第128話 帝政ローマの始まりアウグストゥス、そしてパクス・ロマーナ

<年表>

BC29年 オクタヴィアヌスがアントニウスに勝利し、エジプトからローマに帰還

BC27年 オクタヴィアヌスはアウグストゥス(在位:BC27年~紀元後14年)と称され、実質的に初代ローマ皇帝となる。

BC27年~紀元後180年 パクス・ロマーナ(ローマによる平和)

紀元後326年 皇帝コンスタンティヌスが、かつてのビザンティオンの地に、新しい都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)を建設

紀元後395年 ローマ帝国が東西に分裂

紀元後476年 西ローマ帝国の滅亡。東のコンスタンティノポリスに西ローマ皇帝の冠と紫衣が送られる。


 ***


(アウグストゥス)


 ローマの政治闘争はBC2世紀以降、徐々に激しさを増していった。対立は暴力を伴うようになり、ついには内乱へと発展した。権力を徹底的に集中させない限り、ローマが領有する広大な地域を治めるのが困難なのは誰の目にも明らかだった。果てしなく続くと思われた一連の内乱は、ついにローマの人びとに平和への渇望を生み出した。オクタヴィアヌスがアントニウスに勝利し、BC29年にエジプトからローマに帰還すると、この国の単独の支配者となった。その後、「王」とは名乗らないものの、次第に全権を掌握していった。彼が得たインペラトル(軍最高司令官)、アウグストゥス(崇高なる人、あるいは尊厳なる者)、ポンティフィクス・マクシムス(大神祇官)、パテル・パトリアエ(国父)などの称号は、すべて彼の権威を高めるものであった。


 カエサルの暗殺でも、またアントニウスの死でも、ローマの共和政の崩壊にブレーキはかけられなかった。没落した貴族階級と、自分の利益しか考えない高官たちは、強力な統治者を求めたが、必ずしも独裁官を求めたわけではない。独裁官は、当時でさえ恐怖と戦慄を吹き込んだ。彼らが求めたのは市民の第一人者、すなわちプリンケプスだった。若いオクタヴィアヌスが政治的に巧妙に動き回ったのか、それともこのようような役割を演じなければならない状況に追い込まれたのかは分からないが、事実はこうだ。オクタヴィアヌスは共和政ローマの伝統と法律の背後で、少しずつ無制限の権力を掌握したのである。特別な全権を基礎にして、オクタヴィアヌスは単独支配権を合法的に獲得したが、その際元老院に対しては、元老院が常に世界帝国を治めていると信じさせた。これに対して元老院は繰り返しオクタヴィアヌスに敬意を表してその労をねぎらった。市民の第一人者は、元老院から「アウグストゥス(崇高なる人)」を与えられ、「神なるカエサルの息子」となり、祖国の父「ポンティフェクス・マクシムス」となった。オクタヴィアヌスは養父カエサルの弟子たちから、次のことを学んだ。すなわちオクタヴィアヌスは、決して人に圧力をかけることなく、人びとの方から彼に圧力をかけさせたのだ。その結果オクタヴィアヌスは人びとの圧力に負けて、つまり人びとから推されて、皇帝の役割を演じることになったのである。

 後世の歴史家たちはこの年、BC27年を正式な「帝政」時代の始まりとし、アウグストゥスを初代皇帝と位置付けている。彼にならって、後に続く皇帝たちも「アウグストゥス」という称号を名乗ることになった。皇帝の称号といえば、「エンペラー」の語源となった「インペラトル(軍最高司令官)」や、「カイザー」や「ツァーリ」の語源となった「カエサル」が有名だが、むしろこの「アウグストゥス」の方がローマ皇帝を表わす正式な称号といえる。


 ローマの知識人たちは、芸術も哲学も古代ギリシャを師と仰いだ。それでもエジプトの知識人たちからはかなり水を開けられていた。しかしローマ帝国の遠い属州まで平和をもたらしたオクタヴィアヌスは、共和政ローマの遺産を守り通しただけでなく、それを拡大した。しかし領土的には、東方のアルメニアやパルティアには手を出さなかった。まずは地中海世界の統治と安定を重視した。オクタヴィアヌスの使命感を、詩人のウェルギリウスは次のように歌っている。

