第4話 カノジョの死
物置、と呼ばれるには、極めて簡素な空間だった。
元々、物を貯めこまない、所有しないという家柄なのかもしれない。
そんな事を考えながら、居石は部屋の中央でしゃがんでいた。
目前には布を掛けられた恵令奈の遺体がある。
恵令奈の遺体は三脚に乗せられた状態のままだった。
居石以外の人々は、食堂に集まっている。
敦は泣きながら赤津に支えられて去っていった。
立て続けに深見家の人間が二人、死んだことになる。
居石は、そこから動けなかった。
一度食堂に戻った赤津が再び戻ってきて、恵令奈に布を掛けに来た。
その際、居石も手伝った。
二人で恵令奈の遺体を確認することになった。
まず間違いなく、死んでいた。
身体の硬直は始まってないので、亡くなってからそこまで時間は経っていない。
今朝までは生きていることは分かっているが、医療の知識を持っている人間がいないため、正確な死亡推定時刻などは分からなかった。
赤津は恵令奈を三脚から降ろしたかったが、居石が止めた。
気持ちは理解できたが、警察が入るまでは降ろすことはできない、という主張だった。
悲痛な顔をしながら恵令奈の身体を調べていた赤津は、頭を調べていた時に、動きが止まった。
それは首元を調べていた時だった。
長い髪が垂れていたため見えなかったが、その首元が赤紫に変色していた。
つまり、首を絞められたことで死に至った、と考えられた。
さらに、恵令奈の遺体は部屋の奥、その壁際に立てられた三脚に座らされていた。
その首元から、壁に向けて、バネ測りが付けられていたのである。
理科の実験などで使われることの多いバネ測りである。
赤津曰く、絵が掛けられていたというフックにバネ測りの持ち手が引っ掛けられ、対象物をかける測り側のフックが、恵令奈の着ているワンピースの後部襟元に穴を開けて取り付けられていた。
赤津は何故こうしていたのか、わからずにいたが、居石は一つの考えがあった。
遺体を三脚に乗せた時、そのままでは倒れてしまうからである。
死んだ人間を三脚に乗せた時、そのままでは自立することはできずに倒れてしまう。
それを防ぐために、支えとして壁と遺体を繋げたのだ。
このバネ測りによって遺体は三脚の上に座ることが出来る。
しかし、なぜバネ測りを使っているのか、それは居石にもわからなかった。
仕組み上、バネの動きをロックできるタイプの測りだったので、伸びきってしまうということは無いが、代替品ならば、それこそこの物置には沢山ある。
簡単な紐だって良いのに、なぜ手のかかるものを選んだのか。
それがわからなかった居石は、赤津が帰った後もずっとそれを部屋で考えていた。
しかし、全く考えが及ばない。
そして、三脚に恵令奈を座らせた理由についても。
なぜ、恵令奈をこんな姿にしたのか、この状態にすることにどんな意味があるのか。
カメラを乗せるような三脚ではなく、脚が太く特徴的な見た目の三脚である。
恵令奈に掛けられた布の隙間から見えるその三脚に、居石は既視感を覚えていた。
立ち上がった居石は、部屋を見渡す。
頭を掻いて、部屋を後にした。袈裟丸にも話してみようと思った。
あいつならば何か思いつくかもしれない。
部屋を後にして、食堂に向かう。
扉の前に立った居石は深呼吸をする。
敦や零士の事を考えれば、尚更食堂の空気は重いだろうと思った。
しかし、話は聞かなければならない。
その理由があった。
「よし」
居石は意を決してドアを開ける。
しかし、食堂には誰もいなかった。
「え?」
「あ、居石君…」
厨房の方から顔を出したのは、赤津だった。
さすがに元気がない。
「あの…みんなどうしたんすか?」
「ええ。あの後、私が戻りまして、恵令奈様の状態を報告させていただきました。それから、皆さまここで話し合われて…再び部屋に籠ろうということになりまして…」
「それは…なぜっすか?」
「はい、零士様のご提案でしたが…この状況で恵令奈様が…殺されたとなれば、間違いなくこの中に殺人犯がいる、となりまして」
精神状態が揺らいでいれば、間違いなくそういった結論になるだろう。
石橋が破壊されており、外部からの侵入はない。
ならば、中の人間に殺人を犯した者がいる、そう言った流れである。
各人が殺されまいと立て籠もるという状況は、生存確率を上げるという点で良いように思えるが、その実逆である。
「そりゃまずいっすね」
「どういうことでしょう…か?」
居石は説明をする。
「そもそもの話、まだ外部犯が完全に否定されたわけじゃないっすからね。探してもいなかったってだけで。例えば誰かが匿っていたら見つからないし。それに、もし本当に深見家の中に恵令奈さんを殺害した人物がいるっつーんなら、まだこんなこと続けようっつーんなら、今がチャンスっすよね?みんな一人なんだし」
赤津の顔が青ざめている。
やはり、そう言ったことに頭が回らなかったのである。
「そう言えば…じいちゃんは?」
「あ、まだ帰ってきておりません」
居石は赤津に全員食堂に集まるよう説得をお願いしつつ、勘三郎の元へと急ぐことにした。
クロックスで全速力を出すことが出来るのは、ビーチサンダルを普段履きしている居石だからできる芸当である。
玄関先に置いてあった懐中電灯を頼りに、すでに日がどっぷりと落ちた庭を横切る。
林道に出ると、左手へ。
さらに走って切り立った崖を抜ける。
勘三郎のトンネルとその脇にあるテントが目に入った。
テントは照明が灯っているが、人がいる気配はない。
どうやら、暗くなると自動で電気が点灯するライトのようだった。
まだ勘三郎は穴の中にいる。
居石は懐中電灯を握りしめてトンネルの中に入って行った。
支持材として使っている木が軋む音が聞こえる。
意味がないと思っていたが応力をしっかりと受け持っているようである。
すぐに切羽が目に入る。
しかし。
そこに勘三郎の姿はなかった。
「え?じいちゃん?」
居石の声が、いつもより大音量でトンネル内に響き渡る。
隠れる所なんて無いのに、なぜか周囲を見渡す。
トンネル内は昼も夜も変わらない明るさである。
人が隠れられるようなものは置いてないが、それでも懐中電灯を使って見る。
勘三郎の姿はどこにもなかった。
「嘘…だろ…」
居石の目の前には切羽だけである。ベンチカットはすでに無くなっていたので、こんな事態でも勘三郎は少しずつ掘り進めていたことが分かる。
スコップやつるはし、削岩機が乱雑に切羽の前に置かれて、すぐ脇の壁にはGPSの端末も掛けられている。
居石は切羽を見ながら考える。
一歩切羽に近寄ると、足元のスコップを持ち上げる。
片方の手で、切羽を触ってみる。硬いが、強く触るとぱらぱら土粒子が落ちてくる。
両手でスコップを力強く持った居石は勢いをつけて切羽にスコップを突き立てた。
強い衝撃が両手に響く。
スキップは突き刺さったままである。
痺れた手のまま、削り取る様にして掘る。バケツ一杯ほどの土粒子が落ちる。
その先に、土粒子とは色の異なる地層が見えた。
スコップを投げ捨てるようにして、居石は近寄る。
「岩…地層が変わんのか…」
最悪な可能性として、勘三郎が殺されて埋められているのではないか、と居石は考えていた。
土層はある程度の厚さはあったものの、その後ろに岩石層があるため、人を埋められるほどの厚さにはなっていない。
つまり、勘三郎が殺されて埋められた可能性は無く、本当に消えていなくなっている。
