第129話 インドの黄金時代(初期帝国時代)、アショーカとカニシカ

<年表>

アレクサンドロス3世(大王)の侵入(BC326年~BC316年ごろ)

 BC330年、アレクサンドロス3世に追い詰められ、ダレイオス3世が暗殺されてアケメネス朝ペルシャが崩壊した後、アレクサンドロス3世は東征を続行し、ヒンドゥークシュ山脈北方の地を征服した後、BC326年の春に3万の兵を率いてインダス川を渡った。アレクサンドロス3世は征服地をいくつかの属領に分け、部下をその太守として置き、また臣従を誓った土着の有力国の王たちに旧領の支配を委ねた。しかし、BC323年にアレクサンドロス3世がバビロンで急死するとディアドコイ(後継者)たちの争いが始まり、さらにインド人の反抗も相次いだため、ギリシャ人の将兵はBC316年ごろまでにインドを去った。


マガダ国ナンダ朝(BC364年~BC317年)

 マガダ国に興ったナンダ朝(BC364年~BC317年)は、下賤の家系出身という非難をよそに豊かな富と巨大な軍事力を擁して、BC364年にインド史上初めてガンジス川流域はマハーパドマによって統一された。ナンダ朝の存続期間は2世代47年と短かったが、この時代に築かれた土台の上に次のマウリヤ朝の繁栄が実現した。アレクサンドロスがインダス川を渡ったのはガンジス川流域でナンダ朝が栄えていたときだった。


マウリヤ朝(BC321年~BC185年)

 マウリヤ朝はチャンドラグプタによってガンジス川流域を支配領域とするマガダ国のナンダ朝に代わって建国された史上初のインド統一帝国である。チャンドラグプタの孫にあたる3代目のアショーカ王はインド亜大陸の大部分を一つの政体の統治下にまとめあげ、マウリヤ朝の絶頂期を創り出した。


シュンガ朝(BC186年~BC75年)

 BC2世紀に入ると、マウリヤ朝の統合力は弱くなってくる。それまで支配下に甘んじてきた王国も独自性を主張し始め、そしてついにマウリヤ朝の総司令官だったプシャヤミトラ・シュンガがアショーカ王の孫ブリハドラタ(在位:BC221年~BC185年)を殺害し、新しい王朝を宣言した。だが、マウリヤ朝の領域内での文化的、イデオロギー的な結びつきはすでにほどけており、新しく興ったシュンガ国の領土はガンジス川流域の中心地域だけにとどまった。その後、ガンジス川流域ではBC75年にカーンヴァ朝がシュンガ朝に取って替わった。


カーンヴァ朝(BC75年~紀元後30年)

 カーンヴァ朝の後、ガンジス川流域ではクシャーナ朝の一時期を除き、紀元後319年成立のグプタ朝まで統一政権は生まれなかった。


クシャーナ朝(紀元後30年~紀元後375年)

 クシャーナ朝の始まりは、権力の重心がガンジス川流域からインド北西部に移動したことを明確に表している。これによって中央アジアとインド亜大陸が一つの政体に組み込まれ、それまでと大きく異なる社会、政治、経済システムが出現することになった。紀元後2世紀には、第3代ウィマ・カドフィセース(在位:紀元後105年~127年)と第4代カニシカ1世(在位:紀元後127年~147年)の下で地域の覇権を狙うようになった。特に、カニシカ王の治世には仏教僧院の数が増大した。複数の信仰を認め、保護するというクシャーナ朝の特徴は、美術品にも明確に現れている。紀元後225年に王国は東西に二分され、その15年後には、ササン朝ペルシャがクシャーナ朝の西半分を支配した。クシャーナ朝は紀元後375年まで中央アジアで勢力を持ち続けたが、その後、北インドで暴れまくるエフタル人に滅ぼされた。


グプタ朝(紀元後319年~紀元後6世紀半ば)

 クシャーナ朝が衰退するにつれて、インド北西部ではマハラジャやラージャが支配する小国が林立した。そんな君主の一人チャンドラグプタ1世(在位:319年~335年)は「諸王の王」を意味するマハラジャ・ディラジャというクシャーナ朝の尊称を復活させ、息子のサムドラグプタ(在位:335年~375年)とともに武力でガンジス川流域の古王国を次々と支配下に置いた。次のチャンドラグプタ2世(在位:380年~413年)の治世の388年から409年にかけてグプタ朝は一連の軍事遠征を行い、アラビア海からベンガル湾までのインド北部を支配下に入れ、中央集権国家を築いた。グプタ朝時代はインドの古典期とも呼ばれ、インド帝国の絶頂期だったと言ってもいいだろう。今もインド人の多くが「ヒンドゥーの黄金時代」と呼んで思いをはせるグプタ朝は、ヒンドゥー教で統治する統一国の下、美術、文学、建築、宗教、音楽、詩が花開いた時代だった。


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(ペルシャのインダス川流域支配とアレクサンドロスの侵入)


 BC6世紀中ごろ、ガンジス川流域でマガダ国が発展を続けていた頃、北西インドでは16大国の一つガンダーラ国が栄えていた。ガンダーラ国の都タクシャシラー(タクシラ)はインドと中央アジア・西アジアを結ぶ交通路上の要衝であるとともに、学問の中心としても知られていた。BC6世紀後半、このガンダーラ国はアケメネス朝ペルシャの支配下に入った。またBC6世紀末にはその南のインダス川流域が征服され、ペルシャ帝国の属州に加えられた。この属州は人口が最も多く、他の州よりもはるかに多くの砂金を毎年ペルシャ王に献じていたという。BC5世紀初頭のギリシャ・ペルシャ戦争の際、ギリシャに侵入した軍の中にはインド人部隊が加わっていた。2世紀におよぶペルシャの北西インド支配は、この地にさまざまな影響を与えた。そうした例として、ペルシャの貨幣とその重量基準に倣った貨幣が流通したこと、アケメネス朝ペルシャの公用文字の一つであるアラム文字に起源するカローシュティー文字が使用されたことなどがある。BC330年、アレクサンドロス3世に追い詰められ、ダレイオス3世が暗殺されてアケメネス朝ペルシャが崩壊した後、アレクサンドロス3世は東征を続行し、ヒンドゥークシュ山脈北方の地を征服した後、BC326年の春に3万の兵を率いてインダス川を渡った。しかし、パンジャブ地方の東端にまで兵を進めたギリシャ軍は、インダス川の東にガンジス川という大河が流れていること、その流域に歩兵20万、騎兵2万、二輪戦車2000、象3000を擁する大国が存在することを知った。ナンダ朝支配下のマガダ国(BC364年~BC317年)である。アレクサンドロスはさらに軍を進めようとしたが、長い過酷な遠征に疲れた将兵らに反対され、断念せざるを得なかった。その後、アレクサンドロスの軍隊はインダス川に沿って南下した後、二つに分かれ、海路と陸路を辿ってバビロンに帰還した。