“他の民なら青銅で、美しい姿を作ったり、大理石から生き生きとした表情を、彫り出すかも知れない。より上手に法律を論じたり、コンパスで星の軌道を計算したり、星の出る時間を正しく伝えたりするかも知れない。しかしローマ人よ、汝は世界の民を支配することを考えよ。そこにこそ汝の技がある。そして礼節と平和を作り出せ、被征服民をいたわり、頑固に抵抗する者を打ち砕け”


 ギリシャ人が科学や芸術の分野で人類の歴史に偉大な貢献を果たしたのに対し、ローマ人は主に「実用的な分野」で優れた才能を発揮した。確かにローマ法や都市、道路の建設など、古代ローマが残した文化遺産はその後の社会に大きな影響を及ぼしている。しかし、何よりもローマ文明の最大の功績は、ローマという巨大帝国の統治システムそのものの中に凝縮されていると言ってよいだろう。そして偉大なるローマ帝国の統治システムは、そのほとんどが優秀な一人の男によって創り出されたように見える。カエサルの妹ユリアの孫で養子、オクタヴィアヌスがその人物である。その理由は彼が優れた政治的宣伝(プロパガンダ)能力の持ち主だったところにある。歴代のローマ皇帝の中でアウグストゥスの肖像が飛び抜けて多く残されていることを見ても、彼とその側近たちの卓越した宣伝能力がうかがえる。


 ローマは「すべての者に共通の世界」を創りあげた。価値観、役割モデル、各種基準、法律、通信手段といった枠組みを統一することで、中央と周縁の距離は大幅に縮まった。おかげで地方のエリートたちは偏狭な地元の縛りから逃れ、ローマの貴族社会にのし上がっていくことも可能になった。ごく初期のローマの支配は後世とはかなり異なる様相を呈していた。勢力拡大を続ける強国にありがちなことだが、共和政時代は従属地から貢納物や税を取り立てることに血眼になっていた。BC2世紀には、ローマに代わって税を集める徴税請負人が、属州から金を搾り取る極悪非道ぶりで地中海全域で知られていた。こうした強欲な共和国から、立派と言えないまでも悪意の薄れた帝国に変貌したのは、一人の男の功績だと言っても過言ではない。それが初代ローマ皇帝アウグストゥス(在位:BC27年~紀元後14年)である。ローマ帝国史の中で、アウグストゥスの治世は文字通り分水嶺となっていて、「アウグストゥスの敷居」と呼ばれているほどだ。

 初代ローマ皇帝アウグストゥスは晩年に著した「業績録」の中で、共和政ローマが君主国に転換したときのことを記している。このとき彼自身の名前も、「神の子」ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスから、徳が高くローマ世界唯一の支配者アウグストゥスへと変わっている。6度目および7度目の執政官を務めていたBC27年、オクタヴィアヌスは強大な権限を元老院とローマ市民に返還すると発表した。その引き換えに数々の名誉を得たのだが、元老院から与えられたアウグストゥス(崇高なる人)という称号もその一つだ。「このときから私はあらゆる権威の上に立った。但し、公職を務めたどんな同僚よりも権限は小さかった」、これが本人の弁である。

 BC23年に執政官を退いた後も、執政官と同等の権限を獲得し、元老院では彼の提案に優先権が与えられた。BC12年には養父のカエサルと同じく、宗教面での最高職である大神祇官にも就任した。市民による選挙制度は存続していたものの、現実にはすべてに要職にアウグストゥスが決めた人物が選出されていた。


 ユリウス・カエサルは明らかに君主政への野心を持っていたが、そのせいで命を落とす。養子であるオクタヴィアヌスは同じてつを踏むわけにはいかなかった。元老院を構成する貴族たちは派閥に分かれて内部抗争に明け暮れていたものの、王政への強烈な嫌悪だけは足並みが揃っていた。オクタヴィアヌスがアウグストゥスとなって採用した政体は、正確には君主政ではない。共和政の仕組みは廃止されなかったし、新たに導入された元首政(プリンキパトゥス)は、偽装した君主政というだけではすまなかった。アウグストゥス自身は全く役職に就かず、ただ責任だけを引き受ける。月桂冠や黄金の「勇敢の盾」「市民冠」など、目に見える栄誉の品は自宅入口に取り付けた。これらはすべて共和政の伝統に根ざしている。君主政を創出するのではなく、共和政を「回復」したというのが、アウグストゥスの主張だった。彼はプリンケプス「市民の第一人者」になることで、他の執政官より大きい権限を持つことなく、「あらゆる権威の上に立った」のである。


