第130話 ユーラシア草原の覇者(スキタイとサカ、サルマタイ、匈奴)

<年表>

スキタイ文化中期(BC5世紀)

 スキタイ文化中期から後期になると、地下深くに墓室が作られるようになるが、ユーラシア草原地帯の西部と東部では構造が異なる。西部の黒海北岸では、まず深い竪穴を掘り、穴の底から水平に横穴を掘ってそこを墓室にした。一方、東部のアルタイでは、深い大きな竪穴の底に前期と同じような木造の小屋を作った。その代表例である南シベリアのパジリク古墳群では、墓室が凍結していたために木製品や織物、フェルト、ミイラ化した遺体が良く残っていた。その出土品にはアケメネス朝ペルシャとの交流の深さを示すモチーフが多数見られるが、ギリシャ風グリフィンのモチーフや、中国からもたらされた絹製品と青銅鏡もある。このことから、スキタイ文化中期・後期(BC5世紀~BC3世紀初頭)には草原地帯を通じて東西の文化交流が活発になっていたことが見て取れる。


スキタイ文化後期(BC4世紀~BC3世紀初頭)

 ユーラシア草原地帯西部では、中間期(BC5世紀~BC4世紀前半)を経て後期(BC4世紀後半~BC3世紀初頭)になるとギリシャからの影響が顕著に見られるようになる。唐草のような植物文様がほどこされ、動物表現がより写実的になり、人間や神々が表現されるようになった。それはグレコ・スキタイ美術、すなわちギリシャ風スキタイ美術と呼ばれる。これらの作品は黒海北岸のギリシャ人植民都市のギリシャ人職人が作ったものと考えられている。スキタイの動物文様で有名な獣同士が戦ったり、猛獣が草食獣を襲ったりする、いわゆる動物格闘紋は後期のスキタイ美術であり、ギリシャや西アジアの美術からの影響が強い。大型古墳の多さという点ら見ると、スキタイはBC5世紀~BC4世紀の黒海北岸で絶頂期を迎えたということができる。


サルマタイ文化前期(BC4世紀~BC2世紀)

 黒海北岸に後期スキタイ文化が栄えていたBC4世紀ごろ、カスピ海北方の草原では新たな勢力が勃興しつつあった。それがサルマタイである。サルマタイもスキタイ同様イラン・アーリア系であったと思われる。ヘロドトスによれば、サルマタイの前身のサウロマタイには伝説上の女戦士集団アマゾネスが存在していたという。この記述を裏付けるように、この時代の女性の墓では多くの場合、武器と馬具が副葬されている。しかし男性の墓とは異なり、槍や剣は少なく、弓矢が主体である。サルマタイはウラル南部から急速に勢力を西方に拡大し、先行するサウロマタイと融合して葬儀儀礼や武器、装飾文様などに独自な特徴を持つ文化を発展させたと考えられている。BC2世紀にはドニエプル川流域からスキタイを駆逐した。一部のスキタイはクリミア半島南部とドナウ川河口付近に押し込められた。


サルマタイ文化中期(BC2世紀末~紀元後2世紀初め)

 この時代のサルマタイの主要遺跡はドン川下流域に分布している。そこから出土したサルマタイの短剣のさやはトルコ石やザクロ石などの青や赤の石で象嵌されている。このような多色象嵌はサルマタイ美術の特徴である。これとよく似た多色象嵌の鞘がアフガニスタン北部の遺跡からも出土しており、サルマタイ美術の拡がりを示している。サルマタイの騎馬戦士は槍を携えた重装騎兵であったが、これは同時代のイラン地方の大国パルティアと共通している。中期の墓からは、ローマや中国の漢からの輸入品あるいはその模造品、特に鏡が出土している。このようにサルマタイは当時の大国である漢や匈奴、パルティア、ローマとも交流をもっていた。


サルマタイ文化後期(紀元後2世紀~紀元後4世紀)

 この時代はサルマタイの東方にあったアランがサルマタイの後継となったが、アランがサルマタイの一部であったのか、別の騎馬遊牧民集団であったのかは分かっていないが、言語的にはイラン系で、文化的にもサルマタイと同様であった。アランはその後フン族の侵入により衰退したが、その一部はカフカス(コーカサス)山中に残存し、今のオセット人(オセチア人)の祖先となった。


 ***


 ステップ、すなわちユーラシア草原地帯の住民が歴史の舞台に登場するのはBC1000年紀のことであり、このころになると、ヘロドトス(BC484年~BC425年)の「歴史」をはじめとして、他の文化の中で生み出された記述資料が彼らに言及するようになる。彼らは、ギリシャ人には「スキタイ」、ペルシャ人には「サカ」として知られる部族と同一視されることが多い。西はドナウ川から東はモンゴル高原まで、南はイランまで極めて広範囲に展開した文化と、政治・軍事上の新たな組織形態を特徴として、この好戦的なステップの住民は全盛期を迎えた。スキタイが出現した要因は気候上、人口統計上、技術上の観点からさまざまな議論がなされているが、その「スキタイ風」の文化的複合体の持つ本質的要素は文献史料からも考古学的証拠からも明らかである。

