第134話 【気候大変動と人間の歴史】

 人間の歴史は混沌かつ雑然とし、偶発事件によって大きな影響を受けてきた。降水量不足の年があれば飢饉や社会不安が引き起こされる。火山が噴火すれば近隣の町は壊滅する。一人の王や将軍が喧騒の中の戦場で間違った判断を下せば、その王国や帝国は崩壊する。だが歴史の特定の出来事を超えて世界を眺めれば、一定の傾向を見極めることができ、そうした出来事の背後にあった究極的な原因を解き明かすことができる。近代の科学は我々の周囲のある世界がどのように生まれ、その中で人類が如何にこのような地位を占めたかについて次々と信頼度の高い理論を構築してきた。想像やイデオロギーだけに頼る代わりに、我々は科学的な道具を使って人類や文明の歴史を、十分に満足できる水準にまで解明することができるのだ。



(天空の時計仕掛け)


 地球が完全に真っ直ぐに自転していたら、季節はなかっただろう。自転軸が傾いているということは、北半球が太陽の方に傾いている1年の半分は、南半球よりも多くの熱を受取り夏になることを意味する。状況は半年後には逆転し、北半球は冬となり、一方、南半球は夏になる。地球はまた太陽の周期を完全な円を描いて回っているわけでもない。1年間で回る軌道上のある地点では、地球はやや太陽に近く、その半年後にはやや遠くなる。事態をより複雑にするのは、我々の世界のこうした特性と地球の軌道もまた歳月とともに、太陽系にあるその他の惑星、特に巨大な木星の引力の影響を受けて変化することだ。宇宙空間における地球の環境は、次の三通りの方法で著しく変化する。


1.地球の軌道はおよそ10万年毎の「離心率」周期の間に正円に近いものからより楕円形へと変動する。

2.およそ4万1000年の周期で太陽に対する地軸の傾きが22.2度から24.5度の間で前後に動き、南北それぞれの極を太陽に近づけたり遠ざけたりしている。この傾きは季節ごとの変化の度合いに強い影響を与えるので、角度が僅かに変化するだけでも北極圏が夏季に少しだけ多くの、あるいは少ない熱を受けることになる。

3.地球の自転軸はおよそ2万6000年毎に、揺らぎながら回るコマのように回転しながら円を描く「歳差さいさ運動」と呼ばれるプロセスを経る。歳差運動(よろめき)は年間で北半球または南半球が太陽の方に傾く時期を変化させるので、季節が訪れる時期が変わる。これは春分点歳差さいさとも呼ばれる。現在、北極はたまたま北極星(ポラリス)の方向を向いているが、1万2000年ほど経てば、地球の自転軸はぐるりと回って、新しい北極星となること座のベガを指すようになる。そして北半球の夏は12月に訪れることになる。


 これらの地球とその軌道の伸びや傾きや揺らぎが、いずれも地球の気候に影響を及ぼし、それらは長い歳月の中で周期的に異なるのだ。それは最初に提唱したセルビアの科学者の名前にちなんで、ミランコヴィッチ・サイクルと呼ばれている。ミランコヴィッチ・サイクルは全体としては、年間の軌道上で地表を温める太陽光の総量を減らすものではないが、北半球と南半球で太陽からの熱の配分を変えるので、季節の変化の度合いが変わるのだ。


 現在、地球はその30億年を超える生涯の中では特異な一時期の時代にある。地球は存在してきた歳月のおよそ80%から90%は、今日より大幅に高温の状態にあった。両極に氷冠がある時代はかなり珍しいのだ。過去30億年の間に、地球が相当量の氷で覆われていたのは、6つの時代しかない。それでも過去5500万年間、地球は冷え続けている。5500万年前は、インドがユーラシア大陸と衝突し始め、巨大なヒマラヤ山脈が突き上げられた時期に相当する。現在は新生代(6600万年前~現在)の中の最も新しい時代である第四紀(259万年前~現在)の完新世(1万1700年前~現在)であり、人類の文明の歴史がすべて収まる。この時代は温暖な間氷期であり、それまでの数十万年と比べて気候は最も安定している。第四紀の始まりの260万年前には、北極の海ではようやく気候が十分に寒冷化し、氷が夏になっても解けず、万年雪が年々増えるようになった。この段階にまで地球が寒冷化したのは決定的な限界であり、そこから気候全体が不安定な状態に陥った。そうなると、ミランコヴィッチ・サイクルの影響で北極が少しでも低温になれば、氷床はヨーロッパ、アジア、北アメリカにまで広がり、しかも北方にあるこれらの大きな大陸は厚い氷床を支えることができた。過去5500万年にわたって持続してきた新生代のこの寒冷化の傾向は、地球にも人類の進化にも重大な影響をもたらした。低温で乾燥した状況に変わると、東アフリカの森は縮小して草原に変わり、ヒト族、つまり現生人類につながる系統種ホミニン(Hominin)の進化を促した。そして大地溝帯の湖の水位が目まぐるしく変動し、ホモ属(Homo)の中のホモ・サピエンス(現生人類)を非常に多芸で知恵のある種に進化させた。それは歳差さいさ運動のリズムによるものと考えられる。10万年前ごろから軌道上の並びが所定の位置に収まりだした。地軸の傾きにより北半球の夏は楕円軌道上で太陽から地球が最も離れている時期と重なり始め、それは北方の夏が一層低温になることを意味した。この最も直近の氷期が、人類が世界各地に広がるための決定的な機会を与えた。それは北方で発達した氷床が海から大量の水を吸い取り、それによって海面が低下して大陸棚の相当な面積が露出したためだ。海面が低いということは、住む土地の面積がより広いことを意味する。おおよそ今日の北アメリカに匹敵する面積が追加されていたのだ。