 事実上の専制君主だったとはいえ、アウグストゥスは自らを皇帝とは呼ばせず、プリンケプス(市民の中の第一人者)という称号にこだわり、市民が政治に積極的に参加するローマ社会の理念を踏みにじることはしなかった。アウグストゥスの治世は善政で知られている。例えば、属州に派遣する役人の報酬を給料制として不正な蓄財を排除したり、共和政時代の伝統や祝祭を復活させたり、道徳的なモラルの確立などがこの時代の大きな特徴の一つである。このような厳格さに加えて、長らく平和が保たれ、優れた建築物が次々に完成したことなどを考えると、アウグストゥスの時代が後世から高く評価されるのも当然のことといえるだろう。この時代は、内政上の安定と彼が帝国全土にもたらした平和の双方の点で、ローマ史における転換点となった。こうして紀元後180年まで続くパクス・ロマーナ(ローマによる平和)と呼ばれる時代が始まった。アウグストゥスは41年の統治の末に77歳で天寿を全うした。紀元後14年に亡くなった後、ユリウス・カエサルと同じく神格化された。



(パクス・ロマーナ)BC27年~紀元後180年


 パクス・ロマーナとは、BC27年のアウグストゥスの実権掌握から、207年後の皇帝マルクス・アウレリウスの死去まで続いた平和な時代を指す。この安定と繁栄が続いた要因は、アウグストゥス自身のローマ軍内での人気と国境防衛の確立、行政改革の推進、よく考えられた帝位継承のおかげである。バラバラだったローマ帝国領内の司法制度はアウグストゥスの下で統一され、インフラの整備が進められた。

 BC31年からBC30年にかけてアントニウスとクレオパトラ連合軍に勝利したアウグストゥスはローマ軍を縮小する。それでも削減される側の将兵の反発を買わなかった。除隊となった兵士にはローマ市民権と土地を与え、帝国全土へ入植させたのだ。さらに紀元後6年には20年間の兵役を務め上げた兵士への退職金も保証した。アウグストゥスは35万~40万の兵士から成る常備軍を創設した。軍務に就くことは義務ではなくなり、兵役期間は長期に及んだ。9コホルス(歩兵大隊)から編成されるアウグストゥスの親衛隊も新設された。ローマ本国における皇帝の警護はプラエトリアニ(親衛隊)に任せ、不安定な属州や辺境には新兵を配置するように改めた。当時のローマには恒久的な官僚機構がなく、指示に従わない役人や組織も多かった。そこでアウグストゥスは政策決定の迅速化を図るべく、アウグストゥス自身と執政官(コンスル:国政の最高責任者)、按察官(アエディリス:警察行政と公共建築造営の責任者)、財務官(クアエストル:徴税と財政の責任者)、法務官(プラエトル:裁判権を有する司法の責任者)、これらの役職を含む15人の元老院議員で構成される現在の内閣のようなコンシリウム・プリンキピス(皇帝顧問会議)を創設する。

 属州においては、共にアントニウスと戦った腹心のマルクス・アグリッパとともに課税と徴税を公平にするために定期的な国勢調査を導入した。アグリッパはBC21年に義理の息子となる。ローマ市民が払う税金には、土地や人に課される直接税と、港でかかる税金などの間接税の2種類があった。アウグストゥスはこの徴収業務を地方の役人に任せ、さらに実際に税を徴収するのは民間の徴税請負人に行わせた。徴税請負人は定められた税金を地方の役人に前金で支払い、そこに利益を上乗せした金額を人びとから徴収する仕組みにした。それはまさに民営化である。ローマと属州の連絡を良くする街道の建設にも資金が注がれた。これらの幹線道路は規格が統一され、道路の中央部が僅かに盛り上がっていた。そうすれば道路に降った雨は路肩に流れ、路面には水が溜まらないようになる。街道を行き交う旅行者は1ミレパッスム(1480メートル)毎に道標を目にし、先を急ぐ伝令は一定の距離で馬を乗り換えることで、1日で160キロ以上を走破できた。街道の警備も行われ、旅行者を盗賊から守った。