居石は困惑した。
引き返してトンネルの外に出る。
夜空が出てくるが、まだトンネルの中にいるようだった。
テントに近寄り、所かまわず、荷物をひっくり返して探し始める。
削岩機が入っていたケースなども開けたが、勘三郎の姿はなかった。
「んだよ…訳わかんねぇ」
居石は泣きそうな表情になっていた。
本当に泣きたいわけではなく、むしろ苛立ちに近い感情だった。
居石は元来た道を振り返る。
それと同時に走り出した。
その間も気になった場所を照らしながら進む。
深見家に向かう道に入らずに直進する。目指すは川である。
石橋が奇跡的に元に戻っている、ということもなく、壊れたままだった。
橋が架けられていたところに、居石は立つ。
息を切らしたまま、懐中電灯で川を照らす。
慎重に、時間をかけて川上から川下へと懐中電灯を照らす。
テントの所から何か持って来ればよかっただろうか、と思いながらも目は川から離さない。
どれだけ時間をかけて何度も見返しても、勘三郎の姿は見当たらなかった。
頭に勘三郎との会話がプレイバックされる。
居石は走り出し、母屋に向かった。
母屋からトンネルまでの間で、すれ違った可能性を考える。
しかし、一本道ですれ違ったらすぐにわかるはずである。
最悪の可能性だけが頭を過る。
母屋の玄関を勢いよく開ける。
丁度、食堂から赤津が出てきたところだった。
居石の表情が、余裕がなかったのか、すぐに近寄ってくる。
「赤津さん、あの…じいちゃんから、緊急連絡のやつ、なかったっすか?」
勘三郎がトンネル内で事故などに見舞われたとき、母屋に緊急連絡が行くようなシステムを組んでいたことを居石は思い出したのである。
どのようなシステムなのかはわからないが、それが来ていれば何らなの手がかりになる。
赤津は居石の言っていることにすぐ思い至り、自分のスマートフォンを取り出す。
何か操作すると、連絡はきてません、と一言告げた。
居石は息を整えながら、その言葉を反芻する。
「このシステムは私のスマートフォンへの連絡と、同時に館内に警報が響くようになっております」
声には出さなかったが、随分と大げさなシステムだと思った。
「居石君…」
その先を告げなかったが、言いたいことは分かった。
赤津の表情も、覚悟をしている、という顔だったのが居石には我慢ならなかった。
「じいちゃんが…消えた。トンネルからいなくなった」
「いなくなった?」
「こっちに来てないっすか?離れとか…」
「離れは分かりませんが…こちらに…私は見かけておりません」
「マジか…」
「どういう…ことですか?」
「わかんないっす。行ったらいなかったんすよ。川も探してみたんすけど…」
居石が川まで勘三郎を探しに行ったことが、最悪の事態を考えているためだと分かった赤津は、すぐに皆様に、と言って走り出した。
居石は離れに向かって走る。
転びそうになりながら階段を上り、玄関を開ける。
照明は消えたまま、ひっそりとした空気が充満している。
「じいちゃんっ」
ほぼ叫んでいた。しかし、それに対して反応はない。
居石の視線に開けていけないと言われた襖が見えた。
深呼吸をして襖に近づくと、思い切って開ける。
そこは、布団や小さな箪笥が置かれている和室だった。
そこも静まり返っており、襖を開けた瞬間に、どこか懐かしい匂いがした。
ここにも勘三郎はいなかった。
「要」
居石は振り向かなかった。
袈裟丸はそれだけで何が起こったか察したようだった。
「起きれんのか?」
「まあ、平熱になったしな。多少頭は重いけど」
「まだ不完全ってとこか…明日には帰りてぇな」
それは大丈夫だよ、と袈裟丸は言った。穏やかな声だった。
「ちょっと話せるか?すぐに母屋に戻っから」
「あんま聞きたくない内容だろうな…」
居石は振り向いた。
「耕平、力貸してくれ」
「いつも貸してるだろ」
そんなこと言うなよ、と居石は拗ねたような声で言った。
「なるほど」
ベッドの上で、袈裟丸は言った。
二人は部屋に戻り、居石から起こったことの説明を始めた。
その間、袈裟丸はじっと黙って聞いていた。
話し終わると、袈裟丸は先の台詞を言って少し考えていた。
「まず要、恵令奈さんの方だけど…」
袈裟丸はそう言ってノートPCを引き寄せて、キーを打った。
「乗せられていた三脚ってカメラのやつとは違ったんだろ?」
「まあ、カメラの三脚にしてはゴツかったな」
「これか?」
画面を居石の方に向けた。
「あ、それだ。何だそれ?」
「これは測量用の三脚だよ」
「…なんだっけそれ…」
袈裟丸は溜息を吐く。
「マジか…お前さ、測量実習をもう一度履修しろよ」
「なんで一年生と一緒に測らなきゃなんねぇんだよ。必修科目だぞ。単位落としてねぇよ」
「じゃあなんでこれ分かんないんだよ」
「三脚に注目して実習なんかしねぇよ」
それに言い返すと話が進まないと判断したのか、袈裟丸は画面に目を落とす。
「まるっきりこれと同じかは、俺は見てないからわからないけど、多分これだろうね」
「なんでそんなのに恵令奈さんは座らされてんだよ」
「んー…見立て、とかかな?」
「なんの見立てだよ」
「そのままだって。測量だよ」
「ほう」
「ほうって…。まあいいや。この三脚の上には、一般的には測量機器が置かれるもんだ。デジタルセオドライトとか、レベルとか」
「脂肪のレベルが関係あんのか?」
「セルライトじゃねぇよ。真面目に言ってんのか?」
「こっちはいたって真面目だ」
「再履修決定な。セオドライトっていうのは、垂直面と水平面の角度を測れる装置だよ。たまに道とかで小さい望遠鏡みたいなのを覗いているの見たことないか?」
「ある」
「こんな説明、大学院のやつにするとは思わなかったよ」
「お互い勉強になるだろ?」
「とんだポジティブシンキングだな」
「照れるぜ」
「褒めてないよ。いいか、恵令奈さんはその三脚に座らされてたんだろ?これは、恵令奈さんをセオドライトに見立ててんだよ」
「本当にそうなんか?」
「疑問だけは一丁前だな。俺がそう思ったのはもう一つ、理由がある。それはバネ測りだよ」
「ああ、それも良く分からなかった…まさか?」
まるで舞台役者の様にわざとらしく居石は言った。
「お察しの通り、これも測量に関わりがある」
「これは申し訳ないけど、言わしてもらうわ。ぜっっったいに実習で使ってない。断言できる」
「お前は俺と実習の時の班が同じだったけど、お前が使っているところをしっかりと覚えているけどな?」
居石はゆっくりと立ち上がって窓から外を眺めた。
「なあ、月が綺麗だぜ?」
「誤魔化しが下手か。しかもセリフも気持ち悪い」
「覚えてねぇもんは覚えてねぇよ。リアルタイムで実習やってる学生だって覚えてねぇよ」
袈裟丸は無視して説明を続ける。
「距離測量っていうのがあるだろ。っつーか、あるんだよ。それは字の如く距離を測る。それには巻尺を使って測るんだけど、体育の授業とかで使う布やビニール製のものだと伸び縮みするから誤差が大きく出るんだよ。温度や力によって大きく変わるからな」
「ああ、誤差誤差って授業でうるさく言ってたな。それは思い出したよ」
「そう。だから鋼の巻尺を使う」
居石は首を傾げて思い出そうとしている。
「これを一定の荷重で両方から引っ張るんだよ。自身の重さで弛むからな。弛みを押さえるために引っ張る」
「引張ったら伸びるだろ?」
袈裟丸は頷く。
