第133話 中国、前漢の武帝と後漢の光武帝、倭国の登場

<年表>

前漢後期:武帝以降(BC141年~紀元後8年)

BC141年 武帝即位。

BC139年~BC116年 この間に張騫が3度西域に派遣される。

BC133年~BC121年 北方の匈奴と戦う、オルドス地方を奪還し、秦の時代の長城を修築する。BC121年、匈奴を大破し、河西回廊の4郡を設置する。

BC108年 司馬遷が太史令となり、BC89年ごろに「史記」が完成する。

BC87年 武帝死去。

紀元後1年 外戚の王莽おうもうが安漢公となり平帝を補佐し政治を執り行う。


新(紀元後8年~紀元後23年)

紀元後8年 王莽は皇帝と称し国号を「新」とする。

紀元後22年 4月に農民反乱「赤眉せきびの乱」が勃発。10月には劉秀らも挙兵する。

紀元後23年 劉秀の本家の劉玄が帝位に就いたが、紀元後25年3月に赤眉軍に敗れる。


後漢(紀元後25年~紀元後220年)

 紀元後25年、劉秀は光武帝として即位して王氏に奪われた王朝を奪還し、洛陽に都を置いた。しかしそれは戦乱の中での皇帝であった。紀元後26年 9月に赤眉せきび軍が長安に入る。12月に劉玄を殺害し、長安城を焼き、漢の陵墓を盗掘する。紀元後27年1月、赤眉軍は劉秀に投降。そうした混乱の中、劉秀は各地の諸勢力を抑えて最終的に天下を統一したのは紀元後56年で、その翌年には死去した。つまり光武帝は統一を成し遂げたと思ったら、すぐに死を迎えることになった。


 ***


(武帝の時代)


 漢の高祖劉邦以降で際立って優れていたのが武帝(在位:BC141年~BC87年)である。BC141年に弱冠15歳で即位した武帝は、71歳で死去するまで帝位にあり、前漢・後漢を通じて最長在位だった。国力拡大を目指して積極的に行動する武帝は中央アジアや北方での匈奴との戦いに人材も資源も注ぎ込んだ。しかし通常の税収や徴兵では賄えず、鉄と塩の取引を国の専売とし、酒に税を課した。この積極行動主義は国と社会に耐えがたい重荷となる。むしろ弱い皇帝の方が害が少なかった。

 秦代の法家思想が行動原理だった武帝だが、儒教を国家の準イデオロギーと捉え、それまでの皇帝の誰よりも熱心に儒教普及に努めた。官僚は古典の教養や、儒者として行動できるかどうかで選定された。また「新」を創建した王莽おうもうは、儒教の経典を引き合いに出して自分の政策を正当化している。後漢の時代も古典が重要視され、校訂された決定版の経典を一字一句正確に残すために石に彫刻し洛陽に置いた。それでも一部の経典は論争の的になって決着がつかないこともあり、秦代以前の古い版をあえて採用したり、前漢時代の書記が記憶に頼って書き出したテキストを選ぶ学者もいた。前者は古文経学、後者は今文経学と呼ばれて論争を繰り広げ、お互いに政治目的で経典を利用していると非難し合った。そうした問題は別として、社会秩序と庶民の基本的な幸福を重視する穏健な保守主義は、儒教の伝統に支えられていた。しかし一方で、儒教は独創的な思考を排除した。


 劉徹りゅうてつ、後の武帝は景帝(在位:BC157年~BC141年)の子としてBC156年に生まれた。漢では太子になることが皇帝の位を継承できる条件だった。そのためにはまず母親が皇帝の寵愛を受けて皇后に立てられることが必要だった。しかし、いったん皇后になっても廃されるとその子は太子になれない。劉徹も最初は太子ではなかったが、景帝の姉の計略で母親が皇后となったことから皇太子となった。結果として、14人の王子の中から選ばれたことになる。武帝が即位したのはBC141年で、まだ15歳だった。この武帝の時代に初めて元号が用いられた。しかも一代のうちに複数の元号を用いるようになった。武帝以前は君主が即位してから年を数え始めるだけで元号はなかった。武帝に始まった古代の1世複数元号制は、紀元後14世紀の明代になってようやく1世1元制に変わった。


 武帝(在位:BC141年~BC87年)のときに西域への道が、張騫ちょうけんという一人の人物によって開かれた。張騫は西域諸国に2回出使した。100人から300人の編隊を率いて武帝の親任を表わすせつ(手形)を持ち、黄金とぱく(絹布)を携えた。当時の中国にとって陸続きの西方は幻想的な世界だった。中国にはない諸物産がはるばるラクダの背に乗せられて運ばれてきた。北は天山てんしゃん山脈、南は崑崙こんろん山脈、西はパミール高原、東西約2400キロ、南北約400キロの広大な地を漢代の人びとは西域と呼んだ。そこには広大なタリム盆地とタクラマカン砂漠がある。

 BC139年、張騫は第1回目の西域への長い旅に出た。目的は月氏げっしと共同して、共通の敵である匈奴と戦うために戦略的な同盟関係を確立することだった。100人を引き連れ、胡人の案内人を伴った。当時の月氏ははるか西方へ移動してしまっていた。月氏は戦国時代に愚氏ぐしと呼ばれ、玉の交易で繁栄していたようだ。しかしやがて中国からタリム盆地へ通じる祁連きれん山脈沿いの交通の要所、いわゆる河西回廊を匈奴に押さえられ、西方へ移動し、天山てんしゃん山脈の西に定着した。移動後の月氏は大月氏だいげっしと呼ばれ、パミール高原の西の地、いわゆる西トルキスタンに入り、イリ川流域を経て、アムダリア川の北岸に都を置いた。北は康居国こうきょこく、南は大夏たいか(現在のウズベキスタン南部からアフガニスタンにあったギリシャ系王朝)、西は安息あんそく、東は大宛だいえんに囲まれた地である。大月氏は大夏を従属させるほどの勢力を保持していた。張騫の目的はそこにあった。張騫は早速匈奴に捕まった。そこで十数年間も留められ妻子もできた。張騫が匈奴の地に留まっていたBC133年、漢と匈奴の関係を悪化させる事件が起こった。漢と匈奴との関係は、文帝から景帝の時代までは兄弟という隣国同士の対等関係として外交が結ばれ、平穏だった。しかし、匈奴で軍臣ぐんしん単于の代になり、漢で武帝が即位すると、一時の蜜月時代から事態は急変した。


