第127話 オクタヴィアヌスとアントニウスの対決、クレオパトラの最後

<年表>

BC34年 アントニウス、アルメニアを征服・属国化し、アレクサンドリアで凱旋式を挙行

BC32年 ローマの元老院と民会は、アントニウスを国賊と断定し、エジプト女王クレオパトラに宣戦布告

BC31年 アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスがアントニウスとクレオパトラの連合軍を破る(9月)

BC30年 アレクサンドリアでアントニウス自殺(8月初旬)、クレオパトラもヘビの毒で自殺(8月末)。その後、カエサリオン(プトレマイオス15世)殺害、エジプトはローマの属州となり、最後のヘレニズム国家プトレマイオス朝エジプトが終焉


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(アントニウスのパルティア再遠征計画とアルメニア征服)


 イラン高原北西部のメディア人とその東に位置するパルティア人の間で戦いがあった。原因は、BC36年のアントニウスによるパルティア遠征失敗の時にローマ人が残していった戦利品の分配について、両国の王、メディアのアルタウァスデスとパルティアのフラアテストの意見がまとまらなかったからだった。戦利品とは、数百の荷車と攻城兵器、テント、毛布、武器などで、東方の両国にとって、いずれも良質の完成度の高い品物だった。二人の王は激しく争い、その結果メディア王のアルタウァスデスは、昔の敵のアントニウスに助けを求めた。ローマに敵対する両国の争いは、パルティアの再遠征を計画していたアントニウスには良報だった。クレオパトラは、アントニウスのパルティア征服計画に賛成しただけでなく、自分も兵を引連れて一緒に行くと主張した。アレクサンドロス大王以来の悲願である東方帝国の実現をクレオパトラは目指した。こうしてBC34年の春、クレオパトラはアルメニアとパルティアが国境を接しているユーフラテス川の上流域までアントニウスに同行した。アルメニア王国はローマの友好国だが、属国ではなかった。アントニウスはまずアルメニアを支配下に置こうと考えて、その首都を包囲し、王とその家族を捕虜にした。高価な戦利品はことごとくアレクサンドリアに送った。アルメニアを属国化したアントニウスだが、彼はパルティアには攻め込まなかった。2年前の冬の敗戦を恐れたのか、アルメニアに軍の一部を駐留させて、エジプトへ撤退した。

 BC34年の秋、アントニウスとクレオパトラはほぼ同時期にアレクサンドリアに戻ってきた。アントニウスはアレクサンドリアで凱旋行進を挙行した。凱旋行列の中央には黄金の鎖に繋がれたアルメニアの王とその妃、そして2人の幼い王子が歩かされた。それに続いてアントニウスが進んだが、軍人の装いはせず、黄色の衣を着て、頭につたの冠を置いた、ヘレニズム世界の偉大な酒と豊穣の神ディオニュソス神に扮して大衆に向かって会釈した。クレオパトラはおそらく王宮でアントニウスを出迎えたと思われる。そして、アントニウスはクレオパトラを「諸王の女王、それぞれ王である息子たちの女王」と宣言し、彼の3人の子供たちに領土の下賜を象徴的に行った。そしてプトレマイオス15世(カエサリオン)をカエサルの真の後継者として公認した。

 ローマの最高指揮官であるアントニウスがアレクサンドリアで凱旋式を挙行したという理由で、ローマの元老院はアントニウスを弾劾した。戦争で勝利を収めたローマの将軍は、ローマで凱旋式を行うことになっていたからだ。また戦利品の一部はローマの民衆に分配されるしきたりなっていたが、それも実行されなかった。アントニウスにはオクタヴィアヌスとの避けようのない対決の時が間近に迫っていた。



(アントニウス対オクタヴィアヌス)


 アントニウスは、ローマから2000キロも離れたエジプトから、ローマ市民に対して自分を正当化するのは難しかった。これに対してオクタヴィアヌスは、あらゆる機会をとらえて、元老院でアントニウスの手紙を読み上げたり、密偵に探らせた最新情報を発表したりして、アントニウスの名誉を傷つけた。オクタヴィアヌス支持者の軍人コルウィヌスは、アントニウスの東方風の浪費癖、華美、飲酒癖、麻薬中毒などを取り上げてはビラを撒かせた。一方、オクタヴィアヌスのことは、規律正しく、道徳的で、倹約家であるなどと、美徳の権化として紹介した。実際、オクタヴィアヌスは人びとが飢えないように気を配り、ローマ市内の水道網の改良工事を監督し、妻と伝統的で穏やかな夫婦生活を送っていた。さらにコルウィヌスは、アントニウスがクレオパトラにすっかり魔法をかけられ、自分のことをディオニュソス神の生まれ変わりと考えて、元老院の立場と威厳を無視して、ローマの領土をプトレマイオス一族に投げ与えたと手ひどく非難した。そして、アントニウスが東方的な専制君主になることをもくろんでいるとして、元老院や市民たちの支持を得た。


