第132話 中国、秦の始皇帝と漢の高祖劉邦
<年表>
秦(BC221年~BC206年)
BC221年、秦が戦国7国の最後の
前漢(BC206年~紀元後8年)
***
秦と漢は巨大な帝国だった。領土の境界は同じではないし、ところどころあいまいな部分もあるが、それでも東西・南北ともに1600キロは下らない。人口も多かった。紀元後2世紀当時、漢の行政府が記録していた人口は6000万人近くになる。いくつかの国境地帯や人跡未踏の地域は除いて、これだけの人数が中央化された官僚機構によってくまなく統治されていた。使用する文字言語は1種類のみで、上位文化も共通だった。紀元後18世紀以前のヨーロッパにあったどんな大国よりも領民を徹底管理していた。技術面でもローマ世界をしのぐ分野があった。この秦・漢時代には、皇帝を中心とする中央官制や、地方に官僚を派遣する郡県制を施行し、その制度はそれから2000年間、中国大陸に現れては消えた政権のお手本となる。
BC221年に中国を統一した秦はわずか15年で滅びてしまったが、それでもBC4世紀半ばから秦を機能的な戦争国家へと育てあげた全体主義的・独裁的な官僚機構は、国が滅びても長く生き延びて、次の漢に受け継がれた。そのおかげで、漢は400年以上も続き、秦・漢以前の世界をすっかり過去のものにした。
BC221年、秦王「政」は中国の変革を成し遂げたと思った。彼が率いていた軍隊は9年間にわたって電撃戦を展開して他の強国を次々と倒していった。西周がBC770年に滅びて以来、戦争やその脅威が当たり前だった時代が500年も続いた後、ようやく中国統一を実現させた秦の指導者は、過去の統治者を超える至高の称号として「皇帝」を名乗ることにした。これには「神」の意も込められている。彼が始皇帝で、その後継者が二世皇帝、というように
(秦)BC221年~BC206年
秦の始まりは中国の西の辺境にあった貧しく遅れた国だった。BC771年、当時最も勢力のあった西周が
BC221年、始皇帝は尺度の整備と度量衡・
秦はそれまで敵対的だった領民にも独裁制を押し付けた。始皇帝となった「政」はその絶大な権力を足がかりに、統一された法や規則、文字、度量衡を全土に徹底させたが、それだけでなく、新たな領民を巨大事業に動員もした。なかでも最大規模だったのは北部国境地帯での戦争と万里の長城の建設で、帝国全土からおびただしい数の労働力が徴用された。強制移住の憂き目にあった家族も数え切れない。広大な宮殿や霊廟の建設には70万人が従事したとされる。だが厳しすぎる秦の統治は自滅を招く。始皇帝の死の翌年のBC209年には、早くも新たに征服したすべての領土で反乱が発生した。地元採用の下級官吏が秦の統治システムを学び、知識を蓄えて牙をむいた。秦の独裁制を支えていたのは極めて効率の良い官僚組織だった。そこではどんな役職にも明確な職務内容が定められていて、それを厳密に実行しなければならない。位の高低に関係なく、在職権が保障される者は皆無で、失態があれば解雇や懲罰が待っている。外敵をはねつけるのに軍隊が重要な役割を果たしたのと同様、国内の権力維持には文官の筆が不可欠だった。彼らは国のあらゆる人びとについて詳細な情報を記録しているので、国の要求から逃げることは不可能だった。各地の降水状況と作物への影響も上に報告され、耕作用の牡牛の腹回りも毎年記録されて、飼い主は報奨されたり、罰されたりした。秦はいわば情報独裁制であり、この手法は漢にも引き継がれた。網の目のような法律や規則で、官僚や民間人のするべきこと、してはならないことは事細かく定められていた。秦のこうした法文化は、すべてを知らねばという国の決意の表れである。漢の時代になっても、法律は多少の修正だけでそのまま運用された。