〈武帝の匈奴政策〉


 武帝は匈奴との間の和親と侵攻の繰り返しという状況を根本的に変えようと考えた。防御から攻撃に方針を転換したのだ。まずBC139年に大月氏と同盟して匈奴を挟み撃ちにする計画を立てて、張騫を大月氏に派遣した。しかし張騫はすぐに匈奴に捕えられてしまった。BC133年には、武帝は国境の馬邑ばゆう城(現在の山西省大同市の西南100キロ)で、30余万の兵士を忍ばせたうえで、禁令を犯し国境外に物資を出すと見せかけて、単于と10万の匈奴の騎兵を誘い込もうとした。しかし単于は草原に家畜だけがいて人気がないことから異変を予知した。武帝の策略は失敗し、匈奴はこれまでの和親を放棄した。ここに到って武帝は正面からの真剣勝負を匈奴に挑む覚悟を決めた。文帝、景帝以来の比較的平穏な時期に漢の財力は蓄えられ、軍事力も強化されていたのだ。この間に張騫は匈奴のもとを脱出し、数十日で大宛に到着した。そこから道案内と通訳を得て、目的地の大月氏に行き着いた。だが大月氏は新天地で大夏を服属させるなどして勢力を保ちながら安住し、もう匈奴への復讐心などなかった。張騫からのこの情報を待たず、漢は本格的に匈奴へ遠征軍を送ることになる。


 BC129年春、匈奴が上谷じょうこく(現在の北京のすぐ西)に侵入し、役人と民衆を略奪していった。これに対し、満を持していた武帝は4人の将軍にそれぞれ1万騎を与えて匈奴を攻撃させた。その内の2人は武帝の皇后の実弟の衛青えいせいと甥の霍去病かくきょへいだった。この戦いは、漢から見て1勝2敗1引き分けだったが、徐々に流れは漢に傾いた。張騫は帰路にまた匈奴に捕らえられた。BC127年、軍臣単于が亡くなり、弟の伊稚斜いちや単于(在位:BC126年~BC114年)が即位した。BC126年、張騫はこの単于交代時の混乱に乗じて帰国した。100余人の一行で出発してから13年、帰国時には張騫と堂邑父どうゆうほの2人になっていた。

 BC119年には漢が総攻撃をかけて匈奴単于伊稚斜いちやを追い詰め、一時単于の生死が不明となり、仮の単于を立てるという混乱状態に陥った。このようにBC129年からBC119年までの10年間に、衛青は7回、霍去病は6回長城を越えて遠征した。3回は重なっているから、10回は大きな遠征が行われたことになる。武帝の目的は、一つはオルドスを奪還して始皇帝時代の長城を復興させること、二つ目は長城線を西に伸ばして祁連きれん山脈に沿った河西回廊を確保し、西域諸国との外交を維持することにあった。結果として、衛青はオルドスを奪還し、霍去病は河西回廊を確保する軍功があった。

 霍去病が亡くなった翌年のBC116年、張騫は再び使節として西域に出発した。今度の目的は天山山脈の北、バルハシ湖の南に位置する烏孫うそんとの連合にあった。張騫には兵士300人もつけた。匈奴の西部勢力は無くなっていたので、途中捕らえられることなく烏孫の地に到着した。しかしやはり同意を得ることはできなかった。今度はわずか2年後に烏孫の使者数十人とウマ数十頭を連れて帰国した。大宛のウマが漢に入るまでは、烏孫のウマが天馬であった。BC104年、武帝は真の天馬を得るために大宛の都(現在のウズベキスタンのタシケント付近)を攻めた。その4年後に大宛は降伏し、武帝は天馬を受け取った。そしてBC60年には、タリム盆地のオアシス諸国は完全に漢の支配下に入った。


 しかし相次ぐ外征は漢の国家財政を破綻寸前に追い込んでいた。そこで漢では歳入を増やすため、BC119年に塩と鉄が専売制とされ、さらにBC115年には「均輸法」、BC110年には「平準法」が施行された。均輸法は各地の特産物を徴収して不足地に転売する政策、平準法は豊年のときに物資を倉庫に蓄え、凶年のときに放出する政策である。ともに物価を安定させ、大商人の抑制をも意図した。大商人の利潤を抑制し、その分を国家財政にまわそうとしたのだ。もちろん増税も行われた。これらの施策によって人民の生活は苦しくなったが、漢軍は再び攻勢に出ることができた。これ以降の漢の進出は、北ではなく西に向かった。匈奴と連携を取っているきょうや、匈奴に従属している西域や烏孫うそんを匈奴から引き離すことを目標とした。また西域に向かう祁連きれん山脈沿いのオアシス地帯、いわゆる河西回廊(現在の甘粛省)に大規模な植民を行った。国家の税収を増やすとともに、西方に派遣する遠征軍や現地の駐屯する兵士に食糧を供給する役割が期待されたのだ。


[貨幣・塩・鉄]

 漢代は貨幣経済の時代であった。武帝の時代に始まった方孔円形の青銅貨幣である五銖銭は額面と重量を一致させており、その後の唐代高祖の時期まで700年も踏襲された。武帝は塩・鉄を国家が生産から販売までを独占し、価格を維持しながら財政源とした。これにより匈奴との戦いで疲弊した漢が経済的な復活を果たした。塩官は35ヶ所、鉄官は48ヶ所に設置された。武帝はBC111年に敦煌とんこう郡を設置し河西四郡を成立させ、それに続いてBC108年には朝鮮四郡を設置した。これら一連の版図拡大政策は経済拡大政策でもあった。朝鮮半島など周辺地域における鉄の専売は鉄の生産を規制すると同時に、鉄素材や鉄製品の供給を促すことを意味した。これを「供鉄限冶」という。


〈匈奴の分裂〉


 漢の積極策は功を奏した。もちろん戦闘に苦戦し、将軍の何人かが匈奴に投降することもあったが、戦局の趨勢は明らかに漢に有利となった。さらに冬の大雪による家畜の斃死へいし(野垂れ死)、単于の後継者争い、年少な単于の即位とその母親の閼氏えんしの専横、支配下にあった東の烏桓うがん、西の烏孫うそん、北の丁零ていれいの離反などが相次ぎ、匈奴は追い込まれていった。

 BC56年ごろには5人の単于が並び立つという分裂状態に陥ってしまった。そのなかで勝ち残った兄の郅支しっし単于(在位:BC56年~BC36年)と弟の呼韓邪こやんか単于(在位:BC58年~BC31年)兄弟との間で決戦が行われ、兄の郅支が勝利を収めた。敗れた弟の呼韓邪は、BC51年に漢の宣帝(在位:BC74年~BC49年)に拝謁を求め、自ら藩臣と称し、漢に服属した。兄の郅支は西方と北方に勢力を集中し、本拠をエニセイ川上流域の堅昆けんこんに移したため、郅支の率いる勢力を西匈奴、弟の呼韓邪の勢力を東匈奴と呼ばれるようになった。西匈奴の郅支は次に烏孫を攻撃し、略奪した後、天山北鹿のタラス川の畔に2年がかりで城を築き、周辺諸国に貢納を要求して反発を買い始めた。その機を見て、漢の西域都護は西域出身の兵を集めて郅支の城を攻め、郅支単于以下、閼氏あつしや太子など多くを殺害した。BC36年、西匈奴は滅んだ。一方、東匈奴の呼韓邪は漢との関係を深め、BC33年には漢から王昭君おうしょうくんをもらって閼氏あつしとした。王昭君は元帝の後宮にいた女性の一人で美人として有名である。この後に立った単于たちも漢と友好関係を維持した。漢に服属していた東匈奴は、王莽おうもうが漢王朝を簒奪さんだつし、しん(紀元後9年~23年)を建国した時期の漢の混乱に乗じて再び強盛となったが、またしても後継者争いが起こり、後漢の時代になった紀元後48年には北匈奴と南匈奴に分裂した。