 ローマで弾劾されたアントニウスは、アルメニアに残したプブリウス・クラッスス将軍に16軍団を付けて、小アジアに派遣した。そして自分自身もクレオパトラと共に小アジアのエフェソスに向かった。アントニウスの海軍力は、艦船500隻といわれるが、その内200隻はクレオパトラの船だった。これに加えて女王は、戦費2万タラントと、全軍用の食料すべてを供出した。またアナトリアやトラキア、ユダヤなどローマの東方の緒王も援軍や援助をポンペイウスに約束した。アントニウスは迫りくる内戦を、実にゆったりした気分で待っていた。彼はオクタヴィアヌスの艦船が250隻に満たないことを知っていたようだ。また自分の地上軍は17軍団、10万人の兵力を誇り、これに対してオクタヴィアヌスの地上軍はたった1万人しかいなかったことも知っていた。騎兵は共に1万2000騎で同数だった。全体として、数の上ではアントニウスが上回っていた。軍人としての経験が豊富なアントニウスは、若いオクタヴィアヌスをまともな敵とは考えていなかった。またクレオパトラが彼に力と自信を与えた。しかし同時に、自己過信にも陥らせた。次に、アントニウスとクレオパトラはアテネに入った。ここでアントニウスはクレオパトラを賛美する演説をした。

 BC32年、クレオパトラはアントニウスに、オクタヴィアヌスの姉で妻のオクタウィアを、ローマの法律に従って離縁するように迫った。オクタウィアは離縁状を受け取った。この場に及んでもオクタウィアは、いつもの善良ぶりを捨てきれなかった。彼女はアントニウスの家を出ると、アントニウスの前妻の子供たちの面倒もよく見た。自分の運命を嘆いたり、悲しんだりはしなかった。アントニウスのこの態度、裏切りに満ちた遺言、忌まわしい生活態度に我慢しかねたオクタヴィアヌスは元老院に迫って、次のような決議をさせた。

「ローマの元老院と民会は、アントニウスからすべての役職を剥奪する。理由は、彼がすべての役職をクレオパトラ夫人に譲ったからである。同時に、ローマの元老院と民会は、アントニウスを国賊と断定し、エジプト女王クレオパトラに宣戦布告する」



(アクティウムの海戦)


 BC32年9月末の状況は次のようだった。アントニウスとクレオパトラは、本陣をギリシャのペロポネソス半島の西北端、カリュドニア湾に面したパトラエに移した。ここはイオニア海に浮かぶレフカス島とケファリニア島に守られ、イタリア半島方面に水路が開けていたからだ。オクタヴィアヌスはイタリア半島南端のタラント湾に面したタレントゥム(現在のタラント)とアドリア海に面した要塞都市ブルンディシウムに艦隊と地上軍を集めた。オクタヴィアヌスはアントニウスに使者を送った。

「アントニウスよ、時間を無駄にしてはいけない。こちらに来てくれ。貴殿の艦隊が停泊できるように港湾施設を提供するつもりだ。貴殿が上陸するまで私は軍勢を率いて、馬が1日分走る距離分だけ引き下がろう」

 アントニウスは回答した。

「我々だけで決闘して雌雄を決めようではないか。私の方が年輩だが構わない。決闘が嫌なら、昔カエサルがポンペイウスと戦ったファルサロスの戦いを再現しようではないか」

 戦力において勝るアントニウスは一連の戦略的基地を作り上げ、オクタヴィアヌス軍が自分の領域である東地中海に侵入するのを阻止しようとした。最北端はギリシャ北部のイオニア海に面したコルキュラ島(現在のコルフ島)にある兵舎、最南端はリビアのキュレネにある国境司令部だった。この2点の間にある戦略的に重要な場所には、アントニウス軍の軍事基地があった。ギリシャ中部への入口となるレフカス島、コリントス湾を威嚇する位置にある町パトラス、ペロポネソス半島の西の沖に浮かぶザキントス島、ギリシャ南西のメネト岬、ギリシャ最南端のタイナロン岬、そして最後にクレタ島にある軍事基地である。これらの戦略的基地の位置を見て、オクタヴィアヌスは、アントニウスが攻撃を考えておらず、もっぱら自分の勢力圏の防御を重点に置いていると考えた。正確にはオクタヴィアヌスの敵は、アントニウスではなく、クレオパトラだった。オクタヴィアヌスはアントニウスを罷免して、彼は狂っていると公表したが、これはローマの民衆が何よりも嫌っている内戦という言葉を避けるためだった。アントニウスはオクタヴィアヌスが来るのを待った。


 軍人としてのオクタヴィアヌスの才能が極めて限られていたことは疑いない。その代わりに彼は政治家として優れていた。しかし政治家はブレーンの能力次第でどうにでもなる。オクタヴィアヌスには、マルクス・アグリッパという当代随一の海将が付いていた。アグリッパは幾多もの戦闘で手柄を立てていたが、4年前のBC36年でも、セクストゥス・ポンペイウスを相手に戦って勝った。彼は勇敢な武将というだけでなく、巧妙な計画立案者で戦術家だという評判もあった。