 2万年前から1万5000年前までの間に、ミランコヴィッチ・サイクルの重なり合うリズムが北半球を再び温暖にし始めた。広大な氷床は解けだして後退し始め、最終氷期の凍結した時代は終わりに近づいた。その後、晩氷期と呼ばれるヤンガードリアス期(1万2800年前~1万1500年前)はあったものの、1万4000年前には氷期が終結し、現在の温暖な間氷期へと移行した。それまでの数十万年と比べて気候が安定して農業が発展し、「農業革命」が起こった。


[地球の自転速度の変化]

 精度の高い原子時計を用いて地球の自転速度が測定されるようになったのは1960年代のこと。それから半世紀あまりが経った2022年6月29日、異常な値が研究者たちの注目を集めることとなった。24時間より1.59ミリ秒短い周期で地球が一周し、測定開始以来最短の1日を記録したのだ。さらに、7月26日も通常より1.50ミリ秒短い1日となり、6月29日の記録に迫った。一体なぜ、地球の自転が普段より速くなっているのだろうか? 決定的な理由はまだわかっていないが、科学者たちはいくつかの仮説を立てている。一部の専門家たちは氷冠の融解と再凍結が自転速度の不規則な変動を引き起していると考えているようだ。また、地震によって1日の長さが短くなることもある。たとえば、2004年に発生したスマトラ島沖地震では、地殻の変動により1日の長さが3マイクロ秒近く短縮された。「チャンドラー・ウォブル」とは地球自転軸の微小かつ不規則な振動のことであり、その原因については様々な仮説が立てられている。一方 NASAは、エルニーニョ現象のもたらす強風によって地球の自転速度が低下し、1日の長さが数分の1ミリ秒長くなることがあるとしている。エルニーニョ現象とは、数年ごとに発生する海面温度の上昇のことである。基本的に、質量が地球の中心に向かって移動すると自転速度は加速する。フィギュアスケーターがスピンする際に腕を縮めて加速するのを思い浮かべれば、わかりやすいだろう。逆に、質量を外側に押し出すような地殻変動は自転速度を減速させることになる。恐竜時代を含むような長期的なタイムスケールで見れば、地球の自転速度は以前より遅くなっているという。14億年前、地球の1日は19時間未満だった。平均すると地球の1日は短くなるどころか長くなり続けており、毎年およそ7万4000 分の1秒ずつ伸びているのだ。この現象の主な原因は月の存在だ。月の重力によって海面が引っ張られ、潮汐ちょうせき摩擦が生じることで地球の自転速度は徐々に遅くなっているのだ。



(気候変動の科学的証拠)


 古気候についてのこの50年間の研究成果により、氷期とは単に寒いだけでなく、気候が激変していた時代であることがわかってきた。現在、気候変動の証拠を見出す主な科学的手法しては、極地氷床コア(年層)の成分分析、海底コア(年層)の気温分析、湖沼堆積物の花粉分析、海底堆積物のプランクトン分析、などがある。


1.極地氷床コアの成分分析

 グリーンランドの氷床コア分析は、デンマーク人のウィリ・ダンスガードとスイス人のハンス・オシュガーを中心に1966年から開始された研究の成果である。グリーンランドや南極の氷を掘って過去の氷を採取し、氷に含まれている酸素が分析の標本になる。水の成分である酸素には分子数16の一般的な酸素だけでなく、ごく僅かながら質量数17や18といった重い酸素があり、これらは酸素同位体と呼ばれる。分子数の違う酸素は蒸発する際の水蒸気圧が違うため、気温が高いほど陸地に降った雪に含まれる酸素同位体の比率が高くなる関係がある。この関係から過去の気温を推定していくことができる。ダンスガードらはグリーンランド中央部の万年氷を3200メートル以上掘り、氷の柱である氷床コアを細かく刻みながら採取し、表面に近い新しい時代から底の古い時代にかけて、およそ11万年前から現在までの気温を分析した。その結果、最終氷期の気候は激変し不安定であったことをつきとめた。

 今までは氷河時代はずっと寒い時代が続いていたと考えられていたが、復元してみると氷河時代の気候は大きく変動していることがわかった。例えば、1万5000年前から1万1000年前の変動を見ると、この間にも比較的温暖な亜間氷期と寒冷な亜氷期が交互に激しく変動を繰り返しており、1万5000年前には50年の間にグリーンランドの年平均気温が7度から10度も一気に上がったことも明らかになった。しかし、気候変動には地域差と時間差が存在することも明らかになった。1万5000年前ごろ、おそらく4万人ほどのクロマニヨン人がヨーロッパ中部と西部に住んでいた。1万6000年前から1万500年前の間に、クロマニヨン人が好んで狩猟していた獲物に絶滅の危機が押し寄せた。体重が45キロ以上の動物がその中心だった。氷河時代の代表的な動物で、この時期に姿を消したものにマンモス、ケサイ、オオツノシカなどがいるが、その他にも多数の小型の哺乳類が死に絶えた。アメリカ大陸、ヨーロッパ、ユーラシア北部一帯になぜこのような絶滅の危機が拡がったかは謎のままだ。多くの大型動物は急激な温暖化に適応できなかったのかもしれない。大型動物相が死滅したころには、人類は新しい世界に見事に適応していた。


2.海底コアの気温分析

 一方、北大西洋の海底コアによる分析はドイツ人のヘルムート・ハインリッヒによるもので、1988年に最終氷期の7万年の間に6回ほど急速に寒くなった時代があったと発表した。この急速に寒冷化した時期にあたる海底堆積物の層から、北米大陸にあったローレンタイド氷床が削った0.18ミリメートルから3ミリメートルの岩屑が発見されており、大陸にあった氷床が崩れ、巨大な氷山となって大西洋に漂流したと推測される。およそ1万年周期で起きる急速な寒冷化は、ハインリッヒ・イベントと呼ばれている。ハインリッヒ・イベントが周期的に起きるメカニズムは次のように考えられている。