 アレクサンドロスの東征に従軍した者たちが残した記録によると、BC4世紀後半のインダス川流域には部族制を採用する勢力が乱立していたが、その一方で、タクシャシラー(タクシラ)に拠ったアーンビ王の国や、その東南に位置するポロス王の国のような有力な王国も存在していた。ポロス王はアレクサンドロス軍に敗れたが、その後臣従を誓い、王の地位に戻された。アレクサンドロスはバビロンへの帰還にあたり、征服地をいくつかの属領に分け、部下をその太守として置き、また臣従を誓った土着の有力国の王たちに旧領の支配を委ねた。しかし、BC323年にアレクサンドロス3世がバビロンで急死するとディアドコイ(後継者)たちの争いが始まり、さらにインド人の反抗も相次いだため、ギリシャ人の将兵はBC316年ごろまでにインドを去った。 



(ナンダ朝マガダ国)BC364年~BC317年


 アレクサンドロス3世の北西インド進入時にガンジス川流域を支配していたのは、パータリプトラに都を置くナンダ朝であった。ギリシャ側の文献はこの王朝のアグランメス王について、王位簒奪者である理髪師と王妃の間に生まれた子で、身分がいやしいため人民から嫌われ軽蔑されていると伝えている。インド側の多くの文献もナンダ朝を下賤の家系としている。その一つで正統派バラモンが伝える伝承文献は、不法でシュードラ(隷属民)に等しいナンダ朝の王によりクシャトリアの諸王統が根絶されたと嘆いている。要するに、マガダ国に興ったナンダ朝は、下賤の家系出身という非難をよそに、豊かな富と巨大な軍事力を擁して、インド史上初めてガンジス川の全流域を制覇することに成功したのである。また、BC1世紀ごろデカン高原北東部のカリンガ地方(現在のオリッサ州)を支配していたカーラヴェーラ王の碑文によると、ナンダ朝はこの地方にも進出し、運河の建設などを行ったという。そうであれば、ナンダ朝の時代にマガダ国の支配はデカン高原の一部にまで及んでいたことになる。ナンダ朝の存続期間は2世代47年と短かったが、この時代に築かれた土台の上に次のマウリヤ朝の繁栄が実現した。



(マウリヤ朝)BC321年~BC185年


<チャンドラグプタ・マウリヤ>

 マウリヤ朝は史上初のインド統一帝国というのが一般的な認識である。BC4世紀、ガンジス川流域で起きた王国間の紛争から抜け出して勢力を伸ばして王朝を開いたチャンドラグプタ・マウリヤ(在位:BC321年~BC297年)は、アレクサンドロス大王の北西インド遠征で生じた権力の空白に乗じ、ガンジス川流域を支配領域とするマガダ王国のナンダ朝に代わって主導権を握って王になり、BC321年にマウリヤ朝を建国した。BC321年から数十年をかけて、西はヒンドゥークシュ山脈からインダス川流域、東はブラマプトラ川とガンジス川のデルタ地帯、北はヒマラヤ山脈の麓から南はデカン高原までの広大な地域を征服し領有したチャンドラグプタ・マウリヤは、南アジア史上初の帝国を成立させた。ギリシャ側の文献は、チャンドラグプタをサンドロコットスの名で呼び、彼が下賤な生まれであったと伝え、またこの人物はインド人をギリシャ人から解放したが、今度は自分が圧迫者となってインド人を奴隷状態においたとも伝えている。同じギリシャ文献によると、チャンドラグプタの兵力は、歩兵60万、騎兵3万、象9000、二輪戦車数千におよんでいたという。チャンドラグプタはさらに、BC305年ごろ、アレクサンドロスの東方領の奪還を目指して進軍してきたセレウコス朝シリアの王セレウコス1世ニカトル(在位:BC305年~BC281年)の軍を迎え撃った。戦いはチャンドラグプタ側が優勢だったようで、講和で500頭の象と引き換えに、現在のアフガニスタンの東半分を含むインダス川より西の地の支配権を獲得している。またこの講和を機にセレウコス1世の娘がマウリヤ朝の宮廷に入った。両王朝の間には使節の交流も行われ、セレウコス朝からは見聞記「インディカ(インド誌)」の著者として名高いメガステーネスが派遣されている。この見聞記の原本は失われたが、ギリシャやローマの著述家たちの作品に引用された断片から、そのおおよその内容が復元されている。


 マウリヤ朝に関して得られる知識は、限られた文献、「アルタシャーストラ(実利論)」とメガステーネスの記述、それにアショーカ・マウリヤの碑文が唯一の情報源である。「アルタシャーストラ」はいわば政治論で、チャンドラグプタ・マウリヤの宰相カウティリヤが編纂したと広く信じられている。マウリヤ朝形成期だったBC4世紀の成立だが、理論書として書かれた意図はなく、チャンドラグプタ・マウリヤの宮廷に参内したセレウコス朝シリアの大使、メガステーネスの記録が裏付けとなっている箇所が多い。チャンドラグプタの孫アショーカが建立した王塔や自然の岩に刻んだ勅令石からは、王国の領土の拡がりや人種構成、行政の特徴を知ることができる。