 BC31年3月、アグリッパは艦隊を率いてイタリア半島とギリシャ半島の間のイオニア海を横断したが、敵の本陣や艦隊が待っている東に向かって船を進めたのではなく、南に向かった。これはペロポネソス半島南西のメネト岬を占領するためだった。メネト岬にある基地を指揮していたのは、オクタヴィアヌスの姉オクタウィアの支持者から追放された北アフリカのマウレタニアの王だった。彼にとってアグリッパの攻撃は予想外だった。最初の会戦でマウレタニア王は戦死し、アグリッパはメネト岬を占領した。アグリッパはメネト岬からローマの東部属州とエジプトの間の補給路を断つことができた。したがって、これらの地域間の輸送は、時間と費用がかかる陸路を経なければならなくなった。

 ギリシャに春が来たが、エジプトのコムギは届かなかった。アントニウスの連合軍にとってもっと悪いことが起こった。メネト岬から東へ陸路半日の所にスパルタがあった。当時のスパルタは海賊ラカレスの息子エウリュクレスに指導される自治都市国家だった。アントニウスは、BC70年に執政官になったとき、東地中海の海賊を一掃するために派遣された。その際にラカレスを捕えて処刑した。これを恨んでいた息子のエウリュクレスはオクタヴィアヌス側に寝返った。アグリッパはメネト岬に艦隊と地上部隊を残してきたが、スパルタの寝返りによって北と東が安全になった。そのためアントニウス軍の他の基地に攻撃を仕掛けることができた。次々に破られる防御拠点を補強するために、アントニウスは他から軍勢を補強しなければならなかった。しかし補強のために兵を出した所が、次の弱点になった。こうしてアントニウス側の防御線はズタズタになった。

 この間に、船で南イタリアに戻っていたアグリッパは大攻勢の準備をしていた。彼は安全策を取った。艦隊だけに頼らず、輸送船を使って、全地上軍を南イタリアからアドリア海を挟んだ対岸のバルカン半島西部のエペイロス地方に渡した。艦隊がこれに続いた。そこからアグリッパはコルキュラ島(現在のコルフ島)を占領した。その南にあるのがアクティウム半島である。コルキュラ島に駐屯していたアントニウスの艦隊司令部は、南に向かって逃げ出した。レフカス島やペロポネソス半島の西の沖に浮かぶザキントス島などにある基地は、メネト岬から出撃するアグリッパ艦隊の攻撃を受け、アントニウスに援軍を要請した。後世の戦略家の分析によれば、アントニウスとクレオパトラの敗戦は、この段階で明らかになったそうだ。この時点からアントニウスは反応するだけとなり、自分の方から仕掛ける余裕は全く無くなった。

 オクタヴィアヌスはアントニウスの総司令部の前に横たわるアンブラキア湾の入口の北側の細長い半島に、アントニウスが気づかないうちに野営地を設けた。アクティウム半島はその南側の対岸にある。オクタヴィアヌス軍の前進は迅速だった。アグリッパがアンブラキア湾の南にあるレフカス島とコリントス湾を威嚇する位置にある町パトラスも占領した。アントニウスの総司令部があるアンブラキア湾は、オクタヴィアヌス軍に囲まれた。


 BC31年8月28日はこの季節には珍しい嵐だった。嵐のためオクタヴィアヌスもアグリッパも、アクティウム半島の南北にある湾から外に出られなかった。アントニウスもクレオパトラも嵐が治まるのを待たなければならなかった。8月29日、嵐は続いたが、オクタヴィアヌスは3万7000人の兵士に乗船準備を命じた。アントニウスの兵士の2倍近い軍勢だった。一方、クレオパトラの旗艦「アントニウス号」には護衛船団が組織された。BC31年9月2日、5日間続いた嵐が止んだ。海上には風もなく、オールで船を漕いで海戦を繰り広げるには絶好だが、帆に風を受けて逃げるのは難しい状況だった。両軍の艦隊が動き始めた。アントニウスは大型船でゆっくりと海峡から広い海上に乗り出した。オクタヴィアヌスは軽快な船を使って北方からやって来て、アンブラキア湾の入り口で敵を追い越し、数百メートルの間隔を置いて、アントニウスの艦隊を半円形に取り囲んだ。伝統的な戦法に従って、両軍はそれぞれ3つの船団に分かれた。同心円の半月形となって、北から南へそれぞれ向かい合った。アントニウス艦隊の中央部隊の背後には、クレオパトラの豪華船「アントニウス号」を旗艦とするエジプト艦隊が隠れていた。両軍は1500メートルしか離れていなかった。アンブラキア湾の海峡を挟んで、北のオクタヴィアヌス軍と南のアントニウス軍、両軍の地上部隊も戦闘配置についた。

