第132話 中国、秦の始皇帝と漢の高祖劉邦

<年表>

秦(BC221年~BC206年)

 BC221年、秦が戦国7国の最後のせいを滅ぼし天下を統一、秦王「政」は皇帝となる。始皇帝である。BC214年、秦は南方の百越ひゃくえつを攻め、南海など3郡を設置する。BC210年、始皇帝は5回目の巡行の途中に死去。BC209年の陳勝・呉広の乱は中国史上最初の農民反乱といわれる。


前漢(BC206年~紀元後8年)

 項羽こうう劉邦りゅうほうの楚漢戦争はBC206年からBC202年まで続いた。BC202年、項羽は「垓下がいかの戦い」で敗死。劉邦が皇帝に就き、劉氏漢王朝が始まる。BC200年、洛陽から長安に遷都。BC154年、劉氏一族による「呉楚7国の乱」が起こるが、この内乱は3ヶ月で鎮圧された。


 ***


 秦と漢は巨大な帝国だった。領土の境界は同じではないし、ところどころあいまいな部分もあるが、それでも東西・南北ともに1600キロは下らない。人口も多かった。紀元後2世紀当時、漢の行政府が記録していた人口は6000万人近くになる。いくつかの国境地帯や人跡未踏の地域は除いて、これだけの人数が中央化された官僚機構によってくまなく統治されていた。使用する文字言語は1種類のみで、上位文化も共通だった。紀元後18世紀以前のヨーロッパにあったどんな大国よりも領民を徹底管理していた。技術面でもローマ世界をしのぐ分野があった。この秦・漢時代には、皇帝を中心とする中央官制や、地方に官僚を派遣する郡県制を施行し、その制度はそれから2000年間、中国大陸に現れては消えた政権のお手本となる。

 BC221年に中国を統一した秦はわずか15年で滅びてしまったが、それでもBC4世紀半ばから秦を機能的な戦争国家へと育てあげた全体主義的・独裁的な官僚機構は、国が滅びても長く生き延びて、次の漢に受け継がれた。そのおかげで、漢は400年以上も続き、秦・漢以前の世界をすっかり過去のものにした。

 BC221年、秦王「政」は中国の変革を成し遂げたと思った。彼が率いていた軍隊は9年間にわたって電撃戦を展開して他の強国を次々と倒していった。西周がBC770年に滅びて以来、戦争やその脅威が当たり前だった時代が500年も続いた後、ようやく中国統一を実現させた秦の指導者は、過去の統治者を超える至高の称号として「皇帝」を名乗ることにした。これには「神」の意も込められている。彼が始皇帝で、その後継者が二世皇帝、というように万世ばんせいまで続くはずだった。始皇帝はこの新しい秩序が永遠だと信じ、晩年には不老不死の霊薬を求めてやまなかったが、結局はどちらも幻想にすぎなかった。11年後に始皇帝は世を去り、さらに4年後に秦は滅亡する。



(秦)BC221年~BC206年


 秦の始まりは中国の西の辺境にあった貧しく遅れた国だった。BC771年、当時最も勢力のあった西周が渭水いすい流域から敗走したのを受けて、すかさずそこに入り込み、国として認められた。渭水流域は天然の要塞のおかげで、東からの攻撃に関しては守りが万全だった。ただ、中国の中核地域である北部平原地帯、いわゆる中原に直結する道がなかったため、秦は400年以上ものあいだ覇権争いでは二番手に甘んじていた。秦が足踏みしているあいだに、中原では春秋時代(BC770年~BC470年)から戦国時代(BC470年~BC221年)にかけて激しい覇権争いが続いていた。風向きが変わったのはBC4世紀半ばに入ってからで、BC356年~BC340年、秦の孝公(在位:BC361年~BC338年)が徹底的な改革を断行した。国の強化が目的だったが、それは社会を衰弱させるものでもあった。一連の改革を提案し実行したのが、東方から秦に流れてきて孝公の指南役となった商鞅しょうおうである。領民を5戸から10戸単位の組に編成し、誰かが罪を犯したら組全体に連帯責任を負わせた。爵位の世襲制を廃止し、農業や戦争で功績のあった者に与えた。封建的な関係も一掃され、国の官僚による直接統治に取って代わった。働かない者、商業に携わる者は妻子が奴隷にされた。改革に関するあらゆる意見は、それがたとえ賛辞であっても厳禁だった。これらの改革によってすべての領民に国の直接管理が行き届くようになり、国力は飛躍的に増大した。商鞅の死後は多少緩和されたとはいえ、厳しい法律の基本的な部分は維持され、しかも効果をあげた。秦はますます強くなって東側の隣国を押しやり、さらに南下へのあからさまな動きも見せ始める。BC316年には秦は南隣りの四川盆地を手に入れ、さらにBC278年には長江流域の大国、楚の都を占領した。外交・軍事ともに強国となった秦は、大陸北部の中原を戦略的に支配していく。ただ秦の姿勢は無情ではあったが、無謀ではなかった。あくまで独裁的な体制が維持できるペースでしか領土を拡張しなかった。この慎重な手法が変化するのはBC238年、「政」が成人して全権を掌握してからだった。それから17年後、「政」は中国全土を征服する。その野望とうぬぼれは止まるところを知らなかった。自らの業績を大げさに褒めたたえた碑が領土各地に建立されている。BC219年の碑文の一部には、「天の下の全ての土地で、精神と意志は一つになった。武器と甲冑は標準化されて、すべては同じ文字で記される・・・8月の皇帝の精神は4つの季節を通じて保たれ、邪悪な反乱や暴動は平定され、利益と繁栄をもたらした。皇帝が季節に従って統治を行ったおかげですべてが豊かに実った」と刻まれている。