 南匈奴の単于は使節を後漢王朝に送り、藩臣と称して服属した。後漢の側も紀元後50年に子を人質として送ってきた南単于に対して、長城内の雲中郡への居住を認めた。また冠帯かんたい璽綬じじゅ、車馬、黄金とぱく(絹布)、甲兵こうへい(兵器)、什器じゅうきなども与え、さらに干しいい2万5000石、牛羊3万6000頭をも支給した。西域全諸国への歳費の総計が7480万銭なので、南匈奴への歳費1億90余万銭は莫大なものだった。この数字は、後漢王朝が如何に南匈奴を厚遇したかを示している。この年に設けられた使匈奴中郎将は、南匈奴の保護を任務とした官職である。後漢皇帝と南匈奴の単于とは君主と客臣に相当する関係、つまり君主と臣の関係よりも高い主人と客人に誓い関係だった。匈奴自身は独自の礼や法を保ちつつ後漢との外交関係では臣属したといえよう。南単于は天神(天)と同時に漢の皇帝をも併せて祀っていた。その後、南匈奴は中国との関わりをさらに深め、西晋時代(紀元後265年~紀元後311年)には中国王朝の内紛に介入して五胡十六国時代(紀元後304年~紀元後439年)の幕を開けることになる。

 一方、分立した北匈奴の方も後漢の光武帝の時代の紀元後51年に和親を求めてきた。後漢は服属したばかりの南匈奴との関係を重んじ、南北両匈奴との等距離外交は避けた。その後、北匈奴は南匈奴とも戦いを交えながら後漢の辺境をたびたび侵し、後漢の反応をうかがった。後漢の章帝の時代の紀元後85年、南匈奴が北匈奴を琢邪山たくやさんで破った。この時後漢は、北匈奴に捕虜を返すという配慮をする一方で、敵兵を捕虜にした南匈奴には報奨を与え、南匈奴の忠信に報いた決定をした。これは後漢の対北匈奴外交の事情をよく物語っている。その後、紀元後91年に北匈奴の単于が臣属を求めて後漢に使節を送ってきたが、南匈奴の単于は北匈奴を滅ぼすべきと上申し、南匈奴と後漢の連合軍が北匈奴を襲撃して壊滅的な敗北を負わせた。翌年、北匈奴は西へ敗走し、紀元後2世紀中ごろに天山山脈北方にいたとする「後漢書」の記載を最後に中国の史書から姿を消す。この北匈奴の一部が西遷してヨーロッパに現れフンと呼ばれるようになったとする、いわゆる匈奴とフン同族説は未だに論争の的となっている。


〈武帝の南下政策〉


 武帝の軍隊はBC111年に南越を滅ぼし、さらに巴蜀はしょく(現在の四川省)から南に下って行った。雲南の夏は涼しく、冬は暖かい。そんな地を目指して戦国の楚も秦も漢も南下した。古代の西南諸民族(西南)の世界は、高原に点在する盆地を舞台とした。四方を山に囲まれ、平地に連なる水田と緑の湖の美しい風土、現在の四川省南部の西昌せいしょうから雲南省の昆明こんめい、そして大理たいりへと進む中でこの地域の共通の世界を見ることができる。BC109年、巴蜀はしょくの出身者をかり集めた武帝の軍隊は南越の広州湾に注ぐ牂牁江そうかこうを東から西へと遡って、西南夷最大といわれた現在の貴州省に位置する夜郎やろうを攻め、服属させた。さらに遡りてんにたどり着いた。漢の軍隊を前にして滇王は簡単に降伏した。滇王には王印を与えるとともに益州郡を置いた。西南夷で印を受けたのは、夜郎と滇の2国だけだ。その滇王の金印が1956年、滇池のほとりの墓から出土した。わずか2.35センチ、漢代の1寸四方の蛇鈕だちゅう金印である。鈕とはつまみの部分のことだ。この150年後に後漢の洪武帝が委奴国王に与えたのも蛇鈕金印であった。漢は冊封する対象者にはその土地に合った動物の鈕を作る。北方や西方の遊牧民であれば駱駝らくだか羊となる。司馬遷はこの地に入り、「史記」西南夷列伝を書き留めた。

 同じBC109年に、武帝の軍隊は長城の東端の遼東を越えて、朝鮮半島に入った。そこは燕人の衛満えいまんが朝鮮の地に王険城を建てて王となった地である。現在の平壌付近の衛氏朝鮮である。それから100年、3代目の右渠うきょの治世になっていた。翌BC108年、衛氏朝鮮は漢に滅ぼされた。武帝は朝鮮北部に漢四郡、楽浪らくろう玄菟げんと臨屯りんとん真番しんぱんを置き、その下に多くの県を置いた。これによって衛氏朝鮮とわいの故地は漢の郡県支配に組み込まれた。王険城陥落後、その地には楽浪郡が置かれ、以後紀元後313年までの420年間、中国の朝鮮半島支配の拠点として存続した。この郡県統治により、朝鮮半島南部の三韓や日本列島の倭が漢文明と接触する大きな契機となり、漢の先進文化が広まった。また、朝鮮半島南部の一部には北方人と南の土着人と雑居した移民社会ができた、さらに済州島にも影響を与えていた。


司馬遷しばせん

史記しき」を記した司馬遷は武帝とほぼ同時代のBC145年に太史令たいしれい司馬談しばたんの子として生まれた。太史とは漢王朝の宗廟と礼儀を司る太常だいじょうの下にいる史官であり、令はその長官で、史は記録の官吏のことである。中央最高官庁の九卿きゅうけいの一つである太常の下には史(記録)とぼく(占い)と祝(祝詞)が並んでいた。司馬談しばたんはBC110年に亡くなったが、父親の遺志を継ぎ、死後3年目のBC108年に太史令になった。しかし司馬遷は48歳のとき、匈奴との戦いに敗れた後、匈奴に降り、匈奴で優遇された李陵りりょうを弁護して宮刑(去勢)となったが、その代替として中書令ちゅうしょれいという宮中の文書や詔勅などを扱う職を得た。結局、太史令のときの書が、最後は中書令の書として完成された。それが「史記」である。武帝の死とほぼ同時期に司馬遷は亡くなっているが、「史記」にはあるはずのない武帝や司馬遷の死後の時代の記事がある。司馬遷以降の人びとが「史記」に書き加えたからである。しかし、できばえは必ずしも良くなかった。後漢になると、状況は変わった。前漢という一つの王朝の興亡を全体として記述できるようになったからだ。光武帝のときに班彪はんぴょうは「後伝」65篇を作った。さらに後漢明帝は班彪の子の班固はんこに「漢書」100篇を編纂させた。前漢高祖から王莽までの230年の歴史がまとめられた。しかし「漢書」には大きな欠点があった。班固は五経、つまり儒学の思想に偏って記述していることだ。班固自ら五経を横糸、帝紀を縦糸といっている。