 少なくともスキタイの指導者たちはインド・ヨーロッパ語族の中のインド・イラン語派の民族に属していた。つまりアーリア人である。彼らの文化は東方に広まり、やがてテュルクやモンゴルが排出することになるアルタイ語族の人びとの間や中国北部にも浸透した。この文化複合体の持つ本質的特徴は墳墓で発見される物品にちなんで「スキタイの三要素」とされる。すなわち、青銅や鉄製の武器、馬具、そして動物文様を特徴とする美術品である。但し、現在では考古学的証拠から、この文化複合体の主な部分はスキタイ以前に形成されていたことが明らかになっている。スキタイにはこの三要素の他にもいくつかの要素がある。彼らはドーム型の屋根とフェルト製の覆いを持つ天幕に住んでいた。しかし、後にテュルクやモンゴルが用いたような折り畳み式の天幕はまだ開発されていなかったため、自分たちの住居を荷車で運搬しなければならなかった。後のモンゴルに見られる水のタブーを想起させる慣習として、スキタイの男たちは自分の体に水を一切近づけなかったので、体を洗ったり、儀礼のための浄めを行ったりする場合には、主に蒸し風呂を利用した。これは天幕の中に熱した石を置き、その上に水と大麻の種子を投じて酩酊作用のある湯気を作りだすものである。女たちはすり潰した香料と水でペーストを作って肌に塗り、次の日にそれを落すとつやつやして清潔になった。また祖先崇拝を含むシャーマニズムからは彼らの精神性のあり方を垣間見ることができる。動物文様が地域ごとに異なる様式が発達していたことから明らかなように、こうした文化的遺産はそれ自体が拡大していく中で発達したことがわかる。スキタイの織物は彼らが美術や技術の面でどれほど発達していたかを物語る重要な証拠を与えてくれる。ドーム型の屋根を持つフェルト製の天幕の存在は、繊維を圧縮することで生まれる一種の不織布であるフェルトの作り方をスキタイは知っていたことを示している。後代のステップの住民のなかではモンゴルがフェルト作りを実践したが、機織りはやらなかった。

 シベリアのアルタイ山脈西部にあるパジリク古墳(BC5世紀末~BC4世紀)で1949年に発掘が行われ、永久凍土の中で凍結したスキタイ型文化の痕跡が発見された。最も注目すべき発見は丹念に織られたおよそ2メートル四方の絨毯じゅうたんであり、BC383年~BC332年ごろにペルシャと中央アジアの境界地帯、現在のトルクメニスタンで作られたと考えられている。この絨毯のデザインはペルシャと中央アジアに共通するモチーフを特徴とする。ウマや騎手を描いた文様にウマの背を覆うブランケットは見えるものの鞍が描かれていない。パジリクの住民は西方の諸民族とは異なり、すでに鞍を用いるようになっていたことから、この絨毯は遠く離れたトルクメニスタンで織られたと考えられているのである。またこの絨毯は現代のトルコ結びと呼ばれる技術レベルの高い結び方(パイル織)で織られている。パイル織り絨毯の技術がこれほど早い時期にこれほど急速にステップ回廊の遊牧文明に広まっていたという事実は非常に重要である。


 スキタイ文化時代のステップ文化を特徴づける決定的な要素は、新たな技術改良によって騎乗する人間の戦闘能力を高めたことにある。それは木と角と腱でできた複合弓である。全長を短くしつつ引き代を長く確保するために複雑に屈曲した形をしている。この複合弓を用いることで馬上から高威力で正確に射ることができるようになった結果、弓騎兵がステップを席巻し、遥か彼方まで勢力を拡大できるようになった。遊牧戦士であった彼らは、小柄で頑強なブルジェヴァリスキーウマ(蒙古馬)を用いた。スキタイの他の有形文化としては、特殊なタイプの短剣、ダガー(ギリシャ語でアキナケス)と呼ばれる両刃の短剣、複雑な馬具、青銅や鉄でできた容器や武器、そして動物文様を施した美術品がある。スキタイの戦術は機動力、騎射の技術、そして伏兵や偽装撤退などの計略を組み合わせたものであった。これは火薬を用いた武器が本格的に使用されるようになるまで、ステップにおける必勝戦術の標準形となった。弓騎兵はウマを疾駆させながら鞍上で身をひるがえし、後方に向けて極めて正確に矢を放つ技術を持つことで知られていた。時代が下るにつれて、この技術はテュルクやモンゴルのものと見なされるようになった。しかし、その歴史的起源がインド・イラン語派の人びとにあったことは、英語で「捨て台詞ぜりふ」を意味するパルティアン・ショットという言い回しにうかがうことができる。古代イラン地方のパルティア人は今日のトルクメニスタンの住民であった。スキタイ文化の時代にはまだ帝国といえるような政治的に統一された大きな国は出現していなかった。しかし、部族ごとに組織された好戦的な遊牧社会を一つの巨大な連合体にまとめあげることを可能にする実践や思考が芽生えていた。ヘロドトスが「王族スキタイ」と呼んだカリスマを備えた支配的氏族という観念はすでに存在していた。支配層の墓が巨大であったことは、この観念の背景に厳格な階級社会が存在していたことを示唆している。ステップを支配するための手段や技術は力のある者であればだれでも機を見て利用することができた。その結果、支配が長期にわたって持続したかと思えば、不意に断絶して終焉を迎えることにもなった。



(スキタイとサカ)


 遊牧とは牧畜の一種で、定期的に牧地を替えながら移動する形態を指す。英語では遊牧民をPastoral Nomads という。現在、騎馬遊牧民の分布はモンゴル高原からアルタイ、天山山脈、カラコルム、ヒンドゥークシュ両山脈周辺に限られるが、かつては広く東はモンゴル高原から西はハンガリーのドナウ平原まで、東西8000キロにわたるユーラシア中央部の比較的平坦な乾燥地帯に分布していた。遊牧民はしばしばユーラシアの中央部に広大な領域を持つ国家を作り、隣接する東アジアや西アジア、さらにはヨーロッパにまで影響を及ぼした。スキタイはBC8世紀~BC7世紀に歴史の舞台に登場する。その場所はカフカス(コーカサス)、黒海北方の草原地帯、そして西アジアであるが、彼らの文化と極めてよく似た文化が中央アジア北部からモンゴル・中国北部にまで分布している。スキタイ系文化に特有の動物文様で装飾された工芸品には西アジアやギリシャ、中国など、古代の先進文明の美術様式も混入している。彼らは西方から取り入れたモチーフを東方に、またその反対に東方から西方にも伝播させた伝達者としての役割を果たしていた。