 以下は「アルタシャーストラ」から、チャンドラグプタ・マウリヤの宰相カウティリヤが王の責務について記した政治論の一節である。

「国を繁栄させるには、外交的に非干渉を貫くか、もしくは明白な行動主義を実践するしかない・・・王が要塞を築き、灌漑を行い、交易路を整備し、新しい集落を建設し、象の森や実りをもたらす森を造り、新しい鉱山を開くことで国は前進する。同様の事業を行う敵を阻止することもまた前進である」


「アルタシャーストラ」は王国の理想化された姿を詳細に述べており、BC4世紀マウリヤ朝の政治、軍事、経済戦略を支えた哲学を知ることのできる貴重な文献である。近隣諸国は全て敵で、同盟を組めるのは遠く離れた国だとカウティリヤは述べる。また、強い王国は「宿敵」で、弱い王国は「滅ぼすべき」で、内紛を抱える王国は「脆弱」で、自国のように繁栄した王国は軍事行動や秘密工作を巧みに組み合わせて弱い国への支配を強めるのが責務とも述べる。それが形成期マウリヤ朝の哲学だった。マウリヤ朝が北インドに急速に勢力範囲を広げたことを考えると、ただ理論に留まらず、実践された哲学であることがわかる。さらに、征服後につくる新しい属州の組織化と行政についても助言する。王子などの王族を統治者に任命することを推奨するが、彼らは危険をはらむ存在であるという警告も忘れない。後継者争いが戦争に発展し、属州同士が武力でぶつかることもあるからだ。

 チャンドラグプタは24年の治世の後、息子のビンドゥサーラに王位を譲った。ジャイナ教の伝承によると、ジャイナ教の敬虔な信者であったチャンドラグプタは退位後に行者となって南インドに赴き、その地でジャイナ行者の理想とする断食死を遂げたという。第2代のビンドゥサーラ(在位:BC297年~BC272年)の業績についてインド側の史料はほとんど何も伝えていない。ギリシャ側の文献は、この王をアミトロカテースの名で呼び、彼がセレウコス朝シリアのアンティオコス1世にブドウ酒と干イチジクと哲学者を送ってくれるよう求めたという話を伝えている。


<アショーカ王>

 ビンドゥサーラは25年の在位の後没し、その子アショーカが王位を継ぎ、BC272年にマウリヤ朝の第3代の王になった。仏教の伝説によると、アショーカは嫡子ではなかったが、王子時代に属州の太守として実力を蓄え、父王の死後に長兄をはじめ脅威となる兄弟を排除して王位に就いたという。それはまさにカウティリヤの警告にあったように血みどろの戦いだった。アショーカ(在位:BC272年~BC235年)は即位すると、インド亜大陸を完全に征服するために、北インドに最後に残る独立国で、デカン高原北東部にあるカリンガ国の併合をもくろむ。副王時代にタクシラ統治で経験を積んでいたアショーカは情け無用の猛攻撃をしかけ、その治世8年目に制圧したが、死者10万人、追放者15万人を出した。そのため、「暴虐アショーカ」と呼ばれ怖れられた。カリンガ戦争の勝利によって、半島南端部を除くインド亜大陸全域が支配下に入った。しかし、自分が引き起こした惨状に胸を痛めたアショーカは、この戦争を機に方針を大転換する。カウティリヤの教えから離れ、仏教のダルマ(法・義務・正義)の理念に基づいて暴力を捨てた。仏教に帰依してからは、その善政により「ダルマ・アショーカ」と呼ばれるようになったという。ダルマとは、インドの思想の根本概念の一つで、真理・法・義務・正義・規範など広い意味に使われる語である。

 以下は石に刻まれたアショーカ王の勅令である。

「神々に愛されし者として神格化されて8年後、ピヤダシ(アショーカ)はカリンガを征服した。15万人が追放され、10万人が殺され、負傷者はその何倍にもなった。・・・カリンガ征服後、神々に愛されし者は良心の呵責にかられた。なぜなら独立国が征服されたときに起こった殺人、死、追放が余りに痛ましく、神々に愛されし者の心に重くのしかかったからだ。・・・神々に愛されし者は、ダルマによる勝利こそが最高の勝利だと考える。・・・この勝利は600ヨジョナ(1500マイル)も離れた国境地帯、ギリシャ王アンティオコス、・・・プトレマイオス、アンティゴノス・マガス、アレクサンドロスも含めた4人の王の領土で成し遂げられた」


 カリンガ族が征服された直後から後悔の念にさいなまれたアショーカ王は、「他国に攻め入れば殺戮と死が生まれ、その土地に住む民を追放しなければならない。これほどわが身をいらむものはない」と自ら書き残し、それ以降、戦争による領土拡大をやめ、自国の民に手を差し伸べて汚名を注ぐ活動に着手し、勅令によって民にバラモン教から仏教への改宗を告げた。改宗に伴い、国策の手段としての戦争を放棄し、世の中の問題の解決策として人間の仁愛を取り入れ、動物の虐待を含むあらゆる暴力を禁止した。そして仏教を奨励し、インド中への布教を支援する傍ら、他の宗教も寛容に扱うことを求めた。領民に対し、寛大さと公正さ、そして慈悲の心を持つよう説いた石碑や石柱がインドの各地に残っている。

「神々に愛されし者、ピヤダシ(アショーカ)王は語る。ダルマは良いものである。ではダルマとは何か? それは誤りがほとんどなく、善行と慈悲と仁愛、誠実と清浄に溢れていることである」


 一方、アショーカ王は勅令の中で、すべての宗教に対する保護を宣言し、自分の信仰している仏教をバラモン教やジャイナ教などと対等に扱っている。このようにアショーカ王は、統治の理念であるダルマが何れの宗教の教義とも矛盾せず、また何れか一つの宗教の教理でもないことを表明しているのである。信仰の自由、自己克服、そしてすべての国民と指導者が互いに耳を傾け、意見を交わす必要性、男女の別なくすべての人に人権を認めること、そして教育と健康の重視など、アショーカ王が国内で広めた考えは、いずれも仏教思想の根幹に残っている。


 平和を望んだアショーカ王は、ガンジス川沿いの首都パータリプトラを拠点に国を治め、交易の要所や行政の中心を結ぶ主要な道路を建設した。またアショーカ王は、全国のあちこちに高さ9メートル、直径1メートルの大きな石柱を建てた。そこに刻まれた勅令の一つは次のようなものである。