 司馬遷がBC100年ごろに、富について記した文章がある。当時の庶民の暮らしぶりが垣間見られる。

“平民は自分たちより10倍豊かな者には平伏し、100倍豊かな者に恐れおののき、1000倍豊かな者に奉仕し、1万倍豊かな者の奴隷になる。それが世の道理である。貧しい職人から豊かになるのは農民より良く、職人よりは商売人のほうが良い。市場でぶらぶらするほうが、細かい刺繍をするよりましだ。つまり商売こそが貧しい者に富を与えてくれる”


〈武帝後の前漢〉


 武帝はBC87年に亡くなり、茂陵もりょうに埋葬された。15歳で即位してから56年、71歳になっていた。武帝の治世は半世紀を超えた。武という諡(おくりな)どおり、四方の辺境において戦争を起こし続けた。自ら18万もの騎兵を率いて北辺の長城を周るほどの行動力を持っていた。始皇帝のときでも匈奴と百越の南北二つの戦争に留まったが、武帝の戦争は東西南北に領土を拡大するためのものであった。BC87年の武帝の死から王莽が紀元後8年に新王朝「新」を建てるまでの95年間に、昭帝の14年、宣帝の25年、元帝の16年、成帝の26年と続き、哀帝の6年、平帝の5年と短命の皇帝が立ち、最後は外戚の王莽おうもうによって断ち切られて劉氏王朝の前半は終わった。

「漢書」地理志には全国の郡国別の人口統計がある。平帝の2年(紀元後2年)に地方の郡国が中央に報告したものである。全国の総計では1223万3062戸、5959万4978人となっている。首都長安の人口は24万6200人だが、周囲の衛星都市を合わせると100万を超えていたようだ。今から2000年前の正確な人口統計である。秦の人口統計は残っていない。統一帝国で初めての記録である。前漢末には全国に103の郡国と1587の県があり、平均で1郡国に15県となる。郡国の数が余りに多すぎたので、武帝の時代のBC106年、都のある中央を除いて全国に13の州を置き刺史ししに管轄させた。刺史は郡国を巡回し、太守の不正を糾弾した。



(新)紀元後9年~紀元後23年:王莽おうもうによる漢王朝簒奪さんだつ


 近代以前に秦と漢を研究した中国の歴史家たちが注目したのは、決まって宮廷政治であり、中央化された行政府や地方の指導者の強大な権力である。彼らの記述からは王朝体制の脆弱さが浮かび上がってくるが、それはおそらく致命的な欠点だったのだろう。後継者一つとっても、長子優先といった明確な規則がなかった。また皇后といえども皇帝が死去して自分の息子が即位するまでは、皇帝一族と同等には扱われないことも弱点だった。そのため高い家柄の皇后は、皇帝との間に息子、つまり次の皇帝候補をもうけたがった。それが血生臭い政争の種となる。次代皇帝の母親となろうものなら、ここぞとばかりに自分の血族を取り立てた。そうした姻戚政治が行き着いた先が、「新」の成立だろう。漢(前漢)を倒して新しい王朝を開いたのは、外戚だった王莽である。だが15年後に大規模な暴動が発生し、王莽の人生も彼の国も終わりとなった。しかしこれだけ問題を抱えていたにもかかわらず、中央でも属州でも中央集権的な統治機構が概ね機能していた。

 王政君おうせいくんは18歳で後宮に入り、元帝が即位すると24歳で皇后に立てられた。元帝の死後、王政君の実子の成帝の時代には皇太后と呼ばれた。その後、哀帝、平帝のときには太皇太后として皇帝を支えた。こうして元帝、成帝、哀帝、平帝と4代の皇帝に仕え、84歳まで60数年間にわたって前漢後葉の政治の中枢にいた。王政君の兄弟も高位高官を占めた。王政君なしに甥の王莽おうもうの時代もなかったが、両者は決して手を組んだわけではなかった。王政君はあくまで漢王朝を守ろうとし、王莽は漢王朝から政権を奪取しようとした。BC1年、哀帝は在位わずか6年、25歳で急逝した。哀帝の後継には従兄弟である平帝を選んだが、わずか9歳であり、実際の政治は王政君と王莽に帰した。平帝の元年は紀元後1年で、この時の王莽の号は安漢公、幼い平帝を立てながら自らの地位を築いていき、幼い皇帝に代わって政治を摂行せっこうする道を実行した。平帝は14歳で亡くなったため、王莽は王室の中で最も幼い2歳の孺子嬰じゅしえいを太子に立てた。孺子が元服すれば政権を戻すはずだった。紀元後6年、王莽は皇帝を立てず、自ら「仮皇帝」と称して摂政となった。皇帝はいないので、太皇太后である王政君が引き続き皇帝に代わって詔書を下した。その後、王莽は讖緯しんいという預言書を巧みに利用し、安漢公が真天子となるべきとの上帝の意思との伝えを届けさせ、「周礼しゅうらい」と讖緯で理論武装した儀式を経て、紀元後9年に孺子に禅譲させて、皇帝即位の儀式を行い、国号を「新」とした。

 王莽は仮皇帝から皇帝になるまでの間、反対勢力を徹底して鎮圧した。皇帝王莽は、秦も漢も否定し、周の制度に戻そうとした。全国を9州とし、諸侯の数も周文王のときに合せて1800とし、また周に2都があったことに倣って長安を西都、洛陽を東都とした。王莽の経済政策は平均主義ともいうべき平等主義だった。井田せいでん制を掲げて土地所有の均等化を図り、塩、酒、鉄、山川の資源、貨幣の鋳造、市場での売買を国家が統制するようにした。それは「周礼」などの古典に依拠した理想主義的な政策であった。また外交は徹底した中華思想に基づいて行われた。そのため北の匈奴、東の高句麗、西域諸国、西南諸国は離反していった。この周辺民族の離反は辺境の治安の悪化を招き、やがて内乱へと連動していき、王莽の「新」はわずか15年で終わりを迎えた。