 その後、草原地帯西部では、スキタイ文化中期(BC5世紀)を経て後期(BC4世紀~BC3世紀初頭)になるとギリシャからの影響が顕著に見られるようになる。唐草のような植物文様がほどこされ、動物表現がより写実的になり、人間や神々が表現されるようになった。それはグレコ・スキタイ美術、すなわちギリシャ風スキタイ美術と呼ばれる。これらの作品は黒海北岸のギリシャ人植民都市のギリシャ人職人が作ったものと考えられている。この時期のスキタイの王墓についてヘロドトスが5世紀中ごろに記している。墳丘を築き、竪穴を掘り、遺体をミイラ化し、人とウマの殉葬などである。ヘロドトスによる葬儀や墓についての記述は、考古学的な検証によってかなり信用がおけると判断されている。


 スキタイ文化時代(BC7世紀~BC4世紀)には草原地帯の東から西まで若干の地方差はあるものの。かなり共通性の高い文化が広まっていた。しかし、このことはスキタイという単一の民族が広大な地域を支配していたよいうことを意味しているわけではない。スキタイはあくまでも北カフカス(コーカサス)から黒海北岸にかけて分布していた民族の名で、言語的にはイラン系であったと思われる。それより東方のカザフスタンからアルタイまでの民族はサカと呼ばれ、彼らもイラン系であったと思われる。さらに東のモンゴル高原から中国北東部にかけてはテュルク系あるいはモンゴル系が主流であったと考えられ、BC3世紀後半以降には匈奴と呼ばれた。このように言語や民族が異なっても、草原という同じような環境の中で移動性の高い騎馬遊牧民として類似した文化を持つようになったと思われる。


 古代の騎馬遊牧民は水と草を求めて定期的に移動する生活を送っており、都市や集落を造ることはなかったが、墓は立派なものを造った。とりわけ王侯クラスは地下深くに墓室を設け、その上を小高く墳丘で覆った。結局、彼らが我々に残してくれたのはお墓だけである。ところが残念なことに、考古学者が彼らの墓を発掘しても、余ほどの幸運にでも恵まれない限り、埋葬された当時のままの姿で残っているなどということはない。墓泥棒に先を越されているのである。しかし、盗掘はやりたい放題というわけではなかった。遊牧民は一般的に地面を掘ったり耕したりすることを嫌う。それは草原を傷つけたくないという気持ちと、土地に縛り付けられた農耕民を軽蔑する気持ちから来ている。また墓に葬られた人が自分たちの直接の祖先と認識するかどうかはともかく、墓を暴くという行為そのものを憎んでいた。したがって、草原で遊牧民が支配権を握っている間は、古墳がおおっぴらに盗掘されることはなかったようだ。



<サカの古墳> アルタイ地方を中心とした中央アジア 


 アケメネス朝ペルシャは中央アジアの騎馬遊牧民をサカと呼んだ。ヘロドトスは「歴史」の中で、ギリシャ人がスキタイと呼んでいるものと、ペルシャ人がサカあるいはサカイと呼んでいるものは同じだとする。つまり黒海北岸の草原地帯の騎馬遊牧民はスキタイ、中央アジアの草原の騎馬遊牧民はサカであるが、彼らの文化には多くの共通点があると同時に民族的にもイラン・アーリア系と見なされている。彼らの古墳は、クルガン(環状の石と墳丘で構成された墓)と呼ばれる。サカあるいはスキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルバシアという帽子をかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスという双頭の戦斧を携えていたと描写している。その騎兵はアケメネス朝ペルシャ軍の中核的な部隊の一つでもあった。ペルシャがギリシャを攻めたいわいるペルシャ戦争の際にも、ダレイオス1世やクセルクセス1世に従って出征している。ペルシャ戦争最後の大会戦だったプラタイアの戦いにおいても、ペルシャ側の騎兵の中では最もよく戦ったと評されている。


[チリクタ古墳群]BC6世紀ごろ

 中央アジアのサカの古墳で黄金製品が発見されて有名になったのはチリクタ古墳群である。それは現在のカザフスタン共和国と中国の国境地帯、バルハシ湖の400キロほど東で、ザイサン湖の100キロほど南にある。51基の古墳から成り、そのうち13基は直径が100メートルもあり、ユーラシア草原地帯の巨大古墳の中でも最大級の古墳が集まっている。このうち特に注目されるのが5号墳で、直径が66メートルと特に大きなものではないが、極めて重要な黄金製品が発見されている。深さ1メートルの木槨墓には男女の遺体が納められていた。男性は40歳~50歳くらいのコーカソイドで、女性は50歳~60歳くらいのコーカソイドとモンゴロイドの混血である。墓室の上に石を積み、それから粘土、次に小石混じりの土を被せ、表面には直径15センチほどの石を積んでいる。築造した時には直径45メートル、高さ10メートルの大きさであったと考えられている。

