第131話 匈奴によるユーラシア草原東部の統一と冒頓単于
<年表>
匈奴の時代(BC3世紀後半~紀元前後)
中国が急速に統一の方向に向かいつつあったBC3世紀後半、それに呼応するかのように北方の草原にも統一の機運が生まれる。モンゴル高原の東から西にかけて鼎立していた東胡(満州)、匈奴(モンゴル高原)、
匈奴の衰退とフンの勃興(紀元後1世紀~紀元後4世紀)
強盛を誇った匈奴も後漢時代の紀元後48年には匈奴は南北に分裂し、後漢に臣属した南匈奴は徐々に中国社会の中に取り込まれていった。一方、モンゴル高原に残った北匈奴は他の遊牧民集団や後漢に攻められて西方に移動し、紀元後2世紀中ごろに天山山脈北方にいたことを示す記録を最後に、中国の史書からその姿を消してしまう。それから200年ほど経った紀元後350年ごろ、カスピ海北岸から黒海北岸にかけて住んでいたアラン(阿蘭)に、東方からフンと呼ばれる騎馬遊牧民の集団が襲いかかった。フンはアランを取り込んで勢力を大きくすると、紀元後375年ごろ黒海北岸にいたゲルマン系の東ゴート王国に侵入し、次いで西ゴートに迫った。この一連の侵攻をきっかけとして、ゲルマン系を中心とする民族大移動が起こり、西ローマ帝国の崩壊に到ったことは有名である。
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中央アジアでは紀元後1世紀まで依然としてインド・ヨーロッパ語族の人びとが住民の大多数を占めていた。インド・ヨーロッパ語族の人びとはその時点まで他の言語や民族の進出に妨げられることもなく、インドやイランからヨーロッパにかけて概ね優位を保っていた。ところが、後にモンゴリアと呼ばれることになる地域から出土した人骨や加工品を考古学的に分析してみると、この地域ではすでにBC2000年紀までには二つの世界が並び立ち、互いに接触していたこと、そしてモンゴロイドの形態を備えた人びとが西方に拡大し始めていたことがわかる。テュルク(
ユーラシア草原西部において中央ユーラシア文化複合体が確立した時期と同じころ、草原地帯の東の端、モンゴル、内モンゴル、そしてタリム盆地の東部に当る地域にもBC8世紀~BC7世紀に、遊牧を主体とした中央ユーラシア文化複合体が生活様式として確立している。この鉄器時代初期の文化が、黒海北部のユーラシア草原西部から中央ユーラシアの草原地帯を通ってモンゴル高原のアルタイ地域東部に拡がった年代は年輪年代学によって明らかにされた。また、草原地帯東部の諸民族が言語学的にどのような人びとであったかについては、考古学的に裏付けられている。西の部分、モンゴル高原西部のアルタイ山脈からその南のロプノール付近のクロナイナ(楼蘭)を通って、チベット高原の北縁の
現在のモンゴル共和国とシベリア南部の墓から、匈奴とその前身であるスキタイあるいはサカ系の遺体が発見されているが、保存状態が良く、彼らが「モンゴロイド」と「コーカソイド」の両方の特徴を持っていたことがわかる。秦はBC214年から本格的な匈奴征伐に乗り出し、オルドス(黄河の北部屈曲地帯の内側、現在の内モンゴル地域)から匈奴を掃討して川の両岸に要塞と集落を建設した。そして今日の
(
中国が急速に統一の方向に向かいつつあったBC3世紀後半、それに呼応するかのように北方の草原にも統一の機運が生まれる。匈奴に関する基本的な史料は「史記」と「漢書」であるが、列伝と編年からなる「史記」によると、BC221年に秦が中国を統一した3世紀末ごろ中国北方のモンゴル高原の東から西にかけて
月氏の領域を「史記」は現在の
秦が「緒夏の国」を統一したBC221年以前に、オルドス高原を含む東部草原を支配していた人びとは匈奴という名で知られていた。黄河は現在の甘粛省の蘭州から北に流れてきて、陰山山脈の南で東へ流れを変え、さらに南へと折れ曲がって
オルドス地域には古くから遊牧民族が生活し、中国の中心地いわゆる「中原」とは趣の異なる青銅器文化を形作ってきた。この青銅器文化は一般に「北方系青銅器文化」と呼ばれる。この文化の担い手が、BC3世紀の後半に匈奴という遊牧民の国家を創りあげたと考えられている。彼らはスキタイやサカと同様に動物の紋様をモチーフとした多様な青銅器を製作したことで知られているが、同時に金銀製品も多く製作している。オルドスは匈奴と中国王朝との境界地域であった。
秦の将軍の
匈奴は知られている最初の指導者で創始者と考えられる
(匈奴)
