」

「すまん、母屋の屋上なんだけどさ、ちょっと調べて欲しいことがあんだよ」

居石は内容を伝える。

「なんで…ああ…なるほど…PC仕舞っちゃったけど、ちょっと待って」

電話を繋いだままカチャカチャと言う音が聞こえる。

「うん…うんうん…いい感じかもな。お前にスマートフォンに動画送ったから、確認して見て」

「悪いな。自分でも見るけどさ、どうだった?」

「うん、良く分かった」

「何も言ってねぇのに?」

「要がいる場所と俺が見たものの話だろ」

袈裟丸が調べりゃ早いんじゃねぇか、と言いかけてやめる。

「サンキュー。じゃあな」

「おう」

短く挨拶を交わしてすぐに送られてきた動画を見る。再生ボタンを押す前に階段室に戻った。音が聞こえないと思ったからだった。

再生ボタンを押して動画を確認する。大事な部分は耳を近づけて確認する。

思ったよりわかりやすかった。袈裟丸のリサーチ力の高さに感謝する。

大した労力でもないのかもしれないが、自分にはできないことである。

自分ができないことができるのならば、それは褒めるに値することなのである。

居石はわかった事実を繋ぎ合わせる。

頭の中で深見家の三姉妹がイメージされる。

三人とも悲しそうな表情をしていた。

以前、袈裟丸と話した時の事を思い出す。

袈裟丸は居石の土を口に含むとその組成や違いが判断できる、という特技について持論を披露した。


『科学的には、舌の味覚が土の成分に反応してってことなんだろうけど、俺はちょっと違うことを考えているんだ』

『勝手に考えんなよ』

『それは俺の勝手だろ。いいか、俺は味覚と言うよりも、脳の方じゃないかって思っているんだ』

『味覚も脳で感じてんじゃねぇのか?』

『そういったことじゃない。お前自身の感受性が関わってんじゃないかって俺は思う』

『思うのは勝手だけどよ…』

『お前って、傍若無人なところもあるけど、案外センシティブで感受性が高いんじゃないかって俺は思うんだよ。それがお前の性癖に関わっているんじゃないかってね』

『まあ、まず性癖って所を修正して謝罪しろ』


あの時、袈裟丸が言ったことは当時の居石には、そうなのか、程度にしか捉えていなかったが、今ならば少しは理解できるかもしれない。

居石は階段を降りながらこれまでの事を振り返る。

一階に降りても誰も姿を見せなかった。

もしかしてすでに救助されたのではないか、そんなことを想起させる。

皿同士がカチャっと触れる音が聞こえたような音がして、自然と脚は食堂に向かう。

扉を開けるが、食卓に座っている人物は一人もいなかった。

皿の音に導かれて厨房に顔を出す。

赤津はそこで作業をしていた。

赤津も居石に気付いたようだった。

「部屋で待ってないんすか?」

柔和な表情を浮かべて赤津は微笑む。

「ええ。こちらの方が落ち着いてしまいます」

キッチンの調理台を挟んで向かい側の丸椅子に、赤津は促す。

スタスタと居石は歩んで行って座る。

「短い間っすけど、お世話になりました」

座ったまま居石は頭を下げる。

両手を膝に乗せているため、戦国武将が頭を下げた時の様な格好になる。

「ああ、なんだか泣いてしまいますね。不思議な気持ちです。こんなことが無ければ、居石君ともっと話をしたかったのですけれど…」

赤津は本当に泣きそうな表情を浮かべている。

「いや…俺なんて…もっと長く付き合えば一緒にいるのも嫌になるんじゃないっすかね」

分かりやすい照れ笑いを浮かべる。

これまでに言われてことの無い言葉だったのは間違いない。

「敦さんたちは…部屋っすかね?」

「ええ。夜明けまでの辛抱、と仰っていました」

そう言うと、何かに気が付いたような表情で赤津は立ち上がり、コーヒーを淹れ始めた。

「申し訳ありません、気が付かなくて」

「ああ、赤津さん、いいっすよ」

そういう訳には、といって赤津は手早くコーヒーを淹れる。

どうぞ、と置かれたコーヒーを居石は一口飲む。

コーヒーは好んで飲まない居石だが、何故か赤津の入れたコーヒーは飲めてしまう。

特別な事をしているわけではないはずだが、これは居石にもわからなかった。

「聞きにくいんすけど…恵令奈さんたちの身体はどうするんすか?」

「ええ。救助と入れ替わるように捜査員がこちらに来るようです。だからこれ以上動かすことは止めて欲しい、ということを言われました」

「そうっすか。まあそりゃそうっすよね」

赤津と居石は同時にカップを口に持ってくる。

静かな時間が流れた。赤津は黙って時間が過ぎるのを待っているかのようだった。

カチャとカップがソーサに置かれた音がする。

「何か、話そうと思って来られたのではないですか?」

静かな厨房に、優しく語りかける声が響く。

コーヒーを飲んでいた居石は、そのままの姿勢で、視線だけ赤津に向けた。

「なんで…そう思ったんすか?」

極力静かにカップをテーブルに置いた。

この雰囲気を崩したくないな、と考えたからだった。

「この家に仕えるようになって、もう二十年になります。様々な良いこと、悪いことを経験してきました。それでも深見家は私の第二の家族だという思いがあったのは間違いありません」

呟くように赤津は話し始める。

「今回の事は、私にとって、非常に残念なことです。私の家族がいなくなってしまいました」

そう言うと赤津は居石を正面から見つめる。

「なぜこうなってしまったのか、私にはわかりません。誰が…殺したのかも」

そこで赤津は言葉を切って、口元に手を当てる。

「ですが、居石君、あなたは、あなたの存在はもしかしたらこの状況を打破してくれるかもしれない、そう思いつつあります。私は縁というものを信じているんです。こうして深見家に来たことも何かしらの縁、そう思っているんです」

