第133話 中国、前漢の武帝と後漢の光武帝、倭国の登場
<年表>
前漢後期:武帝以降(BC141年~紀元後8年)
BC141年 武帝即位。
BC139年~BC116年 この間に張騫が3度西域に派遣される。
BC133年~BC121年 北方の匈奴と戦う、オルドス地方を奪還し、秦の時代の長城を修築する。BC121年、匈奴を大破し、河西回廊の4郡を設置する。
BC108年 司馬遷が太史令となり、BC89年ごろに「史記」が完成する。
BC87年 武帝死去。
紀元後1年 外戚の
新(紀元後8年~紀元後23年)
紀元後8年 王莽は皇帝と称し国号を「新」とする。
紀元後22年 4月に農民反乱「
紀元後23年 劉秀の本家の劉玄が帝位に就いたが、紀元後25年3月に赤眉軍に敗れる。
後漢(紀元後25年~紀元後220年)
紀元後25年、劉秀は光武帝として即位して王氏に奪われた王朝を奪還し、洛陽に都を置いた。しかしそれは戦乱の中での皇帝であった。紀元後26年 9月に
***
(武帝の時代)
漢の高祖劉邦以降で際立って優れていたのが武帝(在位:BC141年~BC87年)である。BC141年に弱冠15歳で即位した武帝は、71歳で死去するまで帝位にあり、前漢・後漢を通じて最長在位だった。国力拡大を目指して積極的に行動する武帝は中央アジアや北方での匈奴との戦いに人材も資源も注ぎ込んだ。しかし通常の税収や徴兵では賄えず、鉄と塩の取引を国の専売とし、酒に税を課した。この積極行動主義は国と社会に耐えがたい重荷となる。むしろ弱い皇帝の方が害が少なかった。
秦代の法家思想が行動原理だった武帝だが、儒教を国家の準イデオロギーと捉え、それまでの皇帝の誰よりも熱心に儒教普及に努めた。官僚は古典の教養や、儒者として行動できるかどうかで選定された。また「新」を創建した
武帝(在位:BC141年~BC87年)のときに西域への道が、
BC139年、張騫は第1回目の西域への長い旅に出た。目的は
〈武帝の匈奴政策〉
武帝は匈奴との間の和親と侵攻の繰り返しという状況を根本的に変えようと考えた。防御から攻撃に方針を転換したのだ。まずBC139年に大月氏と同盟して匈奴を挟み撃ちにする計画を立てて、張騫を大月氏に派遣した。しかし張騫はすぐに匈奴に捕えられてしまった。BC133年には、武帝は国境の
BC129年春、匈奴が
BC119年には漢が総攻撃をかけて匈奴単于
霍去病が亡くなった翌年のBC116年、張騫は再び使節として西域に出発した。今度の目的は天山山脈の北、バルハシ湖の南に位置する
しかし相次ぐ外征は漢の国家財政を破綻寸前に追い込んでいた。そこで漢では歳入を増やすため、BC119年に塩と鉄が専売制とされ、さらにBC115年には「均輸法」、BC110年には「平準法」が施行された。均輸法は各地の特産物を徴収して不足地に転売する政策、平準法は豊年のときに物資を倉庫に蓄え、凶年のときに放出する政策である。ともに物価を安定させ、大商人の抑制をも意図した。大商人の利潤を抑制し、その分を国家財政にまわそうとしたのだ。もちろん増税も行われた。これらの施策によって人民の生活は苦しくなったが、漢軍は再び攻勢に出ることができた。これ以降の漢の進出は、北ではなく西に向かった。匈奴と連携を取っている
[貨幣・塩・鉄]
漢代は貨幣経済の時代であった。武帝の時代に始まった方孔円形の青銅貨幣である五銖銭は額面と重量を一致させており、その後の唐代高祖の時期まで700年も踏襲された。武帝は塩・鉄を国家が生産から販売までを独占し、価格を維持しながら財政源とした。これにより匈奴との戦いで疲弊した漢が経済的な復活を果たした。塩官は35ヶ所、鉄官は48ヶ所に設置された。武帝はBC111年に
〈匈奴の分裂〉
漢の積極策は功を奏した。もちろん戦闘に苦戦し、将軍の何人かが匈奴に投降することもあったが、戦局の趨勢は明らかに漢に有利となった。さらに冬の大雪による家畜の