「だから、弛みがゼロに限りなく近くなる力で引っ張るんだよ。これは計算で出せる」
懸垂曲線が、と袈裟丸が口を開いたところで、居石の表情を読み取った。
「分かった。それはまた別の時に。とりあえず、測る時に両側から引っ張るんだけどその引っ張る荷重がわかる様に片方にバネ測りを取り付けておくんだ。その値を見ながら調整する」
居石は表情を明るくさせる。
「使ったわ。思い出してきた。それ、俺が引っ張ったんだったな」
袈裟丸は頷いた。
「…でも鋼でも温度で多少伸縮するだろ」
「それも補正式がある。温度と金属の収縮の関係だな」
ほう、と居石は大きく頷いた。
「っつーことは、恵令奈さんの首元に繋がっていたバネ測りはそういう意味ってことか」
「だから、見立てかなって思ったんだよ。ほら、最初に死んだ…」
「江里菜さん?」
「そう。江里菜さんも頭にピンポール刺さってたんだろ?これも測量で使う機器だ」
「だから見立てってことか…」
そう言うと居石は腕を組んで考え込んだ。
「どうした?」
「いや、耕平がそう考えたっていう理由はわかったんだけどさ…」
「うん」
「なんでそんなことすんだよ」
「知らねえよ。やった奴に聞けよ」
「いや、まあ真面目に言えばさ、こう…そんな面倒な…っつーか、江里菜さんなんて頭ピンポール刺さってんだぞ?そんなことまでして何したいんだろうなって」
「まあな…」
袈裟丸は天井を見上げるとすぐに居石に向き直る。
「とりあえず後回しだ。それで…」
「じいちゃんだ」
「そっちだよなぁ。分かんない。消えることってあるか?」
「こっちが聞きたいんだよ」
そうだよな、と言って袈裟丸は考え込む。
「なあ、要、本当にすれ違ったりしなかったか?」
「ない」
居石は即答だった。
「母屋からトンネルまでほぼ一本道なんだよ。林道を抜けたら両端が切り立った崖だ。とっかかりもないから素人には上れねぇよ」
「勘三郎さん、ロッククライミングとか…」
「やれねぇだろ…聞いてねぇけどさ、身体鍛えてたけどさ…」
「林道はどうなんだよ。そっちに逃げ込むとか」
「どうだろうな。林道っつても木はまばらだし、見通しも良いからそこにいりゃわかるし。そもそも敷地からは逃げらんねぇぞ。川渡れないからな」
「ああそっか…」
「お前が寝てるときに離れに来たとかねぇのか?」
「まあ、ずっと寝てたわけじゃないけど、絶対来てないとは言い切れないな」
「玄関空いたらわかるのか?」
「正直わからなかった。ドア蹴破るほどの大きな音じゃなきゃな」
「さっきは俺が帰ってきたこと良く分かったな」
「自覚がないっていうのは怖いな」
なんだよ、と若干喧嘩腰になって居石は聞く。
「じいちゃんじいちゃんって叫ぶくらいの声だったんだぞ」
「ああ…そっか…」
「だから逆に言えば、この中で大きな音がすればわかるってことだよ」
袈裟丸は、離れで何か勘三郎に起こった場合に自分も気が付く、と言った。
黙ってしまった居石に再び袈裟丸は質問する。
「聞きにくいけどさ、川にも…川の下にも落ちてなかったんだろ」
「おう…十分探したけどいねぇ。死体の一つもな」
「うーん、まあ、もちろん母屋にもいないと…」
「誰かが匿ってなきゃな」
「それ、確か江里菜さんが殺されたときもそんな説を言ったんだよな?」
「そうじゃねぇと考えらんねぇだろうよ」
言いたいことは分かる、と袈裟丸は同意する。
「こういうのはどうだ?まず勘三郎さんは事前に離れに戻ってきた」
「だから、俺とはすれ違わなかったって言ったろ?」
「お前が母屋から飛び出るより前だよ。それにいつ勘三郎さんがトンネルから移動したかなんてわかんないだろ?そもそもだけど」
腰を上げて言った居石がゆっくりと座る。
「それでな、母屋に向かったんだよ」
「なんで離れに来て母…あ」
「渡り廊下だよ」
袈裟丸は指で下を示す。離れの一階と母屋の二階を繋ぐ渡り廊下である。
「母屋へのアクセスは二通り。正面突破か、渡り廊下だ。勘三郎さんは渡り廊下を使った」
居石は真剣な表情で聞いていた。
「お前の話だと。渡り廊下へのアクセスは深見家の人間しかできないんだったよな?」
「赤津さんが言ってた。深見家の人間の指紋と暗証番号がなきゃ開かないって言ってた」
「時折、日本語覚えたてになるよな、お前」
居石はそれにコメントを挟むことなく、次の袈裟丸の発言を待っていた。
「もちろん勘三郎さんも開錠できるはずだ。それから勘三郎さんは母屋に入った」
「でも…入ってからどうしたんだ?」
「これはお前にとって最悪な想像だけれど…移動は恵令奈さんの遺体が発見される前に行われた。母屋に入った勘三郎さんは自分の部屋に向かったんじゃないか?」
居石は怪訝な表情で聞いていた。
「確か、二階だったよな?階段室から降りてすぐだ。しかも好都合なことに家の人たちは自分の部屋に籠っているところだった」
「それは…」
袈裟丸は止まらずに続ける。
「勘三郎さんの部屋は使われずに空室のままだ。しかもわざわざ扉を開ける必要もない。もしかしたら常時鍵を掛けていたのかもしれないな」
「ちょっと待て、お前何を言おうとしているんだ?」
居石の目つきが悪くなる。
それでも袈裟丸は止めなかった。
「要、俺は勘三郎さんが恵令奈さんを殺害したと思っているよ」
「おい、なんでだよ。そんな理由ないだろう?」
「そんな理由なんて、本人に聞けばわかるだろ?あの状況で可能性があったのは誰かってことだ」
「そんなの他の人間だってできただろ?」
「そうだな。その通り」
あっさりと袈裟丸は認めた。
「でも、勘三郎さんが消えた理由にはなる」
「そりゃ暴論ってやつだろ」
「そうかな。失踪する理由としては十分だろ」
「どうやって恵令奈さんを呼び出したんだ?」
「親から話があるって言えば、出てくるだろ」
「だったら敦さんが知ってるはずだろ。一緒の部屋なんだから」
「まあその通りだな。でもスマートフォンにメッセージを送っているかもしれない。知られずに呼び出す方法なんてあるよ」
「待てよ…。そうだ。江里菜さんの時と同じだろ」
「どういうこと?」
「母屋の廊下は窓に面してんだろ。外から丸見えだ。しかも離れにはお前がいる。もしかしたら見られているかもしれねぇのに娘殺しに行かねぇだろ」
「なるほど…。でも必ずしも俺が窓に立って見ているとは限らない」
「それに殺害後はどうすんだよ。どこに消えたっていうんだ?」
「それに答えられる情報は持ってないな」
居石は勘三郎が殺害したとは考えていない。それに対して袈裟丸は勘三郎が消えたことから、恵令奈殺害の可能性を考えているようだった。
「だが、少なくとも、測量に関する知識は持っている、っていうのが、犯人の条件だと言えるだろうな」
「そう…だな。測量機器の知識なんて一般の人間は知らねぇだろうしな」
「ただ…あまり絞られないけどな」
「この中の人間だったら、仕事で扱っているだろうし…」
「勘三郎さんのトンネル掘りを知っていれば、目撃していた可能性もあるしな」
二人は暫く黙って考えていた。
少なくとも測量機器の知識を有していることは必須な条件と言える。
「江里菜さんの頭に刺さっていたピンポールのこともまだ分かってないからな」
居石は頭を抱える。
「考えること多すぎんだろ…」
「でも要、まだ勘三郎さんが生きているか死んでいるかわからない現状で、俺が言っている可能性があるのならば、まだ終わってないぞ」
居石は顔を上げる。