 BC221年、始皇帝は尺度の整備と度量衡・車軌しゃき・文字を統一した。戦国7国の間では、度量衡の単位や、車馬のわだちの幅や、文字の形が異なっていて不便だから統一したと言われるが、そう簡単な問題ではない。それらは民衆の生活に直接つながる改革ではなかったからだ。これらは7国の制度を平均して新たな規格を作ったのではなく、秦の旧来の制度を統一規格にしたことを意味している。そして統一規格はBC221年に一気に実施されたのではなく、秦の占領地において定着させていったのである。度量衡・車軌・文字を実際に用いたのは、民衆ではなく、規格通りの製品を作らなければならなかった工人であり、規格通りに管理しなければならなかった官吏であった。車騎の統一は道路網の整備と密接に関わっていた。秦では都の咸陽かんようから放射状に馳道ちどうという国有道路が整備された。それは中央集権的な支配を行っていくためには必要であった。秦の都咸陽と旧6国の郡を結ぶ道路の整備が、秦の規格のもとに進められたのは統一の翌年のBC220年のことである。馳道は、東は燕・斉、南は呉・楚に伸びて沿海にまで達し、幅は50歩(約67.5メートル)、3丈(約7メートル)ごとに青松の街路樹を植え、外側を鉄のつちで突き固めてあると伝えられる。秦の道路網では、6頭立ての皇帝の車、2頭立ての戦車、駅伝用の車馬が走った。


 秦はそれまで敵対的だった領民にも独裁制を押し付けた。始皇帝となった「政」はその絶大な権力を足がかりに、統一された法や規則、文字、度量衡を全土に徹底させたが、それだけでなく、新たな領民を巨大事業に動員もした。なかでも最大規模だったのは北部国境地帯での戦争と万里の長城の建設で、帝国全土からおびただしい数の労働力が徴用された。強制移住の憂き目にあった家族も数え切れない。広大な宮殿や霊廟の建設には70万人が従事したとされる。だが厳しすぎる秦の統治は自滅を招く。始皇帝の死の翌年のBC209年には、早くも新たに征服したすべての領土で反乱が発生した。地元採用の下級官吏が秦の統治システムを学び、知識を蓄えて牙をむいた。秦の独裁制を支えていたのは極めて効率の良い官僚組織だった。そこではどんな役職にも明確な職務内容が定められていて、それを厳密に実行しなければならない。位の高低に関係なく、在職権が保障される者は皆無で、失態があれば解雇や懲罰が待っている。外敵をはねつけるのに軍隊が重要な役割を果たしたのと同様、国内の権力維持には文官の筆が不可欠だった。彼らは国のあらゆる人びとについて詳細な情報を記録しているので、国の要求から逃げることは不可能だった。各地の降水状況と作物への影響も上に報告され、耕作用の牡牛の腹回りも毎年記録されて、飼い主は報奨されたり、罰されたりした。秦はいわば情報独裁制であり、この手法は漢にも引き継がれた。網の目のような法律や規則で、官僚や民間人のするべきこと、してはならないことは事細かく定められていた。秦のこうした法文化は、すべてを知らねばという国の決意の表れである。漢の時代になっても、法律は多少の修正だけでそのまま運用された。


〈秦の始皇帝〉

 秦の始皇帝の実父は商人出身で秦の丞相じょうしょう(宰相)、中央アジアのソグド系の呂不韋りょふいという話は秦にも伝えられている。ソグド人は中央アジアのパミール高原に発し、アラル海に注ぎ込むアムダリア川の支流ザラフシャン川流域に住むイラン・アーリア系の人びとである。呂不韋は韓の都、陽翟ようてきの大商人だった。中原の韓の都の陽翟と趙の都の邯鄲かんたんの間、南北250キロを行き来していた。

 始皇帝は荘襄そうじょう王の子、せいとして生まれた。「史記」呂不韋列伝によれば、その荘襄王、名は子楚しそは母を夏姫かきといい、愛情に恵まれなかったという。子楚は、趙に人質として出された。後に秦の宰相となる呂不韋は子楚に近づいた。子楚の父は安国君あんこくくんといい、昭襄しょうじょう王(在位:BC308年~BC251年)の子であった。安国君は太子であったが、その華陽かよう夫人には子がなく、一族から誰かを世継ぎにしなければならなかった。そこで呂不韋は華陽かよう夫人に取り入り、財力を活用して子楚を太子の世継ぎの地位に押し上げた。昭襄王が死去すると安国君が53歳で即位する。孝文王(在位:BC251年の3日間)である。子楚が太子となった。ところが、この孝文王は即位して3日で死去してしまう。こうして子楚が王として即位した。これが荘襄王(在位:BC251年~BC247年)である。子楚は呂不韋と同居していた趙の豪家の娘を見初めて愛人とした。「史記」の呂不韋列伝には、その時すでに呂不韋の子が宿っていたと記す。子楚には秘密にされた。せいが生まれると、子楚は彼女を夫人とした。昭襄王の秦の軍隊が趙の都の邯鄲を囲んだとき、政はわずか3歳、かろうじて父母とともに秦の軍隊の下に逃げのびることができた。子楚はBC251年に即位し荘襄王となった。呂不韋は丞相となり、文信侯に封ぜられ、雒陽らくよう10万戸の領地を得た。荘襄王は4年目のBC247年に死去する。そして太子の政が13歳で即位し秦王となった。後の始皇帝である。まだ少年だったので母親が太后として支え、呂不韋が引き続き丞相(宰相)となった。この話の真意は不明だが、「史記」呂不韋列伝に記されている。その後、呂不韋はBC238年、宦官かんがん嫪苺ろうあいの乱に連座して自死したとされるがこれも真意はわからない。