「民にどうすれば幸せをもたらし得るのかを余は考える。自分の親族や首都の住民だけでなく、遠く離れた場所にいる人びとに対してもである。あらゆる人に余は同じ方法で接する。あらゆる階級に同じように心を配っている。さらに、余はすべての宗派にさまざまな供物を奉げて敬意を表してきた。しかし、私の主たる義務は民のもとを個人的に訪ねることだと考える」

 石柱は今日の都市の広場に見られる公共の彫刻のように、幹線道路の脇や都市の中心部に建てられた。柱に刻まれた主要な勅令は7つあることが現在わかっている。これらの勅令は後に公用語となるサンスクリットではなく、日常会話で使われるその土地の方言で書かれている。アショーカ王の思想はマハトマ・ガンディーの理念にまで直接つながる伝統となり、それは今日も脈々と受け継がれている。多元主義、人道主義、非暴力の国政術である。

 政治力に長けたアショーカ王の新路線が成功を収めたことは、スリランカに覇権を拡大したことでもよくわかる。アショーカの息子はスリランカの宮廷に仏教を広めた。アショーカの勅令には、近隣のヘレニズム諸国にも使節を送ったとなっているが、仏教が中央アジアや東アジアに普及したのはクシャーナ朝(紀元後30年~375年)になってからである。アショーカ王はダルマの政治が永遠に存続するように願って勅令を石に刻ませたが、その死後ほどなくマウリヤ朝の崩壊が始まると、その理想は忘れ去られた。


 マウリヤ朝の美術や建築はほとんど残っていない。当時の偶像破壊的な伝統を反映してか、マウリヤ朝の王たちの肖像は全くないが、勅令を刻んだアショーカの王塔だけは現存して当時を伝えている。王の哲学が凝縮されたこの塔の柱頭には象、牡牛、獅子、馬などの飾りが置かれて、ペルシャの様式を思わせるところがある。マウリヤ朝の都パータリプトラで発掘された矩形くけいの柱付き広間は、ペルシャのアパダナ(柱で飾られた玉座の間)とも共通点がある。上流階級のためのこうした建築には及びもつかないが、レンガ造りの商家は中庭を囲むようにして部屋が連なっている。

 仏教遺跡のほうは数多く残っており、アショーカ王が建立したサーンチーやタクシラには大規模な石造りの仏塔がある。仏教史上重要な場所に建立されたり、ブッダやその弟子の聖遺物を納めたりした仏塔は、高さは10メートルにもなり、建立に王朝の関与があったことは間違いない。ブッダが最初に説教を行ったとされるサールナートの聖堂など、仏塔に付属する小規模な建物となると数が少なくなる。


[サーンチーの大仏塔]

 北インド中部の小村サーンチーにマウリヤ朝建築の至宝とも言える「大仏塔」がある。BC3世紀、アショーカ王は王国全土に8万4000基もの仏塔、つまり仏教の聖遺物を納めた塚状の記念建造物を建立させたが、その一つがこの大仏塔だ。直径20メートル、高さ8メートル、BC2世紀に破壊された後、2倍の大きさに再建され、頂上の平たい部分に3層の傘蓋さんがいが追加された。これは仏教の3つの宝、すなわちブッダ、法、僧を象徴する。BC1世紀には、東西南北に面する4つの塔門と石造りの手すりが追加された。この門はトラナと呼ばれ、高さは10メートルに達する。無人の王座、仏足石、傘蓋などブッダの象徴の他、ブッダの生涯の重要な場面、人びとの生活とブッダの関わりを示すものなどが彫刻されている。これらの彫刻は功徳を願う人々の寄付によって作られた。寄進者のお気に入りの話が、名前と共に彫刻されているところもある。但しそこでブッダは人の姿では描かれない。ブッダの偉大な精神は、人間の形に収まりきらないのだ。BC1世紀末には、大仏塔はインド最大の仏教遺跡になっていた。


 アショーカ王はインド亜大陸の大部分を一つの政体の統治下にまとめあげ、マウリヤ朝の絶頂期をつくりだした。古代研究者は、マウリヤ朝が都パータリプトラを中心に、大官や王が任命した副王たちの組織を活用した中央集権体制だったのではないかと推測している。そうした階層的な行政機構の頂点は、広さ1350ヘクタールで巨大な木造要塞に守られた都パータリプトラであり、次にタクシラ、ウッジャイン、トーサリーなどの属州の都が位置する。さらにその下に、ビタをはじめとする地方の町や村が属した。市場取引や貨幣鋳造といった活動は上位の都市に限定され、小さい町や集落は農業だけに従事していた。しかしながら、マウリヤ朝はこれまで言われていたほど強力な中央集権制ではなく、中央集権というよりは、社会、宗教、文化的なネットワークのまとめ役だったと考える研究者もいる。


[マウリヤ朝の都パータリプトラ]

 紀元後1世紀、ローマの哲学者アリアノスはその著書「インド誌」の中で、マウリヤ朝の都パータリプトラの壮大さを記録している。もっともその内容の大半は過去の著作、なかでもセレウコス朝シリアの大使としてチャンドラグプタ・マウリヤの宮廷を訪れたメガステーネスの文章をまとめたものだ。

「インド最大の都市は、プラシオイ人の支配域にあるパリンボトラ(パータリプトラ)で、エランノボアスとガンジスの流れが一つになる所にある・・・メガステーネスによれば、この都市の両側には長さ80スタディア、幅15スタディアの居住区域が広がっており、それを囲む掘割は幅6プレトラ、深さ60キュービットもある。城壁には64の門が設けられ、上には570本もの塔がそびえる」


