第131話 匈奴によるユーラシア草原東部の統一と冒頓単于

<年表>

匈奴の時代(BC3世紀後半~紀元前後)

 中国が急速に統一の方向に向かいつつあったBC3世紀後半、それに呼応するかのように北方の草原にも統一の機運が生まれる。モンゴル高原の東から西にかけて鼎立していた東胡(満州)、匈奴(モンゴル高原)、月氏げっし(中央アジア草原の東部)という三大勢力の中から、匈奴が他の二者を圧倒し、その他の中小勢力も併せて、モンゴル高原から中央アジアの現在のカザフスタン東部のバルハシ湖周辺まで、さらに新疆しんきょうのタリム盆地のシルクロードのオアシス都市まで手中に収め、空前の大勢力を打ち立てた。


匈奴の衰退とフンの勃興(紀元後1世紀~紀元後4世紀)

 強盛を誇った匈奴も後漢時代の紀元後48年には匈奴は南北に分裂し、後漢に臣属した南匈奴は徐々に中国社会の中に取り込まれていった。一方、モンゴル高原に残った北匈奴は他の遊牧民集団や後漢に攻められて西方に移動し、紀元後2世紀中ごろに天山山脈北方にいたことを示す記録を最後に、中国の史書からその姿を消してしまう。それから200年ほど経った紀元後350年ごろ、カスピ海北岸から黒海北岸にかけて住んでいたアラン(阿蘭)に、東方からフンと呼ばれる騎馬遊牧民の集団が襲いかかった。フンはアランを取り込んで勢力を大きくすると、紀元後375年ごろ黒海北岸にいたゲルマン系の東ゴート王国に侵入し、次いで西ゴートに迫った。この一連の侵攻をきっかけとして、ゲルマン系を中心とする民族大移動が起こり、西ローマ帝国の崩壊に到ったことは有名である。


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 中央アジアでは紀元後1世紀まで依然としてインド・ヨーロッパ語族の人びとが住民の大多数を占めていた。インド・ヨーロッパ語族の人びとはその時点まで他の言語や民族の進出に妨げられることもなく、インドやイランからヨーロッパにかけて概ね優位を保っていた。ところが、後にモンゴリアと呼ばれることになる地域から出土した人骨や加工品を考古学的に分析してみると、この地域ではすでにBC2000年紀までには二つの世界が並び立ち、互いに接触していたこと、そしてモンゴロイドの形態を備えた人びとが西方に拡大し始めていたことがわかる。テュルク(突厥とっけつ)を含む内陸アジア東部の諸民族が絶えず西方へ拡大していくにつれて、いくつもの「覇権の転移」が生じたに違いない。この過程において当時の人びとの多くは文化的・遺伝学的に同化することもあれば、保持することもあったはずである。また、先行するユーラシアの草原地帯、いわゆるステップの支配者層の子孫との間に共生関係が築かれることもあったと思われる。紀元後6世紀以降、ステップ世界が「テュルクの地」に変わっていく過程でいかなる文化の衝突が発生しようとも共生関係は存続したと考えられる。テュルクのことわざに、「タート(イラン・アーリア人)なくしてテュルクなし、頭なくして帽子なし」とある。それはさておき、テュルクに先だって次に民族文化的な変化の舞台に登場するのは、彼らの先駆者の匈奴であった。


 ユーラシア草原西部において中央ユーラシア文化複合体が確立した時期と同じころ、草原地帯の東の端、モンゴル、内モンゴル、そしてタリム盆地の東部に当る地域にもBC8世紀~BC7世紀に、遊牧を主体とした中央ユーラシア文化複合体が生活様式として確立している。この鉄器時代初期の文化が、黒海北部のユーラシア草原西部から中央ユーラシアの草原地帯を通ってモンゴル高原のアルタイ地域東部に拡がった年代は年輪年代学によって明らかにされた。また、草原地帯東部の諸民族が言語学的にどのような人びとであったかについては、考古学的に裏付けられている。西の部分、モンゴル高原西部のアルタイ山脈からその南のロプノール付近のクロナイナ(楼蘭)を通って、チベット高原の北縁のきれん(チーリエン)山脈に到る地域の人びとは人種的にはコーカソイドで、その北部の人びとはインド・ヨーロッパ諸語の北イラン語系のサカ諸言語を、クロナイナの地域の人びとはトカラ諸言語を話していたと思われる。東の部分、モンゴル高原の中央部と東部、内モンゴル、満州南西部の地域の人びとは人種的にはコーカソイドとモンゴロイド、そしてその混血の人びとであったと思われるが、言語についてはよくわかっていない。


 現在のモンゴル共和国とシベリア南部の墓から、匈奴とその前身であるスキタイあるいはサカ系の遺体が発見されているが、保存状態が良く、彼らが「モンゴロイド」と「コーカソイド」の両方の特徴を持っていたことがわかる。秦はBC214年から本格的な匈奴征伐に乗り出し、オルドス(黄河の北部屈曲地帯の内側、現在の内モンゴル地域)から匈奴を掃討して川の両岸に要塞と集落を建設した。そして今日の甘粛かんしゅくの東から防壁を築き、それ以前の国々が造った北の防壁につなげた。それが最初の万里の長城である。現在の長城の大部分は明の時代(紀元後1368年~紀元後1644年)に造られたもので、秦の時代のものではない。しかし、秦のこうした北進政策には莫大な人的資源が必要となり、そのため領民は反感を募らせることになる。また痛い目にあった匈奴も軍事大国に路線転換することになった。



東胡とうこ匈奴きょうど月氏げっし


 中国が急速に統一の方向に向かいつつあったBC3世紀後半、それに呼応するかのように北方の草原にも統一の機運が生まれる。匈奴に関する基本的な史料は「史記」と「漢書」であるが、列伝と編年からなる「史記」によると、BC221年に秦が中国を統一した3世紀末ごろ中国北方のモンゴル高原の東から西にかけて東胡とうこ匈奴きょうど月氏げっしという三者が鼎立していたが、その中では東胡と月氏が強盛であり、匈奴はやや影が薄かった。