 秦王政の時代は昭襄王のときに確立された領土的遺産を基礎に、統一への道を突き進んだ時代である。BC231年に趙から秦にかけての一帯で大きな地震が起こった。趙の被害が甚大だったようである。趙の体制が整わないと見るや、秦は軍をくり出してまず東隣の韓をBC230年に滅ぼしてしまう。そして後顧の憂いがなくなった秦は、軍を北に向けて趙を攻撃する。BC229年に趙の都の邯鄲は陥落した。その後、BC226年に燕の都が陥落、BC225年に魏を滅ぼす、BC224年に楚の王を虜にしたが、楚の王族の昌平君が自立して楚王となった。しかしこれもBC222年に滅ぼされた。同年のBC222年、趙と燕の王の亡命先であるだいの地と遼東りょうとうも征服された。BC221年、秦は最後まで残った斉と衛を滅ぼし天下は統一された。天下の統一とは領域国家のいくつかを一つの中央でまとめることを意味した。東方の6王を抑え天下を統一した年に、秦王は諸王の上に立つ皇帝という称号を初めて使った。

 始皇帝の治世は、13歳から25年間の秦王の時代(在位:BC246年~BC221年)と、最後の12年間の皇帝の時代(在位:BC221年~BC210年)に分けられる。始皇帝の政治の原型は曾祖父に当る昭襄王の政治に認められる。占領地の蜀では治水灌漑を行わせたり、阡陌せんぱく制という商鞅しょうおう変法のときに始まった耕地を東西(せん)南北(ぱく)のあぜ道で区画する制度も引き継いでいる。北方の匈奴に対抗して長城を築いたのも昭襄王だ。


 秦の故地は関中かんちゅうといい、四方を関所に囲まれた渭水いすい盆地である。都は考公によって渭水の北のほとりにBC350年に造営された咸陽かんよう。元は西方の甘粛かんしゅく方面から進出して陝西の渭水一帯の西半部を掌握し、ついで東半部を制圧した。これで西周の王都一帯は春秋時代に秦のものとなった。戦国時代の秦、昭襄王(在位:BC306年~BC251年)の時代に領域をさらに東方に拡大し、BC288年には2ヶ月間だけ一時的に東の斉王の東帝に対して、西帝と称した。昭襄王は19歳にして秦王となり治世56年に及んだ。半世紀を超える治世は実に長く、この昭襄王の時代に領域を東方に拡大し続けた。その後、史上初めて統一国家を作り上げたのが秦の始皇帝である。始皇帝となる秦王「政」はBC259年に趙の都の邯鄲かんたんで生まれ、13歳で秦王(在位:BC246年~BC210年)となった。そして50年の齢と37年間の治世であった。BC230年に韓を滅ぼした後、魏・楚・燕・趙も滅ぼし、最後は斉を滅ぼし、BC221年に秦は統一を成し遂げた。秦が天下を統一すると、東方の占領地をどのように統治するかという議論が持ち上がった。丞相(宰相)たちは占領地を封建制として秦王の一族を封じて諸侯にすることを建議した。その理由は、燕・斉・楚が遠方にあるためとした。しかし廷尉ていい李斯りしは、戦国時代に秦で施行していた郡県制を提案した。始皇帝は李斯の案を採用し、全国を36郡とし、中央から長官を派遣する郡県制とした。李斯りしが宰相になったのはBC213年であった。李斯は秦の現体制が批判され郡県制が崩れることを恐れ、その年に焚書令を出し、体制批判に利用される恐れのある書物を焼却した。翌年には始皇帝を誹謗し、民を惑わす行動に出た不老不死の仙薬を求めた方仕や儒者たち諸生460余人を坑殺した。


〈始皇帝の死〉

 帝国となった秦の15年間の最初の6年は「平和の時期」であり、始皇帝は4回の巡行を行った。巡行は皇帝自らが征服地に威信を示す行動であり、そこには顕彰碑ともいうべき刻石が7つしっかりと建てられた。次の6年が北の匈奴と南の百越ひゃくえつとの「蛮夷との戦争の時期」で、巡行はしばらく休止して臨戦態勢をとり、秦は北のオルドスと南海3郡の地を帝国の領域に組み込んだ。この時に、北方ではオルドスの地を囲むように長城の線を整備し、南方では砦の拠点を築いた。それらが一段落してから5回目の巡行を行ったが、そこで始皇帝は死を迎える。

 始皇帝は南北の対外戦争が小康状態になった頃、これまでにない最大規模の巡行に出発した。BC210年のことである。この第5回の巡行の期間は、最後は自らの死で中断するが、一年近いものだった。戦争のために4年間も巡行をしなかったとはいえ、都をそれだけ空けるとはかなりの決断である。都の咸陽かんようにいては天下の様子はわからない。左丞相の李斯りしが同行し、右丞相の馮去疾が都を守った。末子の胡亥こがいは本人の希望で特に同行を許された。始皇帝の夫人たちは名前も残されていないが、子供は20数人もいた。過去4回の巡行の経路と異なり、まずは百越との戦争で揺れた長江中流域に向かった。そして長江を船で下り江南に出た。そこで会稽山かいけいざんに登り、夏王朝を築いたとされる伝説の王を祀った。その後、北に向かい、山東半島から黄河に出て、現在の山東省にあたる平原津へいげんしんという渡しで黄河を渡ったときに発病した。病名はわからないが重体だった。不意の事態に、長子の扶蘇ふそ宛てに「咸陽で葬儀を行い埋葬するように」との遺言を作成した。誰も太子にしていなかった不安を感じたからだ。胡亥こがいでは幼すぎる。自分をいさめた扶蘇こそ信頼できると考えた。先帝の葬儀を主催することは、皇帝位を継承することを意味した。この重要な遺言は扶蘇の許には送られなかった。始皇帝は7月に現在の河北省邯鄲かんたんの東に位置する、離宮のある沙丘さきゅうまで運ばれ、そこで死去した。李斯は緊急な事態を察知した。始皇帝が元のちょう王の離宮で急死したことが天下に知られれば、何が起こるかわからない。始皇帝の公子たちの間では後継者争い、また天下では反乱が起こり得る。そこで始皇帝の死は極秘にされ、喪の公表は避けられた。事実を知っていたのは胡亥と李斯、それに宦官かんがん趙高ちょうこうら5~6人だった。趙高は始皇帝の封書を破棄した。李斯も加担した。新たに胡亥を太子にする遺詔と、扶蘇と将軍蒙恬もうてんを死罪とする書が偽造された。9月、胡亥は喪を発し、二世皇帝となった。