 ローマの版図が拡大するにつれて、元老院の役割はますます形式的なものになり、民会は完全に消滅した。ローマの属州には元老院属州と皇帝直轄属州の2種類がある。元老院属州の総督は元老院が任命し、皇帝直轄属州の長官は皇帝が任命した。属州総督や属州長官の任務は属州の秩序を維持することである。帝国の全盛期には外敵からの攻撃はほとんどなかったものの、領内での反乱や騒乱は絶えなかった。総督や長官は毎年属州内の都市を巡回して揉め事を解決し、裁きを下した。不服がある属州民はローマに行って直訴することもできた。交易や取引、土地をめぐる紛争は、属州の財務長官や、小さな属州の場合は長官がプロクラトル(皇帝代理)として解決した。皇帝の日々の業務は、官邸で臣民からの嘆願を聞き、官吏や将校からの報告書を読み、財政を確認し、信頼できる人物を行政官に登用することだった。候補となる人物を評価するため、皇帝は彼らを夕食に招待したり、訴訟の判決を下す際に助言を求めたりした。帝国の上級役人に成れるのは、信頼に足る元老院議員、騎士階級(エクィテス)、そして自由民である。騎士階級出身者も元老院議員と同様に皇帝に仕え、領地や財政の管理を担った。騎士階級は成功した実業家や大地主が多く、第三の政治勢力となる。騎士階級の官職任命は元々執政官の役目だったが、アウグストゥスの時代になって皇帝が直々に行うようになる。

 このようにアウグストゥスの優れた才能は、支配者としてローマを統治することばかりでなく、元老院や市民の目に、彼を国家と国の法律に忠実な公僕と映るようにした点でも発揮された。元老院の権能を思い切って剥奪したにもかかわらず、彼は元老院を尊重した。また高位高官の職を、一部を元老院議員に、一部を騎士階級に配分した。アウグストゥスと彼の後継者は祖先に元老院議員を持たない「新人」が元老院に入ることを促し、元老院議員はその卓越した能力に基づいてのみ選ばれるようになった。公職の最も重要なポストは、社会的に高い身分とされる元老院議員と騎士階級によって保持された。個々の都市行政はその地域の名家に委ねられ、彼らが都市参事会を形成した。

 国家の円滑な統治を確保しようとする彼の努力の一環として、広大な帝国の再編にも乗り出した。本国イタリアを11の地域に分割し、それぞれを一人の公職者が治めるようにした。属州は元老院管轄と、皇帝直轄の二つのタイプに分けた。前者は軍隊を配備する必要のない平穏な地域で、そこに総督として赴任した元老院議員は軍指揮権を持たなかった。一方、皇帝直轄の属州は治安が悪い不穏な地域であったため、有能な司令官に率いられた軍事力を必要とした。そのため、信頼のおける部下を通じて皇帝が直接統治した。


 ローマ帝国は巨大だった。その領域はブリタニア(現在のイギリスのブリテン島)から北アフリカ、西アジアにまで及び、多様な民族から構成されていた。歴史家たちによれば、その人口は5000万から8000万と推定されている。アウグストゥスはこの広大な領土を再編し、その軍隊および従属民とローマ人との協力に基づいた機能的な行政組織によって統一を強化した。属州がローマの豊かな財産であった以前とは異なり、この広大な支配領域は単なる収奪の場所、すなわち有力な元老院議員が個人的な利益を得ることのできる土地とはもはや見なされなくなっていた。アウグストゥスは、帝政を創始することで属州と属州民を帝国の社会的・経済的システムに統合し、ローマ的な様式を大部分の属州民に伝えることに成功した。ローマは「自然」国境、つまり地理的に認められた防御が可能な境界までその拡大が継続されるべきであるという世界帝国と見なされた。このことから、アウグストゥスは帝国内のイベリアのような地域での反抗を根絶やしにし、未だに直接的な統治下に置くことのできなかったアルプスのいくつかの部族を服属させた。だが、ゲルマニアの征服に失敗すると、帝国の北の境界をライン川とドナウ川と定めた。