子供に語りかけるような口調は、赤津の性格を良く表現している。

赤津は笑顔で黙った。

居石は口を閉ざしたまま自分の膝に視線を落とす。

「もうあと少しで警察が来るんすよね?」

そのままの姿勢で居石は尋ねる。赤津がどのような表情をしているかは見えないが、一言、ええ、とだけ聞こえた。

「俺は警察関係の人間じゃねぇし、何の知識もねぇから、勝手な事言えないんすけど…」

ゆっくりと居石は頭を上げる。

「でも、赤津さんがそう言ってくれることは本当に嬉しいっす」

赤津は笑顔で頷くだけだった。

その時、ぞろぞろと食堂に人が入ってくる音がした。

振り向くと、オープンキッチンの開放部から、敦らが荷物をまとめて入ってくるのが見えた。

「赤津さん、後は我々もここで待っていようと思う。赤津さんも荷物をまとめてくると良い」

敦が厨房を覗いて言った。

「そう…ですね…。とはいっても、荷物というようなものはありませんが…」

敦たちは食堂のテーブルにそれぞれ座って時間が来るのを待つつもりらしい。

居石は大きく深呼吸をすると立ち上がって厨房を出る。

その後ろから赤津もついてくる形になった。

「居石君、準備はできたのかい?」

零士が語りかける。

「置いていかれちまうぞ」

裕二はリュックを椅子に掛けるようにして言った。

司は小さめのボストンバッグを床に置いて椅子に座っていた。欠伸をしているところを見ると眠いようである。

それらのコメントに、居石は返すことなく、それぞれの顔をじっくりと見渡す。

「みなさん、このままでいいんすか?」

良く響く声だった。

全員が居石に視線を送る。

「良いわけはないが…もう警察が来るんだ。後は彼らに任せておけばよいだろ。ちゃんとした捜査をしてくれて犯人を炙り出してくれるさ」

敦の言葉はもう諦めているかのようだった。それは敦だけではなく、もう早くここから出て行きたい、という雰囲気が食堂を包んでいた。

「まあ、そうっすね。じゃあ、警察が来るまでに、俺の話、聞いてもらえないっすか?時間つぶしくらいにはなると思うんすよね」

「面白れぇんだろうな?」

「どうっすかね。人によるんじゃないっすかね」

裕二は鼻で笑う。

他から拒否するような声はなかった。

「時間はあるのだから聞こう。どういった話なんだ?」

敦の声は緊張しているようだった。

「皆さんのパートナーがなんで死んだかって事っす」

聴講者はやれやれと言った表情や態度だった。

「まだそれかよ…、警察来るんだから、任せときゃいいだろうよ。どうせ救助されても俺たちは警察から話聞かれるんだからよ」

裕二はもううんざりとしているようだった。

「それはそうだね。少なくとも今この家には三人の遺体と一人の失踪者がいるわけなんだから」

零士も泣きそうな表情で居石を見る。

「まあ、仰る通りってやつなんすけどね。ただ、この場で話しといた方がいい気がするんすよ」

食堂は静まり返った。

それを確認するかのように見渡した居石は一度深呼吸をする。

「とは言ったものの、こういうの俺得意じゃないんで、分かり辛かったらすんません」

「大学院生だったら学会とかで発表することもあるんじゃないのか?」

「そうなんすけど、あれは練習もするし、先生の修正とか入るからちょっと違うんすよ」

質問した敦は、そういうものか、といった表情で頷く。

「こんな短期間に三人死んで、一人行方不明っていう状況は普通ではないと思うんす。しかも殺された三人は複雑な装飾までされて」

各々がその状況を思い出していた。

「振り返ってみると、最初に死んでいたのは江里菜さんで、頭にピンポールが刺された状態でプールに浮かんでたんすよね」

零士が俯く。

「次は恵令奈さん、物置部屋になっている部屋の中で測量用の三脚の上に座って死んでました」

敦が苦々しい顔になる。

「最後は美理亜さん、渡り廊下の途中で鋼巻尺で身体をぐるぐる巻きにされて死んでたんすよね」

裕二は憮然とした表情だった。

「俺が変だなって思ったのは美理亜さんの遺体を見た時っす」

聴講者たちは居石の発言の意味が解らなかったようだった。

「居石君、それは…どういった意味でしょうか?」

話を進めるためか、赤津が合いの手を打つ。

「江里菜さんと恵令奈さんの時とは明らかに違う点があったんすよ」

その赤津も居石の言う相違点が解らなかったようである。

「俺がそれまでと違うって思ったのは、外傷っす」

「外傷…」

零士が呟く。

「江里菜さんは頭、恵令奈さんは首に外傷があったんすよ。でも…美理亜さんにはそれがなかったんす。あまり体に触れないように観察したんすけど、出血も無かったんす。痣一つない綺麗な身体だったんすよね」