 最初の衝突が海上で起こった。小船の上で白兵戦が展開された。盾、投げ槍、火矢を使い、まるで城をめぐって戦闘が行われているようだった。瞬く間にオクタヴィアヌス側の優勢が明らかになった。アグリッパは自分の船団を横(南北)に広く展開させた。アントニウス側も相手に合わせて船と船の間を広げた。そして本格的な海戦が始まった。しかし、この時点ではまだ主力艦隊の雌雄は決していなかった。ところが、思いがけなく中央部に通路が空いた。この時、両軍にとって予期しない事態が生じた。中央にクレオパトラの旗艦を擁したエジプト船団は、スピードを上げて、戦う両軍の船の間をすり抜けて、南のペロポネソス半島に進路を取った。クレオパトラの戦線離脱はアントニウスには全く知らされていなかったが、オクタヴィアヌス側はそれ以上に驚いた。プルタルコスによれば、クレオパトラの船が逃亡する様を見たアントニウスは、左右一組のオールをそれぞれ5人、10人で漕ぐスピードの出る船に乗り移り、クレオパトラの後を追った。その後、広い海上でクレオパトラの旗艦「アントニウス号」に追いつき、「アントニウス号」に乗り移った。

 アクティウム沖で戦っているアントニウスの艦隊の兵士たちの間には、当然ながら混乱が生じた。それでも最高指揮官のアントニウス抜きで海戦が続行された。アントニウス軍は、この戦いで5000人以上が戦死し、40隻の船が沈没した。夜のとばりが下りるや、残った130隻がアンブラキア湾に逃げ込んだ。オクタヴィアヌスはその夜を海上で過ごし、アントニウス軍の動向を海上から監視した。次の朝、それはアントニウス軍の降伏の時だった。アントニウスとクレオパトラは、タイナロン岬の基地に上陸した。ここはギリシャ半島の最南端にある岬である。ここで二人の間で話し合いが行われたが、その内容は今日には伝えられていない。しかしその結果、アントニウスとクレオパトラは、その後も生活を共にすることになった。



(アクティウムの海戦のその後)


 アントニウスはこの場に及んでも、まだ勝てるチャンスがあると考えていた。そして艦隊の残りが逃げてくると期待していた。地上軍は戦いもせず、また声も出さず、最高司令官とその愛人が逃げ出す様子を見ていたが、アントニウスはその地上軍がマケドニアあるいはもっと東の小アジアに脱出でき、そこで艦隊と地上軍を新たに編成できると考えたが、すべては夢だった。

 艦隊の乗組員は全員降伏したが、カニディウス・クラッスス率いる地上軍はマケドニアに逃げようとした。アントニウスが、まだ一度も負けたことのない19の軍団と、1万2000の騎兵を見捨てたとは誰も信じようとしなかった。オクタヴィアヌスは自分の地上軍の一部にカニディウスを追撃させた。そしてアントニウスの兵士たちに、戦闘を放棄することを条件に魅力的な提案をした。つまり、より多くの報酬を支払う、兵士を辞める場合にはイタリアの土地を与えるなどの内容だったが、いずれもアントニウスには絶対にできない約束だった。なぜならアントニウスの土地はいずれも東部属州にあったからだ。7日間、アントニウスの兵士たちはどちらとも決めかねて躊躇したが、やがて実を取って名を棄てた。カニディウスは士官たちを連れて、夜と霧に紛れて逃げ出した。


 BC31年9月末、アントニウスとクレオパトラは北アフリカの、アレクサンドリアから300キロ西のパライトニオンの港に上陸した。その時アントニウスの周囲に留まることを許されたのは、信頼できる数人の部下だけだった。一方、クレオパトラは先に出航し、いつもといささかも態度を変えず、自分の艦船をすべて花輪で飾らせ、音楽を鳴らしてアレクサンドリアに入港した。彼女は人びとに正確なことを教えず、勝ったとも負けたとも言わなかった。しかし彼女は大きな祝いの祭りを挙行した。長男のカエサリオンが成人に達したからだ。それにアントニウスとの間の息子アンテュルスも、ローマの慣習によれば、少年の域に達したからである。アントニウスはこの祭りには参加しなかったが、こっそりとアレクサンドリアに戻った。しかし、クレオパトラのいる王宮ではなく、ファロス島の沖にある小さな島に住んだ。


 その間、オクタヴィアヌスはアクティウムの海戦の勝利者として称えられた。アグリッパは、彼の権利であるローマでの凱旋式を断った。その代わりに彼は、オクタヴィアヌスと共にアテナイに向かった。数週間前まではアントニウスの支配下にあったアテナイだったが、抵抗もせずに降伏した。ギリシャ本土の冬は極めて厳しいことがある。オクタヴィアヌスは小アジアに向かい、そこからエフェソスの沖合にあるサモス島に渡った。ここで冬を過ごそうと考えた。部隊の半分近くをエぺイロスから故郷に復員させた。なぜなら、アントニウスの兵士たちはほとんど完全な形でオクタヴィアヌスの配下に入っており、ギリシャ自治都市にも、アカイア属州にも、小アジアのアシア属州にも、さらにシリアにも、新しい支配者オクタヴィアヌスに反対する動きが見られなかったからだ。しかしその時でも、オクタヴィアヌスはまだアントニウスを怖れていた。何といってもアントニウスは勇敢な歴戦の将軍だった。