「北米大陸の北東部で冷たい氷床が積み重なり厚みが増していくと、氷床の表面は冷たいままなのに対して、氷床底辺の地殻との接点では地熱による熱の供給を受ける。積もった氷床の底と地殻の境界で地熱が閉じ込められ、境界部分の温度だけが上昇していく。やがて地殻付近の氷が融解し水の層ができると、氷床は突然滑り台を滑り降りるようにハドソン湾に落下する。北大西洋に氷床が滑り落ちると海水温度は低下し、北大西洋海流の流れを弱め、ひいては地球全体に寒冷化をもたらすというものだ」

 このハインリッヒ・イベントが発生するごとに、グリーンランド中央部の気温は3度から6度急低下している。

 北大西洋を含め、各地の深海底コアを用いた酸素同位体比率による気温分析によって、過去100万年において10万年周期で氷期と間氷期が交互に繰り返していることがわかった。10万年のうち間氷期は短くて1~3万年で残りの大半は寒冷な氷河期である。それはエミリアーニ曲線と呼ばれる。地球軌道パラメーターの周期的変動による日射量の変化が氷期・間氷期サイクルの根本的要因と考えられている。


3.湖底や海底の年縞の分析

 気候と文明の関わりを論ずるのであれば、それは極地の気候変動ではなく、まさに文明が胎動した温帯や亜熱帯の気候変動を数年単位で復元できる湖底や海底に堆積する年縞ねんこうである。年縞とは湖底などの堆積物によってできたしま模様のことである。その年縞の中には花粉、珪藻けいそう、プランクトン、ダスト、大型動植物遺体、粘土鉱物など地球環境史を多角的に復元できる試料がいくつも含まれている。これらの試料からは、環境変動だけでなく、人間活動を物語る炭片や汚染物質に到るまで、人間が自然をどのように改変・汚染してきたかを数年単位で詳細に復元できる。その内の一つである鳥取県東郷池の年縞の分析から明らかになった過去1万年間の日本海の海面変動からわかったことは、

・9000年前(BC7000年)に温暖化によって海面は急上昇している。それは穀物の栽培化に対応していると考えられる。

・4200年前(BC2200年)に寒冷化によって海面は急降下している。それは古代文明の崩壊に決定的な意味をもった。その寒冷化は3600年前(BC1600年)まで続いた。



(気候変動と人類の進化)


 我々の住む地球は絶え間なく活動し続ける場所であり、常にその顔だちを変えている。太古の昔まで遡れば、大陸が無数の異なった位置関係で移動し、しばしば衝突しては一つに融合し、それが再び引き裂かれて広大な海洋が広がったかと思うと、縮小して消滅する様子を見ることができる。また、巨大な火山帯が現れて爆発し、大地は地震で揺れ、地表に皺が寄って山脈がそびえたかと思えば、再び削り取られて土や塵となる。この猛烈な活動すべての原動力となるのがプレートテクトニクスであり、それが人類の進化の背後にある究極の原因なのだ 。

 こうした諸々の地殻変動によってもたらされたヒマラヤ山脈の造山、インドネシア海路の封鎖、そして東アフリカ地溝帯の高い尾根の隆起が、東アフリカを乾燥させた。地溝帯の出現は、この地域の生態系を様変わりさせる過程で、気候を変えただけでなく、地形も変えた。およそ3000万年前、東アフリカ北東部の地中で熱いマントルが上昇し、陸塊は1000メートルほどの高さにまで膨れ上がった。膨れた地殻の表面は引き延ばされて薄くなり、ついにはその中央部が避け始めた。こうしてできた東アフリカ地溝帯は概ね南北の線に沿った亀裂となり、現在のエチオピアからモザンビークまで数千キロにわたって続いている。400万年~300万年前に作り出された現在の地溝帯の地形と気候は、海抜800メートルにある幅広く深い谷で、両側に山の尾根が連なる光景だ。人類の進化が見られたこの時期に、東アフリカの景色は一面を熱帯林に覆い尽くされた平坦な土地から、高原と深い谷のある険しい山岳地帯に変貌を遂げ、植生は熱帯雨林からサバンナまで、さらに砂漠の低木帯までまたがるようになった。森の生息環境を減らして、サバンナに取って代わらせたことが、樹上生活をする霊長類から、現生人類につながる系統種ヒト族(ホミニン:Hominin)を分岐させた。大地溝帯は地殻変動によって極めて複雑な環境を作り出した。森と草原、尾根、急峻な断崖、丘陵、高原と平原、谷、そして大地溝帯の谷底にできた深い淡水湖などだ。ここはヒト族に多様な食糧供給源と生活資源と機会を与えることになった。

 過去数百万年の間、東アフリカの環境は概ね非常に乾燥していたが、ときおり湿潤な時期と逆に再びひどく乾燥する時期に揺れ動いた。このように変動した直近の3つの時代は、270万年前~250万年前、190万年前~170万年前、100万年前~90万年前に訪れた。化石記録を調べた研究者たちが興味深い発見をしている。脳容量の増大と関連してヒト族の新種が出現、または絶滅した時期が、気候が変動したこれらに時代に重なる傾向があったのだ。


420~200万年前:アウストラロピテクス、直立二足歩行、脳容量は現生人類の3分の1ほどで類人猿なみ。

240~180万年前:ホモ・ハビルス、打製石器の使用、現生人類の半分ほどに大脳化。

190~100万年前:ホモ・エルガステル、現代人によく似た体のバランスを持っており、完全な直立二足歩行の体型だが、脳の容量880ccや頭蓋骨と下顎骨は原始的。彼らはサバンナを生活拠点にしており、ハンドアックス(握り斧)を発明した。

180~5万年前:ホモ・エレクトス、現生人類の3分の2ほどに大脳化、顎と歯の縮小化。

80~30万年前:ホモ・ハイデルベルゲンシス、脳容量は現生人類と同程度、火の使用、槍などの道具も製作。ネアンデルタールとホモ・サピエンスの共通祖先。

60~3万年前:ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)は60万年前に現生人類と分岐、15万年前にヨーロッパで進化し、その後西アジア・中央アジアへ進出。