(後漢)紀元後25年~紀元後220年


「新」の前までの漢の王朝を、後の漢の王朝と区別するために前漢、「新」による中断を経て成立した次の漢王朝を後漢と呼ぶのが一般的である。


 紀元後18年、反王莽の農民の反乱は山東の地から始まった。最初は100人余りの勢力だったが、山東一帯の飢饉に苦しむ人々が集まり、1年の間に1万人に膨れ上がった。紀元後22年には赤眉せきびの乱となり、翌紀元後23年に王莽の「新」は滅んだ。反乱軍は前漢劉氏王室の末裔、劉盆子りゅうぼんしを皇帝に擁立して「建世けんせい」という年号を使用した。赤眉政権は反乱集団から王朝樹立を目指したが、結局失敗に終わった。長安城を焼き払い、前漢の皇帝陵も盗掘するなどしたが、紀元後27年には故郷の山東に逃げ、劉秀りゅうしゅうらに降伏した。前漢劉氏の子孫とはいえ前漢末期の皇帝と劉秀との血縁関係は極めて薄い。劉秀の出身は南陽郡、そこは現在の湖北省の河南省との境に位置した。劉秀の挙兵に呼応した功臣たちの大半はこの南陽出身者だった。劉秀は王莽から直接政権を奪ったのではなく、赤眉の農民反乱と劉秀の本家の劉玄りゅうげん集団の後に政権を掌握した。劉玄自身は赤眉軍に殺されてしまった。そうした混乱の中、劉秀は河北の諸勢力を抑えた後、紀元後25年に光武帝(在位:紀元後25年~紀元後57年)として即位して王氏に奪われた王朝を奪還し、洛陽に都を置いた。その後、各地の諸勢力を抑えて最終的に天下を統一した。光武帝の側から見れば、第1の敵は王莽であり、その後には農民緒反乱を敵にした。当初牛に乗っていた劉秀は、馬に乗り換えたという。劉秀の反乱の性格を象徴している。光武帝は王莽末の動乱のときに略奪されて奴隷身分に落された人びとを救済するため頻繁に奴婢ぬひを解放した。また行財政改革も断行した。帝室財政と国家財政を一本化し、帝室財政の官職を単に宮廷の雑務を司る用務に下げた。複雑化していた官僚機構も人員を削減し、郡国と県の数も削減した。特に県の削減率は30%にものぼった。洛陽は、紀元後190年に再び長安に遷都するまで10世165年間にわたり後漢王朝の都となった。


〈光武帝劉秀〉


 光武帝劉秀の治世は33年間であり、その大部分は前漢から後漢への交替期の混乱の回復にあてられた。漢を復興することを宣言した北西の隗囂かいごうと、12年間も漢とは別に成家の政権を立てた蜀の公孫述こうそんじゅつの勢力を鎮圧して統一を回復したのは紀元後36年のことで、外交でも離反していた周辺諸国が再び和親を求めるようになり、一段落したのは即位してから30年も経った紀元後54年のことだった。劉秀は、劉氏の王朝「漢」を中興した。秦の始皇帝も秦王の時代が25年で皇帝の時代が12年、劉邦は漢王の時代が4年で皇帝の時代は8年、劉秀は皇帝にはなったが、戦乱の中での皇帝であった。

 内外の安定を確保した光武帝は、紀元後56年になって初めて東方へ巡行した。紀元後25年は後漢王朝の開始の年ではあるが、実際の統一の完成は30年後の紀元後56年と考えた方が良い。つまり光武帝は統一を成し遂げたと思ったら、すぐに死を迎えることになった。しかし統一への緒政策はその間に順次行われていた。即位後6年目には田租税を軽減して30分の1税を復活させ、その翌年には郡兵を廃止して兵制を改革、10年目には前漢以来決壊していた黄河の堤防を修復、15年目には全国の耕地面積と人口を調査し、全国の地図を作成、その翌年には前漢の五銖銭を復活させた。さらに光武帝は各地方の奴婢ぬひを次々に解放した。王莽(新)末の動乱のときに略奪されて奴隷身分に落された人びとを救済するためだった。王莽の時代には奴婢(奴隷)の市が立って売買されていた。即位後6年目には王莽時代の奴婢を旧王朝時代の法律を適用すべきでないとの原則の上に立って解放した。また奴婢が一般の良民を傷害した場合、棄市きしという死刑に処する法律も廃止し、奴婢の地位が良民に比して低い状態であったのを改善しようとした。

 光武帝は財政制度の大改革も断行した。前漢時代は帝室財政と国家財政は別々に運営されていたが、少府という帝室財政と宮廷内を管理する大きな権限を持った官職を、単に宮廷の雑務を司る用務係に格下げした。また複雑化していた官僚機構の改革も断行し、官吏の人員の削減を命じた。郡県の数も削減した。郡国の廃止率は1%に留まったが、県の廃止率は30%にも上った。さらに統一後の後漢王朝は、内地の郡の軍縮を行い、その分、辺境の郡の軍事力強化に力を注いだ。

 光武帝は即位した年(紀元後25年)の10月、都を洛陽に置いた。以降、紀元後190年2月に、後漢を滅亡に導いた董卓とうたくが中原の難を避けて再び長安に遷都するまでの165年間、洛陽は後漢王朝の都となった。洛陽は長安とは性格を異にした。車輪のスポークのような天下の中心であり、王者は内外の区別をしなかった。一方、長安は四方を山河で囲まれ、内外を区別する関中にあり、防衛上の利点があった。洛陽は後漢の後も、三国時代(紀元後220年~紀元後280年)の魏、統一王朝となった晋(紀元後265年~紀元後316年)、5胡16国と東晋時代の北魏(紀元後304年~紀元後439年)の都として引き継がれ、城壁や城門など基本的な部分は後漢時代のものが踏襲されていった。


[漢委奴国王]

 光武帝最後の年となる紀元後57年の正月、委奴わのなあるいは委奴いとの国王の使者が朝貢のために洛陽を訪れた。光武帝は委奴国王の使者と謁見した。使者は自ら大夫たいふと言い、その国は倭国の極南海にあると言った。この時使者を介して、委奴国王は「漢委奴国王」に冊封され、その文字を刻した金印と紫色のじゅ(金印を下げるための組紐)が下賜された。小さな国の使者がわざわざ後漢の都洛陽にまで朝貢して印綬をもらった。使節を受け入れた光武帝は翌2月に62年の生涯を閉じた。倭の百余国の一国という小さな国の国王と大きな帝国の皇帝の取り合わせ、この出会いは、倭にとって大きな事件であった。委奴国王の使者が賜った印綬の中身までは「後漢書」に記録されなかったが、福岡県の志賀島で江戸時代の1984年に畑の中から「漢委奴国王」と陰刻(文字の部分が凹面)のある僅か2.35センチ四方、重さ109グラムの小さな蛇紐だちゅうの金印が発見された。ちゅうとは、ひもを通す穴の空いた金印の摘み部分のことを指す。同じ金印でもちゅうの形は異なっていた。諸侯王や列侯は亀であるのに対して、外国の国王には駱駝らくだ、羊、蛇などその地域に合せて作った。金印の「漢」の字の意味は重要だ。東夷の国王が朝貢したことで、光武帝から漢帝国内の国王の一人とされた。「漢の国」と表記することは、匈奴や倭などに限られていた。1956年、中国の雲南省でも、同じ2.35センチ四方の蛇紐金印が発見され、そこには「てん王之印」が彫ってあった。ここでも史書の記録と一致した。従って、金印は本物である。委奴国王と滇王の間には直接的な結びつきはない。漢代には金印は官位と爵位の最上位クラスの者に与えられた。金の持つ価値は劉氏王朝への功労にたいする褒賞としてふさわしいものだった。


〈光武帝後〉


 次の明帝(在位:紀元後57年~紀元後75年)の時代は国内で外戚の介入もなく安定した政治が行われた。即位後13年目、黄河の西にある汴水べんすいという分流の治水工事が僅か1年で完成した。前漢末に決壊してしてから放置され、洪水がしばしば起こった。水利技術に長けていた王景おうけいが、水流を調整するせきを作って、滞っていた流れをスムーズに流す方法を開発したのだ。1000余里(500キロ)の間に10里毎に水門を作って分水させ、川の流れの勢いに逆らわず力を弱めながら海に流した。この汴水べんすいの治水がうまく行われれば、本流の黄河も安定することになる。この結果、黄河は唐末の紀元後10世紀初めまで大きな決壊もなく、安定期に入った。