BC56年ごろには5人の単于が並び立つという分裂状態に陥ってしまった。そのなかで勝ち残った兄の
南匈奴の単于は使節を後漢王朝に送り、藩臣と称して服属した。後漢の側も紀元後50年に子を人質として送ってきた南単于に対して、長城内の雲中郡への居住を認めた。また
一方、分立した北匈奴の方も後漢の光武帝の時代の紀元後51年に和親を求めてきた。後漢は服属したばかりの南匈奴との関係を重んじ、南北両匈奴との等距離外交は避けた。その後、北匈奴は南匈奴とも戦いを交えながら後漢の辺境をたびたび侵し、後漢の反応をうかがった。後漢の章帝の時代の紀元後85年、南匈奴が北匈奴を
〈武帝の南下政策〉
武帝の軍隊はBC111年に南越を滅ぼし、さらに
同じBC109年に、武帝の軍隊は長城の東端の遼東を越えて、朝鮮半島に入った。そこは燕人の
[
「
司馬遷がBC100年ごろに、富について記した文章がある。当時の庶民の暮らしぶりが垣間見られる。
“平民は自分たちより10倍豊かな者には平伏し、100倍豊かな者に恐れおののき、1000倍豊かな者に奉仕し、1万倍豊かな者の奴隷になる。それが世の道理である。貧しい職人から豊かになるのは農民より良く、職人よりは商売人のほうが良い。市場でぶらぶらするほうが、細かい刺繍をするよりましだ。つまり商売こそが貧しい者に富を与えてくれる”
〈武帝後の前漢〉
武帝はBC87年に亡くなり、
「漢書」地理志には全国の郡国別の人口統計がある。平帝の2年(紀元後2年)に地方の郡国が中央に報告したものである。全国の総計では1223万3062戸、5959万4978人となっている。首都長安の人口は24万6200人だが、周囲の衛星都市を合わせると100万を超えていたようだ。今から2000年前の正確な人口統計である。秦の人口統計は残っていない。統一帝国で初めての記録である。前漢末には全国に103の郡国と1587の県があり、平均で1郡国に15県となる。郡国の数が余りに多すぎたので、武帝の時代のBC106年、都のある中央を除いて全国に13の州を置き
(新)紀元後9年~紀元後23年:
近代以前に秦と漢を研究した中国の歴史家たちが注目したのは、決まって宮廷政治であり、中央化された行政府や地方の指導者の強大な権力である。彼らの記述からは王朝体制の脆弱さが浮かび上がってくるが、それはおそらく致命的な欠点だったのだろう。後継者一つとっても、長子優先といった明確な規則がなかった。また皇后といえども皇帝が死去して自分の息子が即位するまでは、皇帝一族と同等には扱われないことも弱点だった。そのため高い家柄の皇后は、皇帝との間に息子、つまり次の皇帝候補をもうけたがった。それが血生臭い政争の種となる。次代皇帝の母親となろうものなら、ここぞとばかりに自分の血族を取り立てた。そうした姻戚政治が行き着いた先が、「新」の成立だろう。漢(前漢)を倒して新しい王朝を開いたのは、外戚だった王莽である。だが15年後に大規模な暴動が発生し、王莽の人生も彼の国も終わりとなった。しかしこれだけ問題を抱えていたにもかかわらず、中央でも属州でも中央集権的な統治機構が概ね機能していた。
王莽は仮皇帝から皇帝になるまでの間、反対勢力を徹底して鎮圧した。皇帝王莽は、秦も漢も否定し、周の制度に戻そうとした。全国を9州とし、諸侯の数も周文王のときに合せて1800とし、また周に2都があったことに倣って長安を西都、洛陽を東都とした。王莽の経済政策は平均主義ともいうべき平等主義だった。
(後漢)紀元後25年~紀元後220年
「新」の前までの漢の王朝を、後の漢の王朝と区別するために前漢、「新」による中断を経て成立した次の漢王朝を後漢と呼ぶのが一般的である。
紀元後18年、反王莽の農民の反乱は山東の地から始まった。最初は100人余りの勢力だったが、山東一帯の飢饉に苦しむ人々が集まり、1年の間に1万人に膨れ上がった。紀元後22年には
〈光武帝劉秀〉
光武帝劉秀の治世は33年間であり、その大部分は前漢から後漢への交替期の混乱の回復にあてられた。漢を復興することを宣言した北西の
