第124話 共和政ローマによる地中海世界の征服

<年表>

BC215年~BC205年 第1次マケドニア戦争、ローマとアンティゴノス朝マケドニアの戦い、マケドニア有利で講和成立

BC200年~BC197年 第2次マケドニア戦争、アンティゴノス朝マケドニアはローマの将軍フラミニヌスに大敗

BC196年 ローマがギリシャの「自由」を宣言

BC194年 ローマがギリシャから撤退

BC192年~BC188年 ギリシャをめぐるセレウコス朝シリアとの戦争。ローマはセレウコス朝のアンティオコス3世に勝利し、BC188年の「アパメイア条約」により、セレウコス朝がギリシャと小アジアに持っていた領土の大半を奪取

BC171年~BC168年 第3次マケドニア戦争、フィリッポス5世亡き後、その息子が第3次マケドニア戦争を起しローマと戦うが、BC168年のピュドナの戦いでローマに敗れたアンティゴノス朝マケドニアが滅亡。マケドニア王国は4つの自治領に分割される。

BC150年~BC148年 第4次マケドニア戦争。フィリッポス5世の孫が反乱を起したが、マケドニアはまたも敗れて、BC148年にローマの自治領ではなく属州となった

BC147年~BC146年 ギリシャのペロポネソス半島北部のアカイア同盟がローマに対して蜂起するが、その中心都市コリントスを徹底的に破壊して抑え込み、BC146年にアカイア地方はローマの保護領となった

BC133年 ペルガモンのアッタロス3世がローマに自分の王国を遺贈。それによりBC129年にローマの属州アシアが小アジアに誕生

BC129年 メソポタミアはパルティア人によって侵略され、彼らが興したアルケサス王朝(BC247年~紀元後224年)の支配下に入る


 ***


 BC4世紀からBC2世紀にかけてローマはその支配を地中海全域に広げていった。まず南イタリアに進出すると、次に西地中海における強力なライバルであるカルタゴを打ち負かし、さらに古代文明の中心であったギリシャ、そしてマケドニア、ついには小アジアを従属させた。ローマの拡大を可能にした要因を明らかにするには、ローマの経済、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の関係、新たな軍事編成、制圧した領域に対する賢明な政策に注目する必要がある。

 ローマの農業はBC4世紀に発展した。この発展は公有地を各農民が利用する際にその面積を制限したことが大きい。そのため農民たちは、新たな土地を求めるようになった。また富裕な平民(プレブス)が担った交易は、市場拡大のため新たな刺激を求めた。このようなローマ社会の大部分の人たちが有した経済的関心が、ローマをイタリア南部への拡大へと向かわせていった。新興の富裕層を仲立ちとして、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の対立は解消していった。それは平民(プレブス)の一部が公職への就任資格を得ることが認められた結果だったのだが、現実には貴族(パトリキ)と富裕な平民(プレブス)が結んで形成された新たな支配階級、いわゆるノビリタス(新貴族)を誕生させることになった。さほど裕福ではない市民も、負債者が奴隷身分に転落しかねないというほどの深刻な負債状況は、緩和されつつあることを感じていた。そして彼らのほとんどが軍隊に参加していた。

 ローマでは、ギリシャやエトルリアに由来する密集重装歩兵の隊形に代わって、60人~120人から成る小さな部隊を単位とする、より機敏な戦術が採用された。また徴兵の方法も変わった。この時期までは、高価な武具を用意できる富裕な市民がケントゥリア(ローマ軍の百人隊)の兵士の中で最も多くなり、その結果として、彼らは以前より長期の軍務に就かなければならなくなっていた。しかし新しい徴兵システムは、地域的な区域を徴兵の単位とするもので、軍はより効果的に平民を用い始めた。さらにローマが征服した領域に多くの植民市を建設したことは、平民の欲するものを提供できた。つまり、彼らはローマ市民権を持ったまま移住先で土地所有権を得ることができた。たとえそれがローマの国家財産のままであったとしても、市民兵士らは植民市周辺地域の一部を割り当てられた。

 ローマの拡大政策に関してもう一つの根幹をなす要素は、征服した領地を抑圧することなく関係を結ぶという、その独創的で他に類を見ない方法がある。ローマは、征服した諸国にさまざまな役割を求め、同盟と徴兵システムを通して軍隊に参加させるという賢明な政策を実施した。植民市へのローマ人の移住、国内の政治状況の好転、そして平民の新たな軍隊参加により生じた士気の高揚などのより、ローマは好機を捉えて領土拡大に利用することが可能になった。