 アウグストゥスの下で200年に及ぶローマの黄金時代、いわゆるパクス・ロマーナが始まった。ここに見られる平和、権力、文化的隆盛、大規模な経済成長は、アウグストゥスとその後に続いた元首政を象徴するものだと言えるだろう。共和政時代の階級や階層の社会システム、また農業に絶対的な価値を置く経済システムは、元首政になっても実質的に変わることはなかった。帝国の人口の約90%が農業に従事していた。帝国内にある1000以上の都市のうち、人口が1万から1万5000を超えたのはほんの僅かだった。富は土地から生み出され、時代が経つにつれ北方の属州の収穫高もエジプトや他の生産量の多い属州に匹敵するものになった。社会階層の差は明白だった。上流階級、つまり元老院議員や騎士階級、あるいは帝国内の都市参事会身分の人びとは、合せても約20万人に過ぎず、帝国の人口の1%を超えることはなかった。下層階級は、都市と地方で全く異なる集団を形成していた。都市では職人や商人などで、地方ではほとんどが農民である。ローマの経済システムにとって要であったのは、膨大な数の奴隷だ。戦争捕虜の減少にもかかわらず、イタリア本土では750万の人口のうち300万が奴隷身分だった。


 ローマの町は征服者の都市から帝国の首都へと変貌を遂げた。壮麗な都市だったが、人口も過密だった。約100万の人口を擁し、37の門、ティベリウス川にかかる7つの橋、18の水道、400の神殿、14万7000の家屋、2000の公共建築物が存在し、31の軍道が公共広場を起点としていた。この都市の中心には役所と公共広場(フォルム)があった。丘の上には貴族や富裕者の住居があり、谷間には大衆の大部分が居住していた。余りにも速く発展したため、ローマは現実的な都市計画が何も立てられなかった。そのため居住地域を整理し、公共建築物を新しくして、各地区間の交通を改善するために本格的な政府の介入が求められた。アウグストゥスの指導の下でローマの町は大掛かりな建築現場となった。アウグストゥスは「レンガの町に出会い、大理石のローマをのこした」とよく言われるが、彼は公共建築物、モニュメント、浴場、劇場でローマの町を飾って、ローマに特別な地位を与え、また都市の区画を整理統合することにおいて抜きんでた才能を示した。BC2年、彼はかつて居住区域であった広大な敷地に新たな公共広場を造った。円柱が周囲に立ち並ぶ建物が配列されたアウグストゥスの公共広場は一辺が102メートルもあった。この敷地は成功を収めた軍事遠征の収益でアウグストゥス自身が購入したものだった。同時にアウグストゥスは、当時の文化の主要な後援者でもあった。当時の文学は才能豊かなホラティウス、ウェルギリウス、オウィディウス、リウィウスらのお蔭で絶頂期を迎えていた。絵画や彫刻の形象美術は、優美で洗練された作品を生み出した。また哲学も、非常に多く現れた文芸サークルなどで盛んに議論された。


[ローマ水道]

 ローマ帝国の都市が発展したのはローマ水道があればこそだ。水道を建設して新鮮な水を供給しなければ、ローマのように最大で100万人にも膨れ上がった都市の人口を支えきれなかっただろう。土木技師たちは水が高い所から低い所へ流れる重力の力を利用し、標高の高い場所にある水源から地下水路を使って低地の都市に水を送った。谷や窪地を越える時は石造りの巨大な水道橋を建設して水を通した。この水道橋が領土全域に帝国の威光を示すシンボルとなる。ローマ以前の文明にも下水システムや貯水槽があったが、どれもローマの高度な水道施設には遠く及ばない。あるローマの役人はこう豪語した。「役に立たないピラミッド・・・絶対に必要で、数も多いこうした水道橋、比べることなど誰ができようか?」。噴水は飲料水を提供し、夏には噴水から出る水しぶきが通りを涼しく保つのに役立った。公衆浴場は人気のある娯楽施設で、公衆衛生を促進した。多くの浴場には冷たい風呂と温かい風呂があり、温かい風呂には、カマドで熱した水を風呂のタイルの下を通して供給した。