「つまり、美理亜さんも殺される可能性がある」
「どうすりゃいいんだ…」
「止めるしかないだろ。俺はまだ動き回れるほど元気じゃない。でもここから廊下を見張ることはできる」
「俺は直接…か」
行って来いよ、と袈裟丸に押された居石はすぐに立ち上がって母屋へと引き返す。
戻ってきた母屋はひっそりとしていた。
一階の玄関ホールを横切って食堂に入る。
変わらずに誰もいない空間だった。
赤津の説得は失敗しているのだろう。
その赤津の姿も見当たらない。
すぐに振り返って、再び階段を上る。
二階の談話スペースを通りぬけて、母屋の東側、勘三郎の部屋に向かう。
裕二の部屋の前を通り、勘三郎の部屋の前へ。
律儀にノックするが、リアクションが返ってくることは無い。
ゆっくりとドアノブを回して部屋に入る。
壁際の照明スイッチを点けると、思ったより簡素な作りの部屋だった。
白を基調とした壁紙に、ブラックウッドの桟が際立っている。
左手の壁に本棚、奥に窓があり、その前に机が置いてある。
天板にスチール製の足、引き出しは無い。
窓の右手の壁際にラックがあり、賞状やトロフィが置いてある。
居石は机に近づく。
ラックの中には建設機械の模型がいくつか置かれていた。
バックホウ、ロードローラにトンネル掘削用のボーリングマシーン、さらには災害救助を目的とした特殊車両まで並んでいた。
深見勘三郎の仕事の幅が広いことが伺える。
机の上にはノートPCが置かれているだけの本当に簡単なものだった。
埃一つ見当たらないのは、赤津の掃除が行き届いているためだろうと推測する。
特に不審な物も、荒らされているといったような状態でもない。
窓から外を見るが、暗く、山側ということもあってか、視界に映るのは漆黒の闇だった。
この部屋にも隠れるような場所はない。
部屋自体は施錠もされておらず、オープンになっていたことも考えれば、ここに立て籠っているということも考えられない。
恵令奈殺害時にここを拠点としていたとしても、その後、どこに消えたのか、という点が疑問として残る。
袈裟丸は可能性として勘三郎による殺害を示唆したが、居石はそう考えていなかった。
正確には疑わしいとは思っている。
少なくとも姿を見せていないのはなぜか。
それがどうしても払拭できないからである。
手がかりは皆無の状態で勘三郎の部屋から出ると、赤津が階段を上る姿が見えた。
居石は小走りに階段まで向かうと、まだ三階に上がる途中の赤津に声をかける。
「ああ、居石君」
「赤津さん、皆さん、どうっすか?」
離れに戻る前に頼んでいたことだった。
赤津は首を振る。
「残念ですが、皆さま部屋に籠られることを選択されました。私としても居石様の仰る通りだと感じましたので、必死に説得いたしましたが…」
「まあ仕方ないっすね…そこまで頑張ってくれてありがとうございます」
「…いえ」
「じいちゃんのことは?」
「実はまだ話しておりません」
「そうっすか…まあ余計に混乱させるかもしれないっすけど…早い方がいいっすよね」
赤津はゆっくりと頷く。顔にも疲労が見える。
「どこに行こうとしていたんすか?」
「ああ、屋上の…江里菜様のご遺体の様子を…」
「なるほど、風が強いっすもんね」
赤津は、まだ何か言いたそうにしていた。
「居石君、勘三郎様は美理亜様に殺害されたのではないでしょうか?」
意を決した人間の表情をはっきりと見た気がした。
「美理亜さん…っすか?」
急な発言に居石はたじろぐ。
「ええ。私も先程から、母屋の中だけですが、勘三郎様を探しております。ですが…そこまで広くないこの邸内で、隠れていたとしても見つからないということは御座いません」
二人が立つ階段の踊り場に赤津の声が響く。
「そうなると、最悪な状況ですが…殺害されたと考える方が良いのではないかと…思います」
「だとしても、美理亜さんっつーのはどっから出てきたんすか?」
「誕生日会の席上のことです」
美理亜が勘三郎に突っかかっていった誕生日会の事である。
「まあ、確かに近々で勘三郎さんに恨みを抱いているっていうのは…俺が知る限りは美理亜さんすけど。でもそれは分かりやすくバチバチやってたから分かったっつーだけなんすよね」
「それはどういう…」
「あ、だから実は勘三郎さんに恨みを持っててっつー場合もあるじゃないっすか」
「人知れずに、ということですね」
「そうっす。それだと良く分からないっすよね」
赤津は頷く。
「だから動機とかの方向から、考えると分からなくなるんだと思うんすよ」
殺されたとしてね、と居石は付け加える。
「では…こう考えられませんか?」
赤津は食い下がる。
「江里菜様、恵令奈様の殺害を勘三郎様が行われた。その姉二人の敵を取るという目的で美理亜様が勘三郎様の殺害に走った…」
「まあ、話はよくできてるんすけどね。でも結局、その場合、じいちゃんの身体はどうしたのかっていうことになるんすよ。まだ見つかってもいないっすよね?」
「まだ私にも考えはありませんが、可能性は極めて高いのではないかと思うんです」
深見家を良く知っている赤津だからこそ、そうした結論になったのかもしれない。しかし、良く知っているが故に見誤ることもあるのではないかと居石は思った。
「三本木様」
視線を階下に移した赤津が言った。
居石も視線を移すと、敦を始め、裕二に零士そして司もいた。
「皆様、どうされたのですか…」
「皆、食堂行きましょう。美理亜さんも連れて、そこで集まっていた方がいいっすよ」
居石は四人の所まで降りていき熱弁した。
見渡した時に美理亜だけはいなかった。
四人は口を閉ざしたまま、それぞれが赤津と居石に視線を送った。
「ようやく、分かったんだよ」
敦が口を開く。
「分かった、とは?」
赤津の問いにすぐに答えることはなく、たっぷりと時間を取った後、再び敦は口を開く。
「恵令奈と江里菜を殺害した人間が、だよ」
こういった時に敦の口調は、効果的だった。
居石は息を飲む。
「それは…」
「赤津さん、あんただよ。あんたが二人を殺したんだ」
敦が言うと同時に、零士が殺意の籠った視線を送る。
「三本木様…それは…ありえないことです」
赤津は動揺したように言った。それは犯人だからではなく、あまりにも有り得ないことを言われたからだと居石は思った。
「この状況で、あんたは使用人っていう立場を利用して自由に家の中を動き回れた」
赤津の表情に確信を得たのか、敦は勝ち誇ったような顔で説明を始める。
「誰もが、家の中であんたが動いているのは日常である、と錯覚していたんだよ。この家で働いている使用人は赤津さん、あんただけだ」
「そんな理由で…それだけで私がお二人を殺したとは…」
「居石君」
急に敦から名前を呼ばれて、身体が硬直する。
「二人を殺害した犯人の条件ってなんだい?」
居石はすぐに言葉にできなかった。それほど、赤津犯人説が衝撃だったということだった。
「君が説明しただろう?してなかったかな。測量機器について良く知っている、ということだろう?」
確かに居石はそのように説明したかもしれない。
居石は正直に頷いた。
「赤津さんは、お義父さんのトンネル掘りを手伝ったことがある。彼は測量機器についても知っているはずだ」
赤津は黙ったままだった。沈黙ゆえの肯定である。
「そんなこと…確かに、知っていますが…それだけに理由ですか?」