(南イタリアへの進出)BC282年~BC265年


 チャンスはまず、BC343年にローマの南に位置するカンパニア地方のエトルリア人の町カプアがサムニウム人の脅威を受け、ローマに援助を求めた時に到来した。このサムニウム戦争は激烈な戦いとなり、BC290年まで続いたが、最後はローマが勝利した。その結果、次に南イタリアで繁栄しているギリシャ人地域、マグナ・グラエキア(大ギリシャ)への進出が可能となった。ローマがマグナ・グラエキア(大ギリシャ)に進出する機会はタレントゥム(現在のタラント)によってもたらされた。同じ南イタリアのトゥリイの救援要請に応じてローマの駐屯軍が派遣されると、この一帯で最大にして最も栄えていた町タレントゥムは激しく動揺し、ローマに対抗するためギリシャ北西部のエペイロス地方の王ピュロスに救援を求め、BC282年にローマに対して宣戦布告した。ピュロスとの戦いにローマは苦戦したが、最後はピュロス側が根負けし、BC265年に和平条約を結んでギリシャに撤退した。こうしてBC265年までに、南イタリア沿岸のギリシャの植民地群マグナ・グラエキア(大ギリシャ)を支配下に置いたローマが西地中海域に登場すれば、この海域におけるもう一つの大国、カルタゴと衝突するのはごく自然の成り行きだった。



(カルタゴとの西地中海の覇権をかけたポエニ戦争)BC264年~BC146年


 そして、有名な3次にわたるポエニ戦争を西地中海の覇権をかけてカルタゴと戦うことになった。第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)でローマはハンニバルに追い詰められ、一時はローマの町を包囲されたが、最後は勝利した。そして第3次ポエニ戦争(BC149年~BC146年)で、最終的にカルタゴは滅亡し、西地中海は完全にローマの勢力圏となった。わずか数世紀前まで、強国がひしめくこの地域において、ローマは比較的弱小と見られていたが、この戦いによって地中海の大国として躍り出た。

 カルタゴに対する勝利の結果、ローマは自国の豊かさ、強大さをはっきり自覚することになった。外地での経験、特に地中海文明で最も先進的な地域、すなわちギリシャ文化の影響のある地域との接触はローマに刺激を与えた。ローマの保守的な人びとはギリシャ文化の影響の広がりに反発したが、第2次ポエニ戦争のBC202年にカルタゴのハンニバルをカルタゴの南方ザマで破ったスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)は、当時の先進地域であるギリシャや東方のヘレニズム世界への進出を望み、保守派の反対を抑え、民衆に促されてその希望を実現した。



(東方のヘレニズム世界への進出)BC200年~BC129年


 ローマによるヘレニズム世界の征服は、南イタリアにあるスパルタの植民市タレントゥム(タラス:現在のタラント)への侵攻から始まる。タラスを助けるべくエペイロス王のピュロスがBC280年に駆けつけ、このとき初めてローマ軍は、アレクサンドロス大王の戦術を熟知した精強な歩兵と戦った。

 BC200年までに地中海東部では、いずれもヘレニズム国家であるエジプトのプトレマイオス朝、マケドニアとギリシャ北部を治めるアンティゴノス朝、旧ペルシャ領の大半を領有するシリアのセレウコス朝の3つが大国として君臨し、その隙間をロードス島、ギリシャのコリントスを中心とするアカイア同盟、小アジアのペルガモン王国などの小国が埋めていた。


 第1次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)の勝利の後、BC228年にローマはギリシャのイストモス祭典への参加を認められている。これはローマがギリシャ文明圏であるヘレニズム世界の一員として認められたことを意味している。ところが、そのヘレニズム世界からカルタゴと同盟関係にあるマケドニアが第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)に参戦したため、逆にローマはマケドニアと対立するギリシャ人の都市国家を支援し、それをきっかけにそうした国の内政にも干渉し始める。BC200年にアテナイ、ロードス島、ペルガモン王国から支援を求められたときには、ローマはすでに東方進出への気運が高まっていた。けれども、やがてローマがギリシャ文明圏全体を支配するようになるなどと予想した人は、この時点ではまだ誰もいなかったに違いない。

 しかしこの頃になると、ローマ人の世界観に重大な変化が起こり始めていた。ポエニ戦争がBC264年に始まったとき、元老院議員の大半はそれを「防衛のための戦争」であると受け止めていた。ローマの有力政治家大カトー(BC234年~BC149年)は、関係のない演説の最後にも必ず、「それでもカルタゴは滅ぼさねばならない」という言葉を付け加えていたと言われるが、それも結局は強大なカルタゴに対する恐怖心から出た言葉だったのだろう。ところが戦争を通して次々と領土を獲得するうちに、ローマ人は新しい利益の存在に気づき、さらなる領土の獲得に意欲を燃やし始める。シチリア島やサルディニア島、イベリア半島から送られてくる奴隷や鉱物資源、そして黄金が、ローマ人の野心を目覚めさせたのだ。イタリア本土の都市とは違い、こうした地域の都市はローマの同盟市とは見なされず、同盟市には課せられていなかった直接税も徴収された。国外での戦いに勝った将軍たちが戦利品の一部を個人的に兵士たちに分け与えるようになったのもこの頃のことである。明らかに従来の共和政では内包しきれない複雑な状況が、さまざまな局面で生まれつつあった。