 元首政の形成に決定的な役割を果たしたのは、軍隊に加えて、共和政の支配者代表である元老院議員と、ローマの平民だった。これら3つの集団が、それぞれの利害や期待を皇帝に求めた。そして皇帝のほうも、彼らの承認と支援を必要としていた。ローマの民衆と意思疎通を図るための場所、それがアンフィテアトルムと呼ばれる円形競技場だった。ローマにおける剣闘試合は、都市部の大衆が楽しむ血生臭い娯楽以上の意味があった。闘技場は皇帝が人民に関わり、人民が皇帝に接するまたとない場所だったのだ。皇帝が大衆に与えるイメージはここで作られ、ローマの社会階層との強い結びつきが強調された。闘技場では社会階層それぞれに決まった座席が割り当てられていた。罪人が処刑され、剣闘士と猛獣が血まみれの見世物を披露する円形闘技場は、ローマの中心部にありながら極めて野蛮な場所だったが、階級別に着席する観客席にはローマ的なすべてのものが詰まっていた。

 元老院とのやり取りには、ことに慎重さが求められた。何世紀もの間、共和政を仕切っていた貴族階級には、強烈な優越感と選民意識が根付いていたからだ。元首政を始めたアウグストゥスも自らをプリンケプス(市民の中の第一人者)と称した。元老院議員の貴族たちからすれば、皇帝は仲間の一人に過ぎず、対等な関係を期待していた。プリンケプスを本来のあるべき君主にしたいと考えたのは、アウグストゥスから67年後のドミティアヌス帝(在位:紀元後81年~96年)だったが、元老院議員の反発を招き、暗殺されてしまった。以後は元老院が皇帝を輩出する時代が長く続くことになった。


 ローマ帝国の軍隊は広大な領土を征服し、征服地の文化を我がものとした。ギリシャからは哲学・文学・建築を、アレクサンドロス大王とその末裔たるマケドニア人からは軍事技術を、エジプトからは貴重な装飾品や宝石とともに農耕の技術を持ち帰った。異文化の同化なくしてローマ帝国の成功はなかった。古代ローマの残した重要な遺産の1つが政治社会的思想だ。今日のアメリカ合衆国の政治体制の根幹をなす三権分立や抑制と均衡も、ローマ共和政がモデルとなっている。広大な領土を征服して大帝国を築くのは偉業だが、それを統治するのは別の問題だ。ローマ帝国はその両方に長けていた。

「ローマ化」はローマ帝国全土において概ね成功の同義語だった。潤沢な農産物や各種製品、堂々たる建造物、上下水道網、道路、通信手段、ローマ市民権、エリート層の洗練された生活様式など、ローマの物質文化は地方の部族や都市の貴族階級には魅力的に映り、人びとは熱心に取り入れたり、適応したりした。つまりローマ化の欲求は中央からではなく、周縁部から起こったのである。地方の人びとはローマらしくなろうと競い合った。ローマ自体が支配下の地域に文化を押し付けることはほとんどなかった。もっともローマ化したからといって、ギリシャ人、ガリア人、シリア人、北アフリカ人が独自の伝統や習慣、信念、信仰を捨てたわけではない。ことに宗教に関しては、彼ら地方の宗教の伝統が、ローマの宗教に組み込まれるのが普通だった。ローマ帝国の枠組みは緩やかで、地方の人びとが祖先から受け継いだ伝統をローマ化の中にはめ込む余裕が十分あった。こうした文化共存をうかがわせるものは、ブリタニア(現在のブリテン島)からエジプトまであらゆる属州に残っている。



(ローマ征服後のエジプト)


 アレクサンドリアはエジプト人だけでなく、ユダヤ人やギリシャ人も住む都市であり、プトレマイオス朝エジプトは、土着のエジプト文化に外来のギリシャ文化やマケドニア文化が組み合わさって融合するという、他に例のない国だった。ヘレニズム世界の一つになることで、エジプトは根底からの変革を強いられていた。

 エジプトはBC30年にローマ帝国に吸収されたことで、公用語こそギリシャ語のままだったが、それ以外の点では大きく様変わりした。基本的にアウグストゥスはこの新たに獲得した非常に豊かな国に対して、疑念に満ちた厳しい態度をとった。エジプトを統治する長官には騎士階級出身者を任命し、元老院議員がエジプトに足を踏み入れることを禁じ、現地のエジプト人を行政組織から締め出し、ローマ法を導入したのである。後の皇帝たちもこの方針に従った。ローマ支配という厳しい現実の中で、エジプトでは何度も反乱が起きている。