 月氏の領域を「史記」は現在の甘粛かんしゅく辺りとみなすが、もっと広く西はタリム盆地、北はアルタイ山脈にまで達していたようだ。BC4世紀ごろにアルタイで豪華な副葬品の墓を残したスキタイ系のパジリク文化の人びとは月氏であると思われる。匈奴で名が知られる最古の単于ぜんう(匈奴の首長の称号)は頭曼とうまんであるが、その息子の冒頓ぼくとつが父を殺害して単于となったのはBC209年のことで、それは秦の始皇帝が没した翌年のことだった。その後、冒頓は瞬く間に東胡を併合し、月氏を西方に後退させて、その他の中小勢力も併せて、モンゴル高原から中央アジアのカザフスタン東部、シルクロードのオアシス都市まで手中に収め、空前の大勢力を打ち立てた。西走した月氏は大夏(現在のウズベキスタン南部からアフガニスタンにあったギリシャ系王朝)を征服した。移動した後の月氏を大月氏、東の甘粛省に残った月氏を小月氏と呼ぶ。また、東胡はBC3世紀以前から、モンゴル高原東部から大興安嶺山脈にかけて住んでいた遊牧民族で、BC3世紀初頭にえん国から人質を取っていた記録がある。中国の戦国時代には各国の間で頻繁に人質の交換が行われている。それは互いに対等の関係にあるという前提のもとに行われたのである。ということは、東胡は中国からみて戎狄じゅうてきとはいえ、燕と対等の力関係にあると認められていたことになる。東胡は匈奴に滅ぼされた後、BC2世紀にはその末裔が鮮卑せんぴ烏桓うがんになったと考えられている。烏桓の東隣りには、後の時代の日本列島の倭国の支配者と関係の深い夫餘ふよがいた。


 秦が「緒夏の国」を統一したBC221年以前に、オルドス高原を含む東部草原を支配していた人びとは匈奴という名で知られていた。黄河は現在の甘粛省の蘭州から北に流れてきて、陰山山脈の南で東へ流れを変え、さらに南へと折れ曲がって陝西せんせい省と山西省の省境を成す。この「コ」の字を伏せたような黄河の流れに囲まれた内側の草原地域をオルドスと呼ぶ。オルドス平原は標高1300メートルほどの高原地帯で、古くから中国の人びとはこの大平原を「匈奴の故地」であると伝えてきたが、それは秦や漢の人びとがオルドス地域のさらに北のモンゴル高原の様相を知らなかったからで、匈奴の故地はモンゴル高原の西側に位置するセレンガ川流域であり、そこは「母なる大地」と呼ばれた歴代の単于ぜんうの思いが強い土地である。そこにはノイン・ウラ古墳群があり、そこから「建平5年(BC2年)」の銘文が記された漆耳杯(杯の長手の両側に把手が付く漆器)が出土したことから匈奴の王侯墓であることは明らかだ。。セレンガ川はモンゴル高原の北にあるハンガイ山脈から発し、北東に流れてバイカル湖に注ぎこむ。

 オルドス地域には古くから遊牧民族が生活し、中国の中心地いわゆる「中原」とは趣の異なる青銅器文化を形作ってきた。この青銅器文化は一般に「北方系青銅器文化」と呼ばれる。この文化の担い手が、BC3世紀の後半に匈奴という遊牧民の国家を創りあげたと考えられている。彼らはスキタイやサカと同様に動物の紋様をモチーフとした多様な青銅器を製作したことで知られているが、同時に金銀製品も多く製作している。オルドスは匈奴と中国王朝との境界地域であった。

 秦の将軍の蒙恬もうてんがBC215年に匈奴に侵攻し、その後、秦は長城を築いた。秦は戦国時代のちょうえんによって築かれた壁をつなぎ、長城とした。それは甘粛省の臨洮りんとうから遼東まで延び、黄河渓谷全体を取り込んだ。そこにはかつての匈奴の故地が含まれていた。秦の将軍の蒙恬によって匈奴が黄河の北に追いやられた頃の北方状勢を司馬遷しばせんは「史記」の中で次のように表現している。「まさにこのとき、東胡強くして月氏盛んなり」、秦に圧迫された匈奴よりも、東胡や月氏の方が強盛だったと言っている。

 匈奴は知られている最初の指導者で創始者と考えられる頭曼とうまん(テュメン)のときに北に逃れてモンゴル高原に入った。テュメンはテュルク語で「万人の長」の意味である。その後、その息子の冒頓ぼくとつ(モトゥン)がBC209年に後を継いだ。秦の征服は長続きしなかった。秦はBC210年の始皇帝の死後まもなく崩壊し、その後に起こった内乱の間に、国境地帯に送られていた徴収兵たちは故郷に帰ってしまった。その後、匈奴は故地のオルドスに戻ることができた。



(匈奴)


 匈奴の名で呼ばれる騎馬遊牧民が初めて中国史料に現れるのはBC318年のことである。当時の中国は戦国時代(BC470年~BC221年)で、一般に合従連衡がっしょうれんこうの時代であり、有力7ヵ国(せいえんかんちょうしん)が争っていた。しかし、秦は未だ陝西せんせい地方の一小国にすぎず、中原各国からは「夷狄いてき」と遇され、彼らの会盟(盟約を結ぶための会合)にすら出席を許されなかったほどだったが、やがて急速に国力を充実させ東方の中原への進出を図り出した。BC298年、中原の魏・韓・趙が東の山東半島の斉と連合して秦を函谷関かんこくかんの西に押し込めることに成功する。この時、連合軍は秦の北方を牽制すべく匈奴にも参戦を要請している。オルドス地方への進出を図っていた匈奴にとって連合軍の要請は絶好の機会でもあった。その後も、匈奴が頻繁に趙・燕・秦の北辺に現れたことが「史記」に語られている。その中でも趙の名将李牧りぼくの活躍が有名である。李牧は趙の北方から攻め込んでくる匈奴や東胡の防衛にあたり、彼らを撃退している。さらに隣国の秦や魏、燕ともたびたび戦い勝利している。この頃の匈奴は陰山山脈北鹿一帯を中心に遊牧をしていた。陰山山脈は黄河の屈曲部北端を東西に走る1500~2000メートル級の山脈である。この山脈はその南北で様相を一変させる。すなわち南麓は急峻な崖になっていて、それが麓の平野部に雨を降らせ、牧畜とともにアワなどの農業も可能となる。一方、北側の斜面にはゴビ砂漠に連なる平原が広がっており、太古より騎馬遊牧民が活動していた。