内外の安定を確保した光武帝は、紀元後56年になって初めて東方へ巡行した。紀元後25年は後漢王朝の開始の年ではあるが、実際の統一の完成は30年後の紀元後56年と考えた方が良い。つまり光武帝は統一を成し遂げたと思ったら、すぐに死を迎えることになった。しかし統一への緒政策はその間に順次行われていた。即位後6年目には田租税を軽減して30分の1税を復活させ、その翌年には郡兵を廃止して兵制を改革、10年目には前漢以来決壊していた黄河の堤防を修復、15年目には全国の耕地面積と人口を調査し、全国の地図を作成、その翌年には前漢の五銖銭を復活させた。さらに光武帝は各地方の
光武帝は財政制度の大改革も断行した。前漢時代は帝室財政と国家財政は別々に運営されていたが、少府という帝室財政と宮廷内を管理する大きな権限を持った官職を、単に宮廷の雑務を司る用務係に格下げした。また複雑化していた官僚機構の改革も断行し、官吏の人員の削減を命じた。郡県の数も削減した。郡国の廃止率は1%に留まったが、県の廃止率は30%にも上った。さらに統一後の後漢王朝は、内地の郡の軍縮を行い、その分、辺境の郡の軍事力強化に力を注いだ。
光武帝は即位した年(紀元後25年)の10月、都を洛陽に置いた。以降、紀元後190年2月に、後漢を滅亡に導いた
[漢委奴国王]
光武帝最後の年となる紀元後57年の正月、
〈光武帝後〉
次の明帝(在位:紀元後57年~紀元後75年)の時代は国内で外戚の介入もなく安定した政治が行われた。即位後13年目、黄河の西にある
後漢時代の14代の皇帝の在位年数と即位年齢とを見てみると、一つの時代的特徴がうかがえる。光武帝(在位:紀元後25年~紀元後57年)、明帝(在位:紀元後57年~紀元後75年)、章帝(在位:紀元後75年~紀元後88年)、和帝(在位:紀元後88年~紀元後105年)、
幼帝が即位したということは、その背後で母親の皇太后が権力を握る道を開いたことを意味し、その結果外戚の勢力が政治を左右することになった。外戚とは時の皇后の一族であり、皇帝に重用され、大将軍や宰相にもなり、時には皇帝を退位させたり、即位させたりもした。
〈後漢の異民族政策〉
紀元後48年の内紛によって匈奴が南北に分裂し、南匈奴は紀元後50年に設置された後漢の使匈奴中郎将によって統括されるようになった。南匈奴の後を追うかのように、紀元後49年に遼東の北の
〈黄巾の乱と五斗米道〉
紀元後2世紀後半期の桓帝(在位:紀元後146年~紀元後167年)、霊帝(在位:紀元後168年~紀元後189年)の治世は社会経済や政治的混乱が増大していった時期だった。干ばつ、洪水、飢饉、
同じく東方の江蘇の
これらの反乱集団が一定期間、また特定の地域とはいえ、信奉者を多く獲得し勢力を持ったのは、後漢後半の混乱期を背景に、郷里社会から放出された人びとを容易に取り込める緩やかな集団だったからだ。厳しい戒律などなく、混乱のなか故郷を離れ、移住・放浪を余儀なくされた人びとに、彼らは食糧を与え、病気の治療に努めた。この集団は「宗教王国」とか「五斗米道王国」と呼ばれた。
〈後漢の終焉〉
劉氏王朝400年の終焉が現実になったのは後漢最後の献帝のときであった。後漢を滅亡に導いたのは賊臣と悪評された
[
紀元後189年に後漢から遼東太守に任命された公孫
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黄巾の乱以来、戦乱の続く北方では、疫病の流行もあり、人口が激減し、土地は疲弊し、大量の流民が発生していた。このため曹操の支配地域である中原一帯は荒廃し、後漢最盛期の10分の1にまで減ったといわれる。紀元後196年に曹操は本拠地
***
(秦・漢の文化と価値観)