匈奴の名で呼ばれる騎馬遊牧民が初めて中国史料に現れるのはBC318年のことである。当時の中国は戦国時代(BC470年~BC221年)で、一般に
BC221年、秦王「政」は中国全土を統一し始皇帝と称した。BC210年、始皇帝は5回目の巡行の途中に死去。その後BC209年の陳勝・呉広の乱を経て、前漢(BC206年~紀元後8年)となる。匈奴は秦や漢にとって、ほとんど唯一にして最大の敵国であった。しかし、スキタイやサカや匈奴は文字を持たず、自らの歴史を記録することはなかった。彼らの暮らしぶりや習俗は、ギリシャのヘロドトス(BC484年~BC425年)と中国の司馬遷(BC145年~BC87年)によって書き留められることになった。それによれば、農耕をしない純粋な遊牧民で、家畜とともに移動し定住する町も城壁も築かず、騎馬の弓使いで、その戦術は有利と見れば進み不利と見れば退き、
匈奴が格別に重要なのはステップに初めて帝国を樹立したからである。彼らが分権的な部族社会から帝国規模の政治集団へ移行する先例を示したことで、その後のテュルクやモンゴルが依拠することになるモデルが定まった。戦国時代(BC470年~BC221年)の分裂期の中国は、内陸アジアの遊牧民と難なく渡り合うことができていた。ところが、BC221年に秦が中国を統一してから、前漢(BC206年~紀元後8年)までの間は国境線を有効に守り切ることができず、屈辱的な条約を結ばざるを得なくなった。今だ議論の余地があるものの、この矛盾を説明する手がかりとして、中国統一に先立って中国人が北方辺境地帯に積極的に進出拡大していたという事実がある。この拡大の一環として北方における長城建設があった。秦の始皇帝(在位:BC221年~BC210年)が繋ぎ合わせたのはこうした長城の北辺であり、それ以南にあった壁は取り壊された。もう一つの積極策は、BC307年に北に位置する趙の国で激論の末に弓騎兵とその衣服の導入が決定されたことである。こうして見ると、中国の長城建設は防衛策というよりも積極策・拡張策といえるかもしれない。そのため、匈奴は中国が遊牧民の領域に進出してくるのに対抗して、初めて内陸アジアに帝国を樹立したのである。
匈奴はさまざまな民族や部族集団で構成され、
研究者たちはさまざまな種類の危機が遊牧帝国の形成を促進してきたことについて長らく議論を続けてきた。危機は社会の内部から生じることがある。例えば、家畜や人間集団の生存を脅かす干ばつや収拾不能の部族間抗争が起こった場合、また紀元後7世紀にアラビアでイスラムが登場したときに見られたようなリーダーとイデオロギーの両方が出現した場合である。一方、外部勢力がステップに侵入してきた場合のように危機は外からやって来ることもある。匈奴帝国の出現を促進した危機は外部からやってきた。中国を統一したばかりの始皇帝は、将軍
「子供はヒツジに乗ることから習い始め、鳥やネズミを弓矢で射る。少し大きくなると、キツネや野ウサギを射て食用とする。こうして若者はみな弓を扱うことができ、戦時には甲冑を着けて騎兵となる。その習俗は平時には家畜の群れを追って移動し、狩猟を生業とする。しかし、いったん事あれば、武器を手に取って襲撃略奪の遠征に出かける。これが彼らの天性なのである。遠くの敵には弓矢を使い、至近距離では刀槍を使う。戦いが有利に運べば前進し、そうでなければ退却する。彼らは
退却は敵を罠に誘い込むための計略であれば、それはそれで一つの手であり、規律が欠けていることとは別物である。
その軍事化が今度は第3段階となる集権化を促すことになる。集権化とは革命も同然である。それは分権的で相対的に平等な状態から、有力な氏族と弱小な氏族との格差を際立たせ、権力を最高君主に集中させる、すなわち、集権的で階層的な状態に向かって急激に移行することにほかならない。この集権化プロセスの成否は、高い威信を備え、部族を超越したリーダーが出現するかどうかにかかっていた。彼の威信は、諸部族のリーダーが一堂に会して彼の統治を承認し、以って天に
しかし、
匈奴の使っていた言語がインド・ヨーロッパ語か、それともアルタイ語のテュルク語かモンゴル語か議論は分かれるが、いずれにしても中国語ではなかった。匈奴はさまざまな部族の連合体だったということを考慮すると、統一された言語はなく、それぞれの部族の言語はそのまま使用されていたと考えるのが自然と思われる。つまり、インド・ヨーロッパ語もアルタイ語も話されていたのだろう。