 発見された金製品は、14点のシカ形飾り板(矢筒用)、9点の猛禽形装飾、29点のヒョウ形装飾、5点のイノシシ形装飾とその破片7点、1点の魚形装飾などだった。全部で524点、100グラムになる。シカ、猛禽、ヒョウ、魚には、目などに石が象嵌されているので、埋葬用に作られたものである。シカの表現は黒海沿岸の初期スキタイ文化の古墳からの出土品とよく似ており、しかもさらに写実的である。その他の動物文様も極めて早い時期の様式を示している。またここで同時に発見されたやじりもスキタイ文化としては最も早い型式であり、動物文様の時期を裏付けている。このようにチリクタ5号墳から出土した遺物は、初期遊牧民文化の初期のもので、トゥバのアルジャン古墳群(BC8世紀~BC7世紀)に次ぐものと考えられ、BC6世紀ごろのものと思われる。そして大量の金製品を出土した墓としては、今のところ最も早い墓である。


[イッシク古墳群]BC5世紀~BC4世紀

 黄金製品を出土したことで有名なサカのもう一つの古墳は、バルハシ湖の東南にあるイッシク古墳群の中の古墳で、体全体が黄金で覆われたサカの王子と考えられている「黄金人間」が発見されている。黄金の小さな飾り版をびっしりと縫い付けた衣服を着け、頭の上にも被り物を飾った金製板が着いた状態で葬られていた。イッシク古墳群には直径30~90メートル、高さ4~15メートルの円形の墳丘が45基点在していたという。黄金人間が出土した「イッシク・クルガン」は直径60メートル、高さ6メートルであったが、発掘調査の後、工場が建設されたため現在は跡形もない。このイッシク・グルガンの他全部で4基の古墳が調査されているが、そのうちの3基はすでに盗掘されていた。イッシク・グルガンも中央に位置する埋葬は盗掘を受けていたが、南側の埋葬は幸運なことに盗掘を免れ、当時の状態をよく保存していた。黄金人間は墳丘の下の木槨墓の中に横たえられていた。身長は約165センチで、年齢は16~18歳、コーカソイドとモンゴロイドの特徴が混合しているようだ。そして左耳には金製耳飾り、首には金製首飾り、右脇に鉄剣、左脇には鉄製短刀を着けていた。墓室の中には、土器、木製の盆とスプーン、青銅製の鏡、金や銀製の食器なども納められていた。銀製の椀の底には25~26の文字が刻まれている。その言語は未だ解読されていないが、古トルコ語と東イラン語の方言と考える研究者にほぼ二分されている。これらの副葬品の型式からこの古墳の年代はBC5世紀~BC4世紀に位置づけられている。


[パジリク古墳群]BC5世紀末~BC4世紀

 カザフスタンの東部を流れる大河オビ川の上流で、アルタイ山脈の西端にあるザイサン湖から流れ出るイルティシュ川を越えると土地はにわかに隆起し、アルタイ山脈へと続く。アルタイにはスキタイ文化後期(BC4世紀)あるいはサカと結びつく遺跡が多い。その中でも特に重要なのが、凍結墓で有名なパジリク古墳群である。アルタイとは「黄金」を意味するトルコ語のアルトゥン、モンゴル語のアルタンと関係がある言葉である。その地では砂金が採取できた。現在でも金の採掘が行われている。そこは遊牧民族の地でもある。今はモンゴル系の人々が住むが、古代はイラン系のスキタイあるいはサカの人びとであったと推定される。スキタイ文化時代に造営されたアルタイの大型古墳には多くの金製品が副葬されていたと推定できるが、パジリク古墳群以外はすべて盗掘されている。

 BC5世紀末~BC4世紀のパジリク古墳群には、1929年に調査団が入り、比較的大きい5基の古墳のうち1号墳が発掘された。墓は盗掘されていたが、それは埋葬直後に行われ、金銀製品だけを持ち去ったようだ。その後、盗掘穴は凍結し、その他の有機物は冷凍状態で保存されることになった。1947年~1949年に残りの2号から5号墳も発掘され、すべて凍結古墳であることが確認された。そこからは、木製(白樺材)の四輪馬車、革製の鞍、色鮮やかな馬具装飾、ペルシャ風絨毯、巨大なフェルトの壁掛け、ウマの遺体、入墨された人の皮膚、など貴重な遺物が次々と出土した。壁掛けには椅子に座った人物(ロングドレスを着て、王冠をかぶり、生命の樹を手に持ち、玉座に座った女神)と、ウマに乗った人物(頭髪は天然パーマで、高い鼻のもとには立派なコールマンひげを生やし、ぴっちりした上着を着て、細身のズボンをはき、首には水玉模様の大きなスカーフを巻き、帯には弓と矢を一緒に入れるゴリュトスを吊るした男)が、女神の前に立つ王とが向かい合う場面が繰り返しアップリケで表現されている。人物の大きさはほぼ等身大である。四輪車はもっぱらウシが牽く荷車であることから、この四輪車は葬儀用のものと思われる。馬車はスピードを上げ、小回りが良くなければならないので、当時の技術では二輪車にするしかなかった。結局、古代中国には彼らの二輪車しか伝わらなかった。