「江里菜さんが殺された後、我々は個々の部屋に籠城する形になった。その中であんたは身の回りの世話をしていた。この状況で皆、あんたが部屋を訪れれば、何の疑問もなく扉を開いただろう」
じっと敦を見ながら赤津は聞いていた。
その目は憎悪、というよりも懇願、という方が正しかった。
「敦さん、ちょっといいっすか。その…言う通りだったとしても、恵令奈さんと敦さんは部屋に一緒にいたんすよね?その状況で恵令奈さんを呼び出して殺すって無理じゃないっすか?」
思い付きだったが、居石も必死だった。
「確かに言う通りだが、常に恵令奈が私たちの部屋にいたわけではない」
「外に出てたってことっすか?」
「美理亜ちゃんが心配だと何回か部屋から出て会いに行っていた。最後になったのも…美理亜ちゃんの部屋に行った時だった」
敦は残念そうに肩を震わせる。
「赤津さん、あなたがしたことは到底許されるものではない」
蔑むような声で、零士が赤津に詰め寄る。
「私では…ありません」
赤津も真剣に否定するが、四対一、居石を入れても数で負けている。
「まあ、赤津さん、そりゃそう言うだろうって思うんだけどさ、ここはひとつ、俺たちに従ってくれないかな」
裕二がわざとおどけた様に言った。張り詰めた空気が耐えられなかったのかもしれない。
「従うって…なんすか?」
赤津だけが矢面になっているのは不憫に思えて居石が前に出る。
「しばらく…警察がこちらに着くまでに監禁させてもらう」
「監禁って…赤津さんの意思は無視っすか?」
「言葉が思いつかなかったから、そう言ったが、部屋から出るな、ということだ。我々が交代で見張る」
「それでどうにかなるんすかね?」
「やってみればわかることだ。このままでは美理亜ちゃんも…」
裕二の表情が強張る。
「わかりました」
赤津が口を開く。
「では、私は自室に籠らせてもらいます。これで容疑が晴れるのであれば、造作もないことです」
「いいんすか?」
赤津は頷くと、四人を従えるようにして歩き始める。
「零士さん、司君、赤津さんをお願いできるか?私は恵令奈を降ろしてくる。裕二君、手伝ってくれるかな」
敦が指示を送って二手に分かれた。
居石は微かに小さくなったような赤津の後ろ姿を見送った。
居石は美理亜の部屋の前に立っていた。
あの後、一人になった居石は、すぐに美理亜の事を思い出した。
もし今後、最悪なことが起こるのだとしたら、被害を受ける可能性が最も高いのは美理亜であることは間違いがない。
深見家の人間が赤津に注目している時に、美理亜が襲われる可能性も考えられる。
扉をノックすると、すぐに中から返答があった。
「はい」
「あ、居石っす。美理亜さん大丈夫っすか?」
その問いに答えることはなく、扉が開く。
「どう?大丈夫に見える?」
素っ気なく言う美理亜は、目を大きく見開いて居石を見上げた。
すぐにわかるが、どう見ても大丈夫である。
「みんな心配し過ぎでしょ」
うんざりとした表情だったが、不安の色も見え隠れしていた。
「それは…心配するでしょ」
その次に居石が言おうとした言葉を美理亜が言った。
「二人が殺されたから?」
「まあ…そうっすね」
ふーん、と言っただけの美理亜を居石はじっと見ていた。姉二人の死を吹っ切った、とも違う、覚悟のようなものが見えた様な気がした。
「なんか、変わりないっすか?」
「何もないかな。なんか疲れた。あ、裕二が来やしないっていうのがイラつくかも」
若干早口で捲し立てると、これでどう、と言うような表情で居石を見返す。
「ああ、そっか。でもそれは…裕二さんなりに気を遣ってんじゃないっすか?」
「まあ、どっちでもいいけど」
あいつが犯人だったりしてね、と付け加えて余裕の笑顔だった。
「一人で部屋にいて危険じゃないっすか?」
「じゃあ、一緒にいてくれる?」
美理亜は一歩、居石に近づく。
揺れ動いた髪からシャンプーの香りなのか、甘い匂いが居石の鼻腔をつく。
「私ね、頭の良い人が好きなの。裕二は…悪くはないけど、ちょっとね。だから居石君、どうかな?」
上目づかいでさらに美理亜が近づいてくる。
身体が密着しそうな距離である。
居石は身体が硬直しながらも、冷静だった。
「あ、すんません、自分人のものを取る趣味はないんで」
「じゃあ、あいつと別れてくればいいの?」
「そんなこというやつは、こっちも信用できないんでお断りっす。それに頭が良いのがって言ってっけど、個人的にはそんなやつこっちから距離取らせてもらう感じっすね」
「私の趣味なんだからいいじゃない?そういう人は尊敬できるから」
「そういう理由なんすかね、本当に。自分が考えることを放棄したいって思ってんじゃないっすか?こう…責任を放棄したいとか」
「そっかぁ、お似合いだと思ったんだけどなぁ。ざーんねん」
苦手な人ではなかったが、心の底から残念に思えてしまった。
「赤津さん」
「ん?」
「赤津さんが監禁されたんすよ。敦さんたちがやってきて」
ああ、と美理亜の表情は曇る。
「まあ、そうでしょうね。明らかに怪しいもの」
「よくそんなこと言えんな」
言葉が乱暴になったが、それほど居石にとって考えられないことだった。
これまで身の回りのことなど、世話になった人間に言うセリフではない。
「あなたに関係ないでしょ?それにしても…動くの早かったわね」
「どういうことっすか?」
美理亜はじっと居石の目を見る。
「私が言ったの。赤津が怪しいってね」
一瞬、居石の手が動きそうになる。
理性より感情が先行した。しかし、理性がそれを妨げた。
「美理亜さんが…やってんじゃねぇかって、言ったんすか?」
振り絞る様にして言った。
美理亜はゆっくりと頷く。
「そうよ。でも誤解しないでね。殺したんだって言ったわけじゃないから。赤津なら簡単に動き回れるし、簡単じゃないかなって裕二に言っただけ。考えを言うのなら自由じゃない?」
「だからって…」
「あなたも言いたいこと好きなように言っているでしょ?それと何が違うのかな?」
ねぇ教えてよ、と言う美理亜の表情は先程の笑顔とは違う種類の笑顔だった。
何も言えずに黙っていると、今度はくすっと笑い口元に手を当てた。
「イジメちゃったみたいね。ごめんね。じゃあ」
そういうと手を振って扉を閉めた。
照明が居石の影を床に落とす。
なぜ美理亜はそんなことを言ったのだろうか、居石にはまるで理解できなかった。
美理亜にとってみれば、むしろこの状況では庇う立場でも良いはずである。
「ったく…わかんねぇ」
居石は頭を抱えるようにして玄関ホールへと戻った。
その玄関ホールには、零士と裕二が話をしていた。
居石は二人に駆け寄る。
「赤津さんはどこに?」
一度顔を見合わせた零士と裕二だったが、すぐに零士が口を開く。
「自分の部屋に戻ってもらった。特に問題はないしね。それまでは交代でここで見張ろうと思っている」
やはり決定は覆らない。
「赤津さんの部屋って…」
そう言えば知らなかったと思って尋ねる。
「ここだよ。階段の裏側になるね」
裕二が指差すところに扉がある。
食堂の扉がある壁の向かい側、その北側にひっそりと扉があったのは認識していたが、掃除道具などが入れてある空間だと思っていた。
「掃除道具入れじゃなかったんすね」
「れっきとした部屋だよ。赤津さんはここで寝起きしてんだ。あんまりこの家に来たことはないけど、すぐに教えてもらえたぜ」
裕二がなぜか勝ち誇ったように言った。
「裕二さん、美理亜さんが話したこと、敦さんとかに伝えたんすか?」