[始皇帝の陵墓]

 秦王「政」が即位した時から37年間も工事が進んでいた陵墓は、始皇帝亡き後は二世皇帝が最後の工事を担当した。そのことは帝位の継承を正当化するすることになる。遺体は喪を終えてから、まだ墳丘のない陵墓の地下に運ばれた。陵墓は二重の城壁に囲まれている。内城は東西580メートル、南北1355メートル、外城は東西940メートル、南北2165メートルで一周は6.2キロもある。この墓域全体を陵園という。地下30メートルの墓室へはスロープを下って入っていった。棺を収め、墓室の上に土が被せられ、入口も封印された。現在の西安せいあんから東北へ25キロ、この始皇帝陵がそびえ立っている。現存の墳丘は東西345メートル、南北350メートル、高さ76メートルあり、頂上からは北に渭水いすい、南は驪山りざんの山並みを望むことができる。「史記」によれば、始皇帝の地下の様子は次のように伝えられている。

“三層の地下水の深さまで掘り下げ、銅を槨室かくしつの木材に流し込み、宮中や官庁にあった珍奇な物を運んでここに満たした。機械仕掛けのと矢を作らせて、盗掘して近づく者があれば発射するようにした。水銀で全国の多くの川や江(長江)、河(黄河)、大海を再現し、機械仕掛けで流れるようにし、天井には天文の図、下には地理を描いた。人魚のあぶらで燭台を作り、いつまでも消えないようにした”

 前漢の武帝の時代の司馬遷しばせんは始皇帝の死から100年後の人物である。機密とされた地下宮殿の様子がどこまで正確に伝えられたかわからない。地下宮殿はまだ発掘されていない。2003年9月にリモートセンシングという最先端の技術で探査された。その結果、地下宮殿の空間は東西170メートル、南北145メートルの長方形であることがわかった。墓室は地下宮殿の中央30メートルの深さにあり、東西80メートル、南北50メートル、高さ15メートルの空間である。ここに始皇帝が埋葬されているはずだ。この墓室は石灰岩で守られ、周囲は16~22メートルの厚い壁で覆われている。墓室内は浸水していないし、崩れてもいないようだ。


兵馬俑へいばよう

 始皇帝陵から東に1.5キロの場所に兵馬俑がある。現在の陝西せんせい省西安の近くで井戸を掘っていた住民が、2000年以上前の等身大の素焼きの兵士の人形を発見したのは1974年、当局が調査に乗り出すと、粘土で作られた何千という兵士の他、ウマ、馬車、金属製の武器などが見つかった。兵士たちは、戦闘の準備が整っているかのように整然と隊列を組んでおり、表面にはかつて鮮やかに彩色されていたことを示す顔料がわずかに残っていた。最初に発見された兵馬俑坑からは6000体の兵士と馬車が、続いて見つかった坑からは1000以上の騎兵やウマ、木製の馬車などが出土している。人物の顔は、一体一体モデルがあったかのように実に個性的である。写実の方法から言っても数量から言っても、これほど古代中国の人間をリアルに描いたものはない。兵馬俑坑は秦の始皇帝陵の東にある。死後の世界に強いこだわりを抱いていた始皇帝が、来世のために軍隊を作らせたのだろう。


 始皇帝陵や付随する兵馬俑などの本格的な造営は、BC221年に始皇帝が権力を手中に収めた直後に始まったと考えられるが、始皇帝自身は完成を見ることなく世を去った。



(秦の滅亡)


 秦の最後の3年は二世皇帝胡亥こがい(在位:BC210年~BC207年)から最後の秦王子嬰しえい(在位:BC207年~BC206年)までの「帝国崩壊の時期」である。 


<陳勝・呉広の乱>

 BC209年の陳勝・呉広の乱は中国史上最初の農民反乱といわれる。始皇帝が埋葬された翌年、秦に反旗を翻したのは旧六国の東方の勢力であり、各地で王を称する勢力が立ち上がった。中でも楚の日雇い農民出身の陳勝は楚の国の復興を宣言して張楚ちょうそという国を樹立し、陳王と称した。陳勝はBC209年7月に兵を挙げ、12月には戦死し、半年で失敗した。その後を受け継いだのは、楚の懐王かいおう項梁こうりょうによる楚国の体制である。これには項羽こうう劉邦りゅうほうも加わり、この体制と諸国が合縦して秦帝国を滅ぼすことになる。最終的に陳勝に代わったのは、楚の将軍の家に生まれた項羽と、東方の農民の出身で両親の名前すら残っていない劉邦であったが、両者とも西楚の出身である。陳勝の行動は、農民出身の王では劉邦のさきがけであり、楚の復興という点では楚の将軍の家に生まれた項羽のさきがけでもあった。


 李斯は陳勝・呉広の乱の後に続く国内の混乱の中で二世皇帝胡亥こがいの2年(BC208年)に処刑され、代わって趙高ちょうこうが宰相になった。それ以降、東方は戦国時代の諸国のような状況に戻り、その中で楚の国が盟主になった。BC207年、趙高は宮廷内で乱を起し、二世皇帝胡亥を自死に追いやった。BC206年、3代目に胡亥の兄の子の子嬰しえいが立ったものの、もはや皇帝ではなく、戦国時代の旧6国が復権し、単なる秦王にまで後退していた。その趙高も最後の秦王子嬰の宦官に刺殺された。