 2006年には国境を越えた標高2600メートルのモンゴル領内で解けかかった凍結墓が発見された。5号墓の王と推定される被葬者は30~40代の男性で、髪はブロンドである。パジリク文化の美術的特徴は、全体的にはアケメネス朝ペルシャからの影響が大きいが、土着的要素も色濃く認められる。例えば、絨毯はペルシャ絨毯であるが、その文様には騎乗した騎士、ヘラジカなどスキタイとアルタイの特徴が現れている。また、ウマの鞍(当時はクッションのような軟式鞍)を覆っていたフェルト製の装飾にはグリフィンがヤギを襲う、後期スキタイ文化美術の特徴である動物闘争文様が表現されている。グリフィンとはライオンと鷲を合体させた空想上の動物のことで、古代ギリシャ世界が与えた名称である。しかし、古代ギリシャの時代よりはるか以前からメソポタミア・イラン・エジプト・エーゲ海地方などでも知られていた。それらの地域では独自の名称があったが、現在ではすべてグリフィンの名のもとに語られている。パジリクの鷲グリフィンには、アケメネス朝ペルシャと古典期ギリシャの両方の要素が入っている。ペルシャからの影響は中央アジア南部から天山を通ってアルタイに達したことは明白である。パジリクの年代はアケメネス朝ペルシャが存在した時代と重なることから、ギリシャの要素はギリシャ人植民都市のある黒海北岸から草原地帯を東へ辿り、アルタイに至るルートである。ところで、パジリク3号墳と5号墳からは、中国産の絹織物が出土している。また大型古墳ではないが、6号墳からは中国の戦国時代(BC470年~BC221年)の鏡が出土している。まだ中国が西アジアやギリシャのことを知らず、また西方でも東アジアの存在を知らなかった時代に、アルタイの人びとはペルシャともギリシャとも、また中国とも交流があったのである。ユーラシア中央の草原地帯には越えがたい大きな山脈や砂漠はない。ある程度大きな遊牧集団がなにがしかの通行税の代わりに通交の安全と治安を確保してくれれば、古代における東西間の移動にはこのルートが最も確実で簡単なのである。漢の張騫ちょうけんが開いたとされるタクラマカン砂漠を通るオアシス・ルートが使われるようになったのはBC2世紀末になってからのことである。張騫が大月氏のもとへ派遣されたのはBC139年である。



<スキタイの古墳> 北カフカス(コーカサス)から黒海北岸


 スキタイはBC7世紀ごろから黒海沿岸に居住していた遊牧民族である。黒海沿岸のスキタイ古墳から発見される豊かな黄金製金は良く知られている。スキタイにおける黄金への嗜好は、すでにその初期のころから始まっていた。スキタイ文化の初期の古墳は北カフカス(コーカサス)草原に多く見られる。現在発見されているスキタイ古墳の中で、BC5世紀と考えられているものは比較的少ないが、現在のウクライナの古墳から出土した矢筒の装飾板は枝角持つシカを大きく表わしている。猛獣が背中の上からシカに噛みつき、猛禽が尻を突き、ヘビが前から襲おうとしている場面が示されている。シカの枝角の先と尾には、それぞれ鳥の頭が見える。これはスキタイ動物文様の一つのジャンルである動物闘争紋の例である。動物闘争紋は初期のスキタイ動物文様には見られないがBC5世紀のスキタイ文化中期から見られるようになる。また枝角の先に鳥の頭が付くシカのような動物は、アルタイ山脈西部のパジリク文化や、さらに東の中国の北方などにも現れる。この頃の初期遊牧民の観念の中で大きな位置を占めていたのだろう。黒海北岸においてBC4世紀ごろと考えられる古墳は極めて多い。特にドニエプル川下流域に多く、王墓と考えられるような古墳からは夥しい量の黄金製品が発見されている。黒海沿岸にはギリシャ人の植民によるギリシャ都市がいくつも建設されていたが、この頃のスキタイの墓から発見される金製品の多くは、スキタイがギリシャ人の工人に注文して作らせたものと考えられている。


[ソロハ古墳]BC4世紀

 スキタイの王墓級の古墳のうち比較的早い時期の古墳としてはソロハ古墳がある。墳丘の高さが18メートルでスキタイ古墳として最大級もものである。中央と南西部に主体部が発見された。ここの出土品でよく知られたものとして、金製のくしがある。これは櫛歯の上の手で持つ部分に3人の戦士が戦う情景を立体的に表したもので、小型であるにもかかわらず衣服文様の細部まで精細に表現されている。真ん中の人物は馬にまたがり槍を持つ。背に盾を背負い、左腰にはゴリュトス(弓と矢を一緒に入れる入れ物)を下げている。かぶとを被り、身には小札こざねから成るよろいを着けている。その後ろにはスキタイ風の衣服をまとった徒歩の人物が盾と短剣を持ち、これもゴリュトスを左に着けている。馬上の人物の前にはウマが倒れ、頭巾を被り、盾と剣を持つ人物が相対している。


[トルスタヤ・モギーラ古墳]BC4世紀

 トルスタヤ・モギーラは近年に科学的に発掘された墓の中では、大量の豪華な副葬品が発見された墓として知られ、黄金製品は全部で4.5キロに達する。ここでは古墳の側方にあった未盗掘の墓室から若い女性(20歳~30歳)と小児(2歳くらい)の遺体が、衣服に縫い付けられた黄金の飾り板に覆われた状態で発見された。女性は冠を被り、首には金の首輪を着け、こめかみは黄金の垂れ飾りを着け、手には3つの金の腕輪、指には11個の金製指輪がはめられていた。その周りには、御者、護衛、料理女、小間使いが葬られていた。