 BC221年、秦王「政」は中国全土を統一し始皇帝と称した。BC210年、始皇帝は5回目の巡行の途中に死去。その後BC209年の陳勝・呉広の乱を経て、前漢(BC206年~紀元後8年)となる。匈奴は秦や漢にとって、ほとんど唯一にして最大の敵国であった。しかし、スキタイやサカや匈奴は文字を持たず、自らの歴史を記録することはなかった。彼らの暮らしぶりや習俗は、ギリシャのヘロドトス(BC484年~BC425年)と中国の司馬遷(BC145年~BC87年)によって書き留められることになった。それによれば、農耕をしない純粋な遊牧民で、家畜とともに移動し定住する町も城壁も築かず、騎馬の弓使いで、その戦術は有利と見れば進み不利と見れば退き、遁走とんそうを恥としないという。


 匈奴が格別に重要なのはステップに初めて帝国を樹立したからである。彼らが分権的な部族社会から帝国規模の政治集団へ移行する先例を示したことで、その後のテュルクやモンゴルが依拠することになるモデルが定まった。戦国時代(BC470年~BC221年)の分裂期の中国は、内陸アジアの遊牧民と難なく渡り合うことができていた。ところが、BC221年に秦が中国を統一してから、前漢(BC206年~紀元後8年)までの間は国境線を有効に守り切ることができず、屈辱的な条約を結ばざるを得なくなった。今だ議論の余地があるものの、この矛盾を説明する手がかりとして、中国統一に先立って中国人が北方辺境地帯に積極的に進出拡大していたという事実がある。この拡大の一環として北方における長城建設があった。秦の始皇帝(在位:BC221年~BC210年)が繋ぎ合わせたのはこうした長城の北辺であり、それ以南にあった壁は取り壊された。もう一つの積極策は、BC307年に北に位置する趙の国で激論の末に弓騎兵とその衣服の導入が決定されたことである。こうして見ると、中国の長城建設は防衛策というよりも積極策・拡張策といえるかもしれない。そのため、匈奴は中国が遊牧民の領域に進出してくるのに対抗して、初めて内陸アジアに帝国を樹立したのである。

 匈奴はさまざまな民族や部族集団で構成され、単于ぜんうという最高指導者の下に集まった政治的・軍事的連合の色合いが強い部族集団の連合体だった。部族社会ではごく当たり前のことながら、部族連合全体はもちろんのこと、個々の構成部族についても、その出自はおそらく、イラン・アーリア系からテュルク系やモンゴル系、それらの混血系といった多民族的であったに違いない。彼らは出自を共有していたからではなく、政治的判断に基づいて連合した。とはいえ、匈奴あるいは少なくともその支配者氏族は、匈奴としての共通のアイデンティティ、またはアルタイ語族としてのアイデンティティを有していたか、あるいはそれを自覚する途上にあったと考えられている。ところが、匈奴の王族が用いていた言語についてはまだ検討の余地がある。なぜなら、匈奴時代の末期に到るまで、アルタイ語族のほとんどの人びとは内陸アジアのインド・ヨーロッパ語族の人びとがすでに築き上げていた騎馬文化に自らのアイデンティティを求めていたと思われるからである。さらに、最初期のテュルク系諸民族が明確に姿を現すのは匈奴帝国末期の辺境地帯においてであった。もしも、よく言われるようにヨーロッパ人から「フン」と呼ばれる人びとが匈奴に連なっていたとすれば、匈奴帝国に関係する人びともはるか西方にまで拡がっていたことになる。たとえ匈奴がテュルクの民族的な祖先ではなかったとしても、彼らは後世のテュルクとの間に多種多様なつながりを有していたのである。

 研究者たちはさまざまな種類の危機が遊牧帝国の形成を促進してきたことについて長らく議論を続けてきた。危機は社会の内部から生じることがある。例えば、家畜や人間集団の生存を脅かす干ばつや収拾不能の部族間抗争が起こった場合、また紀元後7世紀にアラビアでイスラムが登場したときに見られたようなリーダーとイデオロギーの両方が出現した場合である。一方、外部勢力がステップに侵入してきた場合のように危機は外からやって来ることもある。匈奴帝国の出現を促進した危機は外部からやってきた。中国を統一したばかりの始皇帝は、将軍蒙恬もうてんを大軍とともに北方へ派遣し、黄河以南の地をすべて征服させ、その後、占領地の足場を固めるために長城と城塞都市を建設させた。これは中国が行った遊牧民の領域に対する初めての大規模な征服となった。中国がこの地域に進出した積極的な動機は、黄河が北へ大きく湾曲して抱え込むような形になっているオルドス地方があるという事情にあった。多様な生態環境を有するオルドス地方は、最良の牧草地とともに中国侵攻のための重要な基地を匈奴に提供してくれる場所であった。それから10年ほどして、匈奴のカリスマ的な創建者として知られる冒頓ぼくとつ(在位:BC209年~BC174年)が登場した。