自信満々な表情で、おう、と裕二は言う。
「結構疑わしいだろ?流石、美理亜だよな。最も可能性が高い人間だってことだ」
腕を組んで頷く裕二は、まるで自分が提案したかのような振る舞いだった。
「裕二さん、本当にそう思うんすか?」
「どゆこと?」
「いや、だから本当に赤津さんがやったって思ってんすか?」
再び零士と裕二は視線を合わせる。
「客観的に見て、赤津さんしか可能な人間はいないと思うが?」
零士とバトンタッチする。
「それはどういう点で、そう考えたんすか?」
「彼なら怪しまれずに家の中を動き回れるし…ああ、結局敦さんの言っていることと同じだな」
居石は腕を組んで悩むようなポーズをする。
「んー、俺はそう思わないんすよね」
「どうしてだよ」
裕二は少し苛立っているかのようだった。
「赤津さんだったら、そのまんま過ぎるんすよ」
今度は視線を合わせなかったが、二人共首を傾げた。
説明不足だと感じた居石は、少し考える。
分かりやすい言葉を探した。
「えっとつまり、赤津さんが家の中を動き回っていたっていうのは、皆さんにとっては当たり前なんすよね?」
二人は頷く。
「今回も、非常事態とはいえ、赤津さんはいつも通りに使用人としての仕事をしてたわけじゃないっすか。だったら、一番に疑われるのは赤津さんなんすよ」
「だからそう言っているだろう、居石君。何が言いたいんだ」
「俺が赤津さんだったら、そんな状況にしないと思うんすよね」
二人が息を飲む音が聞こえた。
「俺、赤津さんにみんなを食堂に集めるようにってお願いしたんすよ。この状況で外部犯の可能性もあるから、みんな集まってた方が間違いはないって」
零士は居石が言いたいことを理解しつつあるのか、困惑の表情だったが裕二は零士と居石の顔を交互に目で追っている。
「赤津さん、優しいから、みんなが部屋に籠るって決めたら、それを尊重しようって思ったんじゃないっすかね。結果として恵令奈さんが残念なことになったんすけど…」
零士は唸っていた。
「もし赤津さんが殺したっていうんなら、そんな自由に動き回れる状態で殺すことはしないっすよ」
自分だって言っているようなもんでしょ、と居石は付け加えた。
三人の間に沈黙が訪れた。しかし、と口を開いたのは零士だった。
「それすら、彼の思惑かもしれない」
「どういうことっすか?」
「最初から、そう思われることは織り込み済みで、自分を容疑から外そうということかもしれないだろう?」
「ああ、なるほど、あえて、って事っすね。でもどうっすかね…」
「ちょっと難しすぎてよくわかんねぇけどさ、しばらく部屋から出てもらわなければいいってことじゃないの?」
裕二があっけらかんとした表情で言うのを居石と零士は同時に見る。
「居石君、どうした」
後方からの声に顔を向けると、敦と司だった。
「敦さん、恵令奈さんは…」
零士が深刻な顔で尋ねる。
敦は頷いただけだった。やるべきことは済んだということらしい。
居石は今零士に話した内容を敦にも伝える。
「裕二君に一票、といった感想だな」
敦の意見は簡単なものだった。
「私だって本心では彼であってほしくない。しかし、可能性がある以上、しばらくじっとしていてもらおうということだ。彼も働き詰めだろうからな」
それにしてもこの仕打ちはないだろう、と思ったが黙っていた。
随分大人になったものだな、と自分で気が付く。
もうこれ以上は何を言っても無駄だろうと居石は考えた。
「あの…丁度タイミングよくみんな集まってるんで、聞きたいんすけど」
居石がわかりやすく話を変えたので、全員小さくため息を吐いた。
「測量機器が使われたじゃないっすか。今の所っすけど。みんな測量機器って知ってるんすか?」
「みんなとはどこまでだ?」
敦が尋ねる。
「あーこの家の人って意味っす」
「赤津さんは知っていると言ったな。それから…ここにいる全員は知っているな。もちろん私も大学が土木工学科だった。零士君もだったな?」
「俺も仕事だし。学校で学んだからな」
裕二が腕組みをする。
零士は黙って頷いた。
「うーん…恵令奈さんたちはどうなんすか?」
「知らないだろうな」
「興味ねぇからな」
敦と裕二が顔を見合わせて頷く。
「じいちゃんの手伝いをしたとか…」
ないない、と裕二が大げさに手を振る。
「娘たちは一切トンネルには関わってないんだってよ。まあ俺たちも関わることはなかったけどな」
「だけど、司はお義父さんのお手伝いをしていたよね」
零士が傍らの司の肩に手を置く。
「あ、そうなん?」
「うん。嫌だったけど…。なんか鉄の棒持って立たされて…距離測るからって…おじいちゃんが…。男だったら土木作業の一つでも覚えろって…」
「まあ、関係ないわな」
裕二がゆっくりと頷く。
居石は唸りながら考える。
測量機器を知っていたかどうか、という点で言えば、三姉妹を除外して、全員が知っていたということになる。
この条件でふるいにかけることはできない。
それに、勘三郎の失踪も現時点では不明である。
恵令奈と江里菜両名を殺害した犯人と勘三郎の失踪が同じであるとは限らない。
さらに言えば、袈裟丸が指摘したように勘三郎が殺害して身を隠している、という可能性もある。
赤津犯人説に対して、居石は否定側の意見を主張したが、完全に否定はできない。
食堂から電話の呼び出し音が鳴ったのはその時だった。
五人は顔を見合わせると、零士がすぐに食堂に入って行った。
五分ほどすると、零士が再び戻ってくる。
誰も何も言わずに零士が口を開くのを待っていた。
「警察からでした。これから救出に向かうとのことです」
歓喜の声こそ上がらなかったが、張り詰めた空気が解けたような感覚になった。
「そうか…あともう少しだな」
「立て籠りって解決したんだ…。ずいぶん遅かったな」
「警察も大変ですからね」
司以外は活気づいていた。
「あ、じゃあ、とりあえず自分、ツレに教えに行っていいっすか?吉報だと思うんで」
「ああ、そうだったな。すぐに病院に行くと良い」
敦のコメントを受けて、居石は離れに向かうことにした。
玄関から外に出ると、うっすらと寒く、山からの風邪が身体をすり抜けていく。
とりあえず警察が来てくれることになった。
あとは警察に任せておけばよいのかもしれない、そう考えながら離れに続く階段の前に到着する。
若干駆け足になりながら玄関に辿りつき、ドアノブを回すが、鍵がかかっていた。
「ありゃ…」
数秒思案して、上を見上げる。
「おーい、耕平ー」
手でメガホンを作って叫ぶと、すぐに窓が開く。
「何してんの?」
「鍵閉まっててさぁ」
袈裟丸は片手を挙げて、了解、という意思を見せると部屋に戻った。
少しすると、扉が開く。
「うう、外寒いなぁ」
「サンキュー、助かった」
「この風の中、お前そんな格好だったの?」
「他の服持ってねぇよ。まあ寒いけど、耐えられないわけじゃない」
「北極行ってもその格好してそうだよな」
「まあダウンくらいは着るけどな。その下はこれだと思う」
マジかよ、と呟く袈裟丸を後ろに、部屋へと戻る。
「どうだった?」
ああ、と居石は言うと、これまでの経緯を説明する。
「警察来るのか、やっと帰れるな」
袈裟丸も安心したようだった。
安堵の表情のまま、でも、と袈裟丸は続ける。
「赤津さんのことはちょっと残念だな」
「耕平はどう考えてんだ?」