 中央の墓室には鎧を着けた40~50歳の男性と、入り口近くに従者あるいは護衛と思われる人物、竪坑の東寄りには6頭の馬と少年1人を含む3人の馬丁が葬られていた。中央の墓室はすでに盗掘されていたが、盗掘者が見逃した部分から。金の装飾版で覆われた剣や、金製の胸飾りが発見された。胸飾りはギリシャ・スキタイ美術の傑作で、両端にライオンの頭が付き、本体は上中下の3段からなる構成になっている。下段は動物闘争文様である。中央に2頭のグリフィンがウマを襲う場面が3回繰り返され、その両側にはライオンがイノシシを襲う場面などが表されている。中段にはつるによって連続する植物文様が表され、上段にはスキタイの日常生活からと思われる場面が描写されている。中央には上半身裸の2人のスキタイ人が毛皮の上着をまとっている。各々の傍らにはゴリュドスが置かれ、その両側には牝馬の乳を吸う仔馬、ヒツジの乳を搾るスキタイ人、アンフォラの壺を持って座る若いスキタイ人などが配置されている。


[クリ・オバ古墳]BC4世紀

 クリ・オバ古墳はクリミア半島から東に突き出たケルチ半島にある。この古墳は切石で築かれた古墳で、1830年に発掘された。未盗掘であり、王と王妃と考えられる男女の遺体と召使いの遺体、そして夥しい量の副葬品が発見された。なかでも特筆すべきものが、エレクトラム(金と銀の合金)製の小型の壺である。その表面には数人のスキタイの人物が表されている。その図像をめぐっていくつかの説があるが、その一つは、ヘロドトスが記したスキタイの起源説話を表現したものというものである。英雄ヘラクレスはスキタイの地を訪れ、腰から下がヘビである女と共に暮らし、その地を離れるヘラクレスは身籠っていた女に、生まれる子供が自分と同様に弓を引くなどいくつかの課題を果たすことができればスキタイの地に住まわせ、できなければ追放せよと告げた。女からは3人の息子が生まれたが、成功したのは末子のスキュテスであり、彼がスキタイの祖先となったというのである。クリ・オバの壺には老いたスキタイが若いスキタイと向かい合う絵も描かれ、王権を授ける場面と考えることができる。いずれにせよ、このような黄金製の壺はスキタイ古墳から時折発見されており、何らかの儀礼的用途を持ったものと考えることができる。


[チョルトムリク古墳]4世紀後半

 チョルトムリク古墳は黒海北岸で最大の古墳(高さ20メートル、深さ12メートル)である。ヘロドトスの時代から1世紀が経っているが、その記述にほぼ合っている。王墓と見なされる墓は盗掘されていたが、その割には金柄鉄剣や弓矢入れの金製カバーなどの金製品が良く残っていた。北壁ぎわには青銅のふくが2点あった。この墓の主はアタイアス王であったと推定されている。彼の姿は自分で発行した貨幣に刻まれ、今も残っている。


 BC4世紀はスキタイ文化の最盛期であり、これらの豪華な副葬品を納めた古墳が多く造られた。しかし、BC3世紀には、東から同じく遊牧民であるサルマタイが移動してきてスキタイの領土に侵入し、BC3世紀半ばごろには黒海北岸の大部分はサルマタイの手に落ちる。スキタイはクリミア半島に押し込められた形で余命を保つことになった。


 以上のように、黒海北岸やアルタイの出土品は、スキタイ文化時代に明らかに王が存在したことを示している。しかし、文字を持たず、自らの歴史を語ることのなかった古代の騎馬遊牧民の王権や組織などの詳細は分かっていない。したがって、黒海北岸のスキタイについてはヘロドトスの「歴史」、アルタイ地方を含む中央アジアのサカについては、スキタイ文化の後の匈奴時代における司馬遷の「史記」から推測するしか方法はない。


 *匈奴については次のエピソードで述べる。



(サルマタイ)


 西アジアでは、アレクサンドロス大王がペルシャを征服して、中央アジアにまで進出したBC330年以降のヘレニズム時代になると、中央ユーラシア草原西部に関する文献資料が増えてくる。一方、東方でも漢が中国を統一して、その北方や西方にも勢力を拡大し始めたBC2世紀以降、中央ユーラシア草原東部に関する文献が急速に増大する。この時代、中央ユーラシア草原の西部ではサルマタイ、中央部では大月氏だいげっし、東部では匈奴きょうどが活躍していた。その始まりはヘレニズム時代の終末と一致し、その時代の大半はローマ時代と重なる。


 大型古墳の多さという点から見ると、スキタイはBC5世紀~BC4世紀の黒海北岸で絶頂期を迎えたということができる。絶頂期にあった黒海北岸のスキタイに終局をもたらしたのは、南ウラルの遊牧集団サルマタイであった。サルマタイ以前、BC7世紀~BC5世紀ごろ南ウラルにはサウロマタイと呼ばれる人びとがいた。サルマタイはBC4世紀初にカザフスタン西北部からウラル南部に移動してサウロマタイと融合し、BC4世紀以降は全体としてサルマタイと呼ばれるようになった。BC4世紀末にはドン川下流域、BC3世紀にはドニエプル川下流域に達し、BC2世紀には黒海北岸地域を制圧してスキタイを駆逐した。サルマタイはスキタイと同様にイラン系の言語を話す騎馬遊牧民である。その文化はスキタイとは多くの点で異なるが、サルマタイ文化も同時代の中央ユーラシア草原各地、匈奴や大月氏などに共通する象嵌技法などの要素を持っていた。ヘロドトスの「歴史」によれば、サウロマタイは女性だけの戦士集団アマゾンとスキタイの若者との子孫だという。一般的に遊牧民社会では女性の地位は農耕民社会よりも高いことが知られている。サウロマタイの南ウラルの遺跡では、女性の墓からしばしば青銅あるいは鉄製の鏃が出土する。一方、男性の墓からは剣か槍先が出土するので、女性は弓矢で、男性は剣か槍で武装したと考えられる。