裕二が若干不機嫌な表情だったが、居石は無視する。

「どうやって美理亜さんは殺されたんだろうって思ってずっと考えてたんすよ。死因はなんだろかって」

「例えばだが、後頭部を強打して殺されたっていうのは?」

「敦さんの言うことも考えたんすけど、そうなると、結構な勢いで倒れる気がするんすよね。だったら打ち身とか場合によっては切り傷なんかもあり得る気がするんすよ」

そうか、と敦は唸る。

「だったらなんだってんだよ。現に美理亜は殺されてんだろ?何が言いてぇんだよ」

「そこなんすよ」

即座に返した居石に裕二はキョトンとした表情になる。

「ずっと俺は殺されたもんだって考えてたんすよ。なんでしたっけ…ああ、固定観念ってやつっすね」

「殺されてない…ってことなのか?」

「結果そうっすね。三人は…自殺したんすよ」

食堂内は再び静かになった。これは居石の言ったことを理解するために十分な時間が必要だったからである。

「すまん、理解しようとしたんだが…良く分かっていない」

敦の気持ちは居石にも理解できた。

「どうしてそうなるんだ?美理亜が…自殺?」


「美理亜さんは…まあ後で話しますけど、あえてわかりやすく自殺したんすよ。あの人だけは薬を使ったんす。投薬自殺ってやつっすね。だから外傷が見当たらなかった」

「おい、ならあれは…巻かれてたのはどう説明するんだよ」

最早喧嘩腰に居石に詰め寄ろうとする裕二を赤津が制した。

「ちょっとやり方が上手くなくてすんません。俺の友達だったらもっと話し方上手なんでこんなことにならないんだと思うんすけど…」

居石が落ち込むような態度だったためか、裕二は責める気が収まり、ゆっくりと着席した。弱くなっている相手にはそれ以上責めない性格なのだろうと居石は想像する。

「居石君、三人とも自殺、と言ったな?それは江里菜や恵令奈もそうだっていうことだな?」

敦が念を押すように尋ねる。

「そうっす」

「少なくとも江里菜は違うんじゃないかな?」

落ち着いた様子で零士が尋ねる。

「というと?」

「頭に鉄棒を突き刺すような自殺方法はないじゃないか?」

「そうなんすよ」

居石が簡単に認めたために、零士はそれ以上言えなくなってしまった。

「俺も指摘したんすけど、そんな自殺方法なんて無いんすよね」

零士は無言で肯定した。

「だから、別の方法で自殺したんだって考えたんすよ」

「別の方法?」

「皆さん、一旦ピンポールの事忘れてください。綺麗さっぱりと。頭から消してもらえないっすか?」

学校の教員が生徒に注意事項を伝えるような口調で居石はお願いした。

「だとしたら、どうっすか?別の見方ができないっすかね?」

その問いかけには誰も答えなかった。

「俺は違う見方が出来ると思うんすよ。江里菜さんは…拳銃で頭を撃ち抜いたんじゃないっすかね?」

全員が居石に注目していた。

「拳銃…って江里菜はそんなもの…」

零士は呆気に取られている。

「持ってないとは言い切れないっすね。まあ、手に入れようと思えば手に入れられるんじゃないっすか?」

零士は口を閉ざして黙った。

「俺の友達が、離れで見た天使の話、覚えてますか?」

居石は歩きながら続ける。

「熱でうなされながら母屋の屋上プールで天使のような女神のような人物を見たと、そんで、少し目を離した隙に忽然と姿を消したっていう話っす」

裕二はうんざり、という表情をした。まだ熱でうなされた時の幻覚だと思っているのだろう。

「なんか、随分幻想的な話だなって思ったんすよ。布に包まれた子供抱えてたっていうし、消えた時に天使の羽根が舞ってたって言ってんすよ?どんだけファンタジーなんだって思ってたんすよ」

そう言うと、ハーフパンツのポケットに手を入れる。

「でも、これ、見つけたんすよ、ここに戻ってくるときに」

そう言ってテーブルの上に、羽を置いた。

「鳥の羽根かなんかだろ?」

裕二が一瞬だけ見てそう言った。

「まあ、そうっすね。鳥の羽根って思うんすよね」

そう言って羽を手に持ち、全員にそれを見せるように動かす。

「赤津さん、どうっすか…」

振り向いてそれを見せた赤津は、別の表情だった。

「赤津さん?」

黙ったままの赤津に気が付いた敦が尋ねる。

「それは…枕、でしょうか?」

赤津の発言に裕二は口が開いたままになる。

「どういうことかな?」

敦は純粋に意味が解らなかったようだった。

「江里菜様は…こちらにいらっしゃるときは専用の枕を準備しております。枕が変わると眠れないということを仰っていたので、同じメーカのものを…」

敦は零士を見る。

「確かに家ではその枕を使っていたけれど…」

「こっちの部屋に枕は?」

居石は尋ねる。

「確か…あったと思う…」

「多分、羽毛じゃないっすね。触って見た方がいいっすよ」

零士はゆっくりと立ち上がって食堂を出て行った。

しばらくして戻ってきた零士は、羽毛ではないことを告げた。

「でも…それが何だってんだよ」

「江里菜さんは拳銃で頭を撃ち抜こうとしてたんすよ。こんな静かな山の中で拳銃の音がしたら、流石に気が付くんじゃないかと思うんすよ」

だから、と居石は右手を拳銃の形にした。

「頭の横に枕を挟んでその上から拳銃を撃ったんすよ」

銃身に見立てた人差し指と中指を少し上に向けた。

鼻で笑ったのは裕二だった。

「居石、お前、ドラマとか漫画のみすぎじゃねぇか?そんなことで音が小さくなるわけねぇだろうよ」

「現実的とは…思えないな」

零士も否定的だった。

言葉は発しなかったが、敦も否定的な表情だった。

「裕二さん、やったことあるんすか?」

「あるわけねぇだろ」

「やったことないのにわかるんすか?」

苛立った表情で裕二は前のめりになる。

「お前はやったことあるのかよ?」

「無いっすね。でも、世の中広いもんで、世界に目を向けりゃ、やってる人いるんすよ。暇を持て余している友達が一人いるんで、そいつに調べてもらったんすけどね。俺、英語詳しくないんで字幕が無いから詳細は分かんないんすけど…えっと…それこそ映画で出てくる…拳銃の先っぽに取り付ける奴あるじゃないっすか?」

「サイレンサのこと?」

司が発言する。

「ああ、そうそうそれ、司、サンキュ」

司に向かって軽く手を挙げる。

「それを取り付けた場合と、枕越しに撃った場合で比較してんすよ。そしたら、音がほぼ一緒だったんすね」

居石はスマートフォンで袈裟丸から送られてきた動画を再生する。動画内では陽気な外人が居石の発言通りの実験をしていた。

「確かに遜色ない…ドラマや漫画も馬鹿にできないな」

敦の発言は裕二を苛立たせるには十分だった。

「じゃあ…江里菜は…」

「残念っすけどね。ちなみに友人が見たっていうのは、枕を抱えてプールサイドに立った江里菜さんだったんだと思うんすよ。その姿がまるで天使のような女神のような格好に見えた。嘘みたいな偶然すけど、目を離した隙に拳銃を撃って自分はプールに倒れる、その時に枕の中の羽毛が舞って、天使が消えた様に見えた、そんな感じっすかね」

「随分軽くまとめたな」

「仰々しいの嫌いなんすよ」

すんません、と居石は付け加えた。

「ちょっと待てよ、あの場に拳銃なんてなかっただろ?」

裕二はまだ苛立っていた。

「持ち帰った人間がいるんすよ。ちなみにそいつは江里菜さんの頭にピンポールを刺して、拳銃と枕を持ち帰ったんすよ」

つまり、と敦が言う。

「居石君がピンポールを頭に刺すことはできない、と言っていたのは、拳銃で開けられた穴にピンポールを刺す、ということで可能になった、ということか…」

「そうっす。同時に、それは自分だけではできない、ならば誰かがそれをやったってことになる…」

「だとしたら、殺人の可能性もあるんじゃないかな?なぜ江里菜は自殺だって言い切れるんだ?」

零士は藁にも縋るような表情で尋ねる。

「耕平の…友人の目撃証言っす。屋上で見た人物は、この場合、羽毛の枕を持っていたことから江里菜さんしかありえないんすよ。さらに、江里菜さん一人しか見てないっていうことがその理由っす」