 後漢時代の14代の皇帝の在位年数と即位年齢とを見てみると、一つの時代的特徴がうかがえる。光武帝(在位:紀元後25年~紀元後57年)、明帝(在位:紀元後57年~紀元後75年)、章帝(在位:紀元後75年~紀元後88年)、和帝(在位:紀元後88年~紀元後105年)、殤帝しょうてい(在位:紀元後105年~紀元後106年)、安帝(在位:紀元後106年~紀元後125年)、順帝(在位:紀元後125年~紀元後144年)、沖帝(在位:紀元後144年~紀元後145年)、質帝(在位:紀元後145年~紀元後146年)、桓帝(在位:紀元後146年~紀元後167年)、霊帝(在位:紀元後168年~紀元後189年)、少帝(在位:紀元後189年)、献帝(在位:紀元後189年~紀元後220年)のうち10歳以下で即位したのは和帝の10歳、殤帝の1歳未満(100余日)、沖帝の2歳、質帝の8歳であり、15歳以下でも安帝の13歳、順帝の11歳、桓帝の15歳、霊帝の12歳、このように紀元後2世紀はまさに幼帝の即位が続いた時代であったといえる。また皇帝の寿命を見ても紀元後1世紀の皇帝は、光武帝は62歳、明帝は48歳、章帝は33歳、和帝は27歳であるの対して、紀元後2世紀の皇帝は、安帝は32歳、順帝は30歳、桓帝は36歳、霊帝は34歳のほか、10歳以下の殤帝は2歳、沖帝は2歳、質帝は9歳が目立つ。

 幼帝が即位したということは、その背後で母親の皇太后が権力を握る道を開いたことを意味し、その結果外戚の勢力が政治を左右することになった。外戚とは時の皇后の一族であり、皇帝に重用され、大将軍や宰相にもなり、時には皇帝を退位させたり、即位させたりもした。王莽おうもうも外戚である。光武帝や明帝の皇后が外戚として力を持たなかったのは、両皇帝自身が年齢も高く、前漢時代の外戚の弊害を十分認識していたからだった。しかし3代目の章帝以降は、外戚勢力が表舞台に出てくるようになり、紀元後2世紀に幼帝が即位すると、まさに外戚の時代に突入することになった。それに伴い、宮廷内の事情をよく知る宦官かんがんたちも暗躍することになった。中国史上、宦官として最初に有名になったのは、秦の趙高ちょうこうである。始皇帝亡き後、権力を握った趙高は、鹿を馬と言い立てて年若い二世皇帝を愚弄した。皇帝が若年・無能であれば、皇帝の権力の空隙に側近である宦官が付け入ることになった。特に後漢になると、内廷に仕えるのは宦官に限られたため、外戚と同じように爵位を得たりして権力をもった。「後漢書」宦官列伝は、宦官の歴史を春秋時代から説き起こし、後漢の時代になって宦官の勢力政治問題化したことを語ってくれる。宦官を重用した後漢王朝は、爵位を得た宦官の養子の子であった曹操そうそうによって結局滅ぼされることになった。


〈後漢の異民族政策〉


 紀元後48年の内紛によって匈奴が南北に分裂し、南匈奴は紀元後50年に設置された後漢の使匈奴中郎将によって統括されるようになった。南匈奴の後を追うかのように、紀元後49年に遼東の北の烏桓うがんが後漢に朝貢してきた。この時班彪はんぴょう(漢書の編者班固はんこの父)の進言によって護烏桓校尉が設置されたが、その任務は服属した烏桓と同系の北の鮮卑せんぴをも併せて統括するものだった。それ以前、紀元後33年にも班彪の進言によってチベット系のきょう族を統括する護羌校尉が置かれており、後漢における班彪の地位は、対異民族政策の立案者として光武帝(在位:紀元後25年~紀元後57年)の信任は極めて厚かった。漢王朝再興間もない後漢の西方および北方政策において、この紀元後33年の護羌校尉、紀元後49年の護烏桓校尉、紀元後50年の使匈奴中郎将の設置は重要な役割を果たしていた。次いで、明帝(在位:紀元後57年~紀元後75年)の頃、南匈奴、烏桓、鮮卑らの反乱が頻発したため、紀元後65年に度遼将軍が、さらに紀元後74年に西域都護、戊己ぼこ校尉が復置され、明帝、章帝(在位:紀元後75年~紀元後88年)、和帝(在位:紀元後88年~紀元後105年)の3代にかけて長城の守りが整えられていった。とりわけ、匈奴を統制する上で、護烏桓校尉下の烏桓兵の役割は大きかった。紀元後73年から始まる竇固とうこらの北匈奴遠征、紀元後140年夏の南匈奴左部の反乱のときの彼らの活躍には目を見張るものがあった。後漢王朝は異民族に対して、穀物、絹帛けんぱく(絹布)などを大量に支給する一方、彼らを軍の監督の下に置き、反抗に対しては厳しい処置で臨むという、いわゆるアメとムチの統治政策を遂行していた。特に烏桓には厳しく、また大切に接していた。それは烏桓が、かつて匈奴帝国の創設者冒頓ぼくとつに討たれて以来、匈奴を憎んでいることを利用して、匈奴遠征には常に烏桓兵を従軍させていた。また同系の鮮卑とは決して合流させることなく、紀元後127年2月の遼東、紀元後141年9月の漁陽における鮮卑の挙兵には烏桓を当たらせている。このように後漢は南北匈奴、烏桓、鮮卑、羌らを互いに競わせ、いわゆる「夷をもって夷を制する」政策を推進していた。


〈黄巾の乱と五斗米道〉


 紀元後2世紀後半期の桓帝(在位:紀元後146年~紀元後167年)、霊帝(在位:紀元後168年~紀元後189年)の治世は社会経済や政治的混乱が増大していった時期だった。干ばつ、洪水、飢饉、蝗害こうがい(バッタの大量発生)、地震などの災害が頻発し、さらに一部の地方では伝染病が蔓延して社会的不安を招いた。後漢政府は病人には医薬品を配布し、被災者にも食糧の支給や田租でんそ税、賦役ふえき、人頭税の減免などの救済策を行った。こうした時期、各地の有力者たちが天子や皇帝と称して単発的に挙兵したが、いずれも鎮圧された。こうした後漢国内の混乱に乗じて周辺のきょう鮮卑せんぴも辺境の郡を侵し始めた。紀元後184年2月、東方の河北の張角ちょうかくは天師、つまり黄天と称して太平道の集団を組織し、36万人もの民衆を統率した。兵士たちは黄色の頭巾を被って味方を識別したので、世に黄巾の賊と呼ばれることとなった。張角の率いた太平道の集団は従来の反乱集団とは異なり、一つの宗教集団ともいうべきものであった。こうした宗教集団が武力を持ち、反政府的な反乱集団になっていった。彼らは後漢政府側に脅威を与えたが、張角が病死した後、これらの集団は必ずしも太平道という宗教で結束したわけではなく、次第に略奪集団化していった。結局、各集団は後漢王朝の崩壊を促しながら、新たな体制を作れずに曹操そうそうの軍に鎮圧されていった。