 サルマタイはさまざまな部族集団に分かれていたようで、王族サルマタイをはじめ、アオルソイ、シラケス、イアジュゲス、ロークソラノイなどの名称が伝えられている。紀元後にはアラノイ(アラン)という集団が登場し、後に「阿蘭」として中国文献にも記録された。アラノイはサルマタイ文化の最後の担い手と考えられているが、最近ではサルマタイのさらに東方にいた類似のイラン系騎馬遊牧民だろうとも言われている。サルマタイの大集団はさらに西進を続け、ドナウ川流域でローマ軍と対峙し、またハンガリー平原にまで勢力を伸ばした。やがて紀元後4世紀にフンが黒海北方へ侵攻するにおよんでサルマタイは歴史から消滅した。

 サルマタイ文化はスキタイ文化と同様に動物文様を伴い、剣、槍、やじりなどの武器や馬具に特徴を持つが、彼らは地上に大きな墳丘を少ししか築かず、埋葬も比較的小さく、副葬品も簡素で、大規模な古墳と豪華な副葬品で知られるスキタイとは趣を異にしている。またパルティアと同様に人馬ともに鎧に身を包み、長い槍を携えた重装騎馬戦法を発展させたことでも知られている。


 サウロマタイの段階(BC7世紀~BC5世紀)ではまだ大型古墳は発見されていないが、サルマタイの初期のBC 4世紀になるとウラル川中流域に登場する。墓壙そのものは盗掘されていたが、隠し穴や羨道せんどうの中から木芯金張りの鹿像や金象嵌の鉄剣、木椀の縁につける装飾など多数の金製品、青銅製の大型の釜であるふくが発見された。鹿像は大きな枝角が目立つが、一つ一つの丸くなった枝を見ると、目・口・くちばしからなるグリフィンの頭部であることが分かる。この装飾法は後期スキタイ文化時代の美術の特徴である。他に、アケメネス朝ペルシャ製の金の壺や銀のリュトン(儀式用の角杯)が出土しており、この墓の主がペルシャと交流を持っていたことが分かる。BC1世紀から紀元後1世紀ごろ、黒海北岸地域を支配していたサルマタイはドン川下流域に中心を置いていた。彼らはトルコ石やザクロ石などを象嵌した多色装飾の動物文様による金製品を好み、またローマの銀製品やガラス製品を大量に輸入した。サルマタイの黄金文化を代表する古墳としては、ドン川下流域やクリミア半島北部などの古墳が挙げられる。副葬品に漢式鏡が含まれている古墳もあり、サルマタイはスキタイやローマばかりでなくペルシャや中央アジア、さらには中国とも密接な関係を持っていたことは明らかであり、ユーラシアの東西文化交流の結節点として大きな役割を果たしていた。その後、サルマタイはいくつかの部族集団に分かれてカスピ海北方から黒海北岸にかけての草原地帯を支配した。それは紀元後4世紀後半にフン族が来襲するまで続いた。


[ノヴォチェルカッスクの遺宝]紀元後1世紀

 1864年ドン川下流右岸の町ノヴォチェルカッスクで水道工事の際に金製品の一括遺物が偶然発見され、ノヴォチェルカッスク遺宝と呼ばれた。遺宝は、頭部がカメオでできた女性胸像を中央に配した特徴のある金製鉢巻き形冠、前部が3本の金製管の上下に文様帯で後部が4本の金製管から成る首輪、金製針金をらせん状に三重に巻いて両端を動物にかたどった腕輪、シカ形把手付き杯、壺形香油入れ、半球形の香油入れ、鎖付きの細長い物入れ、などから成っていた。それらには独特のサルマタイの動物文様が見られ、動物の体躯にはトルコ石などが象嵌されていた。それらはギリシャおよび東方の文化の影響を受けて独自に製作されたものであるが、同時に中央アジアやシベリアにいくつもの類例が知られていることから、中央ユーラシアに共通する騎馬遊牧文化の伝統があったことを明らかにしている。これらの遺物はホフラチ古墳に葬られたサルマタイ貴族の女性の副葬品に由来するものである。


 ***


 中央ユーラシアにおける人の移動は、石器時代には南から北へ、西から東へという流れであった。これは文明の発祥が西アジアであったから当然のことである。銅石器時代(BC6000年ごろ)から青銅器時代(BC3500年ごろ)になると、原インド・ヨーロッパ語族の拡散が大きな問題となる。南ウラルからカザフスタンにかけての地域から四方に拡大したとする説が有力ではあるが、騎馬が一般化した年代に関する論争が続いており、まだ明確になっていない。後期青銅器時代(青銅器・鉄器併用時代:BC1600年~BC1200年)に入ると、中央ユーラシア草原地帯における移動は、主に東から西へ、北から南へと行われることになる。その主役は軍事力に優れた騎馬民族であり、移動の直接的な原因は遠征・征服活動にあった。その背景には気候・環境の変化があった可能性もある。遊牧民と農耕定住民との闘争では、多くの場合遊牧民側が優勢であった。そのパワーバランスが逆転したのは、わずか300年ほど前の紀元後17世紀に西方にロシア帝国、東方に淸帝国が成立してからのことである。遊牧民の大移動は、ロシア・淸の二大帝国の成立とともに終焉を迎え、現在の国境線がほぼ確定した。