 アントニウスはアレクサンドリアの王宮に戻り、クレオパトラと和解した。そしてアントニウスとクレオパトラは使者をサモス島のオクタヴィアヌスに送り、彼らの心情を伝えた。

「クレオパトラは退位します。子供たちに王位を譲ります。アントニウスは公の仕事には一切携わらず、オクタヴィアヌス殿の希望に合わせて余生をアレクサンドリアあるいはアテナイで過ごします」

 この提案にオクタヴィアヌスは全く反応しなかった。元老院はアントニウスを国賊と決めていた。そして国賊には剣で応じなければならなかった。しかし、クレオパトラに対してはこう伝えた。

「第一人者(オクタヴィアヌス)は必ず貴女のお申し出にお答えするでしょう。しかし条件があります。貴女がアントニウスを殺させるか、あるいは彼を罵り追い払うかしてください」

 アントニウスは使者の解放奴隷のテュルソスから以上の知らせを聞くと、彼を拷問にかけて、自分の解放奴隷の使者と一緒にサモス島に送り返した。

「私は不幸な目に遭っているため、興奮しやすい。しかしテュルソスは極めて不真面目な態度で私を挑発した。必要とあれば、私の解放奴隷のヒッパルコスを拷問にかけていただいて構わない。そうすればお互いの貸し借りはなくなるだろう」

 アントニウスは、どうやらアクティウムの海戦の勝利者と自分とが同格である、いやむしろ自分の方が上であると錯覚したようだ。ヒッパルコスはオクタヴィアヌスに許され、オクタヴィアヌス側に寝返った。こうしてアントニウスは側近の一人をも失った。さらに、エジプトに最も近いユダヤのヘロデ王もオクタヴィアヌス側に寝返った。ヘロデ王の裏切りはクレオパトラとアントニウスにとっては終わりを意味した。



(アントニウスとクレオパトラの最後)


 オクタヴィアヌスはシリアからエジプトに進軍した。地上兵には艦隊が付き添った。ユダヤでは、ローマ軍にヘロデ王のユダヤ軍が合流した。同時に、ローマの将軍コルネリウス・ガッルスは艦隊を率いて、エジプトの西にあるキュレナイカからエジプトに向かった。ガッルスがまず、アントニウスの小艦隊を撃破した。アントニウスはこの艦隊を率いてエジプトから脱出しようと考えていた。その直後、オクタヴィアヌスはエジプトの国境の町ペルシウムを占領した。アントニウスは海上と陸上で、同時に攻撃を仕掛けようと決心した。

 BC30年8月1日、アレクサンドリアの朝、アントニウスは海上の自分の艦隊を見ていた。彼はすべての希望を艦隊に託していた。ところが、彼の艦隊は敵の方に漕ぎ寄って行くと、一斉にオールを立てた。これは自分たちが寝返る準備ができているという意志表示だ。今度は、敵と味方が一つになって町に向かって態勢を整えた。アントニウスが艦隊の動きを見ている間に、彼の騎兵は全速力で駆け出して、艦隊と同じく敵に寝返った。アントニウスは街に逃げた。彼はクレオパトラに裏切られたと信じた。そして興奮して女王の名前を呼んだ。恐怖を感じたクレオパトラは2人の女召使いを連れて、霊廟に逃げ込んだ。召使いたちは落とし戸を落として大きな錠前を掛け、かんぬきを下した。興奮したアントニウスを近づけないために、クレオパトラは策略をめぐらせた。彼女はアントニウスに使者を送って、クレオパトラは死んだと伝えさせた。この報せを聞いたアントニウスは身の回りの世話をする奴隷のエロスに命じて、自分に剣を向けさせた。エロスは剣を振り上げたが、自分自身を貫いた。アントニウスは自殺を決心した。そして剣を腹に刺した。痛みにのたうちながら、駆けつけた召使いたちに、一思いに殺してくれと頼んだが、彼らは逃げ出した。アントニウスの死は、残酷な時間のかかる死だった。クレオパトラは秘書のディオメデスを使いに出して、アントニウスを霊廟に連れて来させようとした。ディオメデスは血まみれのアントニウスを抱いて、霊廟まで引きずっていった。クレオパトラは侍女に命じて、上の窓からロープを垂らして、これにアントニウスを結わえさせて、引き上げさせた。半死の状態のアントニウスは、ワインが欲しいと訴え、クレオパトラを慰め、今後の忠告をしながら息絶えた。


 アレクサンドリアはオクタヴィアヌスの兵士たちによって占領された。抵抗は全くなかった。こうして、エジプトの首都は戦わずして掌中に落ちたが、オクタヴィアヌスは後に、エジプトにおけるこの頃が、彼の政治的な経歴の中では最も重要な時期だったと回顧している。神となったユリウス・カエサルには一年の7番目の月(July)が捧げられたが、それと同じようにオクタヴィアヌス・アウグストゥスは、8番目の月(August)に自分の名前を与えるよう要求した。この8月こそ、彼がローマ帝国を最大の危機から救った月だからである。