居石の問いに、たっぷりと袈裟丸は時間をかけた。
「正直な話、お前の話に一票だ」
袈裟丸はベッドから立ち上がると間際に向かう。
「でも、三本木さんたちの気持ちも分からないではない」
「そっか…」
「二人の死体にあんな装飾を施しているんだから、誰かが殺したはずだ、だとしたら測量の知識もありつつ、自由に家の中を動き回れる人が怪しい、その流れは全く不自然じゃないと思う」
窓を見ながら袈裟丸は続けた。
「ただ」
「ただ?」
「俺はちょっとその話に賛成はできない」
「やっぱり、赤津さんがそんな状況で自分が不利になることはしないってことだろ?」
それもあるけど、と袈裟丸は振り返る。
「要、忘れてないか?」
「何がだよ」
「俺たちがここに来た理由だよ」
居石は黙ったままだった。
「赤津さんが手を怪我して料理が出来なくなったから、だっただろう?」
あ、と居石は口が開きっぱなしになっていた。
「指の骨折だっけ?しかも三本。そんな人が死体を三脚に乗せたり、方法はまだわからないけど、頭にピンポールを刺したりできないだろ」
確かにそうだった。
「マジで忘れてた…なんでだろう。っつーか、敦さんたちもなんで気付かねぇんだよ」
思い切った責任転嫁の様にも思えたが、それほど頭からすっかりと抜け落ちていたのである。
「赤津さんがいて、身の回りの世話をしてくれていることが普通だからじゃないかな」
赤津がいて仕事をしていることがこの家での日常、それは彼が怪我をしていようとも関係が無い、袈裟丸の主張はそういうことだった。
そうは言ったものの、袈裟丸は釈然としないような表情だった。
「どうした?」
「うん、いや…複数犯っていう可能性は無いかな?」
「何人かで殺したってことかよ…」
「なんの根拠もないぞ、それだけ断っておくけどさ」
居石が頷いたのを確認してから袈裟丸は続ける。
「まあ、二人いれば、作業も簡単だろうなって思っただけだよ。お前と赤津さんが一緒に仕事していたのと同じだ」
居石は、そう言われたわけではないのに、自分が加担したかのように言われたような気持になっていた。
「まあ確かにそうかもしんねぇけど…。じゃあじいちゃんの方もか?」
「それは良く分かんない」
袈裟丸は何度も首を横に振る。
「なんか…違う気がする。そもそも死んだかもわかってないだろう?」
袈裟丸の言う通りだった。勘三郎の安否だけは分かっていない。
居石の気持ちの上でも、宙づりのような、地に足のついていない気持ちのままだった。
居石はスマートフォンの画面を見ると、夜の十時半である。
何時に警察が救助に来てくれるのかはわからない。
この状況を警察はどう考えるだろうか、そう思っていると、窓を見ていた袈裟丸が口を開く。
「美理亜さんだっけ、今どうしてるの?」
「ん?なんでだよ?」
「いや、まだ終わったわけじゃないんだろ?警察に保護されるまでは」
「さすがに裕二さんが部屋にいるだろ」
「裕二さんってあれか?」
袈裟丸が窓を指差す。
そこから見える母屋二階の談話スペース、そこに零士と裕二が座って何か飲んでいた。
缶の様に見えるから恐らく酒だろう。
「ああ、マジか」
「赤津さんの部屋の前に誰かいるんだろうか…」
「交代で見張るって言ってっから、敦さんか司だろうな。っていうか、自分の彼女が危険かもしれねぇのに、良く酒飲んでられるよな。そりゃ美理亜さんも俺に…」
「俺に?」
怪訝そうな表情で居石を見返す袈裟丸だったが、流れるように居石は母屋へ戻ることを告げる。
「よーし、俺が行って説き伏せてやる。ちょっと悪いな、耕平、また留守にするぜ」
「女房役を置いてさっさと出て行くっていうのはどうなんだ?」
「いつから俺の女房になったよ。バッテリーを組んでもねぇだろ」
居石は、珍しくまともなことを言うもんだな、というセリフを背中に受けて、颯爽と部屋の扉を開いた。
何度この道を往復するのか、そんなことを考えながら見晴らしの良い庭、もう校庭と言っても良いかもしれない空間を歩く。
赤津がいれば渡り廊下を行くことが出来るのに、と考えながら恨めしそうに渡り廊下の方向を見る。
「え?」
一瞬、人の頭が窓から消えるような残像が見えた気がした。
思わず立ち止まり、渡り廊下の方向を凝視する。
今は、何も変わったところはない。
寒さも忘れて、その場に立ち止まる。
心臓が早鐘を打っている。
まさか、と思いながらも視線を外さないでいるが、変わった様子はない。
痺れを切らしたように母屋に向かって走り出す。
思い切りドアを開けると、開け放たれた食堂の扉から敦が飛び出してきた。
「どうした、居石君、騒々しいぞ」
「敦さん、美理亜さんは?」
居石の表情に、敦は戸惑いながら、部屋だ、と答えた。
「どうしたの?」
グラスを片手に裕二が降りてくる。
居石と敦はその姿を一瞥する。
「敦さん、ずっと美理亜さんのこと見てたんすか?」
「ずっと…とは?」
「ああ、もうめんどくせぇな。部屋から出たかとかわかるかってこと」
敦が答えるより前に居石は走り出す。
スリッパを履く時間も惜しく、裸足で美理亜の部屋の前まで行くと、ノックする。
「美理亜さぁん、すんません、いますか?美理亜さぁん」
大きく扉を叩きながら叫ぶ。
「なんなん?ちょっとどけって」
裕二が居石の肩を鷲掴みにして扉から引きはがす。
「美理亜、なあ開けて良いか?」
居石より甘い雰囲気で扉に語りかけ、ドアノブに手を掛ける。
軽くドアノブが回って、ゆっくりと裕二はドアを開く。
その中は、もぬけの殻だった。
居石が訪れた時に、本人越しに見えた部屋の状態そのままだった。
唯一異なるのは、当の本人がいないことである。
「いない…」
呆然とする裕二は、敦の方を見る。
「いや…そんな音はしなかったはずだ…」
敦の後ろには司が立っていた。
居石は階段に向かって走り出す。
「居石君、どこに?」
「渡り廊下っす。ここ来るときに人影が見えたんで」
居石が階段を駆け上がる頃、後ろから三人ともついて来た。
「零士君は?」
敦の問いに答えたのは裕二だった。
「二階で飲んでて、部屋に戻るって」
その声を耳にしながら屋上の階段室まで一気に駆け上がる。
屋上の階段室、渡り廊下へ繋がる扉の前には四人がほぼ同時に到着した。
零士はまだ姿を見せていない。
「じゃあ、扉を…」
居石は三人に向けて言った。
だが、誰一人として動こうとしなかった。
「何してんすか、早く」
「いや、そうなんだが。私たちは扉を開けられない」
居石は、はあ、と大声をあげた。
「だって、赤津さんがこの家の人間だったら開けられるって言ってたんすよ?」
「だから、俺たちは入ってないんだって。正確に言やぁ、俺たちは深見家の人間じゃねぇし」
不貞腐れた様に裕二は言った。
「裕二さんは分かるんすけど…じゃあ零士さんも?」
「もちろんそうだ。司もそうだな?」
「ここ、使ったことないよ」
暗証番号と指紋認証による二重ロック。今この場にいる人間の誰もがその扉を開けることはできない。
「っつーことは、赤津さんだけってことになるんすね、ここ開けられるのは」
そう言うと居石は敦に視線を送る。
わかったよ、と敦は言うと階下へと戻っていく。
五分後、敦を先頭に、赤津が階段室へとやってきた。
「赤津さん…」
「仕事をしていないと何とも時間が過ぎるのが遅く感じるものですね」
貴重な体験でした、と言うと扉に歩み寄り、暗証番号と指紋認証を進めた。
機械音がして開錠音が響く。