 第2次ポエニ戦争に勝利し、西地中海に覇権を確立したローマは、BC2世紀の後半、東方のヘレニズム世界へ積極的に進出していく。マケドニア王フィリッポス5世はBC215年に第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)中にイタリア半島にいたハンニバルと同盟を結び、バルカン半島西部に位置するローマの属国イリュリアを攻撃、第1次マケドニア戦争(BC215年~BC205年)が勃発する。当時のローマはポエニ戦争にかかりきりだったため、まともに戦うことなく10年後に講和し、フィリッポス5世が奪った地域の領有を認めた。

 BC202年、フィリッポス5世がセレウコス朝シリアのアンティオコス3世とエジプトを分割する協定を結んだとの知らせがロードスとペルガモンの両大使からローマの元老院に提出された。これは捏造だったのではないかと考える歴史家もいるが、ローマを動かすには十分だった。ローマはこれに介入して第2次マケドニア戦争(BC200年~BC197年)が始まった。BC197年にフィリッポス5世はローマの将軍ティトゥス・フラミニヌスに大敗を喫し、マケドニア以外のすべての領土を放棄する。フラミニヌスは休戦協定でギリシャ都市の自由を約束し、BC194年にローマ軍はギリシャから撤退した。

 ところが、BC192年にセレウコス朝シリアのアンティオコス3世がギリシャへ軍を派遣すると、ローマも軍を派遣し、ギリシャをめぐりセレウコス朝シリアとの戦争(BC192年~BC188年)が勃発した。BC190年にローマ軍はギリシャのテルモピュライとマグネシアでセレウコス朝軍を撃破し、セレウコス朝がギリシャと小アジアに持っていた領土の大半を奪い、さらに多額の賠償金を手に入れた。その後、フィリッポス5世亡き後、その息子が第3次マケドニア戦争(BC171年~BC168年)を起しローマと戦うが、最後は、BC168年のピュドナの戦いに敗れ、アンティゴノス朝マケドニアは消滅し、マケドニア王国は傀儡かいらいの統治者が支配する4つの自治領に分割された。さらにフィリッポス5世の孫が反乱を起し、第4次マケドニア戦争(BC150年~BC148年)を始めたが、マケドニアはまたも敗れて、BC148年にローマが直接支配する属州となった。かつてはアレクサンドロス大王のもと、東方世界を支配したマケドニア王国も、そのころには優秀な指揮官も強力な重装歩兵軍団もすでに存在していなかった。マケドニア遠征の途上に位置するギリシャ本土の都市国家もローマの属国となり、首都ローマには大量の捕虜が送られてきた。その中で、歴史上の偉大な英雄たちの存在故ゆえにローマ人によく知られていたアテネとスパルタは特別扱いされた。この両市は、たとえローマの属州長官の管轄下にあっても、名目上はローマの同盟者と見なされた。

 一方、ギリシャではBC196年にフラミニヌスがギリシャの自由を保証したにもかかわらず、ローマ人はギリシャの都市から富を奪った。この略奪行為とマケドニアの属州化に耐えかね、アカイア同盟に名を連ねるコリントスをはじめとするギリシャの都市がBC147年にローマに対して蜂起する。ローマの対応は迅速かつ徹底的だった。ギリシャが二度と蜂起しないように、警告として豊かな都市だったコリントスを徹底的に破壊してすべての市民を奴隷とし、BC146年にアカイア地方はローマの保護領となった。この古代ギリシャの偉大な都市コリントスの略奪について、ギリシャの歴史家ポリュビオスはこう書き記している。

“過去のギリシャのあらゆる敗北も、我々の時代のコリントスに降りかかった悲運に比べたら、悲運でもなんでもない”


 ローマは侵略的な姿勢をなおも強めていく。共和政ローマは帝国へと変わろうとしていた。同じ頃、セレウコス朝シリアとの対立をきっかけとして、ローマは初めて小アジアに軍を進める。その後は、BC133年にペルガモンのアッタロス3世の死に際してのペルガモン王国の遺贈、エーゲ海の制覇、BC129年に属州アシア(アナトリア西部)の設置と、ローマの快進撃が続いた。