〈秦の始皇帝〉
秦の始皇帝の実父は商人出身で秦の
始皇帝は
秦王政の時代は昭襄王のときに確立された領土的遺産を基礎に、統一への道を突き進んだ時代である。BC231年に趙から秦にかけての一帯で大きな地震が起こった。趙の被害が甚大だったようである。趙の体制が整わないと見るや、秦は軍をくり出してまず東隣の韓をBC230年に滅ぼしてしまう。そして後顧の憂いがなくなった秦は、軍を北に向けて趙を攻撃する。BC229年に趙の都の邯鄲は陥落した。その後、BC226年に燕の都が陥落、BC225年に魏を滅ぼす、BC224年に楚の王を虜にしたが、楚の王族の昌平君が自立して楚王となった。しかしこれもBC222年に滅ぼされた。同年のBC222年、趙と燕の王の亡命先である
始皇帝の治世は、13歳から25年間の秦王の時代(在位:BC246年~BC221年)と、最後の12年間の皇帝の時代(在位:BC221年~BC210年)に分けられる。始皇帝の政治の原型は曾祖父に当る昭襄王の政治に認められる。占領地の蜀では治水灌漑を行わせたり、
秦の故地は
〈始皇帝の死〉
帝国となった秦の15年間の最初の6年は「平和の時期」であり、始皇帝は4回の巡行を行った。巡行は皇帝自らが征服地に威信を示す行動であり、そこには顕彰碑ともいうべき刻石が7つしっかりと建てられた。次の6年が北の匈奴と南の
始皇帝は南北の対外戦争が小康状態になった頃、これまでにない最大規模の巡行に出発した。BC210年のことである。この第5回の巡行の期間は、最後は自らの死で中断するが、一年近いものだった。戦争のために4年間も巡行をしなかったとはいえ、都をそれだけ空けるとはかなりの決断である。都の
[始皇帝の陵墓]
秦王「政」が即位した時から37年間も工事が進んでいた陵墓は、始皇帝亡き後は二世皇帝が最後の工事を担当した。そのことは帝位の継承を正当化するすることになる。遺体は喪を終えてから、まだ墳丘のない陵墓の地下に運ばれた。陵墓は二重の城壁に囲まれている。内城は東西580メートル、南北1355メートル、外城は東西940メートル、南北2165メートルで一周は6.2キロもある。この墓域全体を陵園という。地下30メートルの墓室へはスロープを下って入っていった。棺を収め、墓室の上に土が被せられ、入口も封印された。現在の
“三層の地下水の深さまで掘り下げ、銅を
前漢の武帝の時代の
[
始皇帝陵から東に1.5キロの場所に兵馬俑がある。現在の
始皇帝陵や付随する兵馬俑などの本格的な造営は、BC221年に始皇帝が権力を手中に収めた直後に始まったと考えられるが、始皇帝自身は完成を見ることなく世を去った。
(秦の滅亡)
秦の最後の3年は二世皇帝
<陳勝・呉広の乱>
BC209年の陳勝・呉広の乱は中国史上最初の農民反乱といわれる。始皇帝が埋葬された翌年、秦に反旗を翻したのは旧六国の東方の勢力であり、各地で王を称する勢力が立ち上がった。中でも楚の日雇い農民出身の陳勝は楚の国の復興を宣言して
李斯は陳勝・呉広の乱の後に続く国内の混乱の中で二世皇帝
秦の滅亡後は西楚覇王となった項羽が18王を分封し、戦国時代の諸国に近い統治方式となった。このとき秦の本拠地関中は投降した3人の秦の将軍の王国となり、劉邦は漢中の地で漢王となった。この年が漢元年、つまりBC206年にあたる。まもなく劉邦は関中を占拠し、同年10月、子嬰は即位してわずか3ヶ月で妻子とともに劉邦に降ったが、同年12月に後から関中に入った項羽に殺された。項羽は咸陽の宮殿を焼き、始皇帝陵を盗掘した。この時から楚漢戦争の時代となる。