 冒頓ぼくとつは軍隊に指揮権を確立して権力を掌握すると征服事業に乗り出した。まもなく匈奴の勢力と規模は絶頂に達し、北方の蛮族をみな服属させ、南方では中国と対峙するに至った。中国による侵入が引き起こした危機は、匈奴によるユーラシア草原東部の覇権確立に向けての第2段階となる軍事化を促した。冒頓はステップで国家形成を行うために最も重要な仕事を成し遂げた。すなわち、自分の配下を部族にではなく、自分に忠誠を誓って服従する精強な軍隊に仕立て上げたのである。以後、このような兵士を組織して維持することは、遊牧社会が有する潜在的な軍事力を統制のとれた国家権力に転換するための必須条件となっていく。司馬遷は次のように記している、

「子供はヒツジに乗ることから習い始め、鳥やネズミを弓矢で射る。少し大きくなると、キツネや野ウサギを射て食用とする。こうして若者はみな弓を扱うことができ、戦時には甲冑を着けて騎兵となる。その習俗は平時には家畜の群れを追って移動し、狩猟を生業とする。しかし、いったん事あれば、武器を手に取って襲撃略奪の遠征に出かける。これが彼らの天性なのである。遠くの敵には弓矢を使い、至近距離では刀槍を使う。戦いが有利に運べば前進し、そうでなければ退却する。彼らは遁走とんそうすることを恥としないからである」

 退却は敵を罠に誘い込むための計略であれば、それはそれで一つの手であり、規律が欠けていることとは別物である。


 その軍事化が今度は第3段階となる集権化を促すことになる。集権化とは革命も同然である。それは分権的で相対的に平等な状態から、有力な氏族と弱小な氏族との格差を際立たせ、権力を最高君主に集中させる、すなわち、集権的で階層的な状態に向かって急激に移行することにほかならない。この集権化プロセスの成否は、高い威信を備え、部族を超越したリーダーが出現するかどうかにかかっていた。彼の威信は、諸部族のリーダーが一堂に会して彼の統治を承認し、以って天に(よい、美しい)されたこととするための神聖な儀式を行い、最高君主の地位に推戴することで保証された。匈奴の王権神授思想は、中国の天命思想に似ているだけでなく、後代のテュルクやモンゴルが信じた天の神である「テングリ」の観念や、そのテングリが支配者の地位を授けるとする観念にも通じるものがある。古代のイラン人も支配者には神授のカリスマ性が宿っていると信じていたという事実は、こうした考え方が北方アジア全域に広まっていたことを示唆している。

 しかし、単于ぜんうは中国皇帝ほどの権力を持つには至らなかった。確かに戦争では全軍を指揮し、中国との公式の関係を取り仕切ったとはいえ、内政については配下の部族長に諮らなければならなかったからである。少なくともこの時点では、中国や後代のテュルク・モンゴル系諸帝国に比べて匈奴の集権化の範囲は限られていた。支配者の地位を神授のものとする思想を通して、支配者の血統はカリスマ性を帯びるようになった。したがって、実際に君長になるかどうかは別にして、王統の成員はみな統治者になる資格を分かち持っていた。暗黙の了解として、王位継承は競争方式で行われることもあれば、兄弟から兄弟へ、あるいは父から子へというように定められていることもあった。匈奴の王位継承は、冒頓ぼくとつの死後200年間、15年の内乱期を除いて滞りなく行われた。後代のテュルク・モンゴル系諸王朝では血みどろの王位継承争いが絶えなかったことと比べれば、これは驚くべき記録である。司馬遷によれば、匈奴の最高指導者層はそれぞれ1万の騎兵を統率する24人の長で構成されていた。これら最上位の官職は世襲でありこの国の貴種をなす3つの氏族の成員が独占した。最高位の24人の長はそれぞれ自分自身の千長、百長、什長、さらには裨小王、相封、都尉、当戸、などを置いた。左と右という言葉を用いて一対をなす空間構成や、10進法に基づく軍団構成は後代のテュルク・モンゴル系諸国家にも受け継がれていく特徴となった。


 匈奴の使っていた言語がインド・ヨーロッパ語か、それともアルタイ語のテュルク語かモンゴル語か議論は分かれるが、いずれにしても中国語ではなかった。匈奴はさまざまな部族の連合体だったということを考慮すると、統一された言語はなく、それぞれの部族の言語はそのまま使用されていたと考えるのが自然と思われる。つまり、インド・ヨーロッパ語もアルタイ語も話されていたのだろう。

 中国の春秋戦国時代(BC770年~BC221年)にあたる時期の中国の北方草原地帯にいた騎馬遊牧民の文化は、全体として黒海北岸のスキタイ文化やアルタイ山脈西部のパジリク文化などとよく似ている。その地域は、現在の北京・河北省地域、内モンゴル中南部、寧夏ねいか甘粛かんしゅく省地域の三地域である。陝西せんせい省北端のナリンホトからは、帽子の上につける装飾品である鹿角を持つ合成獣が出土している。その枝角の一つ一つがグリフィンの頭部になっている。これは後期スキタイ文化美術の特徴である。 しかも動物本体の頭部もグリフィンで、尾の先もグリフィンの頭部になっている。これと類似の合成獣はパジリク古墳出土の男性の右腕の入墨に見られる。また、ナリンホトの北西にあたる内モンゴル自治区の遺跡からもグリフィン頭部の枝角と尾を持つ合成獣の帯飾板が出土している。このように中国北方の地域がユーラシア草原の中部や西部としっかりとつながっていたことが確認できる。