30万年前~現在:ホモ・サピエンス(現生人類)は「賢い人」の意である。すべての現代人の祖先にあたる「ミトコンドリア・イヴ」と呼ばれる1人の女性は、ミトコンドリアDNAの解析からサハラ以南のアフリカで16万年前に誕生したと推定されている。また、現代人につながるY染色体・アダムの誕生は20万年前~15万年前と考えられている。


 特に、人類の進化において極めて重要な出来事の一つは190万年前~170万年前の変動期に生じていた。地溝帯内にある7つの主要な湖は繰り返し水が溜まっては干し上がっていた。ヒト族の様々な種が最盛期を迎えたのはこの時期だった。ホモ・ハビルス、ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトスであり、脳容量が劇的に増えたホモ・エレクトスもこのころ登場した。また石器技術の発達と拡散も行われている。

 そして変動の時代は人類の進化を左右しただけでなく、ヒト族のいくつかの種に誕生の地を離れて、ユーラシア大陸へ移住させた原動力であったとも考えられている。そもそもヒト族をアフリカから押し出した条件もまた、大地溝帯における気候の揺らぎにあったのだ。湿潤な局面になるたびに、湖は大きく広がり、水と食糧が十分に手に入るようになることで人口は爆発的に増えるが、その一方で、地溝帯内で居住できる空間が限られることになった。このことがヒト族を東アフリカから押し出したのだろう。湿潤な気候条件はまた、ヒト族の移住者がナイル川の支流沿いに北へと移動することも可能にし、シナイ半島とレヴァント地方の緑豊かな回廊地帯を越えてユーラシアへと流れ込ませた。ホモ・エレクトスは180万年前ごろの気候の変動期にアフリカを出て、最終的には遥か中国やインドネシアにまで広がった。ヨーロッパでは、ホモ・ハイデルベルゲンシスがネアンデルタール人に進化したが、東アフリカに残ったホモ・ハイデルベルゲンシスの個体群が、やがて30万年前ごろに解剖学的にホモ・サピエンス、つまり現生人類となる種を出現させた。

 現生人類はネアンデルタール人よりも筋力ではなく頭脳で勝っており、やがて世界を支配するようになった。それが可能となった理由は、おそらく東アフリカの極端に変動する気候で長い進化の歴史を遂げてきた事実が、ネアンデルタールに勝る多芸さと知能の発達を余儀なくさせたからだろう。人類は400万年に及ぶ長い年月を大地溝帯の乾湿の変動に適応して暮らし、そのおかげで世界のその他の地域で遭遇した様々な気候によりよく対処できたのだ。そこには氷河期の北半球の気候も含まれていた。つまり人類は、過去数百万年の間に東アフリカで生じた地球規模のあらゆる気候変動の特殊な組み合わせによって形作られたのだ。宇宙空間における地球の軌道と地軸の傾きの周期は、地溝帯の谷底にある盆地の湖の深さを周期的に上下させ、これらの湖は僅かな気候の揺らぎにもたちまち呼応して、これらの地域の全ての生物に強力な進化上の圧力をかけるようになった。人類の故郷のこうした特殊な状況が、適応力のある多芸な種の進化を促したのだ。生物は皆そうだが、人類もまた環境の産物なのだ。

 恐竜は2億年近く地上で繁栄していたのに、なぜ知性を発達させなかったのか? という問いかけがある。答えは、知性を発達させる必要がなかったからだ。恐竜は知性を獲得しなくても生き延びることができた。人類が直面したような、生き延びるために知性を必要とする気候激変の連続という環境的な圧力は、中生代(2億5260万年前~6600万年前)に存在しなかったのだ。



(人類と古代文明の歴史を変えた主な気候変動)


1.トバ火山の超巨大噴火(7万3500年前)

 インドネシアのスマトラ島北部にトバ湖と呼ばれるカルデラ湖がある。このカルデラ湖は7万3500年前ごろの火山噴火により形成されたもので、噴火の規模は過去200万年で最大級のものであった。トバ火山のカルデラの大きさは南北100キロ、東西60キロに及ぶ。トバ山の噴煙は高度40キロ近くまで達し、周囲4000万平方キロメートルが火山灰に覆われた。これは日本の国土の106倍に相当する。大量の硫黄が大気中で酸化し、硫酸エアロゾルとして成層圏に漂い、太陽光が地表に届くのを遮ったため、噴火後の5年間は地球全体の気温を5度低下させたと推測されている。一方でグリーンランドの氷床コアに残るトバ火山の噴火量からみると、気温の低下は4年から6年で2.5度、その間の降水量の減少も2年程度で収まったとされる。しかし、いずれにしても人類は危機に瀕し、その人口は最終的に数百人~数千人になってしまったと推定されている。それは解剖学的にも知性的にも現代人である人びとが世界中に拡散し移住する前に起きていた。その人口減少の痕跡が我々の遺伝子にもボトルネック現象として残っている。こうした気候の悪化による環境破壊は、小規模でばらばらに暮らしている個体群の淘汰を促進した。この環境の試練を乗り越えたのが、現在の我々の種の起源となった7万年前ごろに誕生した個体群だった。その最大の要因は、会話、すなわち単語など意味を持つ単位を組み合わせて文を作る統語法を獲得したことであったと考えられている。つまり、「認知革命」である。


2.ミニ氷河時代(BC6200年~BC5800年)