 オクタヴィアヌスの友人で側近の一人プロクレイウスは、クレオパトラを生きたままオクタヴィアヌスの許に連れて来るようにと命令された。オクタヴィアヌスはクレオパトラを捕虜にして鎖に繋ぎ、自分の戦車に乗せて、ローマで凱旋行列をすることを考えていた。しかし、敗者のクレオパトラにとってはおぞましい屈辱だった。生きながらローマ人の手に落ちることだけは絶対に避けたかった。クレオパトラとプロクレイウスは霊廟の内と外で交渉した。クレオパトラは霊廟を襲うなら自殺すると脅した。そしてクレオパトラの子供たちに王国を残してくれるという条件を、オクタヴィアヌスが呑んでくれれば、霊廟から出ると主張した。プロクレイウスはいったん引き揚げたように見せかけて、後の交渉を将軍ガッルスに任せた。この間にプロクレイウスは梯子をかけて霊廟の中に忍び込み、女王を押さえ込んで、短刀で自殺できないようにして、部下に監視させた。オクタヴィアヌスはエジプト人の人気を獲得したいと考えた。彼は寛大にも、クレオパトラに死んだ夫のアントニウスを、彼女自身の霊廟に埋葬する許可を与えた。これはローマの仕来りでは実に例外的な措置だった。通常敗者は、頭と両手をバラバラにされてローマに送られ、勝者の栄光を高める道具に使われた。さらにオクタヴィアヌスはアレクサンドリアのホールで演説した。彼は町の壮大さや美しさに感激した様子を語り、この町を築いたアレクサンドロス大王の功績を称えた。その数日後、オクタヴィアヌスとクレオパトラが会見した。クレオパトラは病気で床に伏せっていた。クレオパトラは食物を摂ることも、身の世話をされることも拒んだ。そのため髪は乱れ、目は赤く、衣服は汚れていた。クレオパトラはオクタヴィアヌスの足下に平伏した。クレオパトラは、オクタヴィアヌスが来たのは彼女に同情を示すためではないことを理解していた。黙ったまま彼女は、自分の宝物の一覧表を取り出した。クレオパトラは為すべきことを全力でする女性だった。人を愛するときも、人を憎むときも、愛する人が死んだときもそうだった。だが、彼女は頭の良い女性であり、常に感情より理性の方が上回っていた。クレオパトラは目前に迫った死ですら、計算づくで実行しようとした。若いオクタヴィアヌスの言いなりにはならなかった。クレオパトラは王宮で軟禁状態だった。クレオパトラを監視していたドラペラという男から、オクタヴィアヌスがローマに帰る準備をしており、彼が出発してから3日後には、自分がシリア経由でローマに連れて行かれるかもしれないと聞かされた。クレオパトラの最後の勝負が始まった。


 歴史上の人物で、クレオパトラほどいろいろと死因を詮索された人物はいない。古代の歴史家は必ず彼女の死に言及したが、彼女の孤独な死は、今日に到るまで完全には解明できていない。紀元後1世紀のギリシャ人歴史家プルタルコスによると、クレオパトラは死の当日、アントニウスの墓に身を投げかけて泣き、別れの言葉をつぶやき、その後自分の王宮に引き籠り、通常と変わらない様子で風呂に入ると、食事をするために横になった。一人の農民がイチジクの入った籠を持ってきた。女王を監視していた人たちもあまり大きいのでびっくりしたほど立派なイチジクだった。食後、筆記用具を手にして2~3行手紙を書いて封をし、それをオクタヴィアヌスに送り届けさせた。手紙にはただ一言、「どうか、マルクス・アントニウスの傍らに埋葬してください」とあった。オクタヴィアヌスはその意味をすぐに悟り、護衛を王宮に急派して、最悪の事態を防ごうとした。クレオパトラは召使いのエイラスとカルミオンとともに部屋に閉じこもっていた。扉を力ずくでこじ開けた駆けつけた人びとの目に、黄金の寝台の上で死んでいるクレオパトラの姿が目に入った。女王に相応しい胸飾り、プトレマイオス家の頭飾りを着けたクレオパトラの足元では、エイラスとカルミオンが今まさに息を引き取ろうとしていた。