 秦の滅亡後は西楚覇王となった項羽が18王を分封し、戦国時代の諸国に近い統治方式となった。このとき秦の本拠地関中は投降した3人の秦の将軍の王国となり、劉邦は漢中の地で漢王となった。この年が漢元年、つまりBC206年にあたる。まもなく劉邦は関中を占拠し、同年10月、子嬰は即位してわずか3ヶ月で妻子とともに劉邦に降ったが、同年12月に後から関中に入った項羽に殺された。項羽は咸陽の宮殿を焼き、始皇帝陵を盗掘した。この時から楚漢戦争の時代となる。

 注目すべきは、劉邦は漢王になるまで楚の制度である封建制を用いていたが、関中を掌握した後は、秦の制度である郡県制に切り替えていることだ。その象徴となるのが漢2年(BC205年)の秦の社稷しゃしょくを除いて、漢の社稷を立てた儀礼である。社稷とは国家あるいは国体のことである。これによって西方の秦を継承した漢の郡県制と、東方の楚を中心とした封建制という図式になる。これは大きく見れば東西の対立であり、漢王の領域と一部の長江流域は南北の対立でもある。



(楚漢戦争) BC206年~BC202年


 秦という国家が崩れていくなか、劉邦は項羽と鴻門こうもんで出会うことになる。まだ漢王と西楚覇王としての王同士の出会いではなかった。項羽は函谷関を突破して敵地関中に入るが、すでにいち早く関中入りしていた劉邦の軍10万は㶚水はすいのほとりに駐屯していた。項羽はその対陣として40万の兵を鴻門に置いた。鴻門はあの始皇帝陵の兵馬俑坑のちょうど真北の丘陵上に位置し、北に渭水を望む。ここに咸陽を防衛する秦の軍を前にして、項羽と劉邦とが対峙する図式が出来上がった。このときは項羽が優勢だったため、劉邦は臣とへりくだり、項羽を将軍と立てて敬意を示した。これが鴻門こうもんの会と呼ばれ、両者の緊張した駆け引きの場面である。項羽は数日後、咸陽に入った。すでに劉邦に降っていた秦王子嬰しえいを殺し、宮殿を焼き、その火は3ヶ月間消えることはなかったと「史記」は伝える。いち早く関中入りした劉邦が秦の財物や婦女に手を付けず、宮室に封印して項羽の関中入りを待ったのに対し、項羽は秦の宝物と婦女を略奪して東方の地に戻った。好対照な行動であった。

 BC205年1月、秦が滅んだ今、いよいよ項羽主導の新国家体制が立ちあがった。まず楚の懐王かいおう義帝ぎていに格上げし、都を東方の彭城ほうじょうに置いた。項羽自身は皇帝にならず、西楚の地の9つの郡を領地とし、西楚覇王と名乗った。さらに項羽は函谷関に入った諸将18人を各地に王として封建した。劉邦は巴蜀と漢中(漢水)の地の王となった。当時の漢中は西方の辺境の地だった。劉邦の上将軍韓信かんしんが、東に向かって天下を争うべきだと主張し、劉邦の決意を促した。劉邦が漢中にいたのはわずか4ヶ月、すぐに秦嶺山脈を越え、関中を抑えた。さらに函谷関を出て、西魏、河南、韓、殷王を降した。占領地には国ではなく、郡を置いていった。205年10月、項羽は義帝を殺したのを機に、楚漢の抗争が始まった。劉邦の軍は、斉と趙の軍とともに項羽の西楚の都、彭城に迫った。本格的に楚漢の戦いが始まり、項羽の目指した連合体制は崩壊した。このときは項羽軍が優勢だった。翌BC204年、劉邦は講和を求めたが項羽は聞き入れなかった。しかし、BC203年、3年間の楚漢の抗争にようやく休戦の約束が結ばれた。西を漢、東を楚とする協定が成立した。

 翌BC202年、休戦とあって項羽は東、劉邦は西に帰ろうとしたものの、項羽の豪快だが寛容性に乏しい性格を知る者は劉邦側に多い。彼らの勧めもあって劉邦は配下の将軍たちとともに項羽を追った。項羽の最後の地となった垓下がいか淮水わいすいの北の平原にあった。四面楚歌の故事で知られるように、漢軍はみな楚歌そかを歌った。四面楚歌の最後が強調されるが、両者の4年にわたる対決の期間、項羽の方が優勢であり続けた。しかし天が彼を見放した。項羽は壮士800人と夜半のうちに包囲を潜り抜けて馬に乗って逃げた。翌未明、劉邦側の騎兵5000騎が追いかけた。追い詰められた項羽は降伏することなく最後まで戦って果てた。

 天下に帝として君臨したのが始皇帝であれば、天下に覇としてリーダーシップをとったのが項羽であった。項羽が目指した新しい国家プランは一人の皇帝を立てながら、18の諸侯王国が横並びになり、その下に郡県制を敷くものだった。項羽の死とともにそのプランは失われたが、劉邦の国家の漢は、そもそも項羽の楚の体制から出てきたものであり、最終的には秦の帝国の継承に方向修正していったものの、郡国制、すなわち郡県制と封建制の併用という形で項羽の国家体制もしっかりと継承していった。こうしてBC195年に高祖劉邦が崩御するとき、劉氏以外を諸侯王にしないとする「白馬の誓い」を立てて、ようやく秦の時代に議論された郡国制となった。但し、郡国制は東方の王国に限られている。これらの諸侯王の王国の領内には郡県が設置されている。一方、漢王朝の本拠地である西方では秦から継承した郡県制をとしている。