零士は俯いて黙った。

「あの…続けた方がいいっすか?」

敦は頷いた。

「次は恵令奈さんっすね」

「恵令奈も自殺だと?」

居石は頷く。

「恵令奈さんは、あの物置部屋で首を吊ったんすよ。ロープを天井の梁に括り付けて」

敦が口を一文字に閉じた。

「首筋に痣が残ってたのは、首を吊ったロープの跡っすね。絞殺されたわけじゃないんすよ」

「三脚の意味は?」

敦の声は震えていた。

「…天井から宙づりになった恵令奈さんの身体を下から支えるためっす。三脚の脚を広げて台座の所にお尻を乗せるようにして持ち上げて、座らせたんすよ。そうすると身体が持ち上がるから首のロープが外れやすくなる。でもそれだと上半身が安定しないから、バネ測りで壁と服を固定したって事っす」

「居石君、理由は何なんだ?そんなことを三人ともする必要があったのか?」

「それは後で話そうと思ってたんすけど…遺体に手を加えたやつは三人の携帯電話を持ち去って行ったんすよ」

「確かに見当たらなかったけど…」


「そこに自殺の理由が書かれていたと思うんすよね。遺書っすよ。それが現場に残っていると自殺だってことがバレバレになっちまうから、持ち去ったんじゃないっすかね」

「しかし…なぜ、そんなことを?装飾までして、携帯電話まで持ち去ったって…誰かが殺したように見えるじゃないか」

悔しそうな声を押し殺して敦が言った。

「その通りっすよ。それが目的だったんす。じゃあ…そうっすね。装飾犯って呼びましょうか。殺してるわけじゃないんで。その装飾犯は遺体に手を加えることで自殺を他殺の様に見せかけたかったんすよ」

「だからなんでそんなことすんだよ。必要ねぇだろ」

「裕二さん、それは装飾犯がそうしたかったからなんすよ。こっちがどう考えても意味ないんすよ」

だから、と居石は続ける。

「それを想像しないといけない」

想像って、と裕二は苦笑いをする。

「ここまで考えて、俺には違和感があったんすけど…皆さん感じなかったっすか?」

食堂を見渡すが、誰もが素直に悩んでいた。

「あーすんません、別に試そうと思って言ったわけじゃなかったんすけど…そんな難しいことじゃないんすよ」

そう言うと最初に立っていた位置に居石は戻った。

「恵令奈さんの遺体は首の後ろで、バネ測りが取り付けられてたんすよね。これが俺には違和感だったんすよ」

「君が…恵令奈さんの遺体を安定して三脚に座らせるために取り付けたって言わなかったか?」

零士が尋ねる。

「いや、その通りなんすけど…見立ての話をしたっすよね?」

零士は律儀に頷く。

「だとしたら、バネ測りだけ不自然じゃないっすか?三脚に座らせたのはデジタルセオドライトの見立てだとして、そこに距離測量で使われるバネ測りが使われるのはちょっとミスマッチな感じがするんすよ」

「たまたまじゃねぇのか?そのままじゃ倒れちまうから使ったんだろ?」

「他のものでも代用できるんすよ。恵令奈さんの首に掛かっていたロープを結び直しても良いし、それだと自殺だってわかりやすくなって、嫌だっていうならワイヤでも代用できる。もっと言えば、美理亜さんの時は使われてなかったんすよ?バネ測り」

裕二は口籠る。

「別に使っちゃいけないわけじゃないし、まだ物置にはバネ測りはあったし。だったら美理亜さんの時に使われなきゃ、測量の見立てにならないんすよ」

「居石君、言っていることは分かるんだが…それがどういうことなのか、我々には分らない」

敦が真剣な表情で言う。

「だから俺考えたんすよ。なんでこんなことをしたんだろうかって。で、まあこれは俺の想像なんすけど…」

居石はそこで一旦言葉を切る。

「知らなかったんじゃねぇかなって思ったんすよ。バネ測りを距離測量で使うってこと」

「知らな…かった?」

零士は繰り返す。

「知らなかったから、そういった用途で使う発想が出たんだと思うんすよね。見立てありきで考えると、そこだけ俺には浮いて見えるんすよね」

壁掛け時計が五時を告げた。

救助開始まであと一時間となった。

「居石君、それは…犯人の特徴とはなり得ないのでは?」

零士が冷静に告げる。

「っていうと?」

「他ならぬ君が確認したじゃないか、この場にいる全員が測量機器を使った、もしくは知っているということだよ」

「ああ、そうっすね。確かに聞いたんすよね」

「じゃあ、使い方知らねぇってことはないだろ」

裕二も続けて指摘する。

「そうなんすけど…いるんすよ。一人」

秋の夜にしては暖かい、温い空気が流れていた。

「裕二さん」

突然名前を呼ばれた裕二は椅子から転げ落ちそうになる。

「おい、なんで俺…」

「早とちりっすよ。名前呼んだだけじゃないっすか」

んだよ、と裕二は座り直す。

「測量はどこで勉強したんすか?」

「は?学校だよ。言ったろ?高専だったからな。一通りやったよ」

「距離測量についても?」

当たり前だろ、と言う言葉を確認すると居石は後ろを振り向く。

「赤津さんはどこで?」

「建設会社で働いていたことがございます」

「なんでもやってるんすね」

居石は大口を開けて笑う。

「じゃあ、敦さんと零士さんも?」

「そうだな。我々も君と同じ学部だ。君よりは古い人間だから良く使っていたよ」

敦の説明に青ざめていたのは零士だった。

「居石君…」

居石はそれを無視する。

「消去法っすね。司、お前が装飾犯だ」

青ざめている父親に対して司は顔色一つ変えていなかった。

「司が?なんでだよ。司も器具のこと知ってただろ?」

「まあ知ってたっすね。でも、距離測量についてはどうっすかね?」

「居石君、意味が良く分からない」

「赤津さんを軟禁した後に聞いたこと、覚えてます?測量機器について聞いたんすけどね。そん時、司が変なこと言ってたなって」

敦が眉間に皺を寄せて思い出そうとしている。

「司は、こういったんすよ。じいちゃんが距離を測るからって鉄の棒を持たされた、って距離測量で鉄の棒って変じゃないっすか?」


「いや、変じゃない、鋼巻き尺を使った距離測量では、測点間の距離を測る時に主にピンポールを使う。測点に二本ピンポールを立てて…」

敦はそこで言葉が途切れた。

「…後は鋼巻尺の本体に一人、バネ測りを取り付けた巻尺先端を所定の力で引っ張る人間が一人、記録する人間が最低一人、最低五人は必要っすね。ピンポールは三脚でその場に固定できるものもあるんすけど、それを使ったって最低三人は必要っすよ」