赤津が横に避けたことを確認して居石はドアノブを捻った。
開け放たれた渡り廊下は、母屋の廊下と同じ温かいオレンジ色の照明が照らし出し、その中央部に横たわった美理亜の身体に降り注いでいた。
光を纏ったかのように輝いている美理亜の身体は全く動かなかった。
その体から、二筋のオレンジ色の光が、両端の窓に向けて放たれている。
そう見えたのは居石だけだったのかはわからない。
その状況が異常であることに気が付き、最初に動いたのは赤津だった。
「美理亜様っ」
一目散に駆け出すと、その後ろを裕二が続く。
全員が美理亜の身体を見下ろす位置に立つ。
身体から光を放っているかのように見えたのは銀色のテープのようなものが巻き付けられていたからだった。
居石はしゃがんでよく見ると、テープに目盛りと数字が記載されている。
美理亜の頭の脇には銀色のテープが僅かに巻かれたリールが二組、無造作に置かれており、テープはそのリールに巻かれていたものだということがわかる。
予め袈裟丸と話をしていたのですぐに思い当たった。
これは距離測量で使われる鋼巻尺である。
それを二組使って美理亜の身体を巻いてあるのである。
「美理…亜」
裕二が顔の横にしゃがみこむ。
震えた声が悲痛さを物語っている。
それは赤津も同じだった。
しかし、赤津は美理亜の顔をじっと観察している。
美理亜は腕を抱え込まれるようにして鋼巻尺で巻かれているため、まるで拘束されたような状態である。
敦が美理亜の手を取り、脈を測る。
ゆっくりと腕を降ろすと、首を横に振った。
「また…殺された…」
後方からの声に、振り向くと零士が立っていた。
くりっとした大きな目が特徴的だった美理亜は、瞼を閉じてその目を見せることはもうない。
巻きつけられた鋼巻尺は、バキバキに折れており、まるでハリネズミの山の中に寝転んでいるかのように錯覚できた。
先程は光を放っているかのように伸びていた鋼巻尺の先端は、両端の窓のクレッセント錠に引っ掛けられている。
先端が布製の持ち手が点いているために、そこを引っ掛けているのである。
美理亜の異様な状況も気にかかるところだが、最も不自然なのはこの場所である。
深見家の人間しか入ることが出来ない渡り廊下、その中で美理亜が死んでいた。
そして、ここに残っている人間の中では、中に入ることが出来るのは、赤津だけである。
その赤津は、半ば軟禁状態になっていたのだ。
つまり。
「密室ってやつか…」
居石が呟いた声は誰の耳にも届いていなかった。
「誰だよっ、美理亜殺した奴は、ああ?」
裕二が叫ぶ。
驚くようなものはおらず、むしろ憐れむような視線を送る。
「おい、零士さん、あんたどこ行っていた…。おい、答えろよ」
じりじりと裕二は詰め寄る。
「私は…殺していない…」
裕二の質問の答えにはなっていなかった。
「零士君、今までどこに行っていたんだ?」
敦も裕二と同じ内容の質問をする。
その答えが極めて重要なものだと判断したのだろう。
「自室にトイレ目的で行って…会社からのメールに返信しようとしてたことを思い出したんです」
二人から追い詰められた零士はたどたどしく説明した。
その姿を司は伏し目がちに見ていた。
「ならば、そのメールを見せろよ。送った時間がわかるだろ。警察来た時にも証拠になるからな」
裕二に肩を押されるようにして母屋の方へと戻っていく。
司は迷っているような素振りを見せてから、それについて行った。
居石は美理亜の遺体の傍にしゃがみ、じっと観察していた。
「居石様…私は…部屋に戻った方が良いのでしょうか?」
赤津が心細い声を出して尋ねる。
「ああ、いいんじゃないっすか。行かないでも。それが意味ないって分かったんじゃないっすかね」
そうですか、と赤津は言った。
「居石様は何を?」
「いや…まあ…なんで死んじゃったのかなぁって…」
美理亜の身体に触らずに、居石は観察を続けた。
「しかし…何とも痛ましい…」
「そうっすよね…まあ良く分からない装飾はされてますけど…うーん」
「何か気になることが?」
「出血しているわけでもないんすよね…」
「外傷がない、ということでしょうか?」
そうなんすよ、と空返事をすると、居石は美理亜の頭部に回り、地面すれすれまで視線を下げた。
「頭を強く打った、って訳でもないんすよねぇ。見たところっすけど。まあ内出血してたら見ても分かんないっすけどね」
よいしょっと言いながら居石は立ち上がる。
「死因が不明、ということでしょうか」
「まあ、そうっすねぇ…」
うーん、と悩む居石に赤津は意を決したように投げかける。
「やはり、お姿の見えない勘三郎様が関わっているのでしょうか?」
袈裟丸に対して真っ向から否定した居石だったが、赤津の問いには何も言い返すことができなかった。
じっと空を見つめている。
星が穏やかに輝いていた。
男は溜息を吐く。
口から吐かれた蒸気が空に向かって上り、あっという間に消え去る。
昼間は騒がしかったが、夜は静かになった。
落ち着いて空を見上げていられるのは朝も夜も変わらないが、静かなことは見えている星をより輝かせる気がしている。
きっと視覚から入る情報と耳から入る情報はリンクしているのだ。
それだけじゃなく、五感から入ってくる情報はそれぞれが関係しているに違いない。
親しい人だったり、ましてや恋人と食べた食事は美味しいし、星だって周囲が煩ければ濁って見える。
こんな話をすれば、気のせいだろう、という反論が来るかもしれないが、それは自分の説を証明することに他ならない。
立ち上がって、脇に置いてあった鞄を漁る。
中からコンビニの袋を取り出す。手を入れておにぎりとパンを取り出してかぶりついた。
同じく鞄から取り出したペットボトルのお茶でそれを流し込む。
ものの数分でおにぎりとパンを食べ終わると、大きく背伸びをした。
秋の夜はどこにいたって気温が低い。室内にいてもいなくても変わらないのではないかと思うこともある。
背伸びをしてしまったことを、しまったと思い、すぐに屈む。
居場所が分かってしまってはいけない。
それだけは注意しなければならない。
気の抜けた空気を肺から出すと、胸ポケットから煙草を取り出す。
一本加えて火を点けるとこんな場所で喫煙することへの背徳感に、煙草が一層美味しく感じる。
携帯灰皿に灰を落としながら、何も考えずに一本吸いきる。
時計を見ると、三十分以上こうしていた。
ああしっかりと仕事はしなければ、と思い直し、マスクを付け直す。
マスク越しに自分の吐いた温かい息を感じる。
まだ生きている。
頭は会社のデスクでPCに向かっていた時を思い出す。
それが自分の仕事だと思っていた。
確かに仕事なのだが、今やっていることも立派な仕事だと思う。
お願いされて、それに答えようとしている。
これは…仕事なのだろうか。
ふと、頭を過る。
誰かのために労働することが仕事の本質だ、と常日頃から考えていた。
果たして、今やっていることは、誰の為だろうか?
もちろん、依頼した人物のために仕事をしているのは間違いない。
だが、何かがおかしい。
大きく深呼吸をした。
余計なことを考えていると仕事に支障が出る。無駄な考えは失敗に繋がる。
この仕事は失敗してはいけない。
再び気合を入れ直し、仕事場へと戻って行った。
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