 同じく東方の江蘇の張陵ちょうりょうは順帝(在位:紀元後125年~紀元後144年)の時代に西方の蜀の地に入り、宗教の道を開いた。その教えを受けた信者は五斗(日本の約5升)を供出したので、当時「米賊」と言い、この集団を一般に五斗米道ごとべいどうと呼んでいる。張陵の死後、霊帝の光和年間(紀元後178年~紀元後184年)に子の張衡ちょうこう、そして孫の張魯ちょうろに伝えられ、漢中を中心に宗教集団として組織化されていった。この集団は黄巾の乱を支えた張角の太平道とよく対比され、東方に太平道の張角、西方の漢中に五斗米道の張陵ありと言われた。この張魯の集団は紀元後190年ごろから漢中との地方で30年近く勢力を持ったが、結局紀元後215年、曹操の軍に降ることになった。

 これらの反乱集団が一定期間、また特定の地域とはいえ、信奉者を多く獲得し勢力を持ったのは、後漢後半の混乱期を背景に、郷里社会から放出された人びとを容易に取り込める緩やかな集団だったからだ。厳しい戒律などなく、混乱のなか故郷を離れ、移住・放浪を余儀なくされた人びとに、彼らは食糧を与え、病気の治療に努めた。この集団は「宗教王国」とか「五斗米道王国」と呼ばれた。


〈後漢の終焉〉


 劉氏王朝400年の終焉が現実になったのは後漢最後の献帝のときであった。後漢を滅亡に導いたのは賊臣と悪評された董卓とうたくである。董卓は紀元後189年の霊帝の死後即位した少帝を5ヶ月で廃位し、わずか8歳の劉協りゅうきょうを献帝(在位:紀元後189年~紀元後220年)として擁立した。董卓が公孫度こうそんたくを遼東太守に任命したのはこのときである。翌年の紀元後190年には都を長安に移した。紀元後192年に部下の呂布りょふに殺されるまで実権を握った。この董卓に対抗して漢室復興を旗印にしたのが袁紹えんしょう、そして最期に献帝から禅譲された曹操の子曹丕そうひである。紀元後200年、袁紹と曹操は官渡かんとの戦いで雌雄を決っし、袁紹は大敗した。紀元後220年、献帝は帝位を魏王の曹丕に譲り、自らは山陽公に甘んじた。劉氏24代の皇帝の時代が一時中断しながらも400余年も続いたのは、直接統治の郡県と王の子弟たちに国を分封した封建を両用したからである。後の唐はこれを真似た。


公孫こうそん氏]

 紀元後189年に後漢から遼東太守に任命された公孫たくは、まず近隣の高句麗・烏桓うがんなどを討伐している。また夫餘ふよが遼東郡の支配下に属すると、高句麗と鮮卑の間に位置することを重要視して、一族の娘を妻として与え、関係を強化した。紀元後190年以降には、遼東郡を二郡に分割して太守を置き、渡海して山東半島の東莱とうらい郡を攻略して営州刺史を置いた。そして遼東王を自認し、魏の曹操からは海北の土地を割いて公孫氏に預け、子々孫々支配する権利を与えるとの約束がされていたという。公孫氏は後漢・魏の両者から公的に東夷諸国に対する独自の支配権を認められていた。卑弥呼ひみこの公孫氏への朝貢は公的なものであり、魏にも継承された。紀元後204年には子の公孫こうが位を相続し、楽浪郡の南部を分割して帯方郡を設置し、韓・わいを征伐したため韓と倭は帯方郡に属するようになった。これ以降、倭国は帯方郡を介して公孫氏に内属し紀元後238年の公孫氏滅亡まで続く。



しょく三国時代)紀元後220年~紀元後280年


 黄巾の乱以来、戦乱の続く北方では、疫病の流行もあり、人口が激減し、土地は疲弊し、大量の流民が発生していた。このため曹操の支配地域である中原一帯は荒廃し、後漢最盛期の10分の1にまで減ったといわれる。紀元後196年に曹操は本拠地許都きょとの近辺に屯田を設けた。許都での成功後、さらに広い範囲で実施した。起源後213年には淮河わいが流域、さらに関中で軍人による屯田が行われた。曹操は官渡の戦いの後、7年を費やし、紀元後208年になってやっと河北を平定した。そして、曹操は袁紹の本拠地であったぎょう(現在の安陽市の北)を都にして、後漢の丞相じょうしょうの位についた。その間、長江以南の東側にあたる江南地域では、孫策そんさく孫権そんけん兄弟が異民族である山越の討伐と統治、そして漢民族への同化を進め、成功していた。江南を固めた孫権は208年、長江中流にまで軍を進め、さらに荊州けいしゅうの劉表を攻めようとしたが、劉表は病死してしまった。一方、曹操も荊州に南下してきた。そのとき、劉備りゅうびあざな玄徳げんとく)は劉表の下に身を寄せた客分であった。そこで劉備は諸葛亮しょかつりょう孔明こうめい)と出会っていた。劉表病死の跡を継いだ次男の劉琮は曹操に降伏してしまったため、劉備は南方に逃走したが、曹操に急追された。次に曹操は孫権を攻めるべく80万の水軍と豪語した脅迫状を出したが、孫権の将軍たち、特に魯粛ろしゅくは劉備と劉表の長男である劉琦に、孫権と同盟するよう説得し、さらに諸葛亮を伴って曹操と戦うようにと孫権も説得した。魯粛は荊州の反曹操勢力を味方にする必要があると考えた。「赤壁の戦い」は船団を組んで長江を下ってきた曹操軍と、長江を上ってきた孫権の将軍周瑜しゅうゆとの間で、長江南岸の赤壁で火ぶたが切られただ、緒戦で曹操軍はつまずく。曹操軍は北岸の烏林うりんに引き上げ、両軍が江をはさんで対峙した。次に周瑜は、部将の一人に投降と見せかけて、途中で舟に火を放ち、曹操の船団に突入させた。船団と軍勢の大半を失った曹操は北に逃げ帰った。この戦いによって、曹操・劉備・孫権の三雄による天下三分の形勢の基礎ができた。


 ***


(秦・漢の文化と価値観)


 秦の始皇帝の失敗の一つはBC5世紀からBC3世紀まで続いていた開放的な思想活動を圧殺しようとしたことである。行政命令を押し付けるだけでは物足りなかったのか、BC214年には、国が指定した専門家以外の者が実用書と法律書を除く書物を所有することを違法としてしまった。翌BC213年には、体制に反抗する学者460名を生き埋めにしている。しかし、禁書をすべて焼き払い、書物の中身を記憶している人びとを皆殺しにすることはできなかった。その前に国が滅びてしまったからだ。漢王朝が開かれると、秦以前にあった思想の多くは復活し、互いにしのぎを削るようになった。古代中国の思想家の最大の関心事は政治であり、社会の秩序づくりだった。秦の統治の根底にあったのは法家の思想で、これは法を通じて人民を徹底管理し、収奪する政治理論だった。漢に入っても法家の思想は影響力を残していた。それでも当初はゆるやかに適用されるだけだったが、武帝は戦争遂行のための過酷な税と徴兵に転じた。