「赤津さんが手伝ったこともあるんじゃないかな」

零士が言う。

「それはあるかもしんないっすよね」

そうだろう、と零士は安堵した表情になる。

赤津は何とも言えない表情だった。

でも、と居石は続ける。

「この家は、今は特別っすけど、日常的には赤津さんとじいちゃんしかいないんすよね。そんな状態なのに、じいちゃんがその方法で距離を測ったとは思えないんすよ」

「デジタルセオドライト…か」

敦は絞り出すように声を出した。

「たぶんそうっすね。あれは光波で距離も角度も測れるんで。司が手伝ったっていうのも、光波の受信部が取り付けてあったポールを持っていたんすね」

「司…」

零士が隣に座っている司の肩に手を置く。

それを司は華麗に払う。

「司、お前が遺体に装飾したんだな?」

居石の問いかけに、司は無反応だった。

「三人の携帯はどこにある?」

「捨てたよ。壊してね」

「勿体ねぇな。捨てる必要はなかったんじゃねぇか?」

司は無言だった。

「待ってくれ…そう、美理亜ちゃんだよ。美理亜ちゃんの時は、司どころか、赤津さん以外のここに居るメンバは誰も渡り廊下に入れなかったじゃないか」

零士は立ち上がり、同意を求めるように見渡しながら言った。

「零士君の言う通りだ。渡り廊下に入ることは、司にはできない」

敦が援護する。

二人の言葉を噛み締めるようにして頷いた居石は鼻から息を短く吐いた。

「さっき見てきたんすよ」

極めて低いトーンで話し始めたため、敦も零士も目を丸くさせた。

「何を…」

尋ねる零士に居石は同じトーンで語る。

「江里菜さんの遺体っす」

立ち上がっていた零士はゆっくりと着席した。

それを見て居石は続ける。

「無かったんすよ」

無かった、と零士はオウム返しする。

「江里菜さんの右手の人差し指が」

零士は絶句した。零士だけではなく、司を除く全員が息を飲んでいた。

「具体的に言えば、人差し指の第二関節から先が無かったんすよ」

「それは…」

「そうっすね…渡り廊下に繋がる扉を開けるためだけに切断したんすね。自分の母親の指を」

零士は口元に手を当てた。額に汗が滲んでいる。

「指は…どうしたんだよ」

裕二が不貞腐れたような表情で言った。

「使った後の指はどうしたんだよ。そんなもんどこにもねぇだろ…まさか」

持ってんのか、と隣の司を見る。

「食ったよ」

淡々と言う司の言葉を、理解するまでに時間を要した。それは居石も例外ではない。

「食べたって…いうのか?」

絞り出した割には大したコメントではないな、と頭では理解している。

司は何も言わない。

零士が隣で吐き気を催す。敦も口元に手を当てている。

「なんでそんな…」

「こいつは究極のマザコンなんだろ」

敦の問いに裕二が答える形になった。

「マザコン?何言ってるんだよ」

弱々しい司の声ではなかった。

「あいつは俺に指図しかしてこなかった。勝手に世話を焼いてくるし。だからその指を有効利用した後に食べてやったんだよ」

司は、何か悪いことしましたか、と表情で伝えた。

「司、なんであんなことを…」

泣きそうな声で零士が尋ねるが、司は惚けた様に答えることはなかった。

「じいちゃんだろ?」

居石の言葉には反応した。

「全部じいちゃんがやったことにしたかったんだろ?」

司の表情は変わらないが、居石にはなぜか言葉が届いていることが理解できた。

「あからさまに測量機器を使った装飾だったり、一日のほとんどをトンネルで暮らしているようなじいちゃんだからな、みんなの思考がそっちに向かうんじゃねぇかって思ったんだろ?」

「そんな…」

赤津が呟く。

「でも、じいちゃんが見当たらなくなった。その結果、赤津さんが疑われたな。これは想定外だったんじゃねぇか?」

「お義父さんの件は、関係ないのか?」

「俺の想像っすけど、司は三姉妹をじいちゃんが殺したっていう絵を描きたかった、でもじいちゃんが失踪しているっていうのをさっき知ったんすよ。だから、計画は破綻した。そういう計画だったとしたら司がじいちゃんを殺すとは思えないっすね」