 プルタルコスは例のイチジクの入った籠の中にクサリヘビが隠されており、クレオパトラは自分の腕を籠に差し入れ、クサリへビに噛ませた可能性に言及している。ローマ帝国時代の他の作者たちも皆、死因はヘビの毒だったとしている。クレオパトラは常々、ヘビの毒を使って各種の実験をしたことは確かなようだ。プルタルコスは、クレオパトラの死体の検死の際、彼女の身体には斑点もその他の傷跡もなかったと記している。臭いも味もない無色透明のヘビの毒は、神経を麻痺させたり傷つけたりすり神経毒と、出血を促したり血液を分解したりする出血毒とに大別される。コブラには神経毒が多い。クサリヘビには出血毒が多く、めまいがして意識がもうろうとした後、呼吸中枢あるいは心臓が麻痺する。噛まれた箇所は変色したり、腫れたりする。ということは、クレオパトラは中空の髪留めにいつもヘビの毒を隠して持ち歩いていたとプルタルコスは記していることから、この毒を飲んだ可能性が高いようだ。しかし、プルタルコスは最後に「真実は誰も知らない」としている。BC30年8月末、クレオパトラ7世は亡くなった。39歳だった。

 クレオパトラとアントニウスは王家の霊廟に並んで葬られた。その後、オクタヴィアヌスはカエサリオン(プトレマイオス15世)を殺害させ、エジプトを公式にローマへ併合した。これこそ、クレオパトラがあれほど懸命に避けようとしていた宿命であった。王朝の交代はあったとはいえ、3000年に及ぶ古代エジプト王国の独立は終わりを告げた。ファラオたちの国土は今やローマ帝国の「穀物籠」として収奪されることとなった。しかし、クレオパトラは古代エジプトを体現する存在となり、彼女の物語は現在に到るまで世界中の人びとを魅了し続けてきた。それでも、古代エジプトはこの悲劇の女王と一緒に死に絶えたわけではない。ローマに対する影響、そしてそれ故に西欧文明に及ぼした影響を通して、長い年月を経たファラオたちの文化は現代世界を創りあげた。クレオパトラより2000年、初代ナルメルよりは5000年を経て、ファラオたちや彼らの残した記念建造物、そして彼らに仕えた人びとの生涯に対する関心は依然として高い。古代エジプトは我々を未だに虜にしているのだ。



(プトレマイオス朝エジプトの滅亡)


 BC31年のアクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れたアントニウスとクレオパトラは、その翌年に自殺した。この時を持ってエジプトのマケドニア系プトレマイオス朝は崩壊し、エジプトは共和政ローマに併合されてその属州となった。アントニウスとオクタヴィアヌスとの確執が始まったBC40年、ローマ本国では金利と食料品の価格が爆発的に上昇した。それでもローマ人は、アントニウスが海上封鎖をするのではないかと恐れて、物資を買い集めた。BC30年にオクタヴィアヌスがエジプトを征服してからは、逆方向に転じた。金利はそれまでの3分の1になり、属州からの税の徴収も増えた。古代世界において、エジプトはコムギの一大生産国だった。エジプトは毎年、イタリア本国が1年間に消費する穀物の3分の1に相当する量の穀物をローマに納めることになった。コムギ価格は急速に下がり、繁栄の時代が始まった。「神の子なるオクタヴィアヌス」の肖像が付いたデナリウス貨幣が大量に製造された。国賊と宣言されたアントニウスの銅像は次々に倒されたが、クレオパトラの場合はいささか事情が違っていた。敵の第一人者の場合、恩寵を与えられたからだ。特に、この敵が敗れたことで、ローマに繁栄が訪れた場合である。クレオパトラの銅像はそのまま残されることになった。クレオパトラとアントニウスの間に生まれた双子の姉弟クレオパトラ・セレネとアレクサンドロス・ヘリオスは、凱旋行列では母の銅像の傍らを歩かなければならなかったが、その後は彼らに相応しい教育を受けた。クレオパトラ・セレネはヌミディア王で、学者として知られているユパ2世と結婚した。アレクサンドロス・ヘリオスのその後の運命と、彼の弟のプトレマイオス・フィラデルフォスについてはほとんど何も知られていない。いずれにしてもエジプトには戻らなかった。


 ローマとエジプトの関係はプトレマイオス朝時代後期、ローマの将軍ポンペイウスがクレオパトラ7世の後見人に指名されたときから始まった。一連の不運な同盟は、アクティウムの海戦におけるオクタヴィアヌスによるマルクス・アントニウスの敗北に続き、結果的にBC30年のクレオパトラ7世の自殺と彼女の息子プトレマイオス・カエサリオンの殺害を招いた。エジプトはアレクサンドリアを本拠地としたオクタヴィアヌスの代理人によって管理されたが、便宜上伝統的なノモスの制度を保った。ノモスとはギリシャ語でエジプトの行政区画のことであり、古代エジプト語のセパトと一致する。上エジプトは22の地域、下エジプトは流動的ではあったが20の地域に分割されていた。ノモスは州のようなもので州都が存在していた。ギリシャ語は公用語として残った。ローマの軍隊の多くは国内の安全を保ち、採掘場と戦略上重要な土地を保護するためにエジプト全土に駐屯した。ローマ属州エジプトを担当したのは、エジプトでアントニウスの小艦隊を撃破したローマの将軍コルネリウス・ガッルスだが、彼は属州総督ではなく、代理人である長官に過ぎなかった。これはローマ市民の中の第一人者(プリンケプス)オクタヴィアヌスに直属したことを示している。エジプトでは元来、ファラオの名前を取って年号としたが、オクタヴィアヌスが皇帝になって「崇高なる人、あるいは尊厳なる者」という意味のアウグストゥスを名乗ってからは、ローマ皇帝の名前を取って年号とした。ファラオの国は、クレオパトラの死によって政治的には永久に消滅したのである。