注目すべきは、劉邦は漢王になるまで楚の制度である封建制を用いていたが、関中を掌握した後は、秦の制度である郡県制に切り替えていることだ。その象徴となるのが漢2年(BC205年)の秦の
(楚漢戦争) BC206年~BC202年
秦という国家が崩れていくなか、劉邦は項羽と
BC205年1月、秦が滅んだ今、いよいよ項羽主導の新国家体制が立ちあがった。まず楚の
翌BC202年、休戦とあって項羽は東、劉邦は西に帰ろうとしたものの、項羽の豪快だが寛容性に乏しい性格を知る者は劉邦側に多い。彼らの勧めもあって劉邦は配下の将軍たちとともに項羽を追った。項羽の最後の地となった
天下に帝として君臨したのが始皇帝であれば、天下に覇としてリーダーシップをとったのが項羽であった。項羽が目指した新しい国家プランは一人の皇帝を立てながら、18の諸侯王国が横並びになり、その下に郡県制を敷くものだった。項羽の死とともにそのプランは失われたが、劉邦の国家の漢は、そもそも項羽の楚の体制から出てきたものであり、最終的には秦の帝国の継承に方向修正していったものの、郡国制、すなわち郡県制と封建制の併用という形で項羽の国家体制もしっかりと継承していった。こうしてBC195年に高祖劉邦が崩御するとき、劉氏以外を諸侯王にしないとする「白馬の誓い」を立てて、ようやく秦の時代に議論された郡国制となった。但し、郡国制は東方の王国に限られている。これらの諸侯王の王国の領内には郡県が設置されている。一方、漢王朝の本拠地である西方では秦から継承した郡県制をとしている。
(前漢)BC206年~紀元後8年
漢を創始した劉邦は地方の小役人だったが、始皇帝の死後に秦への反乱に加わった。能力と運に恵まれた彼は、7年間の混乱と内戦のなかから頭角を現し、BC206年には漢王となり、BC202年には項羽を倒し、新王朝を開いて初代皇帝に即位した。血筋も後ろ盾もない劉邦が最高位に上り詰めたのは、ひとえに危機に直面したときの対応が巧みで素早かったからだ。劉邦(在位:BC202年~BC195年)はフィクサーであり、場合によっては詐欺師でさえあったが、政治の風向きを明敏に読む現実主義者であり、トラブルから脱して仲間と手を組む方法を心得ていた。軍人としての才はなかったものの、配下の将軍たちをうまく使った。BC206年、ついに秦の都を征服したときには、すでに機能している仕組みを大いに活用した。秦の軍用地図と蓄積された情報を入手し、地方の官僚組織もそのまま流用した。帝国の前段階のような秦の国家機関は、漢にとって強固な足場となり、おかげで劉邦は秦滅亡後の内戦も勝ち抜いて漢の皇帝に即位することができた。劉邦は内戦を共に戦った仲間に属国の王として取り立てることを約束した。それは彼らが反旗を翻したときに制圧する口実にもなった。劉氏一族を属国の王に据えなかったことで今度は彼らが反乱を起こすことになる。しかし、かえってそのおかげで漢は体質強化の時間を稼ぐことができた。反乱はことごとく失敗に終わり、劉邦に続く皇帝たちの下で直轄地は拡大し、属国の王やその未亡人たちはほとんど無力になった。ただどうしても解決できなかったのが、北方国境に迫る脅威だった。
〈対匈奴政策〉
北方遊牧民匈奴の
〈
劉邦が項羽を倒して天下を統一したその翌年のBC201年、匈奴の
「両国の君主たる者が、お互いに苦しめ合うというのは如何なものでしょうか。今、漢の土地を得たとしても、単于がいつまでもそこに住まうことができるわけではありません。また漢の君主にも神の助けがあるかもしれません。その辺りを推察してください」