司はゆっくりと立ち上がると、居石と並び立つ。

「あいつは最後だったよ。本当に僕の手で殺そうって思ってたのに」

そう言うと食堂を見渡す。

「誰が先に殺したんだよ。なあ?やめてよぉ。僕が最初だったんだよ?」

零士が、お前、と呟く。

回転するように動いていた司が向きを変えて居石の目前に立つ。

「ねぇ、居石さん、僕、何の罪かなぁ?捕まっちゃうかなぁ?」

ワザとらしく心配そうな表情を浮かべる。

居石が黙っていると再び距離を取る。

「僕、人は殺してないんだよね。勝手にみんな死んだんだし。あ、みんな僕が捨てた携帯電話の事、知りたがってるよね?」

今度は悪戯に笑う。

コロコロと変わる表情と爆発するような感情が一人の人間に降ってきているようだった。

司がこれほど表情豊かなことに、居石は解釈できない感動を覚えていた。

それは、司の本性がこっちだったのか、という発見を簡単に上回ることだった。人間はここまで表情豊かになるのだという発見を全く空気も読まずに居石は思っていた。

「残念だけど、僕はそんな内容に興味はなかったんで、読まずに捨てましたっ。どう?黒山羊さんみたいでしょー?」

「じゃあ、三人はなんで死んだのかって…誰も知らないってことになるのか?」

裕二が叫ぶように立った。

「まあでも僕は律儀だからさ、本当は全部に目を通したよ。対して長くなかったしね」

「司、その内容を教えてくれないか?」

敦も立ち上がる。

「さあ、どうかな。律儀だけど物覚えは悪くてさぁ」

そう言うと司は零士を見た。咄嗟に零士は視線を逸らした。

それを満足そうに見た司は再び居石を見る。

「まさか、おじいちゃんが消えるとはね。本当に想定外だよ。僕の計画がすべて無意味だ。誰が殺ったかしらないけど、ほんとやってくれたよ」

「まだじいちゃんが死んだとは言い切れねぇぞ?」

「まさか石橋まで崩れるとはね。あれは誰がやったの?」

当然その場に該当者はいない。

その時、庭を大勢の人間が歩く音が響いて来た。

「まあいいや。そろそろ時間みたいだし。ここでグダグダ話をする気もないしね」

自然な分け目の髪型を掻き上げる。ウェーブのかかった髪がサラリと揺れる。

「結果を重視しようと思うんだ。結果、僕の思い通りに進んだ。これは素晴らしいことだよ」

司が大きく手を広げたタイミングで、食堂に警察官が駆け込んできた。



「広い庭で良かったよな」

深見家に来た時と同じように、母屋の玄関前の小階段に座って袈裟丸が言った。

居石が玄関から出てきたタイミングだった。

その視線の先には、警察のヘリコプタが止まっている。

先程、赤津を除く、深見家の人たちがリレー式に運ばれて行った。時間が無くて警察側が大きなヘリを準備できなかったとのことだった。

来客で最後の残されたのが、バイトとして働きに来ていた居石と、まだ病気が完治していない袈裟丸だった。

居石は事件の当事者として警察から事情聴取を受けていた。

先に救出された深見家の人々も同じように受けていた。

袈裟丸は窓から見た光景を簡単に話しただけで解放された。完治したらまた聞きに来るということだった。

「やっと終わったよ。まあおんなじ話を何度も何度も…」

愚痴愚痴言いながら居石は階段を降りる。

「自殺とはね…」

「思った通りだったぜ」

「そうしておくよ」

風に揺れているアロハをそのままに居石は後ろを振り向く。

「なんだよ」

「別に…」

袈裟丸は立ち上がった。まだふらつきがちだった。

「司君だっけ?よくわかんないな…なんであんなことしたんだろ」

「さあな。本人だけしかわかんねぇよ」

「優秀な警察機構がちゃんと調べてくれるか…」

袈裟丸は肩で息をする。まだ体調が芳しくないのか、それともぶり返したか。

警察が呼びに来た。

自分たちの番がやってきたのである。

「じゃあ帰るか」

「まずはお前の病院だ」

歩き出した二人を後方から呼び止める声がする。

「あ、赤津さん」

「間に合いました。良かったです」

どこから走ってきたのか、息を切らしている。

「この度は、ありがとうございました。巻き込んでしまって申し訳ありません」

「赤津さんのせいではないですよ」

「そうそう。あ、じいちゃんのこと、どうっすか?」

居石は赤津が警察に勘三郎の件を伝えていたことを知っていた。

「ええ…まずはお嬢様方の方が優先されるそうです。そちらの捜査が済んでから、勘三郎様の方も捜査を進める、とのことでした」

そうっすか、と居石は言ったが、心の中では、勘三郎を優先してくれれば良いのに、と考えていた。

不謹慎な考え方なのかもしれないが、三姉妹はすでに死んでいる。勘三郎は行方知れず、まだ生きている可能性だってあるわけだ。

警察が動いてくれるのは有り難いが、優先順位は間違って欲しくない。

立て籠もりの件がまだ全部片付いていないのかもしれない。

「見つかればいいですね」

「袈裟丸君も、体調が優れない中申し訳ありませんでした」

「いえ、ご飯も美味しかったですよ」

「あれ、俺も手伝ってっから」

「なんか体調が悪くなってきたな…」

んだよ、と言う居石と袈裟丸とのやり取りをにこやかな表情で赤津が見ている。

「あ、下世話な話になってしまいますが、アルバイト代は塗師さん経由でお受けとり下さい」

「いいんすか?」

「それはもちろん、お二人には落度は御座いませんので」

「え?俺もですか?」

赤津はにこやかに頷く。警察が二人を呼ぶ声が聞こえる。

「あ、じゃあ、お別れっすね」

「ええ。またどこかで会うことがあれば。お声をかけてください」

「赤津さんはどうされるんですか?」

「しばらくはこの家におりますが…その後は分かりません」

「赤津さんなら、どこでも雇ってもらえそうっすね」

「お前が言うなよ」

「居石君、これ」

居石が手渡されたのは小さなメモだった。広げると卵サンドのレシピだった。

赤津は、では失礼します、と言って下がって行った。

ヘリに乗り込むと、すぐに上昇する。

少し周囲を旋回するように飛ぶと、町の方へと向かう。

深見家の関係者とは違い、袈裟丸の件があるので病院へと直行するという。

司を始め、三姉妹のパートナたちは警察で更なる事情聴取が行われるのだろう、と居石は考えていた。

「にしても…司はどうなるのかね、今後の彼の人生はさ」

袈裟丸は前を向きながら呟くように言った。

居石が軽口を叩かないことに気付いた袈裟丸は、横目で確認すると、ヘリの窓から外を食い入るように見ていた。

「子供かよ。全く」

そう呟くと袈裟丸は短い飛行時間を眠ることに決めた。



袈裟丸は入院することになった。到着した病院では、肺炎一歩手前の状態だという診断だった。

結果、さらに大学へ帰るのが遅くなってしまった。

居石は袈裟丸に変わり、自分の事も含めて研究室に連絡を入れ、お互いの研究室から落ち着いたら帰って来い、という有り難い言葉を引き出していた。

また、事情を知った赤津が手を回してくれたようで、町のホテルに居石の部屋を用意してくれた。

深見家では散々付き合わせてしまったので、袈裟丸には療養に努めて貰うことにした。

そして。

今、居石は深見家に来ている。

正確には、深見家の裏手の山である。

バスで来たので同じようにバスで来れるかと思ったが、以外に時間がかかった。

この場所は正確に言えば母屋がある方とは逆側である。

すっかり秋晴れとなった今日は、絶好の散歩日和、と言っても過言ではない。

バス停と民家が視界に点在するだけの国道に降り立つと、居石は小道に入り、そのまま山を登る。

途中で二手に分かれる。左手は舗装されている登山路であり、シーズンであれば人が歩いていてもおかしくはない。右手は舗装されていないが幅が広い道だった。

居石は少し考えて右の道を選択した。

相変わらず場違いな格好だが、軽やかに上っていく。

何度か折り返しながら進む。

周辺を見渡し、方向なども確認しながら目的の場所を探す。

さらに十分ほど進んで、道が二手に分かれた。