 BC4世紀末に秦あるいは燕に匈奴が近づいた事件を「史記」などが記載している。しかし本当に匈奴なのか、それとも北方の騎馬遊牧民の代名詞として匈奴の名を使ったのかはっきりしない。匈奴がはっきりとその姿を見せてくるのは、始皇帝が中国を統一するBC221年ごろのことである。統一から6年後のBC215年、始皇帝のもとに「秦を滅ぼすものは胡なり」と記された予言の書が提出された。そこで始皇帝は将軍の蒙恬もうてんに10万人の軍隊を与えて、胡すなわち匈奴を攻撃させた。その結果、黄河より南の地をすべて占領し、匈奴は黄河の北方まで後退させられた。始皇帝はその翌年には南方の百越にも大軍を送り込んでいる。しかし、BC210年に始皇帝が死ぬと、蒙恬もうてんは自殺に追い込まれ、内乱の勃発により辺境防衛ができなくなり、匈奴は再び黄河を南に渡り、もとの境界線で中国と対峙することとなった。



冒頓単于ぼくとつぜんう


 大勢力を打ち立てた匈奴の立役者を中国の史書は冒頓単于ぼくとつぜんう(在位:BC209年~BC174年)と記している。単于ぜんうは古代テュルク語で「天の子」の略称である。匈奴の君主は自らを「天の子」と称して権威づけをしたと考えられる。単于は特定の家系からのみ選出された。また后妃も特定の家系に限られていたが、こちらは複数の姻戚氏族があった。BC5世紀末~BC4世紀のアルタイのパジリク古墳群はその地域や遺物などから、その担い手は月氏と推定されている。この冒頓ぼくとつこそがモンゴル高原の主人公となり、その後、ユーラシア草原東部に帝国を樹立したのである。

 司馬遷の「史記」によれば、冒頓は単于ぜんうと称する匈奴の君長の長子であったが、その頭曼単于とうまんぜんうは母親が異なる年下の息子を後継者にしようとして冒頓を殺そうと画策していたらしい。その真偽のほどはわからないが、冒頓が月氏に人質に出されていたのは事実のようだ。頭曼単于が月氏を攻撃したとき、身の危険を察した冒頓は気を見て月氏のい馬を盗み、それに乗って逃げ帰った。その後、1万騎の長となった冒頓は、自分の部下の騎兵たちを入念に訓練した。そしてついに冒頓は父親の頭曼とうまんを殺して、自ら新たな単于に即位した。それはBC209年、秦の始皇帝が没して2世皇帝が即位した翌年のことであった。


 冒頓が単于になった頃のユーラシア草原東部の状況を眺めてみると、東方は大興安嶺山脈の麓から遼河りょうが流域一帯(現在の北京市から遼東省と吉林省)には牧畜狩猟を生業としていた東胡とうこの一群が住んでいて、彼らは度々燕や趙の北辺に勢力を伸ばしていた。彼らの墳墓から見ると、その文化状況から匈奴とは別種族であることがわかる。東胡の領域は広範囲にわたっていた。そのため種族間のまとまりに欠け、とりわけ中国寄りの遼北地帯に住んでいた集団と、その北に住む集団とでは相当な文化的な違いがあった。

 一方、西方では祁連きれん山脈の北端から河西かせい甘粛かんしゅく北部、ジュンガル盆地、アルタイ山脈に到る広範囲な地域に、イラン・アーリア系と見られる月氏げっしが勢力を誇示していた。中国の戦国時代には「愚氏の玉をもたらす人」と呼ばれていた。玉は硬玉・軟玉ともに中国古代では祭祀、装飾に貴重とされ、月氏はその交易ルートをほぼ独占していた。北方ではバイカル湖南畔からセレンゲ川流域および南シベリア一帯に後のテュルク系の遊牧狩猟民の丁零ていれいが分布していた。彼らは時折南のモンゴル高原への進出を図り、匈奴との間に争いが絶えなかった。またそれよりやや西のエニセイ川上流域には堅昆けんこん呼掲こけい、アルタイ山麓よりイリ川周辺一帯にはイラン・アーリア系と思われる遊牧民烏孫うそんが居住していた。これらの勢力は決して大きくはなかったが、それぞれ固有の文化を維持して遊牧や狩猟の生活を送っていた。また、南に下ると、黄河湾曲部南岸のオルドス地域には白羊はくよう楼煩ろうはんがいて半農半牧の生活を行い、青海せいかい隴西ろうせいにはきょうていのチベット系民族が分布していた。これらの諸族のなかで、匈奴と同様に騎馬遊牧の生活をしていた人びとは月氏、烏孫くらいで、とりわけ月氏は早くから西方のヘレニズム文化を採り入れて強大であった。一方、東胡は匈奴のように優れた騎乗用具を持たず、牧畜狩猟を生業としていたが、中国の先進文化や武器を採り入れる機会があった。匈奴はこれらの勢力に囲まれるようにして、モンゴル高原およびゴビ砂漠の東辺で遊牧生活をしていた。BC3世紀中ごろ、匈奴は未だモンゴル高原全域を完全に掌握しておらず、西方は月氏、東方の境界付近では東胡としのぎを削っていた。このような状況下において、匈奴がまず東胡を抑えこむ方針を取ることは当然のことと思われる。