(オクタヴィアヌスからアウグストゥスへ)


 ポンペイウスやカエサルといった将軍たちは、多くの土地をローマに併合するだけでなく、地元民にとってローマとの仲介役の役割も果たした。大変革に揺れるこの共和政末期の時代、新しく姿を変えた軍と将軍たち、それに征服者と被征服者の間に生まれたパトロキニウム(保護者制度)を普遍化したのが、オクタヴィアヌスだった。マルクス・アントニウスを倒すために東方遠征に出発する時、彼は支配下にある西部の属州の兵士たち全員に忠誠を誓わせている。この誓いは、マルクス・アントニウスから奪った東の領土にも適用され、後の彼の「業績録」にある「権威(アウクトリタス)」の倫理的基盤にもなっている。オクタヴィアヌスはカエサルの古参兵たちを受け継ぎ、さらにカエサル暗殺に関わった兵士たちや、マルクス・アントニウスの軍も引き受けた。オクタヴィアヌスがアントニウスとクレオパトラの連合軍を破ったBC31年のアクティウムの海戦後、ローマの政治機構は大きく再編されていたが、その時オクタヴィアヌスが軍を掌握していたことはとても有利に働いた。軍団兵全員が忠誠を誓い、軍団旗に肖像まで描かれたアウグストゥスにかなう者はいなかったのだ。オクタヴィアヌスは兵士たちの忠誠心を保つため経済面の支援も忘れなかった。彼はイタリアだけで少なくとも28か所の軍事植民市を建設し、退役軍人に耕作地を与えた。この習慣は後に廃止され、代わりに現金が支給されるようになる。


 100年に及ぶローマの内戦を終結させたオクタヴィアヌスは、分断されたローマを再び一つにまとめて、ローマに帰還すると執政官に選ばれた。BC27年、オクタヴィアヌスは共和政の復興を宣言し、国家の非常時に与えられていた独裁的な権限をすべて元老院とローマ市民に返還するとして人びとの熱狂的な支持を獲得する。その数日後、元老院から「崇高なる人」を意味する「アウグストゥス」という尊称を贈られた。しかし共和政の復興後にオクタヴィアヌスが保持していた権限は、合法的ではあったが、全ローマ軍に対する指揮権、政策の決定に対する拒否権も持つ護民官職権など、さまざまな権限を、異常なまでに一人の個人に集中しているという点で、実質的な君主制を意味するものだった。このようにしてオクタヴィアヌスは、共和政を熱望するローマ人を満足させながら、実質上の「帝政」を樹立したのだった。



(ヘレニズムの終焉)


 BC31年、アクティウムの海戦で、オクタヴィアヌス配下のマルクス・アグリッパが、宿敵マルクス・アントニウスとエジプト女王クレオパトラの連合軍に決定的勝利を収めた。それから11ヶ月後、アントニウスとクレオパトラは世を去り、ヘレニズム諸国の中で最後まで持ちこたえていたプトレマイオス朝エジプトは、オクタヴィアヌスの軍団によって滅ぼされる。ヘレニズムはこれで終わったのか? 答えはイエスでありノーである。なぜなら、その後ローマ帝国はアレクサンドロスの帝国の流れを汲む最強の国になるからだ。ヘレニズム諸国はどこもカリスマ性の強い君主を戴いたことで政治的不安定を内包しており、また各国間の力のバランスも崩れやすかったため、国力は十分にあったにもかかわらず、拡大していた共和政ローマに容易く餌食になった。政治としてのヘレニズムはBC30年、エジプトが共和政ローマの属州となったところで終わるが、ヘレニズム諸国の君主たちがローマに依存せざるを得なくなったBC2世紀半ばから苦悩は始まっていた。それでも文化体系としてのヘレニズム、すなわち生活様式や美術表現の枠組み、建築、都市計画、文学、哲学、宗教におけるヘレニズムは死ななかった。征服されたギリシャは未開の勝者を文化の力で圧倒したとは、アウグストゥス時代のローマの詩人ホラティウスの言葉である。彼が活躍したのは、アクティウムの海戦で勝利したオクタヴィアヌス、すなわちアウグストゥスの時代だった。スコットランド南西部のクライド川からメソポタミアのユーフラテス川まで、この後のローマ帝国の時代に点在する無数の都市でヘレニズムは生き続けた。ローマ帝国皇帝が威信を示す手段だった建築物や碑文、貨幣にもヘレニズムは息づいていた。また古代後期に出現して、古典世界が築き上げた知識を吸収したキリスト教の中にもヘレニズムはまぎれもなく存在していた。ヘレニズムの文化遺産は、時代が変わっても大西洋からインダス川に到る広い世界を形作っていた。

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