 中国は王朝国家でもある。歴代の王朝の歴史に連なって正当に皇位を継承した王朝が、先立つ王朝の正史をまとめるのが習わしである。24史がそれにあたるが、その最初の正史は前漢の司馬遷しばせん(BC145年~BC87年)が編纂した「史記」である。史記は、前漢時代中期の武帝のときに、漢の宗廟と礼儀を司る太史令として仕えた司馬談しばたんと司馬遷親子によって編纂された。12本紀ほんぎ、10表、8書、30世家せいか、70列伝の130巻からなる大部の歴史書である。本紀では漢王朝に到る歴代王朝の歴史がまとめられている。漢王朝の主張が提示されているが、中国最初の歴史書というだけでなく、文学的な叙述においても人びとを魅了している。世家せいかの一つに孔子世家がある。司馬遷は武帝の死の前後に亡くなっている。したがって、「史記」は武帝までの歴史を扱っているのである。「史記」というのは魏晋以後のことで、竹簡か木簡に書かれ、書名は「太史公書」といった。BC99年、刑罰を受けて去勢された司馬遷は父の遺志を継ぎ、伝説の時代から現在まで、中国とそれを取り巻く世界の壮大な歴史をまとめる仕事に没頭した。こうして完成した「史記」は、天文・暦と国家の歴史を担当した太史令の立場から書かれ、漢代初期の自由で盛んな知的活動を忍ばせる作品だ。その中で司馬遷は異なる視点をいくつも提示し、可能な限り本人が語った言葉を引用している。また、形式も多彩で、年代記的に公式記録を要約している部分もあれば、小論的に話題を取り上げた文章もある。参考文献は表にまとめられ、不要であれば読み飛ばすことができる。中心となっているのは、賢人や悪漢などさまざまな人物、それに異国の様子などを生き生きと描いた記述である。司馬遷が拠り所とした文献と比較すると、彼の筆に偏りがないことがよくわかる。司馬遷は語りを統一せず、またイデオロギー色を出すこともなかった。漢代の文字文化の集大成がこの「史記」だと言っても過言ではないだろう。


 漢代に強く支持された思想は、春秋時代(BC770年~BC470年)のの国の学者だった孔子(BC551年~BC479年)が元祖の儒教である。当時の魯では貴族や支配階級の子弟教育に、周代の書物を使うのが習いだった。孔子はカリスマ性があり説得力に富む教師であり、古典の解釈に優れていた。彼の弟子や後の信奉者がその教えを体系化して儒教を作り上げた。

 BC4世紀からBC3世紀、生き馬の目を抜くような厳しい競争を勝ち抜くため自国の強化が切実な課題だった統治者たちにとって、儒家は何の役にも立たない存在に思えた。秦でも始皇帝即位以前から風当りは強く、始皇帝は儒家を迫害している。しかし、秦が滅びた後はそうした弾圧の過去がかえって儒家の強みとなった。漢代では教育は基本的に古典の学習だった。儒家による古典解釈は、人としてどう振る舞うべきかを示していた。上位者だけでなく、下位の者にも責務を負わせるべしと教えたのである。儒家の教えを良く身につけた役人は、報奨の期待と懲罰の恐怖だけで動くものではなかった。良心を持ち、正しいと思えることを貫くことが求められた。紳士であることは生まれだけでなく、如何に行動するかで決まる。漢代初期の皇帝たちは成り上がり者だったこともあって、儒教の教えに素直に耳を傾けた。秦代の法家思想が行動原理だった武帝だが、儒教を国家の準イデオロギーととらえ、それまでの皇帝の誰よりも熱心に儒教普及に努めた。しかし、一方で儒教は独創的な思考を排除した。儒教の価値観は国家と密接に結び付き、それを基にした官吏登用性と合せて、以降も中国王朝の長い伝統になっていく。


 後漢に大きな打撃を与えたのが太平道である。これは信じる者に罪の許しと社会的な支援を与え、新しい世界を約束するというものだ。高度に組織化された太平道は、184年に中国東部各地で反乱を起こした。新しい天国が世界を征服すると信じていた彼らは、その象徴である黄色い頭巾を巻いていたので、黄巾の乱と呼ばれた。この反乱を漢の軍隊は制圧できず、地方の有力者たちが私設軍で鎮圧に乗り出した。この反乱から後漢が滅亡する220年まで、漢の皇帝は操り人形に過ぎなかった。


 秦と漢は過去から受け継いだ文字文化に二つの変化を起こした。それは文字の統一と紙の発明である。巨大帝国を統治するには文書が不可欠で、それも全国どこでも同じ文字で記すことが肝要だった。秦代以前には複数の文字体系が混在していたが、秦はそれを一本化させた。それは漢代に入って、さらに現代の中国文字に近いものになる。植物の繊維を柔らかくして、軽くて柔軟性のある筆記素材へと変える技術は、後漢の時代に開発された。紙はそれ以前の木や竹を削ったものよりはるかに便利だった。こうして後漢末には、中国は完全に紙文化に移行していた。


 400年余り続いた漢の時代は、基本的には農耕社会だったが、新しい技術や芸術も生み出した。主に副葬品として作られた陶器の壺からは、技術の進歩がうかがえる。後に中国の陶磁器を世界中に知らしめた釉薬うわぐすりの使用が始まったのもこの時代である。鉛を原料にした緑や黄色や茶色の釉薬の他、青磁釉薬などが用いられた。漢の陶磁器は国の監督下にある工房で作られていたが、際立った芸術性と生き生きとした表現力を兼ね備えていた。また漢の時代の墓からは、当時の暮らしを偲ばせるミニチュアの陶製の家来、家畜、イヌ、兵士などが発見されている。鼓手や曲芸師、剣舞の踊り手の一座など、来世での死者の娯楽のためと思われる副葬品も出土している。


[中国の現実主義的な思考]

 中国には、「旧約聖書」に語られるような天地創造の神話があっただろうか? それに相当するものが盤古ばんこ伝説といわれるものであるが、このような前漢末期から神秘主義は五行思想を媒介として儒教のなかに取り入れようとした努力のあらわれともいえるが、結局中国では、この天地自然はどうしてできたか、人間はどうして生まれたかいう、当然起こるべき疑問に対する解答は、その疑問をも合わせて、正統的な学問の世界からは排除されてしまった。哲学においても、歴史においてもこの問題に正面から挑むことはなかったといえる。そして中国における歴史の記述は、神々に触れることなく、常に帝王の徳と現実の政治との関係を軸として展開されてきた。その点では日本のほうが神話的であったといえる。このことは中国人のもつ現実的な思考という特性が早くからできていたという事実をここに見ることができる。

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