 人類初の農耕は、先土器新石器時代A期(PPNA:BC9500年~BC8500年)に、西南アジア、つまりアナトリアの南東部、イランの西部、そしてレヴァント地方の丘陵地帯で始まっていた。しかしミニ氷河時代に入ると、わずか5年の間に気温は一気に下がり、寒冷な時代が60年ほど居座った。雨を頼りに穀物を栽培していた人びとは不意に干ばつに見舞われた。エウクセイノス湖(現在の黒海の前身)からユーフラテス川にかけて存在していた先史時代(土器新石器時代)の農耕共同体にとって大惨事の時代となった。湖も川も干し上がり、農耕社会は容赦ない干ばつの中で縮小するか消滅していった。多くの人びとは乾燥化と寒冷化の被害の少ない土地へ移動し、そこで家畜を飼って細々と生活した。


3.ウバイド文化(BC6000年~BC4000年)の始まり

 BC5800年ごろになると、再び農耕にはよい時代が戻ってきた。大西洋の循環のスイッチが入り、地中海の湿った偏西風が吹きだした。数世代もすると、農耕民は避難していた土地から肥沃な三日月地帯一帯に広がり、より温暖で水利にも恵まれた場所を求めてティグリス川とユーフラテス川の河岸へと移動していった。肥沃な三日月地帯とは、現在のヨルダン渓谷から北へ、シリアを抜けてトルコ東南部に到り、そこから東へ折れ、イラク北部をかすめてさらに東南に走り、イラン西部のザクロス山麓まで達するちょうど三日月を伏せたような形の土地をいう。彼らの一部はティグリス川とユーフラテス川の険しい河岸沿いに下流に向かい、ペルシャ湾近くの二つの大河の沖積デルタの氾濫原へと移住した。メソポタミア低地の沼沢地は極めて肥沃であり、貯水池や畑に水を引き入れるのも容易だった。その後の温暖化もあって生産性の高い農業は人口を急増させ、メソポタミア南部の土地には小さい農業集落が点在するようになった。彼らはウバイド文化の担い手となった。


4.メソポタミア文明の誕生:ウルク期(BC4000年~BC3100年)

 BC3800年ごろになると気候は再び寒冷化し、雨は当てにならなくなった。これは西南アジアと東地中海地域に1000年以上にわたって多大な影響を及ぼした傾向だった。日射率、つまり地表に入ってくる太陽光の割合は世界各地で減少した。西南アジアから、遠くは南カリフォルニアまで、放射性炭素年代測定法による樹木年輪や湖底コアにはっきりと記録された現象だ。こうした変化は太陽に対する地球の傾きが変わったために起きたもので、その角度によって地表に届く放射量は決まる。夏に降雨をもたらしていた西南からのモンスーンは弱まり、進路を南に移動した。雨季は遅く始まって早く終わるようになった。この頃には夏の洪水は収穫の後にやってくるようになり、実る直前の作物には十分な水が行き渡らなくなった。アナトリア高原で降雨量及び降雪量が激減したのを受けて、夏の河川の氾濫はかつての洪水に比べて、すっかり小規模なものになった。ティグリス川とユーフラテス川の間の豊かな土地は乾燥し始めた。それに対応して集落の農耕民たちは自分たちの生活資源と人力を集めてより大きな定住地に集結するようになり、そこから広域にまたがる灌漑システムを運用するようになった。低い土手を崩して農業用水を引く灌漑農耕は生産性が高かった。農業にも水運にも利用できるこうした運河を建設して維持するためには、中央集権とさらに複雑な社会組織を必要とし、またそれらを醸成することにもなった。こうしてメソポタミアに世界で最初の都市化した社会、すなわち文明が誕生したのだ。干ばつが厳しさを増したBC3500年ごろ、ウルクは大きな町を遥かに超えた規模になっていた。それぞれ独自の灌漑システムを持つ周囲の村落が10キロ先まで広がっていた。その担い手となったのはウバイド人ではなく、以前とは異なる文化をもった東方から到来したシュメール人だった。彼らの文化はウルク文化と呼ばれる。

 BC5800年に小さな集落にすぎなかったものは、2600年ほどの間に世界最古の都市へと発展していた。エリドゥ、ニップール、ウル、ウルクなどの都市の中心部は、灌漑用水路を張り巡らした畑と、迷路のように張り巡らされた細い運河から成る緑色のパッチワークに囲まれている。ここに都市が出現したのは、農耕民が水を引ける土地に足止めされるようになったからであり、また周囲の土地がほとんど乾燥しきっていたために自由に移動できなかったからだ。BC3200年までにウルクは世界最大の都市になっており、住民は2万5000人~5万人ほどで、家畜や作物を合わせれば、以前のウバイド期とは比較にならないほどの規模だった。そこでは大規模で複雑な物流を管理する手段として文字の使用も始まった。


5.エジプト文明の誕生:ナカダ文化(BC4000年~BC3000年)

 最終氷期の後、地球が最も温暖だったBC6000年~BC4000年には北アフリカで大量の雨が降り、洪水が起こり、砂漠が緑で覆われ、川が流れた。サハラの中央部と南部にも雨をもたらした。東アフリカとサハラ砂漠の降水量は年間150ミリ~400ミリほどに増加した。この時代のサハラ砂漠は「緑のサハラ」と呼ばれ、クロコダイル、ゾウ、ガゼル、ダチョウなどの野生生物が多数生息していた。しかしこの温暖な時代は長く続かなかった。BC3500年ごろから降水量が減少し、サハラを湿潤なサバンナから広大な砂漠に変えたのは、地球軌道の幾何学上のわずかな変化がもたらしたものだが、メソポタミアが乾燥し始めるにつれて、モンスーンもまた北アフリカには吹かなくなった。サハラにまだ一部残っていた地表水もまもなく消滅し、BC4000年紀の終わりには急速に乾燥した。この地域で暮らしていた人びとは枯れゆく土地を捨ててナイル川流域に逃れていった。エジプトは西アジアで栽培化された作物や家畜化された動物を受け継ぎ、BC5000年ごろにナイルのデルタ地帯に農村が始めて出現し、その後、BC4000年ごろからは南の上エジプトでも農業が始まっていた。BC3100年ごろ、ちょうどサハラが砂漠と化したときにエジプトは第1王朝の下で統一された。つまり、人口密度が高まる過程と、エジプト文明の始まりを期す社会の階層化と国家による管理は、砂漠化するサハラからの難民がナイル川の狭い流域に押しかけたことが原動力だった。古代エジプトはおそらく、文明の発達が如何に地理的な背景と気候がもたらす制約および機会の組合せによって影響されるかを、どこよりも如実に示す事例と言えるだろう。エジプトはナイル川の両岸が、人を寄せ付けない砂漠という自然の障壁によってよく守られているため、その歴史の大半において侵略に抵抗することができた。だが、この閉じ込められた環境はまたエジプトが領土を広げて、広大な帝国を築くことも妨げた。