山肌に沿って進む、今歩いて来た道から派生している砂利道に居石は迷わず進んだ。

木々の脇を抜けると、広い土地に出る。

深見家側よりも高度が低い所からスタートしていたので、居石はかなり上った気がしていた。しかし、実際は深見家と同じ標高レベルだった。

その土地は木々に囲まれて日の光があまり入らない。

しっかりとした土地は山肌から突き出るように広がっている。

接合部の山肌には、ぽっかりと大きな穴が開いていた。

居石は髪を掻き上げ、穴を視界に捉える。勘三郎の穴より二回りほど大きい。

ゆっくりと近づくと穴の脇に人影が見えた。

岩肌に背中を預けるようにして足を投げ出して座っている。

気持ち良すぎて寝ているのかもしれない、と思いながら近づく。

そんなわけねぇよな、と思うのと、背中から尻にかけて赤黒い液体がべっとりと付着していることに気が付くのは同時だった。

駆け寄ると、男性だった。血液は背中から流れ出ているようだった。

男性は作業着と粉塵防護マスクを着用していたが、工具などは一切周りになかった。

事故にしては変だなと考えていると後ろから声がした。

「勘三郎さんの会社の社員だよ」

背中越しでもこっちを見ている視線がわかる、そんな声だった。

緊張して振り向くと、作務衣に雪駄、頭を覆うようにして黒いタオルを被った塗師明宏が立っていた。

まったく足音を立てずに居石の方に近づく。

「見ての通り、だった、って言った方がいいけどね」

「何しに…」

「いや、バイト代が振り込まれていたから払おうと思って」

「っつーか、なんで直接ここに来れるんだよ。誰にも俺言ってねぇぞ?」

居石の隣にしゃがんで社員の遺体を見始めた塗師は笑顔になる。

「居石君はなぜここに来たの?」

その質問にはすぐに答えられなかった。

「君と同じ理由、かもしれないよ」

塗師は横に広がる穴に視線を送る。

二人は立ち上がってその穴と対峙する。

先に歩みを進めたのは居石からだった。

多分、塗師は自分で穴に入ろうとはしないだろう、という予想だった。

勘三郎が掘っていたトンネルと違い、照明などは無く、補強もされていなかった。

さらに断面形状は円形で、奥を見ると穴の先頭と思われるところがライトアップされていた。

居石は孔壁を触る。

岩質ではなかったが、簡単に崩落するようなものではなさそうだった。

「大変なバイトになったみたいだね」

後ろを歩く塗師が言う。反響して不思議な耳心地だった。

「本当だよ。耕平はぶっ倒れるしさ、人が死ぬし…」

「人も消えたしね」

歩きながら振り返る。怪訝な表情だったが、暗く、塗師の表情は見えない。

少し歩くと、明かりの正体が分かった。

穴の全体を覆うように機械が置かれており、それに取り付けられているライトだった。

「凄いなあ」

正直に驚いている塗師の声を聴きながら、居石はその機械を観察する。

『深見重機リース』と車体に書かれており、地面を見るとキャタピラのようなものがあった。

これは動くのである。

側壁と車体との僅かな隙間を縫うように奥まで行くと、大きな円盤があった。

この円盤はTBMの先端、カッターヘッドになるのだろう。

そのカッターヘッドにはドアがあり、中に入れるようだった。

この時点で居石にはこれが何か理解できていた。

「ねえ、居石君、これなんだろうね」

塗師が尋ねるが、恐らく分かっているに違いない。

「え?ああ、多分…TBMだよ」

「ん?」

「トンネルを自動で掘ってくれるマシンだよ」

「へー」

わざとらしいその態度に若干苛立つ。

「でも多分、これは…全自動だな。普通のTBMでもエンジニアが数人必要だけど、これは人がそこまで必要ない」

「ああ、そう言えば深見さんの所で開発したって小耳に挟んだことあるな」

「普通に暮らしていて小耳に挟むタイプの情報じゃねぇだろ?」

「そう言えば袈裟丸君は元気?」

「恍け方が下手すぎんだろ」

塗師はケラケラと笑う。

「でもなんでこんなところに置いたままにしてあるんだろうねぇ」

居石は心の中で舌打ちをすると、前面のカッターヘッドに取り付けてあるドアを開ける。

このカッターヘッドは今見えない切羽側に突起がいくつも取り付けてあり、このカッターヘッドが回転することで切羽を掘削しながら進む。

そのカッターヘッドにドアがあるのは、切羽とカッターヘッドの間に石などが挟まるなど、不具合が生じた場合、ここを開けてメンテナンスを行うためである。

普通のTBMやシールドマシンであれば掘削して出た土や石をマシンの内部を通して後方へ送り、トンネルの外へ出す。

この新型のマシンも同じようになっているのだろうと居石は推測した。

詳しい仕様などは分からないが、そのようになっていないと作業ができない。

掘られた穴の大きさから推測すると、恐らく下水などの比較的小規模なトンネルを掘削するために開発されたのだろう。

居石が開けたドアの先には石の壁があった。

切羽と掘削用のカッターヘッドの間はほとんど隙間が無かったため、簡単に触ることができた。

その性質は居石には覚えがあった。

触れたことがあったのである。

塗師は少し離れたところに立っていたため、そこまで居石は戻った。

「どう?面白いもの見つかった?」

「塗師さん、このTBM運転できっかな?」

「そうだねぇ…原付よりは難しそうだね。でも動かして言いの?」

居石は頷く。

塗師は、わかった、と言って運転席を探し出す。

三分ほどするとエンジン音が響く。

「少し離れてて」

運転席から叫ぶように塗師が言ったので、居石はトンネルを戻る形で距離を取った。

一般的な重機のようなエンジン音を響かせてTBMは後退する。

一メートルほど動いたところで再びTBMが停止する。

「こんなもんで良かったかな?」

「ベストっすよ」

塗師は分かっているな、と居石は考えたが、口には出さない。なぜかと言われれば勘だとしか言えない。

空いた空間にTBMのカッターヘッドのドアから入る。

そこには一面に岩肌が覗いていた。

「どうしてここで止まっているのかなぁ。壊れちゃったとか?」

「たった今動いたっしょ?それにビットもすり減ってない」

居石は振り返って、今まで隠れていた掘削面を見る。

カッターヘッドに無数に取り付けられた掘削用のビットに少し土がこびりついている。

「こびりついているのって土だね。でもこれって岩肌じゃないか?」

ビットと切羽を交互に見ながら塗師は言った。ここまで来るとわざとらしさに拍車がかかり、舞台俳優みたいだった。

居石はもう一度切羽の岩肌に触れる。自分の感覚に間違いはなかった。

次にトンネルの側壁に向かう。切羽と側壁が交わっているところに手を当てる。

「使う?」

顔の横から塗師がペンライトを差し出す。

何も言わすにそれを受け取ると側壁と切羽の接点を目の届く範囲で観察する。

そこには僅かに隙間があった。

「隙間が空いている…」

なんで?と言う顔で塗師は居石を見た。

「戻る」

一言告げてカッターヘッドのドアを潜る。

「ふー。なんか息が詰まる空間っだったね…。で、あれはどういうこと?」

「あれは本当の切羽じゃないんすよ」

「へー」

「リアクションくらいはもっとしてくんねぇかな?」

塗師は笑うだけだった。

「今いるトンネル、よく見ればじいちゃんが掘ってたトンネルよりも一回り…二回りくらいは大きい印象があるんすよ」

「ほー。それがどうしたの?」

「じいちゃんの計画っす」

塗師は真顔になる。

「じいちゃんは…最初からこれを計画してたんすよ」

居石はTBMをバンバンと叩く。

「自分がある日突然家から消える。そう演出したかったのかは知らねぇけど、突然失踪したように見せたかったんじゃねぇかな」

「確か石橋が壊れて、君たちは閉じ込められたんだよね?それも勘三郎さんがやったってこと?」

「それはやっぱり偶然だったんじゃねぇかな。じいちゃんにも不測の事態だった。でも計画は止められねぇから実行した。結果孤立した空間から人間が消えたって話になったんすよ」