(前漢)BC206年~紀元後8年


 漢を創始した劉邦は地方の小役人だったが、始皇帝の死後に秦への反乱に加わった。能力と運に恵まれた彼は、7年間の混乱と内戦のなかから頭角を現し、BC206年には漢王となり、BC202年には項羽を倒し、新王朝を開いて初代皇帝に即位した。血筋も後ろ盾もない劉邦が最高位に上り詰めたのは、ひとえに危機に直面したときの対応が巧みで素早かったからだ。劉邦(在位:BC202年~BC195年)はフィクサーであり、場合によっては詐欺師でさえあったが、政治の風向きを明敏に読む現実主義者であり、トラブルから脱して仲間と手を組む方法を心得ていた。軍人としての才はなかったものの、配下の将軍たちをうまく使った。BC206年、ついに秦の都を征服したときには、すでに機能している仕組みを大いに活用した。秦の軍用地図と蓄積された情報を入手し、地方の官僚組織もそのまま流用した。帝国の前段階のような秦の国家機関は、漢にとって強固な足場となり、おかげで劉邦は秦滅亡後の内戦も勝ち抜いて漢の皇帝に即位することができた。劉邦は内戦を共に戦った仲間に属国の王として取り立てることを約束した。それは彼らが反旗を翻したときに制圧する口実にもなった。劉氏一族を属国の王に据えなかったことで今度は彼らが反乱を起こすことになる。しかし、かえってそのおかげで漢は体質強化の時間を稼ぐことができた。反乱はことごとく失敗に終わり、劉邦に続く皇帝たちの下で直轄地は拡大し、属国の王やその未亡人たちはほとんど無力になった。ただどうしても解決できなかったのが、北方国境に迫る脅威だった。


〈対匈奴政策〉

 北方遊牧民匈奴の冒頓単于ぼくとつぜんうが動き出した。冒頓単于は秦と戦った頭曼単于とうまんぜんうの息子であり、父頭曼を殺して自立した単于である。最強の遊牧騎馬帝国を作り、まだ成立したばかりの漢帝国の北辺を脅かした。たしかにモンゴル高原の匈奴の動きは中国の動きと連動していた。中国に内乱が起これば南下し、中国の王朝が北方に出れば草原に引いた。匈奴は秦との戦争の後、一時北方に退いていたが、楚漢戦争のときには中国が混乱していたので、黄河が北方に湾曲しているその南のオルドス地域を回復した。冒頓は、東は東胡とうこを滅ぼし、西は月氏げっしを攻撃し、南は楼煩ろうはん白羊はくようの土地を併合し、北は秦の将軍蒙恬もうてんに奪われた土地を奪還し、漢との国境はオルドスの地まで南下した。このときの冒頓の弓兵部隊は30万騎を超えていた。


白登山はくとさんの戦い〉

 劉邦が項羽を倒して天下を統一したその翌年のBC201年、匈奴の冒頓ぼくとつ単于ぜんう即位から9年目にあたる年の9月、北方防衛の要である馬邑ばゆう(現在の山西省北部)に駐屯していた韓王信を匈奴の大軍が包囲した。韓王信は度々匈奴に使者を派遣して何とか和解の道を探ろうとした。ところがこの行為が劉邦に疑心を生じさせ、韓王信が匈奴に通じているのではないかと思わせてしまった。劉邦が使者を派遣して韓王信を責めると、彼は殺されるのではないかと恐れ、馬邑ごと匈奴に降伏し、逆に馬邑のすぐ南にある漢の都市太原たいげんを攻撃するに到った。翌月の冬10月、劉邦は韓王信を討つべく、自ら軍を率いて出陣した。劉邦は晋陽しんように到り、彼らの様子を探るため、匈奴に使者を幾度か派遣した。最後に派遣された劉敬という使者は、匈奴の軍隊は強力だと劉邦に進言したが聞き入れられなかった。だがこの時すでに総勢32万とも伝えられる漢の軍は晋陽の北100キロの山を越えていた。偽りの敗走を続ける匈奴軍を追って、さらに北へ120キロ余りの現在の内モンゴルに近い平城(現在の大同市)に達した。漢軍の多くは歩兵だったので、劉邦が平城に着いたとき歩兵は未だ全員が到着していなかった。その上、大寒波に見舞われて雪も降ったため兵士の2~3割は凍傷に罹ってしまった。その機を見計らったように冒頓は精鋭40万騎を動員し、劉邦を平城郊外の白登山に囲んだ。遅れて包囲の外側に辿り着いた漢の歩兵部隊は、包囲された劉邦の本隊に食糧を送ることも援軍を送り込むこともできなかった。そのような状態が7日間続いた。進退窮まった劉邦は側近の陳平の秘策を採用し、使者に沢山の贈り物を持たせて冒頓の妃である閼氏えんしのもとに派遣した。冒頓は遠征に閼氏を連れて来ていたのだ。閼氏は冒頓に向かって次のように述べて和睦を勧めた。

「両国の君主たる者が、お互いに苦しめ合うというのは如何なものでしょうか。今、漢の土地を得たとしても、単于がいつまでもそこに住まうことができるわけではありません。また漢の君主にも神の助けがあるかもしれません。その辺りを推察してください」