 マウリヤ朝は地域単位でばらばらだった王国群を、中央政体を軸にした王国や首長国、王朝の集まりにまとめ上げた。マウリヤ朝が現代的な意味での帝国だったかどうかは議論の分かれるところだが、文化面での影響は、特に主要交易路沿いで広範に及んだ。王朝創成期に宰相カウティリヤが実行した暴虐的な征服戦略は、BC3世紀にはアショーカ王によって仏教の法に基づいた方法に路線変更された。マウリヤ朝の中央集権と、周辺地域の仏教化を両輪とすることで、アショーカ王は祖父をはるかに上回る勢力範囲を獲得した。多様な宗教、言語、民族を一つに融合するというアショーカの手法は、今も南アジアの統治者にとって理想の形であり、インドが大英帝国から独立したとき、新国家がアショーカの王塔を国の紋章に選んだのも偶然ではない。



(シュンガ朝)BC186年~BC75年、(カーンヴァ朝)BC75年~紀元後30年


 BC2世紀に入ると、マウリヤ朝の統合力は弱くなってくる。それまで支配下に甘んじてきた王国も独自性を主張し始め、アフガニスタンで勢力を持っていたヘレニズム王国も南へ範囲を広げようとした。そのような状況の中、インドの伝説的史書であるプラーナ文献によれば、マウリヤ朝の最後の王となるアショーカ王の孫ブリハドラタ(在位:BC221年~BC185年)を殺害したマウリヤ軍の総司令官プシャヤミトラ・シュンガはシュンガ国を建てた。だが、マウリヤ朝の領域内での文化的、イデオロギー的な結びつきはすでにほどけており、新しく興ったシュンガ国の領土はガンジス川流域の中心地域だけにとどまった。シュンガ朝は、アグニミトラなど9王が継承して、計10王112年間この王朝が続いたという。

 マウリヤ朝の崩壊後に興起したデカン高原のカリンガ王国やサータヴァーハナ王国は、優れた統治体制の下でガンジス川流域の国家を凌ぐ実力を示した。これ以降、古代・中世を通じてマウリヤ朝に匹敵する国家が出現しなかったのは、マガダ国の発展期に見られたような地域的格差が存在せず、対等な実力を備えた地域国家が並立したからである。マウリヤ朝がインド史上に果たした役割は、インド亜大陸の後進地域の経済的・社会的・文化的発達を促し、その後の時代における地域性を特色とする歴史の展開を推し進めたところにある。

 その後、ガンジス川流域ではBC75年にカーンヴァ朝がシュンガ朝に取って替わったが、この王朝は弱小な地方政権に過ぎず、インド北西部は徐々にクシャーナ朝(紀元後30年~375年)の支配に入っていった。シュンガ朝の滅亡から、紀元後319年のグプタ朝の成立に到る約400年間、ガンジス川流域ではクシャーナ朝の一時期を除き、流域全体を制覇する国家は現れなかった。



(クシャーナ朝)紀元後30年~紀元後375年


 クシャーナ朝の始まりは、権力の重心がガンジス川流域からインド北西部に移動したことを明確に表している。これによって中央アジアとインド亜大陸が一つの政体に組み込まれ、それまでと大きく異なる社会、政治、経済システムが出現することになった。BC2世紀には中央アジアの小国に過ぎなかったクシャーナ朝が、ウィマ・カドフィセース(在位:紀元後105年~紀元後127年)の下で地域の覇権を狙うようになったのは紀元後2世紀のことで、それから紀元後375年まで勢力を持ち続けた。遊牧民族のクシャーナ人は父祖の地を追われ、現在のアフガニスタンであるバクトリアに定住した。その後、カシミール地方に勢力を広げ、紀元後2世紀にはローマ帝国と漢に挟まれた緩衝国の役割を果たしていた。古代世界に君臨した二大強国の間の真空地帯で、クシャーナ朝はこれらの国を結ぶ交易路の支配を強めることができた。この交易路がシルクロードである。ウズベキスタンのダルヴェルジンとアフガニスタンのベグラムに要塞を築いて防御を固めたクシャーナ人は、交易路を通過する商人たちから通行料を徴収した。そのことは、ローマ帝国のガラス器や金属工芸品、中国の漆器がベグラムで大量に見つかったことからもわかる。ガンジス川で作られた象牙細工がベグラムの宝庫にあった事実は、クシャーナ人が南アジアに向かう交易路も支配下に置き、ジャムナ川沿いのマトゥラー、タクシラ渓谷のシルスフ、それにペシャワールをカイバル峠への入口として管理していたことを物語っている。


 クシャーナ朝の歴史は、残された貨幣や中国の文献でのあいまいな記述から構成するしかなかった。ところが1993年、アフガニスタンのラバータクで発見された碑文によって、我々の知識は飛躍的に増えることになった。バクトリア語で書かれたこの碑文には、クシャーナ朝歴代君主の他、カウシャーンビーやパータリプトラなど北インドのクシャーナ朝属州の都市一覧が記されていた。さらに碑文の内容を裏付けているのが、盗掘で見つかった多数の文書や書簡だ。そこにはパキスタン北部から中国西域のオアシス都市トルファンまで、シルクロード沿いの都市所有の詳細な記録があった。バクトリア文字が広く普及し、一般的に使われていたことは、クシャーナ朝統治下で発達し、行政官や隊商の共通語となったバクトリア語の影響力を物語る。


 既存の町を活用したマウリヤ朝と異なり、クシャーナ朝の拠点の多くは一から築いたものだ。ガンダーラのタクシラ渓谷ではヘレニズム時代から続くシルカップの町が放棄され、その近くに新都市シルスフが建設された。シルフスの大きさは1370x1000メートルで、厚さ5.5メートルもの城壁は上部が丸みを帯びている。都市の配置や城壁の特徴は中央アジアの軍事利用を目的とした建築との強い関連を感じさせる。ただ城壁内からは生活堆積物の厚い層が見つかっていないので、シルスフは広範囲の監視を行う移動部隊の拠点だったのかもしれない。ベグラムやダルヴェルジン・テペでも同様の都市計画が確認されている。クシャーナ朝は要塞化した拠点づくりに力を傾注していた。そこから推測できるのは、反抗が起こり易い地域を支配していたこと、そしてシルクロードを中心とした交易ネットワークを統制し、要所を管理するために機動力を重視していたことである。シルクロードの支配権は、漢、中央アジアの王国、ローマ、パルティアが常に狙っていた。しかし、クシャーナ朝が大陸間交易ネットワークの仲介国として力をふるったことで、産品の移動だけでなく、美術や建築、宗教、哲学の交流も促進された。