6.BC2200年ごろのアッカド王国とエジプト古王国の混乱と滅亡、インダス文明の衰退

 BC3100年ごろから始まり、ほぼ2000年続いた青銅器時代の中ごろに当るBC2300年ごろ、メソポタミアやエジプトそしてインダスの人びとにとって、豊かに繁栄している文明は、いずれもそこに永久かつ安泰に存在するように見えていたに違いない。自給自足農耕から組織的な灌漑農耕に移行した結果、地中海東岸のレヴァント地方からアジアに到るまで、地球の広大な地域にわたって文化と経済が発達した。都市は大規模になり、交易網は活気を帯びた。書記階級は文字を書き、算術に勤しみ、支配者階級は公共政策について語っていた。アフリカ北東部のエジプト・ナイル川沿いの古王国ではファラオがギザにピラミッドを建てていた。ティグリス川とユーフタテス川の間のメソポタミアではアッカドのサルゴンによる人類最初の領域国家が、ペルシャ湾から東地中海北部までおよそ1300キロにわたって拡がっていた。

 南アジアのインダス川流域では広大な地域にインダス文明が栄え、文字が発明され、にぎわった大都市には職人や商人がいた。そして、やがて彼らはいなくなった。インダス川流域の人びとはモヘンジョ・ダロやハラッパーの大都市を放棄し、同時期にインド北部地方では人口が増加していた。高度に都市化した段階から地方分散化へと変貌したのだ。あとに残った農耕文化では1400年の間、文字の使われない時代が続いた。

 エジプト古王国の衰退ぶりは著しく、エジプト南部で地方を治めていたアンクティフィの墓の碑文によれば、上エジプト中で人びとが飢え死にしており、その深刻さに誰もが我が子を食べるようになったほどだった。アッカド王国ももはや存在しなかった。いったい何が起こったのだろうか?

 1980年代に考古学者のハーヴェー・ワイスはメソポタミア北部にあるテル・レイラン(アッカドの古代都市シェクナ)と呼ばれる遺跡を調査している時、急激な気候変動と古代王国の崩壊の間に関連があることに思い当たった。テル・レイランはハブール平原と呼ばれる場所にある。西アジアの新石器時代(BC9500年~BC5800年)にナトゥーフ人がこの地で最初に農耕を始めて以来、人類はここでオオムギとコムギを耕作してきた。BC2300年ごろにアッカドの王サルゴンが領土を拡大すると、ハブール平原北部のこれらの穀物畑は彼の王国の穀倉地帯になった。そこでの農耕民は雨水に頼っていた。ところがあるとき突然、どういうわけか何千もの人々が下流域へと向かい、灌漑農業が行われているメソポタミア南部に移り住むようになった。1993年にワイスはテル・レイラン遺跡の発掘結果を発表した。そこにはBC2200年に突然干ばつが訪れ、それが300年続いたという報告もあった。その後、フランスの地質学者マリー・アニエス・クルティがワイスの報告の正しさを証明する確かなデータを提供した。時代の移り変わりとともに居住地が造られたことを示す発掘地の地層の中に、厚みが60センチ近くある太い層があった。年代を調べると、シェクナが放棄されたBC2200年ごろのものだった。その他の層とは異なり、この砂っぽい層には有機物が含まれておらず、虫食い穴もなければ、水分を示すものも何一つ見当たらなかった。また、古海洋学者による、テル・レイランから2000キロほど風下にあるオマーン湾からの堆積物コアの同位体分析の結果、堆積物に含まれた火山灰層の化学的性質がテル・レイランのものと一致し、その年代も一致したのだ。彼らは同時代にこの一帯で突如として乾燥した風の強い状態に移行したことが記録されたさまざまな古気候試料を示した。ティグリス川とユーフラテス川の源流にあるヴァン湖では、湖面水位が30メートルから60メートル下がったことが堆積物に記録されていた。その南では、レヴァントの死海の水位が100メートル下がっていた。湖面水位は東アフリカでも下がり、ナイル川からの水でできた水深60メートルのファイユーム湖は完全に干し上がり、モロッコような北アフリカのはるか西の地域ですら低下していた。やはり、BC2200年ごろから300年間、ヨーロッパ東部や地中海東部で寒冷化と干ばつが発生していたのだ。この乾燥した時代はグリーンランドの氷床コアや、アンデス山脈の氷河で採取されたコアにも見られる。300年にわたる干ばつは東地中海の各地で混乱を引き起こした。それまで何世紀もの間ナイル川の氾濫は豊作をもたらした。BC2184年にナイル川の氾濫の勢いが衰えた。その後150年間、氾濫がごく小規模に留まったためエジプトは飢饉に見舞われた。BC2170年にはアッカド王国(BC2335年~BC2170年)が滅亡し、エジプト第7王朝と第8王朝(BC2181年~BC2125年)の56年間に少なくとも17名の王が立ったともいわれ古王国時代は終焉した。

 南アジアでも、アラビア海北東部から採取した堆積物コアの酸素同位体比率の変化から、BC2200年ごろにインダス川からの流出量が急激に減っていることがわかった。それがインダス文明を高度に都市化した段階から、モヘンジョ・ダロやハラッパーのような都市文化の中心地は放棄され、地方分散化へと変貌させたと考えられる。それはインダス川流域での農耕が制限され、都市の多くの人口が養えなくなったからだ。そしてBC1900年~BC1800年ごろにインダス文明は崩壊してしまった