 冒頓の側にもやや不安の種があった。冒頓は韓王信の配下の趙利ちょうりらと落ち合う約束をしていたのに、その期日になっても趙利らの部隊が到着しなかった。彼らが再び寝返って、漢の側についたのではないかと疑い始めていた。そこで、おそらく何らかの和親条約が結ばれた可能性があるが、この劉邦の屈辱的な顛末は極秘にされ、詳しい内容は伝わっていない。だが結果として冒頓は囲みの一角を解いた。陳平は兵士全員に1つのに2本の矢をつがえさせ、解かれた一角から劉邦とともに全速力で脱出し、ついに外側にいた歩兵部隊と合流することができた。そして匈奴の軍も撤収して去って行った。こうして南北両勢力の一大決戦となるはずだった戦いは、さしたる戦闘もないまま匈奴軍優勢のうちに両軍とも撤収と相成った。冒頓自身は引き揚げたが、その配下の一部はなお白登山付近に留まり、翌年にかけて侵攻が続いていた。


〈和親条約〉

 劉邦は匈奴の強さを進言した劉敬を呼び出し、今後の策を問うた。劉敬は政略結婚と贈り物によって匈奴を懐柔することを勧めた。劉邦は一族の中から子女を選んで公主、すなわち皇女とし、冒頓単于に閼氏えんしの一人として嫁がせることを決め、劉敬を使者として遣わして和親条約を結ばせた。それはBC198年あるいはBC197年のことだった。条約の中身は匈奴優位の軍事バランスを反映して漢にとって相当厳しいものになった。漢は匈奴に毎年一定数量の真綿、絹織物、酒、米、その他の食物を献上し、お互いの君主が兄弟となるというものだった。この時には具体的にどれくらいの数量だったのか記載がないが、これから100年余り後のBC89年に匈奴の単于が漢に送ってきた書簡には、「年ごとに、麹で作った酒一万石、コウリャン5000石、絹織物一万匹(一匹は長さ9メートル、幅50センチ)を供給せよ」とある。この条約が結ばれた結果、匈奴は侵攻を少し控えたが、全く止めたわけではない。


 冒頓の後を継いだ老上単于(在位:BC174年~BC160年)の時代にも匈奴は度々中国の辺境地帯に侵入し、人と家畜を略奪した。特に雲中うんちゅう郡と遼東郡が最も被害が大きく、それぞれ1万人余りに上った。困った漢は匈奴に書簡を送って和親を求め、BC162年に再び和親条約を結んだ。漢の文帝(在位:BC180年~BC157年)が匈奴に送った書簡によれば、「長城以北の弓を引く国(匈奴)は単于の命令を受け、長城以内の衣冠束帯の室(漢)は朕がこれを制する。・・・漢と匈奴は隣り合う匹敵する国であるが、匈奴の地は寒く、恐ろしい寒気が早く到来するので、役人に命じて毎年一定量の餅粟(もちあわ)、麹、金、絹織物、絹糸、その他を送る」とある。この記述から、漢は長城を国境として北側を匈奴の勢力範囲と認め、匈奴を対等の国と見なしていたことがわかる。毎年贈り物をする理由を、侵入しない代償としてとは言わず、気候風土が厳しいから同情しているのだと言い訳しているところに、せめてものプライドが感じられる。

 BC161年、老上の後を受けて軍臣単于(在位:BC160年~BC126年)が立つと、文帝はまた新単于と和親を確認したが、その後も和親と侵攻が繰り返された。文帝を継いだ景帝(在位:BC157年~BC141年)もまた匈奴と和親を結んだ。そして関市かんしん、国境の町で開く民間の市、つまり交易を行わせ、匈奴に毎年贈り物をし、公主を送ることも従来通り実施した。和親条約がそれなりに機能して、景帝の治世には小規模な侵入はあったものの、大規模な侵攻はなかった。

 次の武帝(在位:BC141年~BC87年)も即位したときは再び和親を結び、関市を開き、贈り物も十分だったので、匈奴の単于以下みな漢に親しみ、長城付近に往来した。平和は続くかに思えたが、武帝は和親と侵攻の繰り返しという状況を根本的に変えようと考えた。



(劉氏の王朝「漢」)


 BC202年、項羽が敗れ、劉邦が皇帝に就いた。漢王朝の始まりである。劉邦はBC256年に生まれ、漢12年のBC195年に62歳で亡くなった。BC209年に故郷のはい県で兵を起し、BC206年に漢王となり、BC202年に皇帝となった。死後、その功績が最高という意味で高祖と呼ばれた。漢帝国の時代入っても、すべての人々が帝国の民になったわけではない。漢という国は生き続け、他の諸侯王国とは並存していた。このときに中央の政権の基盤を固めるためにまずとられた政策は、地方の諸王の勢力を抑えることだった。皇帝即位後のBC202年からBC195年までの短い間に、楚漢の戦いのときに劉邦側につき功績のあった有力な諸王らを次々と粛清していった。BC196年7月、劉邦は淮南王の追撃の戦闘で流れ矢にあたり負傷した、11月に長安に戻ったものの、この傷がもとでBC195年4月に死を迎えることになった。

 劉邦がBC206年に兵を起したときの仲間から漢帝国を支える高級官僚が採用された。漢帝国が成立したときには、皇帝といえども諸王に推戴される形を取らざるを得なかった。諸侯王の中から名実ともに皇帝権力が抜きんでてくる過程が、前漢時代の政治史の趨勢といえるだろう。劉氏でなく王となった者を粛清した結果、劉邦の子弟同族の国が、燕、代、斉、趙、梁、楚、呉、淮南の8つを占め、異性の国は長沙1国を残すだけとなったとはいえ、その領地の広さは変わっていない。中央直轄の郡は関中と東方諸侯王との中間地域、それに江陵から蜀の西南辺境と、雲中うんちゅう隴西ろうせいなどの北辺を入れても15郡程度だった。前漢成立時の旧東方6国の地には、新たな諸侯王が割拠し、それが劉氏一族の王に代わったとはいえ、やがて骨肉の争いの時代を迎えることになる。