「その計画っていうのがまだわからないんだけど…自分の意思で失踪したってことになるのかな?」

「じいちゃんの計画は、まあ…信用できる誰かにこのマシンをここまで持ってきてもらって適当な理由をつけて動かしてもらう。全自動で掘削できるから、恐らくGPSとかで制御しているんじゃねぇかな…」

「運転席にあったよ。コンソールが。確かにGPSの数値があった」

「じいちゃんもポータブルのやつを持ってたよ。今思えばあれはこのマシンの位置が表示されてたんだ。それで、重要なのが、わざと数十センチくらい余裕を見てたってこと」

「どういうこと?」

「こいつが最終目的地として設定されていた地点っていうのは、じいちゃんが消える前の日までに掘り進めていた地点のちょっと手前で停止したってこと」

塗師が、ふーん、と呟く。

「じいちゃんが最後まで掘っていた切羽が崩れない程度のところまでTBMを進めたんだよ。じいちゃん側は最後に隅の一ヶ所だけ切り取るように掘ってこっち側に抜ける」

居石は再び切羽の方を向いた。

「その後、あの大きな石の板を壁の様にして蓋をする。こっちの穴の方がじいちゃんが掘っていた穴より大きいから問題はないし、切り取ったところが崩れたとしても岩盤層に当たったと思うだろうからな」

「でも調べられたら終わりじゃないかな?」

「それは計算済みだったんじゃねぇかな。それが判明した時にはもうじいちゃんは消えているだろうし」

居石は外に向かって歩き出す。塗師もついてくるようだった。

孔内から外に出ると眩しくて目を細める。

ほぼ日の光は届いていない場所だったが、それでも眩しいことには変わりない。

すると、と後方から声が聞こえる。

「この社員の死体も?」

居石は塗師と目が合った後、入り口脇の名も知らぬ死体に目を向ける。

「残念だけどじいちゃんがやったんだろうな。口封じのため…」

「この人、捨て駒だね。文字通り」

警察に連絡するかい、と尋ねた塗師に力なく頷いた。

「にしても、なんでこんな面倒な方法で逃げたんだろうねぇ」

立ち上がって居石の方を振り向いた。その視線は、君にわかるかい、と聞いているように思えた。

「知らねぇよ」

「正面の橋が崩れたのは偶然なんだから、堂々と正面から逃げれば良かったじゃない?誰も気にすることもなかったんだし」

まるで見てきたような言い方に、居石は腹が立った。

「頑固な性格だから、自分が決めた方法でここから去りたかったんじゃねぇのか?」

投げやりな言い方だと自分でも思った。

それを見透かしたように塗師は言う。

「本当に?僕はね、自分で状況を作ったようにしか思えないんだよねぇ」

何がだよ、と再び投げやりに聞き返す。

「勘三郎氏は、自分で作ったこの家と庭と敷地から自分の力で逃げたかったんじゃないかなって思うんだよ。だって逃げ出す必要は無いじゃない?まあ、人が死んでしまったし、殺意の方も明らかになったけれどもさ」

確かに正論だった。

勘三郎が何故失踪したのか、塗師はそれを逃げ出した、と表現した。自分で細工までして姿を消したのだから、逃げ出した、と言う表現が正しい。

「司に殺されるって分かったからじゃねぇのか?」

「それは後付けだよ。それを知るすべはなかったんじゃない?そうじゃなきゃこんな面倒臭い方法を選択しないって。時間かかるんだし」

悪戯な表情で塗師は笑う。続けて、僕はね、と真顔になる。

「もう一度言うけど、これは彼が自分で作ったようにしか思えない」

袈裟丸から頭じゃなく直感に従えというアドバイスに従う。

「逃げ出すことが目的だったってことか?」

「まあ、そうだね」

塗師は含み笑いをしながら言った。

これはニュアンスや意味合いが違うが、それが伝わらないから本人が理解している言い方で妥協した時の態度である。

居石はこんなリアクションを取る人間をもう一人知っている。

人と人とのコミュニケーションなんてそんなものである。常にお互いすれ違っている。

でも心が通じた、なんていう耳心地の良いワードでそれをまとめようとしている。

「最初からこれをしたくてここに家を建てたんだよ」

「そこからかよ…。なんでだよ。あんたが言ってたけどそれだけで面倒くせぇだろ」

「理解しがたいかもしれないけど、それは必要な手順なんだよ」

「分かんねぇよ」

「じゃあ、覚えておいていつか理解したら連絡くれよ」

いいか、と勝手に始める。

「簡単に話すね。彼は本当の自由を手に入れようと思った。でも彼は自由というものはガチガチに縛られた後、開放されることで得られると思い込んだ。だから石橋を落として閉鎖空間にして、自分も閉鎖空間に籠って、家族とも距離を置いて、身体を少し酷使して、穴から外に逃げ出したんだよ」

「自由を得るため…それだけのために?」

「そうそれだけのためだ。ただ外出するっていうことは彼の中では自由じゃないんだよ」

居石は何も言えなくなった。

その姿を見て塗師は微笑むとスマートフォンを振った。電話するよ、ということらしい。

居石は死んだ作業員に視線を落とす。

これが勘三郎の本性なのだろうか、娘たちや赤津から聞いていた勘三郎の行動性格の片鱗から、それを簡単に推察することは可能だろう。

しかし、数回だが直接話した経験のある居石には、それが正しいのかどうか判断できなかった。

通報を終えた塗師が作務衣を直しながら言った。

「まあ人間なんて打算的だからね。自分がその立場に置かれなきゃ、わかんないこともあるんだろうねぇ」

塗師の言葉は、山を吹き下ろす優しい風に乗って、黄色に彩られた大地に溶けて消えていった。

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