 これらすべてのことが、急激な気候変動が古代文明崩壊の重大要因となったことをにおわせていた。このことはユカタン半島のマヤ文明やペルーのアンデス文明の崩壊についてもいえる。


[4.2kaイベント]

 BC2200年(4200年前)ごろ、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱かったため乾燥化を招き、冬作物であるコムギ、オオムギが大打撃を受けたといわれるが、それは事実である。それを気候学者は、4200年前(42K Years Ago

 )ということから「4.2kaイベント」と呼んでいる。比較的気候の安定した完新世(1万1700年前~現在)の間の揺らぎは、ヤンガードリアス期(1万2800年前~1万1500年前)のような氷期からの移行期と比べればずっと小さいように見える。しかし、水源に生じた劇的な変化は、住民に重大な影響をおよぼし、飢饉、人口移動、文明の崩壊を引き起こしたのだ。


7.BC1200年ごろのミュケナイ文明とヒッタイトの崩壊

 BC1500年以降数百年にわたり、大陸性気団が南下したため寒冷化し、地中海東部ではゆっくりと降水量が減少し乾燥した気候に変化していった。この時代、レヴァント南部などで干ばつと飢饉が原因で社会が崩壊した証拠は数多くある。当時、青銅器時代の大国間では半世紀にわたって平和な時代が続いていた。エジプトもヒッタイトもエーゲ海の国とは常に交流を続けていた。ワインや木材、オリーブオイルが豊富にあるクレタ島だけでなく、ギリシャ本土のミュケナイとも交易していた。ところが、BC1200年ごろ突如として微妙なバランスを保っていたこの世界が分裂した。ヒッタイトは崩壊し、ミュケナイ文明は内部分裂した、アッシリアとバビロニアは苦難の時代を迎えた。レヴァントの商業都市は不況に陥り、考古学者が「海の民」と呼ぶ謎の海洋民族が来襲した。エジプトだけは生き延びたが、ファラオは侵入者を撃退するのに多くの時間を費やすことになった。こうした青銅器文明の幅広い内部分裂は、広範囲に及んだ新たな干ばつの来襲と時を同じくしていた。1966年に古典学者のリース・カーペンターが「ギリシャ文明の断絶」という本の中で、ミュケナイ文明の衰退は、サハラ砂漠からの乾燥した風が北向きに変わったことと直接関係していたと示唆した。それを受けて複数の気候学者がヨーロッパと地中海上空の基本的な大気循環パターンを分析した結果、ギリシャは通常湿度が不足する地域と過剰な地域との境目に位置していることがわかった。つまり地域ごとに雨量の差が激しいということだ。そして20世紀に入ってから数度しか発生していない1954年から19955年にかけてのペロポネソス半島で見られた著しい乾燥状態は、BC1200年ごろにミュケナイ文明が見舞われたものとよく似ていたことが判明した。それによると、アテネのアッティカ地方は例年よりも雨が多かったが、アナトリアとギリシャ南部は例年より乾燥していた。BC1200年当時、ヒッタイトは首都をアナトリア高原から、食糧の多いシリア北部へ移動させた。同じ頃、地中海の対岸のリビアの遊牧民がエジプトの定住地に水と牧草地を求めて移動し、流血の争いの末に撃退された。BC1200年の花粉ダイアグラムを見ると、ギリシャ北西部の山岳地帯では降水量は平年並みだった、さらにハンガリーでは洪水に見舞われていた。古代の干ばつに関する詳細なデータは揃わないが、その影響が途方もないものだったことは間違いない。ミュケナイ文明の繁栄は民に課した余剰穀物と海上交易に全面的に依存していた。乾燥した年が何年も続けば話は別だ。宮殿は焼かれて見捨てられ、民衆は小さい村へ離散し、自給自足の生活を送るようになった。文明はそれから4世紀以上復興しなかった。暗黒時代は人びとの記憶の中に何世代もの間消えずに残った。BC5世紀、アテナイの将軍ツキディデスは昔のギリシャについてこう記している。

「商業もなく、陸路も海路もなく、生きるのに必要な作物を作る以外の土地を耕作することもなく、資本も欠き、大きな町を建設することもなければ、何らかの偉大な功績を残すこともない」

 ミュケナイとクレタ島を襲った干ばつは、アナトリアとヒッタイト王国も荒廃させた。都市や町に人びとが移動した時点から人間はある限界を超えていた。大きな定住地から動けなくなり、人間の手で管理された農地に依存せざるを得なくなった瞬間から、人はこれまで以上に突然の気候変動に対して脆弱な存在になったのだった。


8.BC800年ごろとBC300年ごろの太陽活動の低下による寒冷化を契機とした民族の大移動

 BC800年ごろ以降気温の低下が著しくなる。急激な寒さはBC850年に広範な地域を同時に襲い、それと同時に太陽の黒点活動が急に弱まり、宇宙線の流入が増えて大気中の炭素14の生成量が大幅に増加した。こうした変化はいずれも太陽の活動が減少したことを示している。太陽は数世紀の間文字どおり輝きを失っていたのだ。太陽活動の衰退は高緯度および中緯度が冷涼かつ湿潤な気候に変わった背景で進行していった。ヨーロッパの東端から中央アジアを越えてモンゴルにまで拡がるステップの南には砂漠があり、北には北方林が拡がっていた。その境界線は氷河時代から常に変動し続け、何千年もの間、降雨パターンが変わるたびに南北に拡大したり、縮小したりしてきた。BC9世紀にはステップは急激に気温が下がり乾燥し出した。そのため草原地帯の農牧民は二極分化していったようだ。すなわち南方では水の確保できるオアシスなどで定住農耕民となり、北方では移動しながら牧畜を営む遊牧民が登場した。遊牧民が生まれた背景には二つの条件が考えられる。一つは、三つの孔が空いた棒状のはみ留め具が普及し、騎乗が一般的になったことである。二つ目は、後のテントの原型になった木の骨組みを持つ簡単な構造の家が出現したことである。ユーラシア草原地帯では、BC9世紀に先スキタイ系文化が始まっている。