中国の春秋戦国時代(BC770年~BC221年)にあたる時期の中国の北方草原地帯にいた騎馬遊牧民の文化は、全体として黒海北岸のスキタイ文化やアルタイ山脈西部のパジリク文化などとよく似ている。その地域は、現在の北京・河北省地域、内モンゴル中南部、
BC4世紀末に秦あるいは燕に匈奴が近づいた事件を「史記」などが記載している。しかし本当に匈奴なのか、それとも北方の騎馬遊牧民の代名詞として匈奴の名を使ったのかはっきりしない。匈奴がはっきりとその姿を見せてくるのは、始皇帝が中国を統一するBC221年ごろのことである。統一から6年後のBC215年、始皇帝のもとに「秦を滅ぼすものは胡なり」と記された予言の書が提出された。そこで始皇帝は将軍の
(
大勢力を打ち立てた匈奴の立役者を中国の史書は
司馬遷の「史記」によれば、冒頓は
冒頓が単于になった頃のユーラシア草原東部の状況を眺めてみると、東方は大興安嶺山脈の麓から
一方、西方では
<東胡の征服>
BC209年の冒頓によるクーデターは周辺諸族に瞬く間に伝わった。彼らは匈奴王室内の混乱に乗じて匈奴を征服しようとした。とりわけ東の隣国東胡がこの政変を見逃すわけがない。この経緯について「史記」匈奴列伝は詳しく伝えている。それによると、その当時、東胡の王は自己の国の軍事力に自信があり、匈奴に対して千里馬が欲しい、単于の妃である
<月氏の征服>
冒頓は東胡討伐後、馬首を西に転じて西方の月氏を追った。モンゴル高原を完全掌握するには、西方の最大勢力である月氏を制することが必要だった。この後、匈奴による月氏攻撃は何度も繰り返されている。それだけ当時、月氏の勢力が強大であったことを物語るが、最初の侵攻はおそらく東胡討伐直後のBC206年ごろと推定される。「史記」匈奴列伝は次のように伝えている。
「(冒頓は)たちまち東胡を撃破して王を殺し、人民・家畜を略奪した。還ると、また西方に月氏を撃って敗走させ、南方に(オルドス地方)の
このように冒頓の下、匈奴は西へ攻め入ってインド・ヨーロッパ語族の月氏を甘粛西部から駆逐した。冒頓による第1次北方アジア遠征の目的は、匈奴の勢威を周辺諸族に知らしめることにあった。
冒頓はBC174年に亡くなった。
(漢と匈奴)
月氏を駆逐した冒頓が次に矛先を向けたのは、楚の
BC200年の冬、40万騎ともいわれる大軍を率いた冒頓は、現在の山西省北部に侵入した。それに対し、漢の高祖劉邦(在位:BC202年~BC195年)も自ら32万の兵の先頭に立って進軍したが、現在の
中国北部には天然の要塞となるような地形がなかったことで、匈奴は好ましいと思う場所に騎馬隊を集中させて中国領土に押し入ることができた。オルドスとモンゴル高原の草原地帯を隔てるのがゴビ砂漠だが、匈奴はその南と北の両方に暮らしていた。それは家族や家畜を国境地帯から離れた所に住まわせ、中国の反撃に備えるという戦略上の利点を伴っていた。オルドスの草原は秦と漢にとってジレンマだった。ここを守るために防衛線を北に押し上げると、陸上補給路が伸びきってしまい、守備隊の維持に多額の費用がかかる。防衛線を南に下げると、匈奴は中国に攻め込みやすくなる。その結果、秦と漢が選んだ戦略の一つが受動防衛、すなわち万里の長城戦略だった。漢の時代の最初の60年余りは、匈奴が北方を支配し中国への侵入を深めていた。匈奴の勢力は
征服活動から生まれた匈奴は、貢税すなわち貢ぎ物を取り立てることでその上部構造を支えていた。当初は満州から中央アジアにかけての地域の遊牧部族やタリム盆地の都市国家などの小国から貢税を取り立てた。匈奴はそれらを勢力下に組み入れ、そこからもたらされる農作物や商品によって匈奴の経済は物資の面で潤った。さらに匈奴は中国の漢王朝からも貢税を取り立てた。漢の高祖劉邦がBC200年に「
漢と匈奴の関係が次の局面に移行し始めたのはその30年後のことであった。それまでに漢は内政の基礎を固める一方、軍馬を育成して騎馬軍団を拡充し、連射式の
一方、漢は勢力を西方に拡大し、物資調達地を増やし、内陸アジアのシルクロードを利用して遠距離交易を行う可能性を広げた。その後、後漢時代(紀元後25年~紀元後220年)の紀元後48年には匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に服属した。北匈奴は後漢と南匈奴の連合軍によって紀元後92年に滅ぼされ、残党は西へ逃走した。残存した10万部落を超える多数の匈奴は紀元後2世紀までには
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[匈奴の墓]