 物質文化という点でローマ人は、エジプトの第2中間期(BC1650年~BC1550年)に青銅器文化がナイル河谷の生活様式に完全に浸透して以来、最大規模の革命をエジプトにもたらした。鉄製の道具と武器が広く利用されるようになったことで生活環境は変わったが、それとともに日常生活を変えたのが、新たな道具類である。ガラス容器、テラコッタ製ランプ、轆轤ろくろ、アシのペン、鍵など特定の用途に使う品物がエジプトに持ち込まれた。このようなありふれた日用品が生活様式全般の変化に道を開き、衣類、装飾品、文字、美術の表現方法などの分野で古代エジプト王朝時代の伝統を追いやったと思われる。農業分野でも改善が進み、ウシに牽かせる水揚げ車や、車輪のついたソリ型の脱穀機が使われるようになった。エジプトはローマの穀倉となり、搾取された。そのため多くの労働者が、王朝時代に重い負担から逃れた人びとと同じように、砂漠へと逃亡した。


 紀元後3世紀になるとキリスト教が伝播してきた。言い伝えによると、エジプトのキリスト教会は使徒マルコが紀元後70年に創設した世界最古の教会だとされており、この伝承は早くも紀元後4世紀には現れているが、現実には、紀元後3世紀より前にエジプトでキリスト教に改宗した者がいた証拠は、アレクサンドリアでギリシャ語を話していた小規模なユダヤ人コミュニティ以外にはほとんどない。

 紀元後4世紀になると、紀元後326年にローマ帝国の東部に、キリスト教の都としてコンスタンティヌス帝の名前を冠したコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)が建設され、紀元後395年にローマ帝国が東西に分裂した。また、キリスト教の修道院が創設された。修道院が生まれたのはエジプトで、本来は迫害から逃れた人びとが、税の負担に耐えかねた昔の労働者と同じように砂漠に逃げ込んだのが始まりである。伝承によれば、修道生活の創始者は紀元後251年ごろに生まれた聖アントニウスだという。理想化された聖アントニウス伝が、紀元後328年から紀元後373年にアレクサンドリア総主教を務めたアタナシオスの手で書かれている。砂漠で孤独に過ごす隠道士の理想的な姿を共同生活に取り入れたのが、同じくエジプト人であるパコミウスだ。彼は紀元後320年に、ローマ軍の服務規程を思わせる規則を作り、修道院を設立した。修道院という新たな生活様式は、エジプトのキリスト教の特徴となった。

 紀元後5世紀には、エジプトではキリスト教のコプト教会が成立している。コプト教会が成立した背景には、コンスタンティノポリスとの教義をめぐる激しい論争があった。コンスタンティノポリスは、紀元後451年のカルケドン会議で、キリストは人性と神性という2性を一つの位格に持つと宣言された。一方、コプト教会は、キリストは神性のみを持つとする単性論を支持するグループに属しており、両派はエジプトで対立を続けた。その後、エジプトにおけるコンスタンティノポリスのビザンツ文化は、イスラム教に改宗したアラブ軍の攻勢で急速に追い詰められ、ついに紀元後642年、最後のビザンツ軍兵士がエジプトから撤退した。イスラムの支配下、次第にキリスト教徒の数は減少し、紀元後12世紀には少数派となった。またコプト文化を代表する伝統も、イスラム教の影響ですべて紀元後12世紀には消滅した。


 ***


 ローマ帝国の領土は、西は現在のスコットランドとイングランドの境界から、東はシリアまで、北はゲルマニア(現在のドイツ)から南はエジプトまで、ほぼ最大限にまで広がっていた。ハドリアヌス帝(在位:紀元後117年~138年)はそれ以上の領土の拡張を禁じ、国境の防備を命じた。しかし絶頂期が過ぎたからといって、それをローマ帝国の没落の開始と見るのは間違いである。もし「ローマは1日にして成らず」が真なら、「ローマは急いで滅びず」もまた真である。アウグストゥスの即位からの3世紀間、ローマ帝国では安定と繁栄の時代が続いた。もちろん経済的・財政的危機はあった。軍事的失敗さえあった。宮廷内の陰謀や政変もあった。しかしながら、現存の文書や記録からうかがえる最も驚くべきことは、少なくとも帝国の大半の地域における住民が、純粋な意味でのパクス・ロマーナ(ローマによる平和)を長い期間味わったという事実である。男性は商売に出かけ、女性は店で物を売る。貴族たちは政治的活動に忙しかった。彼らは神々を礼拝した。