<カニシカ王>

 クシャーナ族は本来、中央アジア系の遊牧民で、中国では「月氏げっし」と呼ばれていた人びとである。月氏は前漢(BC206年~紀元後8年)の時代にモンゴル高原にいたが、匈奴に追われて西に移動し。そこから南進しオクサス川(アムダリヤ川のギリシャ語名)周辺に定住した、オクサス川の南はバクトリア地方である。月氏はそこを支配した。その後、インド北西部のカシミール地方に勢力を広げた。漢は彼らの王国を「大月氏」と呼んでいる。彼らはイラン・アーリア系民族と考えられている。この王朝を最大の版図に広げたのは第3代ウィマ・カドフィセース(在位:紀元後105年~紀元後127年)の息子カニシカ1世(在位:紀元後127年~紀元後147年)で、彼はマウリヤ朝の3代目アショーカ王(在位:BC272年~BC235年)以来の古代大帝国を築くことに成功し、彼自身も「転輪聖王」と呼ばれている。カニシカ王自身は拝火教徒であったらしく、彼が建造した神殿の跡に拝火壇があった。その硬貨には拝火壇に手を差しのべる彼の姿が刻まれている。しかしこの王朝の下で、新思想である仏教やジャイナ教も、旧思想であるバラモン教(ヴェーダの宗教)も、共に刺激を重ねながら発展した。

 軍事建築では好みの様式がはっきりしていたクシャーナ朝だが、宗教に関しては特定のものを押し付けるのではなく、地域の主要な信仰を奨励する道を選んだ。カニシカ王がアフガニスタンのスルフ・コタルに建設した大規模な祭儀殿は、王家の彫像と拝火教の神殿を組み合わせたものだったが、その一方で南のペシャワールには大きな仏塔を造っている。カニシカ王が発行した貨幣にもそうした特徴が現れている。カニシカ王はヘレニズムの神ヘリオス(ギリシャ神話の太陽神)、イランの神、ブッダとともに描かれ、ギリシャ文字で説明が記されていた。カニシカ王の治世は仏教僧院の数が増大したことも特徴である。複数の信仰を認め、保護するというクシャーナ朝の特徴は、美術品にも明確に現れている。マウリヤ朝が基本的に偶像を避ける傾向にあったのと対照的に、クシャーナ朝は個人を描くことに重きを置いた。この頃、仏像を多く手掛けるガンダーラ美術やマトゥラー美術が登場したのも偶然ではないだろう。ガンジス川中流域に位置するマトゥラーは、元はジャイナ教の重要拠点だったが、クシャーナ朝南部の副都になったときに仏教寺院や仏塔が建設された。ブッダ像や菩薩像を盛んに製作したクシャーナ人は、自分たち人間の姿も作品の素材にした。剣と儀式用の杖を持った実物大のカニシカ王を描いたものもある。クシャーナ人は仏教を柱に据えつつ、少数派の信仰も保護した。それは地域ごとに異なる住民を一つの王国に組みいれようとするクシャーナ朝の手法だった。


 マウリヤ朝は王都を一つしか持たなかったが、二つの地域にまたがって多様な民族、宗教、言語を抱えるクシャーナ朝は、複数の都を設ける必要があった。夏の都はベグラム、冬の都はマトゥラーに置き、それ以外の時期はペシャワールを都とすることで、統治者は中央アジアと南アジアの間を毎年行き来していた。また権力の中枢を北から南に移すことで、異なる地域の統一を可能にするとともに、個々の都市は王族から出す副王や総督に統治させた。ペルシャやヘレニズムの伝統に神聖な王権という概念を融合させることで、クシャーナ朝の王は国家運営の柔軟性を高めたのである。

 ヴァースデーヴァ1世(在位:紀元後191年~紀元後225年)の死後、王国は東西に二分され、紀元後225年以降のクシャーナ朝の記録はあいまいで、しかもほとんど残っていない。その頃イラン高原ではパルティアが倒されササン朝ペルシャが開かれた。それから15年後には、ササン朝はクシャーナ朝の西半分を支配した。紀元後270年には主要都市ペシャワールやタクシラもササン朝の手に落ち、ガンジス川流域も紀元後3世紀後半にはインドの諸王に明け渡した。クシャーナ朝は中央アジアのわずかな領土が残されたとはいえ、もはや新興勢力の属国に過ぎなかった。クシャーナ朝は紀元後375年まで中央アジアで勢力を持ち続けたが、その後、北西インドで暴れまくるエフタル人に滅ぼされた。エフタルは「白いフン族」とも呼ばれており、インド人やペルシャ人は、中国北方にいたフン族の一派と見なしていた。


 アレクサンドロスの東征によって地中海世界とインドはヘレニズム世界の東西の端を形成することになり、両者の間に交流が生まれた。パルティアがその中間に位置して交流を妨げたが、それは海路による交流を促すことになった。ストラボンによると、インダス川流域のポロス王がローマの皇帝アウグストゥスに使者を送っている。西暦開始前後に季節風を利用する航法が発見され、その後ローマ世界とインドの交易は最盛期を迎えている。ローマからはガラス製品、ブドウ酒、金貨が、インドからは胡椒こしょう、染料、綿布、宝石、象牙製品がそれぞれ輸出されている。

 クシャーナ朝は各地域の伝統を尊重し、保護することで南アジアと中央アジアの融合に成功した。またインドで、偶像彫刻という分野を新たに創造し、南アジアで初めて王の肖像を描いたのもクシャーナ朝だった。クシャーナ朝の明確な軍事・政治機構や肖像入り貨幣、それに地域の習慣や伝統を採り入れる戦略は、現代の南アジアとほとんど関連がない。今の南アジアは、むしろマウリヤ朝やグプタ朝の影響を色濃く受けている。それでも仏教がシルクロードを通って中央アジアから中国に伝わり、さらにその先の朝鮮半島や日本列島にまで到達したのは、クシャーナ朝の時代があったおかげだ。またこの時代に、インドの宗教界に大きな変化が起きた。仏教の中に大乗仏教が生まれ、バラモン教がヒンドゥー教に変身した。菩薩の存在を重視し、悟りを開くことよりも衆生を救うことを優先する大乗仏教と呼ばれる仏教の新しい流れは、南アジアに伝わって行った小乗仏教と異なり、ヘレニズムやペルシャの概念が根づいている。浄土信仰、阿弥陀信仰にはエジプトやギリシャの死後の楽園の思想やメシア(救世主)思想の影響があると考えられる。また仏像は初期には場面を構成する一要素にすぎなかったが、クシャーナ時代に礼拝用の像となった。この大乗仏教の普及は、東アジアの後世の王朝形成に大きな影を落とした。クシャーナ朝で盛んになった大乗仏教は、王国よりも遥かに長い生命を得たのである。