<東胡の征服>

 BC209年の冒頓によるクーデターは周辺諸族に瞬く間に伝わった。彼らは匈奴王室内の混乱に乗じて匈奴を征服しようとした。とりわけ東の隣国東胡がこの政変を見逃すわけがない。この経緯について「史記」匈奴列伝は詳しく伝えている。それによると、その当時、東胡の王は自己の国の軍事力に自信があり、匈奴に対して千里馬が欲しい、単于の妃である閼氏あつしの一人を欲しい、さらに両国の境界の土地の領有も要求してきた。冒頓は初めの二つの要求には応えたが、三つ目の土地の要求に到ると、東胡に攻め入ることを決断した。冒頓の弱腰に対して油断していた東胡は、BC208年からBC207年にかけてさんざんに打ち負かされ、王は殺され、多くの人びとは奴隷として拉致されたという。東胡の人びとは離散したが、北の鮮卑せんぴと南の烏桓うがんという集団となって再起を図った。匈奴の東胡支配の主な目的は、狩猟で得られるキツネ、てん、トラ、クマなどの皮革ひかく製品の調達だった。「皮布税」と呼ばれ、防寒用や戦闘服をはじめとして匈奴の衣服を大きく支えていた。なかでも黒貂の皮は高価で中央アジア諸国にも転売され、それが遥かヨーロッパ諸国の貴族層に珍重されたといわれている。冒頓による満州地方遠征は極めて計画的で、彼はこの地に入るために各地方の部族長の懐柔策を採っている。特に遼東の地を重視したのは、朝鮮半島及び満州のアムール川最大の支流である松花江しょうかこう平原に通じ、南には渤海ぼっかいがあるという東方ルートの拠点でもあるからだ。もちろん中国王朝もかねてより遼東の地を重視していた。これより90年後のBC108年に漢の武帝はこの地方に進出して漢四郡(楽浪らくろう臨屯りんとん玄菟げんと真番しんぱん)を設置している。このうち楽浪らくろう郡は後の日本列島の倭国誕生に重要な役割を演じることになる。漢の遼東、そして朝鮮半島北部への進出は、「漢書」に「匈奴の左臂さひを断つ」と記されているように、匈奴を東方より牽制するためであった。その際、漢は烏桓うがんを傭兵として利用している。


<月氏の征服>

 冒頓は東胡討伐後、馬首を西に転じて西方の月氏を追った。モンゴル高原を完全掌握するには、西方の最大勢力である月氏を制することが必要だった。この後、匈奴による月氏攻撃は何度も繰り返されている。それだけ当時、月氏の勢力が強大であったことを物語るが、最初の侵攻はおそらく東胡討伐直後のBC206年ごろと推定される。「史記」匈奴列伝は次のように伝えている。

「(冒頓は)たちまち東胡を撃破して王を殺し、人民・家畜を略奪した。還ると、また西方に月氏を撃って敗走させ、南方に(オルドス地方)の楼煩ろうはん白羊はくよう2王の国を併合し、秦の蒙恬もうてんに奪われた土地を再びことごとく手中に収めた。・・・冒頓はその後、北の方に渾庾こんゆ屈射くつしゃ丁零ていれい鬲昆れきこん薪犂しんりの国を征服したので、貴族・大臣らは冒頓単于に心服して、賢人として尊んだ」

 このように冒頓の下、匈奴は西へ攻め入ってインド・ヨーロッパ語族の月氏を甘粛西部から駆逐した。冒頓による第1次北方アジア遠征の目的は、匈奴の勢威を周辺諸族に知らしめることにあった。


 冒頓はBC174年に亡くなった。単于ぜんうとして36年、享年は不明だがおそらく60歳代前半だったと思われる。その子の稽粥けいいくが継いで立ち、老上単于(在位:BC174年~BC160年)と名乗った。漢の文帝(在位:BC180年~BC157年)はまた劉氏一族の娘を公主(皇女)に仕立てて、新単于の妃の一人である閼氏あつしにしようとした。その際、公主の付き添いとして、燕地方出身の中行説ちゅうこうえつを同行させた。えつは同行することを渋ったが、断れなかった。説は「自分を行かせると、きっと漢の禍になるだろう」と予言めいた捨て台詞ぜりふを残して、公主とともに匈奴に旅立った。匈奴に到ると、はたして説は単于に忠誠を誓い、単于も説をそばに置いて重用するようになった。中行説は行政・外交の分野で単于にさまざまな助言・提言を行い、匈奴の国力や権威の向上に貢献した。



(漢と匈奴)


 月氏を駆逐した冒頓が次に矛先を向けたのは、楚の項羽こううを倒してBC202年に中国を統一した劉邦りゅうほうの漢である。BC209年に、全国で発生した反乱によって秦が弱体化したのを見て取った匈奴は、すでにオルドスを奪還していた。匈奴の軍事組織は、単于を筆頭に、後継者となる左賢王とそれに次ぐ右賢王以下24人の長がいる。そのうち勢力の大きい者は1万騎を擁し、やや小さい者は数千騎であるが、すべて「1万騎」と称する。24の長はそれぞれ「分地」と呼ばれる領地を所有し、その中で水と草を求めて移動していた。その長の下に千・百・什(十)人長がいた。左は東、右は西を指す。

 BC200年の冬、40万騎ともいわれる大軍を率いた冒頓は、現在の山西省北部に侵入した。それに対し、漢の高祖劉邦(在位:BC202年~BC195年)も自ら32万の兵の先頭に立って進軍したが、現在の大同だいどう郊外の白登山はくとさんで匈奴軍に包囲され絶体絶命の危機に陥った。この難局は何とか切り抜けたが、結局漢は和睦を提案し、両雄の対決は匈奴が優勢のまま終結した。その後の和親条約の中身は漢にとって厳しいものになった。漢は匈奴に毎年一定数量の真綿、絹織物、酒、米、その他食物を献上し、兄弟となるというものであった。また劉氏一族の娘を公主(皇女)に仕立てて、冒頓の妃の一人として送り込んだ。

 中国北部には天然の要塞となるような地形がなかったことで、匈奴は好ましいと思う場所に騎馬隊を集中させて中国領土に押し入ることができた。オルドスとモンゴル高原の草原地帯を隔てるのがゴビ砂漠だが、匈奴はその南と北の両方に暮らしていた。それは家族や家畜を国境地帯から離れた所に住まわせ、中国の反撃に備えるという戦略上の利点を伴っていた。オルドスの草原は秦と漢にとってジレンマだった。ここを守るために防衛線を北に押し上げると、陸上補給路が伸びきってしまい、守備隊の維持に多額の費用がかかる。防衛線を南に下げると、匈奴は中国に攻め込みやすくなる。その結果、秦と漢が選んだ戦略の一つが受動防衛、すなわち万里の長城戦略だった。漢の時代の最初の60年余りは、匈奴が北方を支配し中国への侵入を深めていた。匈奴の勢力は新疆しんきょうにまで及び、甘粛かんしゅく南部で四川しせん北西部(現在の青海せいかい)にいたきょう族と手を結んだ。漢は匈奴を買収しようとしたがなかなかうまくいかず、成功したのは武帝(在位:BC141年~BC87年)の治世になってからである。武帝はBC127年から10年間、大々的な攻勢を何度も仕掛ける。なかでもBC121年とBC119年には、北部国境沿いの数か所から匈奴の中枢地域に侵入し、人と家畜を多数殺害した。さらに国境警備を立て直し、付近の住民を紛争地に定住させた。この一連の戦いは双方に深刻な損失をもたらした。BC101年に武帝は新たな軍事作戦を開始し、今度はBC87年に武帝が死ぬまで続いた。