秦の始皇帝の失敗の一つはBC5世紀からBC3世紀まで続いていた開放的な思想活動を圧殺しようとしたことである。行政命令を押し付けるだけでは物足りなかったのか、BC214年には、国が指定した専門家以外の者が実用書と法律書を除く書物を所有することを違法としてしまった。翌BC213年には、体制に反抗する学者460名を生き埋めにしている。しかし、禁書をすべて焼き払い、書物の中身を記憶している人びとを皆殺しにすることはできなかった。その前に国が滅びてしまったからだ。漢王朝が開かれると、秦以前にあった思想の多くは復活し、互いにしのぎを削るようになった。古代中国の思想家の最大の関心事は政治であり、社会の秩序づくりだった。秦の統治の根底にあったのは法家の思想で、これは法を通じて人民を徹底管理し、収奪する政治理論だった。漢に入っても法家の思想は影響力を残していた。それでも当初はゆるやかに適用されるだけだったが、武帝は戦争遂行のための過酷な税と徴兵に転じた。
中国は王朝国家でもある。歴代の王朝の歴史に連なって正当に皇位を継承した王朝が、先立つ王朝の正史をまとめるのが習わしである。24史がそれにあたるが、その最初の正史は前漢の
漢代に強く支持された思想は、春秋時代(BC770年~BC470年)の
BC4世紀からBC3世紀、生き馬の目を抜くような厳しい競争を勝ち抜くため自国の強化が切実な課題だった統治者たちにとって、儒家は何の役にも立たない存在に思えた。秦でも始皇帝即位以前から風当りは強く、始皇帝は儒家を迫害している。しかし、秦が滅びた後はそうした弾圧の過去がかえって儒家の強みとなった。漢代では教育は基本的に古典の学習だった。儒家による古典解釈は、人としてどう振る舞うべきかを示していた。上位者だけでなく、下位の者にも責務を負わせるべしと教えたのである。儒家の教えを良く身につけた役人は、報奨の期待と懲罰の恐怖だけで動くものではなかった。良心を持ち、正しいと思えることを貫くことが求められた。紳士であることは生まれだけでなく、如何に行動するかで決まる。漢代初期の皇帝たちは成り上がり者だったこともあって、儒教の教えに素直に耳を傾けた。秦代の法家思想が行動原理だった武帝だが、儒教を国家の準イデオロギーととらえ、それまでの皇帝の誰よりも熱心に儒教普及に努めた。しかし、一方で儒教は独創的な思考を排除した。儒教の価値観は国家と密接に結び付き、それを基にした官吏登用性と合せて、以降も中国王朝の長い伝統になっていく。
後漢に大きな打撃を与えたのが太平道である。これは信じる者に罪の許しと社会的な支援を与え、新しい世界を約束するというものだ。高度に組織化された太平道は、184年に中国東部各地で反乱を起こした。新しい天国が世界を征服すると信じていた彼らは、その象徴である黄色い頭巾を巻いていたので、黄巾の乱と呼ばれた。この反乱を漢の軍隊は制圧できず、地方の有力者たちが私設軍で鎮圧に乗り出した。この反乱から後漢が滅亡する220年まで、漢の皇帝は操り人形に過ぎなかった。
秦と漢は過去から受け継いだ文字文化に二つの変化を起こした。それは文字の統一と紙の発明である。巨大帝国を統治するには文書が不可欠で、それも全国どこでも同じ文字で記すことが肝要だった。秦代以前には複数の文字体系が混在していたが、秦はそれを一本化させた。それは漢代に入って、さらに現代の中国文字に近いものになる。植物の繊維を柔らかくして、軽くて柔軟性のある筆記素材へと変える技術は、後漢の時代に開発された。紙はそれ以前の木や竹を削ったものよりはるかに便利だった。こうして後漢末には、中国は完全に紙文化に移行していた。
400年余り続いた漢の時代は、基本的には農耕社会だったが、新しい技術や芸術も生み出した。主に副葬品として作られた陶器の壺からは、技術の進歩がうかがえる。後に中国の陶磁器を世界中に知らしめた
[中国の現実主義的な思考]
中国には、「旧約聖書」に語られるような天地創造の神話があっただろうか? それに相当するものが
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