 バラモン教は、バラモン(神官・司祭)中心の祭式を重視する宗教であり、ヒンドゥー教は、民衆中心の信仰を重視する宗教である。アーリア人に発するバラモン教に古い土着の信仰や新しい外国の影響が入り始めたのだ。こうしてインドの神界は一新した。インドラやアグニは影を潜め、シヴァやヴィシュヌや女神が台頭した。ヒンドゥー教を基礎づける文書「ラーマ―ヤナ」「マハーバーラタ」「プラーナ(古伝承)」が成立したBC2世紀から紀元後2世紀はヘレニズム時代に重なる。ユダヤ教からキリスト教が現れたのも同じ時代である。ユダヤ教は律法を重視し、キリスト教は愛を重視する。大乗仏教、ヒンドゥー教、キリスト教が時を同じくして出現したのは偶然ではないだろう。ギリシャのヒューマニズム、つまり人間重視の精神がこれらの出現を促したのだと思われる。



(グプタ朝)紀元後319年~紀元後6世紀半ば


 紀元後200年過ぎにクシャーナ朝は衰え始めると、インド北西部ではマハラジャやラージャが支配する小国が林立した。そして100年後、そんな小君主の一人チャンドラグプタはリッチャヴィ王朝の娘と結婚して持参金としてマガダ王国をもらう。グプタ朝を創建したチャンドラグプタ1世(在位:紀元後319年~紀元後335年)は「諸王の王」を意味するマハラジャ・ディラジャというクシャーナ朝の尊称を復活させ、息子のサムドラグプタ(在位:紀元後335年~紀元後375年)とともに武力でガンジス川流域の古王国を次々と支配下に置きながら、南方の国々からは貢ぎ物や宗主権を奪っていった。チャンドラグプタ1世は、マウリヤ朝の開祖であるチャンドラグプタとの血縁などの関係はなく、ただ名前が同じなだけである。

 サムドラグプタが直轄していたのはガンジス川流域だけで、あとはインド東海岸に沿って属国が連なっていた。次のチャンドラグプタ2世(在位:紀元後380年~紀元後413年)の治世の紀元後388年から紀元後409年にかけてグプタ朝は一連の軍事遠征を行い、アラビア海からベンガル湾までのインド北部全域を支配下に入れ、マウリヤ朝のアショーカ王以来の完全な統一を再現した。

 チャンドラグプタ2世は軍事活動と並行して政治的戦略も実施し、自分の娘を南のデカン高原のヴァーカータカ朝に嫁がせて南側国境の安定を図った。また、西部には副都ウッジャインを建設して、インド洋に面した西海岸で新たに併合した港への交易路を確保している。これらの港は地中海や西アジアと取引を行い、香辛料、胡椒こしょう白檀びゃくだん、真珠、半貴石、あい、薬草などを輸出して、アラビア産の馬、エチオピア産の象牙、さらにマダガスカルやザンジバルからの産品も輸入していた。また、東海岸の港は、いわば海のシルクロードの拠点であり、中国や東南アジアと幅広く交易していた。

 中央集権国家を築き、社会経済だけでなく、宗教面でもマウリヤ朝のアショーカ王の理想を実現したグプタ朝時代は、「インドの古典期」とも呼ばれ、美術や建築、サンスクリット語による詩作が栄えたことでも知られている。仏教も大乗仏教の全盛期に入る。この形勢は紀元後476年、西ローマ帝国が滅亡してインドと西欧との交流が途絶え、インドが鎖国化し、グプタ朝が衰退し始める紀元後500年ごろまで継続する。マウリヤ朝の古都パータリプトラを中心とするインド北東部も仏教が優勢だったが、グプタ朝時代が終わる紀元後6世紀半ばごろにはヒンドゥー教信仰が復活し、封建的な土地所有が根づいていた。これは、グプタ朝は自ら寺院を建設し、バラモンに土地を与えたり、アシュヴァメーダなど仏教以前のヴェーダの供犠を蘇らせるなどして後押ししたからだ。ヴェーダの供犠の復活とともに息を吹き返したのがサンスクリット文学で、チャンドラグプタ2世の宮廷は「宝石」と呼ばれた9人の宮廷詩人の作品で彩られた。今日でも広く読まれているのは「カーマスートラ」で、この書は単なる性愛指南書というよりも、グプタ宮廷での厳格な行動規範である。また文献によるとグプタ朝の領内にはヒンドゥー教寺院が数多く建てられたことになっているが、建物はほとんど現存していない。しかし、仏教関係の記念建築物の多くが今も健在で、アジャンターにあったヴァーカータカ朝の石窟寺院や僧院には、王子や貧者たちの生活を詳細に描いたフレスコ画があり、サールナートの大仏塔や、世界最古の大学の一つナーランダ大学なども残っている。


[アジャンター石窟寺院]

 アジャンター石窟群は、BC200年ごろから850年ほどの間、仏僧や職人がこの石窟に住み、仏教の絵や彫刻などを施していった。踊るようなしなやかな姿のブッダの化身が表現されている。中にはゾウの姿をしているものもある。均衡と精微を極めたインド古典芸術の最高傑作である。寄進者の銘が刻まれていることから、装飾の多くは寄進によって作られたことがわかる。しかし、インドでヒンズー教が仏教に取って代わると、石窟は放置された。再発見されたのは、およそ1200年後の1819年、イギリスの将校ジョン・スミスが訪れたときだった。