 最初に寒冷・乾燥化の被害を受けたのはモンゴルのステップ草原だった。BC8世紀にはステップ草原の干ばつを受けて遊牧民が中国へなだれ込んだ。折しも中国では春秋時代(BC770年~BC470年)が始まっていた。撃退された彼らは人口移動のドミノ効果を引き起こし、その結果、ヨーロッパのドナウ盆地とケルト世界の東端にウマを使う遊牧民がやって来た。

 BC300年ごろにも気候変動の影響を受けて東西の遊牧民が移動を余儀なくされている。スキタイはBC5世紀~BC4世紀の黒海北岸で絶頂期を迎えたが、そのスキタイに終局をもたらしたのは、南ウラルの遊牧集団サルマタイであった。サルマタイ以前、BC7世紀~BC5世紀ごろ南ウラルにはサウロマタイと呼ばれる人びとがいた。サルマタイはBC4世紀初にカザフスタン西北部からウラル南部に移動してサウロマタイと融合し、BC4世紀以降は全体としてサルマタイと呼ばれるようになった。BC4世紀末にはドン川下流域、BC3世紀にはドニエプル川下流域に達し、BC2世紀には黒海北岸地域を制圧してスキタイを駆逐した。サルマタイはスキタイと同様にイラン系の言語を話す騎馬遊牧民である。

 匈奴の名で呼ばれる騎馬遊牧民が初めて中国史料に現れるのはBC318年のことである。匈奴の美術は西方のサルマタイ美術と共通するするところが多い。中国戦国時代(BC470年~BC221年)のBC298年、中原の魏・韓・趙が東の山東半島の斉と連合して秦を函谷関かんこくかんの西に押し込めることに成功する。この時、連合軍は秦の北方を牽制すべく匈奴にも参戦を要請している。


 ***


 約1万5000年前、長い氷河期が終末期に入った頃、人類は狩猟・採集社会から農耕社会への第一歩を踏み出した。5,700年前(BC3700年)ごろ、気候最適期の高温期の終了は都市文明誕生の重要な契機となった。降って紀元後17世紀、近代科学の曙の時代は小氷期といわれる寒冷な時代だった。人類史の重要な歴史的転換期は地球規模の気候変動期と不思議に一致する。


 古代から中世にかけて穀物の生産量こそが国力であった。一粒の種をまき、翌年に何粒の種が取れるかという尺度を収穫倍率という。メソポタミアのデルタ地帯は非常に肥沃な土地で、ヘロドトスは「歴史」の中で収穫倍率が300倍であったと記しているが、それは高すぎる。発掘調査によれば、シュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)のウルでは、オオムギの収穫倍率は76倍もあった。現在この地域での収穫倍率は7~8倍程度にすぎないことから、当時のデルタ地帯が如何に肥沃な土地であったかがうかがえる。但し、灌漑用水が十分であることが条件であることから、塩分に弱いコムギはほとんど栽培されず、オオムギやエンマムギが中心だった。


 地球の気候が何によって動かされたにせよ、それが穏やかな変化となったためしはなく、むしろ一つの動作状態から別の状態への飛躍となった。我々は気候変動がいつ起こってもいいように、対応する手段を考えておかねばならない。スイスの地球物理学者で極氷の断面図、つまりグリーンランドの万年氷の堆積物(氷床コア)と北大西洋海底の堆積物(海底コア)に最初に目を留めた研究者の一人であるハンス・オシュガーは、新たに判明してきた気候の自然な振る舞いのパターンが、将来において何を意味しうるのか気づいていた。オシュガーは地球の気候システムが、徐々に変化をもたらす要因にゆっくりと反応するばかりではないことに気づいた。時には気候は何らかの限界を超えると、いきなり方向転換が始まるのだ。変化の速度は、変化をもたらす要因の速度とは何ら関係がないかもしれないことをオシュガーは認識した。そして急な方向転換をした新しい均衡状態は1000年ほど続き、それまでの状態とは全く異なったものになるのだ。過去10万年の気候において、氷期とは単に寒いだけでなく、気候が激変していた時代であることがわかってきた。数百年間で10℃以上も気温が上下する変動が何度も起きており、最大幅は25℃に達する。主な温度の上下振動の回数は22回、急速寒冷化は6回あった。これはダンスガード・オシュガー振動と呼ばれる。海面水位は氷期と間氷期のサイクルの中でおよそ130メートルの幅で上下変動を繰り返している。これは地球全体の水の総量は変わらない中で、寒冷な時代には陸地に氷雪の形で水が保存され、温暖になるとその氷雪が融けて海に流れ込むためだ。こうした変化の本質は人類にとって都合の良いものではないことをオシュガーは1980年代には理解していた。さらに、漸進的な変化をもたらす要素の影響が、やがて気候システムの限界を超え、氷期への出入りを繰り返させたように、大気に温室効果ガスが徐々に蓄積すれば、気候は別の閾値しきいち(境界の値)を超えて別の状態に入るかもしれないと、デンマーク人のウィリ・ダンスガードは警告した。僅かな摂動せつどう、つまり変化や攪乱かくらんが引き金となって、海洋循環は一つの循環モードから別のモードへと切り替わるかもしれない。つまり二酸化炭素を人為的に増加させることがそうした摂動となり得るのだ。次の急変動がどのくらい間近に迫っているのか、あるいは遠い未来のことなのかなど、誰も明言できないが、その可能性がある以上、我々は温室効果ガスの増加を止める努力は続けなければならない。

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