 征服活動から生まれた匈奴は、貢税すなわち貢ぎ物を取り立てることでその上部構造を支えていた。当初は満州から中央アジアにかけての地域の遊牧部族やタリム盆地の都市国家などの小国から貢税を取り立てた。匈奴はそれらを勢力下に組み入れ、そこからもたらされる農作物や商品によって匈奴の経済は物資の面で潤った。さらに匈奴は中国の漢王朝からも貢税を取り立てた。漢の高祖劉邦がBC200年に「白登山はくとさんの戦い」で壊滅的な敗北を喫すると、多くの漢の将軍が寝返った。彼らは漢から最大限のものを引き出す策を匈奴に伝授した。ここに至って、漢の高祖はBC198年に和親条約を結ばざるを得なかった。これは漢を格下として事実上の貢ぎ物を課すものであった。匈奴は貢税を受け取ると、次は国境地帯での交易を迫った。辺境に市場が開かれたことで、ステップに暮らす一般の人びとも畜産物と漢の商品を交換できるようになり、農耕経済と牧畜経済の間を商人が往来した。匈奴の勢力は前漢の文帝(在位:BC179年~BC157年)の治世に絶頂に達した。冒頓ぼくとつはある書簡の中で、「弓を引く人びとはみな、今や一つの家族になった」と述べている。文帝から届いたBC162年の書簡では、「我ら二大国、漢と匈奴は隣邦のよしみ」であることが確認された。


 漢と匈奴の関係が次の局面に移行し始めたのはその30年後のことであった。それまでに漢は内政の基礎を固める一方、軍馬を育成して騎馬軍団を拡充し、連射式の(石弓)などの新兵器を導入し、城塞・道路・補給基地を整備して軍事力を強化していた。武帝(在位:BC141年~BC87年)の時代のBC135年に漢は匈奴を攻撃し敗北したが、その規模と期間と結果において所期の目標をはるかに上回るものとなった。BC119年以降、漢は貢税の支払いを止め、その目標を、匈奴を撃退することから滅亡させることに引き上げた。その後の漢の攻勢により、BC110年までに匈奴はゴビ砂漠より北のステップや森林地帯に追いやられた。漢の西域遠征はその後20年続き、武力衝突は全面戦争に発展した。この戦争によって、匈奴は現在のウランバートル近郊にあった「龍城」という聖地を失った。この地は単于の政治的正統性を保証するために必須の場所であった。そればかりか、漢と西域のオアシスの両方からもたらされる貢納の流れを断たれてしまった。これらは単于の物質面での権力を支えていたものである。

 一方、漢は勢力を西方に拡大し、物資調達地を増やし、内陸アジアのシルクロードを利用して遠距離交易を行う可能性を広げた。その後、後漢時代(紀元後25年~紀元後220年)の紀元後48年には匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に服属した。北匈奴は後漢と南匈奴の連合軍によって紀元後92年に滅ぼされ、残党は西へ逃走した。残存した10万部落を超える多数の匈奴は紀元後2世紀までには鮮卑せんぴに吸収されていった。鮮卑は紀元後265年ごろ、単于の称号ではなく、可汗かがんの称号を採用した人びとでもあった。これは後にテュルクの君長にとって最も権威のある称号となる。

 冒頓ぼくとつが創設した匈奴の政治的・軍事的特色のほとんどは西部ユーラシアにおける最初期のテュルク系の住民たちと思われる人びとの間にも認めることができる。彼らが西方へ移動を開始したのはもっと前のことであったかもしれないが、それは匈奴が漢に敗れて故地から放逐されるにつれて盛んになったと考えられる。西方に移住した人びとは「フン」あるいはそれに類する名称で知られることになった。彼らはおそらく匈奴の一部であったはずだが、それを証し立てる史料に欠けている。これらの移住者はステップの覇者としてイラン・アーリア人に取って代わり、その結果、インド・ヨーロッパ語族の世界は永続的に分断されてしまった。彼らは合同してフンの連合体を結成し、中央ユーラシアと西部ユーラシアのテュルク化が始まった。但し、イラン・アーリア人の都市国家と商人は依然としてその地で重要な地位を保っていた。フンは紀元後370年ごろヴォルガ川を渡って東ヨーロッパや西アジアに侵入し始め、パンノニア(現在のハンガリー)を征圧した。彼らの拡大に促されて、ポスト・ローマ帝国期のヨーロッパの住民構成を方向付ける別の移動、いわゆるゲルマン民族大移動が始まった。匈奴がそうであったように、また遊牧連合体の常としてフンもアッティラの死後瓦解した。注目すべきは、フンの言語の中に他の言語の要素に交ってテュルク諸語の要素も含まれている点である。こうしてカフカス(コーカサス)や黒海北方のステップよりも西側にテュルクの姿が見えるようになってきた。


 ***


[匈奴の墓]