 スカンダグプタ(在位:紀元後455年~紀元後467年)が紀元後467年に世を去ると、30年もしないうちに従属国による防御網は崩壊し、北西インドのエフタルはガンジス川流域の中核地域に侵入し始め、グプタ朝は紀元6世紀半ばに崩壊する。インド亜大陸が再び統一されるのはイスラム教が出現してからになる。グプタ朝はクシャーナ朝と同様に、国際交易を資金源とし、ヒンドゥー教のみならず、仏教、ジャイナ教、さらには地方の信仰も保護することで過去の伝統を維持・再生することを目指した。グプタ朝は紀元後6世紀半ばまで続き、繊細な政治的バランスが保たれ、信教の自由が保障されたことで豊かな文化が生まれ、多種多様な宗教や背景を持つ美術と文学が豊かに咲き誇った。その黄金時代のヴィシュヌ神などの彫像は、後のインド芸術の様式の礎となる。またサンスクリット語が公用語として確立され、儀式や文学で使われた。グプタ朝は再びヒンズー教を国教とし、豪華絢爛な寺院の建設を進めた。

 マウリヤ朝は初のインド帝国であり、現代のインドの起源であるとすれば、グプタ朝はインド帝国の絶頂期だったと言ってもいいだろう。今もインド人の多くが、それ以前のクシャーナ朝などのいわゆる外来民族王朝による支配、あるいはその後の諸王朝への分裂状態と対比させて、「ヒンドゥーの黄金時代」と呼んで思いをはせるグプタ朝は、ヒンドゥー教で統治する統一国の下、美術、文学、建築、宗教、音楽、詩が花開いた時代だったのである。


 ***


 古代南アジアに出現した数々の初期帝国は、先人の業績を土台にして広大で異質なインド亜大陸を舞台に共通の統治と文化を確立しようとした。なかでも注目すべきはマウリヤ朝、クシャーナ朝、グプタ朝の多様性だろう。それぞれの王朝だけでなく、同じ王朝でも君主の違いが際立っている。これらの王朝はすべて起源が異なり、支配の確立と維持に用いた手法も、中央集権的ではあったが、異なっている。とりわけ注目すべきは統治の背景となるイデオロギーだ。影響力拡大の手段として武力を用いる王もいれば、仏教を拠り所にする王もいた。マウリヤ朝、クシャーナ朝、グプタ朝が続いた時代はインドの黄金時代とも呼ばれ、この時出来上がった帝国的な数々の特徴が、それから2000年におよぶ南アジアの歴史を形作ることになる。


 BC2世紀から紀元後5世紀ごろまでの約700年間は、古代インドに大帝国が成立し、中央集権化が進行していった時代であるが、この時代にインドの哲学・宗教は、前代の自由な諸思想に刺激されて、伝統的な諸思想の間でも二つの大きな再編成の動きが起こった。一つは、仏教やジャイナ教の持つ強い民衆性・普遍性に対応して、自らも民衆性と普遍性を持とうとするものであり、この動きはヒンドゥー教として結実する。もう一つは、仏教やジャイナ教の本質にある強力な思弁力・体系性に応じて、自らも思弁力と体系化とを備えようとするもので、これは6つの哲学学派、すなわち「六派哲学」として形成された。ヨーガ学派はその一つである。


[ブラーフミー語とサンスクリット語]

 インドでは、BC400年ごろからアラム文字に由来するブラーフミー文字(梵字)の使用が開始された。インドには200以上の文字があるが、すべてブラーフミー文字ただ一つから派生したものであり、ブラーフミー文字そのものは西アジアのセム系文字から派生したものである。ブラーフミー文字の解読は18世紀末に始まる。まず中世諸王朝の碑文が、続いてグプタ朝(紀元後319年~紀元後6世紀半ば)の碑文の解読がなされ、1837年にイギリス人ジェームズ・プリンセプがアショーカ王碑文の解読に成功している。解読の手掛かりとなったのは、北西インドを支配したセレウコス朝シリアの属国でその後独立したバクトリアのインド・ギリシャ人王朝(BC2世紀~BC1世紀)が発行した銀貨の銘文であった。その銀貨の表にはギリシャ文字、裏にブラーフミー文字あるいは北西インドや中央アジアで用いられたカローシュティー文字が刻まれていた。カローシュティー文字の解読も、1830年代までに成功している。

 ブラーフミー文字の使用が始まった時代は、ガンジス川中流域に都市が興り、商業活動が活発化した時代だった。貨幣の使用もその頃に始まったが、貨幣面には多種多様な文様が見られるだけであり、文字が刻まれることはなかった。マウリヤ朝の領内で盛んに流通した歴代の王の貨幣も例外ではない。貨幣面に文字が現れるのは、ヘレニズム王国の影響があったインド・ギリシャ人王朝の銀貨になってからのことである。

 また、BC350年ごろ、パーニニがリグ・ヴェーダに遡るサンスクリット語(梵語)の文法書を作り上げた。サンスクリット語は後のグプタ朝に至るまで、インドの公用語として西のギリシャ語やラテン語に匹敵する役割を果たし続けた。バラモンの言葉であるサンスクリットに対して、民衆の言葉をプラークリットと呼んだ。初期の仏典で使用されたパーリ語はプラークリットの代表格である。小乗仏教がプラークリット語を用いたのに対し、大乗仏教はサンスクリット語を用いた。

 紀元後18世紀にサンスクリット語がインド・ヨーロッパ語族であることが確認されてから、研究者は古代ヨーロッパとインドの関連を見つけ出すことに力を入れ始め、初期インドのテキストの翻訳が飛躍的に進んだ。そうした翻訳が、インド初期帝国の社会・政治組織の理解の土台になっている。特に重要だったのはアショーカ王の勅令や、おびただしい量のグプタ朝文学であり、さらにこの地域を旅したギリシャ、ローマ、中国の大使や兵士、巡礼者の証言が補足的な役割を果たす。考古学的な証拠と矛盾するすることが多いのは、テキストでは古代インドの生活が理想化されているからである。それでも現代インドから振り返る「黄金時代」は少しも色あせない。

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