冒頓の側にもやや不安の種があった。冒頓は韓王信の配下の
〈和親条約〉
劉邦は匈奴の強さを進言した劉敬を呼び出し、今後の策を問うた。劉敬は政略結婚と贈り物によって匈奴を懐柔することを勧めた。劉邦は一族の中から子女を選んで公主、すなわち皇女とし、冒頓単于に
冒頓の後を継いだ老上単于(在位:BC174年~BC160年)の時代にも匈奴は度々中国の辺境地帯に侵入し、人と家畜を略奪した。特に
BC161年、老上の後を受けて軍臣単于(在位:BC160年~BC126年)が立つと、文帝はまた新単于と和親を確認したが、その後も和親と侵攻が繰り返された。文帝を継いだ景帝(在位:BC157年~BC141年)もまた匈奴と和親を結んだ。そして
次の武帝(在位:BC141年~BC87年)も即位したときは再び和親を結び、関市を開き、贈り物も十分だったので、匈奴の単于以下みな漢に親しみ、長城付近に往来した。平和は続くかに思えたが、武帝は和親と侵攻の繰り返しという状況を根本的に変えようと考えた。
(劉氏の王朝「漢」)
BC202年、項羽が敗れ、劉邦が皇帝に就いた。漢王朝の始まりである。劉邦はBC256年に生まれ、漢12年のBC195年に62歳で亡くなった。BC209年に故郷の
劉邦がBC206年に兵を起したときの仲間から漢帝国を支える高級官僚が採用された。漢帝国が成立したときには、皇帝といえども諸王に推戴される形を取らざるを得なかった。諸侯王の中から名実ともに皇帝権力が抜きんでてくる過程が、前漢時代の政治史の趨勢といえるだろう。劉氏でなく王となった者を粛清した結果、劉邦の子弟同族の国が、燕、代、斉、趙、梁、楚、呉、淮南の8つを占め、異性の国は長沙1国を残すだけとなったとはいえ、その領地の広さは変わっていない。中央直轄の郡は関中と東方諸侯王との中間地域、それに江陵から蜀の西南辺境と、
劉邦はとりあえず
漢の体制は皇帝が全権を持って動かす建て前になっている。だが漢の2人の創建者、劉邦とその妻
劉邦は世界を変える壮大な青写真など持っておらず、その生涯は目先の問題に素早く対処することの繰り返しだったと言ってもいい。それでも劉邦とその後継者たちは、不安定だった国を落ち着かせることに成功した。秦のやり方を拒否しつつも踏襲した漢は、秦よりはるかに長く続いた。皇帝一族の姻戚だった
[律令]
唐より400年~800年前の秦や漢の律は長い間幻だった。まったくの逸文でしか見ることができなかったからである。しかし現在では、新たな出土資料が発見され、今から2000年前の古代中国の帝国には確かに律によって存立していたことがわかってきた。
秦漢時代の律令は、後の唐の時代の律令とは異なっていた。刑法の律と行政法の令というように分かれていなかった。したがって、秦律、漢律といったほうが正しい。刑法も行政法も
正史で初めて刑法志を設けた「漢書」では、始皇帝の厳罰主義と高祖劉邦の簡約主義とを対比させた。始皇帝がもっぱら刑罰に頼って政治を行った点を強調した。しかしながらその結果は悪人が横行し、囚人が溢れ、彼らを収容する牢獄が市場のように立ち並んだ。一方、高祖劉邦は秦の領地に入り、法三章、すなわち「人を殺す者は死、人を傷つける、及び盗めば罪にあたる」という最低限の法を残し、
〈呉楚七国の乱〉 BC154年
高祖劉邦から恵帝(在位:BC195年~BC188年)、呂太后(在位:BC188年~BC180年)、文帝(在位:BC180年~BC157年)と続き、文帝の長子でもなく末子でもない中子である
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