匈奴のものとされる遺跡は、現在のモンゴル共和国、その北のロシアのバイカル湖の東南部に位置するブリヤート共和国とその周辺地域、中国の内モンゴル自治区とその南部地域に分布している。匈奴の遺跡には主に墓地、城址、生産址の3種類があるが、最も数が多いのが墓であり、現在では大小7000基を超える墓が知られている。墓は墓道のある方形墳と円墳の二つがある。大きな墓はいずれも墓道のある方形墳であり、匈奴の貴族墓で、円墳は一般民衆墓と見なされている。墓道のある方形墳を含む墓地は、現在11ヶ所で確認されている。モンゴル共和国には7ヶ所、ブリヤート共和国には3ヶ所、アルタイ山脈のトゥバ共和国には1ヶ所となっている。最大慕はモンゴル共和国の中央部にあるゴル・モドⅡ一号墳の46x42メートル、高さ3.6メートルで、最小は同じくモンゴル共和国西部のタヒルティン・ホトゴル64号墳の9x8メートルである。墓の地下構造はやや台形の墓壙にスロープ状の墓道が付き、墓壙の最も深い所に木槨を納めている。木槨は二重であることが多く、外槨の片隅に片寄った位置に内槨を設け、その中に木棺を納めている。副葬品は木棺あるいは木槨内から出土するが、馬車は墓壙を埋め戻す途中で副葬されている。そして地上には墓壙と墓道のラインに沿って石を積み上げて墳丘を築いている。また、墓道のある方形墳はその周りに同心円状に分布する円墳を伴っており、その被葬者は子供から老人まで年齢・性別とも様々である。「史記」匈奴列伝には、匈奴の葬送について近臣愛妾の殉死があると記載されており、主墳を囲むように配置されたこれらの墓を殉葬者と関連付ける見方もあるが、詳しいことはわかっていない。
匈奴の美術は西方のサルマタイ美術と共通するするところが多いが、中国からの影響もあった。匈奴の最盛期にあたるBC2世紀の王侯の墓はまだ発見されていないが、紀元前後の東匈奴が前漢と和平状態にあったころの王墓と思われるいくつかの墓が、モンゴル高原北部で発見されている。墓はすべて盗掘されていたが、墳丘下の地面が凍結していた墓からは土器・銅器・玉器、木製品や染色品、漆器も出土した。全体として中国製品が多いが、
中国における匈奴の遺跡は大半が墓地で、内モンゴル自治区に2遺跡、西安のある陝西省の西隣の寧夏回族自治区には2遺跡がある。これらの墓はモンゴル高原や南シベリアの匈奴墓とは異なり、墓の外表に積み石を持たず、内部構造は竪穴土壙墓やその側辺に部屋を掘り出した側室墓も見られ、地域色がある。青銅製の帯飾り板など北方的な遺物が出土していることから匈奴との関連が見られるが、中国的でもあり、匈奴本来の墓とは異なっている。
これらのことから匈奴の中心勢力はモンゴル高原中央部から北部そして西部にかけて存在していたことは明らかであり、中国北辺のオルドス地域を「匈奴の故地」と伝えたのは、中国の中原から見た匈奴像であったと思われる。
[オルドス地域の匈奴系黄金文化]
中国の北方系青銅器文化は、殷代(BC1600年~BC1023年)の終わりから西周(BC1023年~BC770年)の初めごろに出現し盛んになる。この時期の中心地はオルドスの南東側にあり、現在の陝西省と山西省の境にあった。この時期の黄金製品は小型の装飾品が多い。その中で垂れ飾りは特徴的な遺物である。この垂れ飾りは、銅製の弓形器とセットで、冠の飾りとして用いられたと考えられている。またオルドス地域の西方にあたる河北省北東部と遼寧省西部からは、黄金の耳飾りと腕輪が発見されている。特に耳飾りは、U字型をした一端がラッパ状に広がるもので、南シベリアとの文化的影響関係が指摘されている。
オルドス地域における北方系青銅器文化の最盛期は、戦国時代(BC470年~BC221年)の後半である。この時期には多くの金銀製品がオルドス地域で作られている。代表的なものとして、冠飾り、首飾り、帯飾り、立体的な装飾品などがある。1972年に偶然発見された
このように、最盛期の北方系青銅器文化では黄金製品を非常に多く見ることができる。紋様の面から見ると、虎などの猛獣がヒツジやウシを襲う図案や、獣身鳥頭のグリフィン風のモチーフなどは、北方ユーラシア草原一帯に広がる遊牧民文化に普遍的に見られるものであり、中国北部に位置するオルドス地域もこの流れを汲むものといえる。
北方系青銅器文化の担い手である遊牧民たちは、やがてBC209年、
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