 劉邦はとりあえず雒陽らくよう(後の洛陽)に都を置いた。雒陽はわずか数ヶ月間の仮の都で終わった。高官たちはみな山東出身だったので、雒陽に本格的に都を置く方針が固まっていたが、婁敬ろうけいだけは防御し易い山と河に囲まれた四塞しそくの地、関中に都を置くことを主張した。劉邦は関中遷都を決めたが、秦の都咸陽は焼け野原になっていた。前漢時代の首都長安城は現在の西安市の西北、渭水の南に位置する。婁敬は北の匈奴と東の諸侯の反抗を防ぐためにも、関中を復興させなければならないと考え、斉や楚の有力者たち、そして燕、趙、韓、魏といった旧戦国時代の国々の王族や貴族を関中へ移住させるべきと提言した。こうした関中の首都圏整備構想は対匈奴外交から生まれてきた。


 漢の体制は皇帝が全権を持って動かす建て前になっている。だが漢の2人の創建者、劉邦とその妻呂雉りょちは、現実を良く見ており、権力の使い方を心得ていた。混沌とした内戦状態から身を興したから、力で王座を奪い取るには現実主義者にならざるを得なかったのだろう。呂雉は危険に満ちた夫の生涯を通じて、情に流されることなく積極的な動きに出た女性だった。BC195年に劉邦が死んでから自らも世を去るまでの15年間、呂雉は最初は息子恵帝けいてい(在位:BC195年~BC188年)の後見として、息子の死後は女帝呂太后りょたいごう(在位:BC188年~BC180年)として国を取り仕切った。これは当時の伝統に反するものだったが、漢王朝を共に建てたという実績が批判を寄せ付けなかった。しかし劉一族を排斥し、代わりに自分の出身である呂一族を重職に就けようと画策し始めたのはやり過ぎだった。呂雉は余りにも多くの敵を作ってしまい、呂一族は彼女の死後直ちに皆殺しにされた。そして創建者以降、漢の皇帝たちに見るべき人物は、武帝(在位:BC141年~BC87年)以外ほとんどいない。まだ子供で、摂政が扱いやすいからという理由だけで選ばれた皇帝もいる。

 劉邦は世界を変える壮大な青写真など持っておらず、その生涯は目先の問題に素早く対処することの繰り返しだったと言ってもいい。それでも劉邦とその後継者たちは、不安定だった国を落ち着かせることに成功した。秦のやり方を拒否しつつも踏襲した漢は、秦よりはるかに長く続いた。皇帝一族の姻戚だった王莽おうもうが紀元後8年に新を建国したものの、農民の抵抗にあってすぐに倒れた。その後成立した新体制は再び漢の名をいただき、この後漢は200年にわたって存続した。


[律令]

 唐より400年~800年前の秦や漢の律は長い間幻だった。まったくの逸文でしか見ることができなかったからである。しかし現在では、新たな出土資料が発見され、今から2000年前の古代中国の帝国には確かに律によって存立していたことがわかってきた。

 秦漢時代の律令は、後の唐の時代の律令とは異なっていた。刑法の律と行政法の令というように分かれていなかった。したがって、秦律、漢律といったほうが正しい。刑法も行政法もりつが規準であり、れいとは皇帝の命令をいう。この秦漢時代の律は、唐代にはすでに死文となっていた。法律というものは、王朝が交替すれば基本的なものは受け継がれるが、新しいものに衣替えをしていく。秦律は漢律に受け継がれ、漢律は魏晋の律に受け継がれていった。

 正史で初めて刑法志を設けた「漢書」では、始皇帝の厳罰主義と高祖劉邦の簡約主義とを対比させた。始皇帝がもっぱら刑罰に頼って政治を行った点を強調した。しかしながらその結果は悪人が横行し、囚人が溢れ、彼らを収容する牢獄が市場のように立ち並んだ。一方、高祖劉邦は秦の領地に入り、法三章、すなわち「人を殺す者は死、人を傷つける、及び盗めば罪にあたる」という最低限の法を残し、煩瑣はんさな秦の法律を削減することを約束した。秦の政治に苦しんだ民衆は劉邦の簡約主義を歓迎して喜んだ。しかし法三章が基本であるにしても法律としては不十分である。現実には相国しょうこく(宰相)の蕭何しょうかは秦の法を整理して、良い所を受け継いで律9章を作った。


〈呉楚七国の乱〉 BC154年

 高祖劉邦から恵帝(在位:BC195年~BC188年)、呂太后(在位:BC188年~BC180年)、文帝(在位:BC180年~BC157年)と続き、文帝の長子でもなく末子でもない中子である劉啓りゅうけいは、母のとう皇后が寵愛を受けたので、すんなりと太子となり、帝位に就き、景帝(在位:BC157年~BC141年)となった。しかしその数年後、王朝を揺るがすような政治的な大事件が3ヶ月続いた。BC154年、7つの劉氏の王国が反乱を起したのである。一種の内戦と言いってもよい。呉・楚・趙・膠西こうせい・済南・菑川しせん膠東こうとうの各地域の七王は、呉王が高祖の兄の子であることを除けば、景帝とともに高祖の孫、従兄弟の世代にあたる。呉楚七国の乱の主導者、呉王劉濞りゅうびが東帝と称したのは、かつて戦国時代の秦が西帝、斉が東帝と称した記憶が甦ってきたものだろう。呉王はすでに62歳、劉氏王国の王の中では長老格だが、20数万人を集め、年齢を押して自ら軍を率いた。目的は漢王朝の打倒ではない。諸侯王国の領地を削り、漢の社稷を危うくしている賊臣鼂錯ちょうその排除にあった。しかし、景帝の同母弟の梁の考王や、中央から派遣された将軍たちの軍が呉楚の軍を抑えた。呉楚軍が歩兵主体だったのに対して、漢軍は騎兵主体で、機動性では騎兵が有利に働いた。この内乱は3ヶ月で鎮圧された。

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