 BC5世紀からBC4世紀に、シルクロードができて、中央ユーラシアに初期の遊牧国家が出現したのと時を同じくして、周囲の古代国家の文化が最盛期を迎え、哲学などの著作が古代のギリシャ語、インド語、中国語で書かれた。ギリシャのソクラテス(BC469年~BC399年)、プラトン(BC427年~BC347年)、アリストテレス(BC384年~BC322年)、インドのゴータマ・シッダールタ(ブッダ:BC500年ごろが活動期)、サンスクリット語(梵語)の文法書を作り上げたパーニニ(BC350年ごろ)、マウリヤ朝の宰相カウティリヤ(BC321年~BC297年ごろが活動期)、そして中国の孔子(BC551年~BC479年)、老子(孔子と同時代)、荘子(BC369年~BC286年)、彼らは同時代の人であった。ギリシャ、インド、中国、これらの3つの文化がお互いに影響し合ったという考えは一般的には歴史学者によって退けられている。伝わったものを特定することが非常に難しいというのが理由である。しかし示唆するものはいくつかある。これら3つの地域には共通した政治的な特徴があった。特に、それぞれの地域の文化は多くの小さな国々によって担われており、その小さな国々はどこも他国を完全に支配することができなかった。また、これら3つの地域は間接的ではあるが、遊牧国家の発展によってもたらされた国際交易の増加の恩恵も受けていた。商業の発展は常に商人階級を成長させ、外の世界の思想を広める。この時代のこれら3つの文化の接触は陸路によるものである。中央ユーラシアは東アジアとギリシャ、インドとの間の単なる通路ではなかった。それは一つの経済圏で、それ自体が多くの地域、民族、国、文化を持ったひとつの世界であった。BC6世紀からBC5世紀初めには、北部の草原地帯のほぼ全域とその南の中央アジア地域の多くではイラン語が話されていた。そこに少なくとも二人の宗教思想家が中央ユーラシアから現れた。スキタイ人のアナカルシスはギリシャ人の母を持ち、ギリシャ語を話し、ギリシャ語で著述した。彼はギリシャに旅し、そこで有名になり、ギリシャ人によって古代の7賢人の一人とされ、初期のキュニコス学派と見なされた。また、有名なデモステネスはスキタイ人女性の孫だったため、しばしばバルバロイ(異民族)と差別された。ゾロアスター教の創始者であるザラスシュトラは、中央アジアのアムダリヤ下流域の出身とされるが、遊牧イラン・アーリア人が暮らしていた中央アジアのどこかの地域、特にパミール高原の出身である可能性も指摘されている。このような思想家は他にもいたと思われる。また、BC4世紀にアレクサンドロス大王がバクトリアを征服し、植民地化したことによってギリシャ哲学を含むギリシャ文化が中央アジアの中心部にもたらされた。

 交易は遊牧文化圏にとっても非遊牧文化圏にとっても重要であったが、遊牧国家にとってはなくてはならないものであった。しかし、交易の重要性は遊牧民の貧しさによるものではない。彼らは農耕国家の住民より食べ物もよく、生活も楽で、長命だった。東部草原の遊牧国家へは中国から逃れた人びとが常に流れ込んだ。同様に、多くのギリシャ人やヨーロッパ人が中央ユーラシア諸民族に加わって、故郷よりよい生活よい待遇を受けていた。中央ユーラシア人は奇襲をかけて打ち破るよりも、交易をして課税したほうが、はるかに利益があることを知っていた。したがって、中央アジアの都市の人びとも遊牧の人びとも交易に関心を持っていた。歴史上見られた破壊活動は、通常のことではなく例外であって、通常は正面からの戦争の結果として起こるものである。ギリシャと中国は中央ユーラシア諸都市のかなり正確な記述を提供してくれる。ヘロドトスの「歴史」とアレクサンドロスの遠征の記述、漢の武帝の時代の張騫ちょうけんの報告などである。ヘロドトスはスキタイを訪れているし、アレクサンドロスはバクトリアを征服しているし、またBC329年にはゾグディアナの中心都市マラカンダ(後のサマルカンド)を占領している。張騫ちょうけんはBC139年からBC122年にかけて東中央アジアの多くの都市を訪れた。中央アジアの都市はみな、山間部に源流を持ち砂漠で終わる河川の流域と扇状地での灌漑農耕に主に頼っていた。ゾグディアナに旅した古代の中国人は、その地について、極めてよく耕された農耕地帯で、多くの都市とものすごい数の戦士がいると語っている。都市には遊牧民と同じように内政的な目的のために戦士が必要であった。


 中央アジアの原始アーリア人は後年までアーリアを民族的な意味で用い、紀元後224年に成立したササン朝ペルシャ(紀元後224年~紀元後651年)は、自らの支配領域を中世ペルシャ語でエーラーン・シャフル(アーリア民族の帝国)と称している。また、ササン朝ペルシャはゾロアスター教を国教とした。ヨーロッパに移住したインド・ヨーロッパ語族は、自らをアーリアと名乗ることはなかったが、第2次世界大戦のときにナチス・ドイツがゲルマン民族はアーリア人であるとして極端な選民意識を持った。宗教的には、古代アーリア人の民族宗教を改革する形で、インド亜大陸ではバラモン教を形成したし、イラン高原ではゾロアスター教を生み出したし、中央アジアでもゾロアスター教の亜流が栄えた。しかし、紀元後8世紀~10世紀を境にして、アーリア人のユーラシア大陸中央部における覇権は終わり、新たにウラル・アルタイ語族に属するテュルク人の時代が始まった。テュルク人は中央アジア・モンゴル高原で遊牧生活を送っていた当時は、原始的なシャーマニズムを信奉していたと推測されるが、紀元後10世紀ごろにイラン高原に進出してからは、イスラムを受容し、その洗礼を受けた後で、アナトリアやインド亜大陸に進出した。しかし、アーリア人自身の民族宗教はバラモン・ヒンズー教、およびゾロアスター教として現在まで残った。

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