 匈奴のものとされる遺跡は、現在のモンゴル共和国、その北のロシアのバイカル湖の東南部に位置するブリヤート共和国とその周辺地域、中国の内モンゴル自治区とその南部地域に分布している。匈奴の遺跡には主に墓地、城址、生産址の3種類があるが、最も数が多いのが墓であり、現在では大小7000基を超える墓が知られている。墓は墓道のある方形墳と円墳の二つがある。大きな墓はいずれも墓道のある方形墳であり、匈奴の貴族墓で、円墳は一般民衆墓と見なされている。墓道のある方形墳を含む墓地は、現在11ヶ所で確認されている。モンゴル共和国には7ヶ所、ブリヤート共和国には3ヶ所、アルタイ山脈のトゥバ共和国には1ヶ所となっている。最大慕はモンゴル共和国の中央部にあるゴル・モドⅡ一号墳の46x42メートル、高さ3.6メートルで、最小は同じくモンゴル共和国西部のタヒルティン・ホトゴル64号墳の9x8メートルである。墓の地下構造はやや台形の墓壙にスロープ状の墓道が付き、墓壙の最も深い所に木槨を納めている。木槨は二重であることが多く、外槨の片隅に片寄った位置に内槨を設け、その中に木棺を納めている。副葬品は木棺あるいは木槨内から出土するが、馬車は墓壙を埋め戻す途中で副葬されている。そして地上には墓壙と墓道のラインに沿って石を積み上げて墳丘を築いている。また、墓道のある方形墳はその周りに同心円状に分布する円墳を伴っており、その被葬者は子供から老人まで年齢・性別とも様々である。「史記」匈奴列伝には、匈奴の葬送について近臣愛妾の殉死があると記載されており、主墳を囲むように配置されたこれらの墓を殉葬者と関連付ける見方もあるが、詳しいことはわかっていない。

 匈奴の美術は西方のサルマタイ美術と共通するするところが多いが、中国からの影響もあった。匈奴の最盛期にあたるBC2世紀の王侯の墓はまだ発見されていないが、紀元前後の東匈奴が前漢と和平状態にあったころの王墓と思われるいくつかの墓が、モンゴル高原北部で発見されている。墓はすべて盗掘されていたが、墳丘下の地面が凍結していた墓からは土器・銅器・玉器、木製品や染色品、漆器も出土した。全体として中国製品が多いが、銅鍑どうふくは明らかに遊牧民文化のものであり、ライオンと鷲を合体させたグリフィンに似た怪鳥がトナカイを襲う闘争文様は遊牧民固有のものである。

 中国における匈奴の遺跡は大半が墓地で、内モンゴル自治区に2遺跡、西安のある陝西省の西隣の寧夏回族自治区には2遺跡がある。これらの墓はモンゴル高原や南シベリアの匈奴墓とは異なり、墓の外表に積み石を持たず、内部構造は竪穴土壙墓やその側辺に部屋を掘り出した側室墓も見られ、地域色がある。青銅製の帯飾り板など北方的な遺物が出土していることから匈奴との関連が見られるが、中国的でもあり、匈奴本来の墓とは異なっている。

 これらのことから匈奴の中心勢力はモンゴル高原中央部から北部そして西部にかけて存在していたことは明らかであり、中国北辺のオルドス地域を「匈奴の故地」と伝えたのは、中国の中原から見た匈奴像であったと思われる。


[オルドス地域の匈奴系黄金文化]

 中国の北方系青銅器文化は、殷代(BC1600年~BC1023年)の終わりから西周(BC1023年~BC770年)の初めごろに出現し盛んになる。この時期の中心地はオルドスの南東側にあり、現在の陝西省と山西省の境にあった。この時期の黄金製品は小型の装飾品が多い。その中で垂れ飾りは特徴的な遺物である。この垂れ飾りは、銅製の弓形器とセットで、冠の飾りとして用いられたと考えられている。またオルドス地域の西方にあたる河北省北東部と遼寧省西部からは、黄金の耳飾りと腕輪が発見されている。特に耳飾りは、U字型をした一端がラッパ状に広がるもので、南シベリアとの文化的影響関係が指摘されている。

 オルドス地域における北方系青銅器文化の最盛期は、戦国時代(BC470年~BC221年)の後半である。この時期には多くの金銀製品がオルドス地域で作られている。代表的なものとして、冠飾り、首飾り、帯飾り、立体的な装飾品などがある。1972年に偶然発見された阿魯柴登あろさいとう遺跡からは、218点、4キロ余りの黄金製品が出土している。なかでも冠飾りは逸品で、半球状の冠部分は四分割され、それぞれにオオカミがヒツジに襲いかかる図案が配され、冠の頂部には立体的に表現された鷹が乗る。鷹の頭部はトルコ石で作られ、金糸で留められており、左右に揺れ動く構造になっている。また、1957年に発掘された納林高兎なりんこうと遺跡から出土した金製品で注目されるのは、立体的な装飾品と浮彫りの虎の装飾品である。立体的な装飾品は、鳥の頭部とシカの角を持つグリフィン風の怪獣が表現されている。角の端部にも鳥の頭が配される。台座に乗っていることから、何かに取り付けた飾りである。浮彫りの虎は一対であり、それぞれ左右対称に写実的に表現されている。

 このように、最盛期の北方系青銅器文化では黄金製品を非常に多く見ることができる。紋様の面から見ると、虎などの猛獣がヒツジやウシを襲う図案や、獣身鳥頭のグリフィン風のモチーフなどは、北方ユーラシア草原一帯に広がる遊牧民文化に普遍的に見られるものであり、中国北部に位置するオルドス地域もこの流れを汲むものといえる。

 北方系青銅器文化の担い手である遊牧民たちは、やがてBC209年、冒頓単于ぼくとつぜんうの登場により遊牧騎馬民族国家「匈奴」として統合される。そして前漢(BC206年~紀元後8年)の初めには漢と対等以上の勢力を誇るようになった。この時期、匈奴と前漢は戦争と交易という二つの側面から関係を深めるようになる。このような状況の中でオルドスの黄金文化は中国文化の中へも浸透していった。特に、金製の飾り板は近年中国各地で発見されており注目される。

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