 西洋史では長らくローマが帝国の象徴だった。フランク王国のカロリング朝から神聖ローマ帝国、オスマン帝国、帝政ロシア、さらには誕生まもないアメリカ合衆国まで、ローマ帝国の影響を受けて、我こそは後継たらんと思い込んだ国は数え切れない。それは一つにはローマ帝国の規模が大きく、しかも長期にわたって続いたためだ。始まりは小国だったローマだが、イタリア中部に基盤をつくり、やがて地中海世界に留まらず、ブリテン島北部のハドリアヌスの防壁からナイル川、ドナウ川からリビア砂漠まで支配するに至った。ローマ帝国のすごさとして、文化的な影響力を見落とすわけにいかない。ローマは他の帝国と異なり、征服した土地を独自の文明で染めようとした。土着の神々を同化させ、ローマやイタリアのみならずイベリアや北アフリカからも皇帝を選出し、最終的には帝国領土内のすべての人間にローマ市民権を与えた。しかし、独裁的な統治者が続出して権力が集中するにつれて、ローマの勢力拡大を支えた共和政体は空洞化していく。


[美徳の楯]

 ローマ元老院が初代皇帝アウグストゥスに感謝のしるしとして捧げたクルペウス・ウィルトゥティス「美徳の盾」には、ローマ市民が最も高く評価した徳目が刻まれていた。アウグストゥスに対するお世辞の言葉であるとはいえ、内容は今でもすこぶる啓発的である。

“元老院およびローマ国民は、神なるカエサルの息子、皇帝アウグストゥスの8回目の就任にあたり、勇気、慈愛、正義、および神々と祖国に対する敬虔けいけんの盾を捧げる”

 BC44年、ユリウス・カエサルはイタリアの北のガリア人とローマ市中の敵との両方に打ち勝った。元老院に敢然と立ち向かったカエサルは民衆の賛美の的となった。評判が最高潮に達したと思われたカエサルに「王」の呼びかけがあった時、カエサルは「私は(一民族の)王ではない。(多民族の)カエサル(皇帝)である」と答えたという。カエサルの思いがそこまで及んでいることを知って仰天した貴族階級たちは、暗殺という手段に訴えてでもカエサル礼拝を止めようとした。この時からオクタヴィアヌスは養父の復讐を心に決めていた。

 BC27年、そこには長年の内戦を勝ち収拾したオクタヴィアヌスがいた。ローマの民衆はついに平和をもたらしてくれたアウグストゥスに感謝し、彼を偉大な征服者で英雄として迎えた。だが、養父ゆずりの鋭い政治臭覚を持つオクタヴィアヌスは、自分は個人的権力を求めない。むしろ国家からすでに自分に与えられている権力を返却すると言ったのだった。

“内乱を終結させた後、・・・私は国の権限を元老院とローマ国民の手に委ねた。このような私の功績に対し、私は元老院より「アウグストゥス(崇高なる人)」の称号を授かり、我が家の門柱は公に月桂樹によって飾られ、我が家の戸口には市民の冠が付けられ、ユリウス議事堂には黄金の盾が安置された。この盾は、その銘文に明らかなとおり、元老院およびローマ国民が、私の勇気、慈愛、正義、敬虔を称えるためである。この時以来、私は権威において万人に勝るとも、権力においては、私とともに公職にある同僚のローマ人よりも優れた何ものをも保有することはない”

 これは今やアウグストゥスという尊称で呼ばれるオクタヴィアヌスがその後記した自分の「業績録」の一節である。事実、彼は自分に与えられていた権威を元老院に返した。彼が新たに得た称号プリンケプス(元首)は、プリムス・インテル・パレス、つまり「平等の中での第一人者」であった。しかし、第一人者であることも事実であった。彼は残りの人生を一方で謙遜や慎み深さを忘れず、他方でローマの初代皇帝としての威厳を持って歩んだ。

 現物の「美徳の盾」はとうに失われて現存しない。純金の盾を見つけて何もしない盗賊などはいないのである。現存する大理石書版は複製であるが、文章はオリジナルであり、当時のローマ人の「市民道徳」についての理解を助けてくれる。アウグストゥス自身がその徳目をどこまで守っていたかについてはいろいろ議論がある。ローマの指導者になる者にはそれが期待されたということだろう。

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