(イベリア半島、バルカン半島西部のイリュリア、南ガリアの属国化)BC154年~BC121年


 地中海西方において解決しなければならなかった最後の問題は、BC154年以降ケルト=イベリア人(イベリア半島中・北部)とルシタニア人(イベリア半島南西部)の反乱であった。有能な指導者ウィリアトゥスの下で巧みなゲリラ戦を展開していたルシタニア人はBC139年、計略によりこの指導者が暗殺されると、ようやくローマに従うようになった。ケルト人とイベリア人の混血であるケルト=イベリア人も、最後まで抵抗していたヌマンティアの町がBC133年にスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)によって占領され徹底的に破壊されるまで抵抗を続けた。スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)は第3次ポエニ戦争でBC146年にカルタゴを滅亡させた時の将軍である。

 このように、東方以外の地域でもローマは次々に新たな領土を獲得する。北西部を除くイベリア半島全土の征服、バルカン半島西部のイリュリアの貢納属国化、BC121年には南ガリア(現在のフランス)の属州化などに成功し、ジブラルタル海峡からギリシャ東部のテッサリアに到る広大な地域を制覇した。BC149年に始まった第3次ポエニ戦争(BC149年~BC146年)も、3年後にはローマの圧勝で終わり、カルタゴは徹底的に破壊されてしまった。そして北アフリカにあったカルタゴのかつての領土は、ローマの新たな属州アフリカとなった。この時点でローマは、地中海の4つの大きな半島、イタリア、イベリア、ギリシャ、小アジアと、アフリカの北岸を支配下に置くこととなった。ヌミディア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアという国々は未だ政治的な支配を受けていなかったが、実際はローマの影響下に置かれた。

 こうしてローマは共和政の政治システムの中から「ローマ帝国」を誕生させていった。後に彼らはローマ型の社会を拡大することに誇りを感じるようになるが、その始まりは偶然に助けられたものだった。初めは強大なカルタゴへの恐怖、その後は属州の獲得による経済的な利益が原動力となってより遠くへ遠くへと進軍した結果、広大な領土を獲得することに成功した。領土が拡大を続けることによって、ローマは強大な軍事力を維持することができた。ポエニ戦争の勝利を見てもわかるとおり、数多くの同盟市からいつでも兵士を調達できるローマの統治システムは軍事的にも非常に優れたものだった。さらに、新たにローマ領となった地域には共和政のシステムが導入され、秩序と安定がもたらされていった。各属州には、ローマにおける執政官(コンスル)と同様の権限を与えられた属州総督が1年任期で赴任し行政にあたった。こうして「共和政の衣をまとった帝国」であるローマは、急速に覇権を拡大していった。


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(属州と属州民)


 カルタゴとの第1次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)、第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)、第3次ポエニ戦争(BC149年~BC146年)、マケドニアとの第1次マケドニア戦争(BC211年~BC205年)、第2次マケドニア戦争(BC200年~BC197年)、そしてセレウコス朝シリアとの衝突(BC192年)と強敵が次々と現れるなか、彼らと対抗できるのは、地中海世界で最も規模が大きく、また経験豊かな軍隊を持つローマだけだった。

 ローマが海外で仕掛けた戦争は、新しい属州が増えたという点では実りが多かった。コルシカ島とサルディニア島はBC231年に属州となり、ポー川より北のイタリアはBC203年に、イベリア半島はBC197年に属州となった。他にもイリュリア(バルカン半島西部)はBC167年に、マケドニアと北アフリカのカルタゴの領土はBC146年に、小アジアはBC133年にそれぞれ属州になっている。


 新しく誕生した属州の防衛と行政のために兵士と役人を大幅に増やす必要が出てきた。BC133年には、共和政ローマは帝国を創設していたが、この帝国は善悪両方の影響を及ぼしている。広大な土地が公有地(アゲル・プブリスク)に併合され、たちまち元老院議員の貴族たちのものになった。彼らは大きな農場を経営し、そこで生産された穀物を市場に出して富を蓄えていった。それと同時に、小規模な土地しか持たない者、なかでも長い兵役に就いていた者はそのわずかな土地も失ってしまい、ローマの各都市に流れてきた。こうして都市の貧困層が拡大してきた。

 BC133年、貴族の中でも飛び切りの名家の出だったグラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)は、平民の擁護者として立ち上がり、土地の分配と貧しい無産市民の救済を求めた。それは人民主義的な新しい政治の先駆けだったが、その改革は元老院議員たちの反対によって実現できなかった。BC2世紀末にはラティウムの小都市出身のガイウス・マリウスが着手した軍制改革によって状況がさらに悪化した。それまでローマ軍は土地を持つ中産階級から徴兵する市民軍の性質を持っていたが、土地を持たない無産階級から始めて徴兵を行ったことで、ローマ軍は戦争を生活の糧とするプロ兵士集団へと変質した。彼らにとって将軍は単なる軍事司令官以上の存在だった。戦争中は戦利品が期待できるし、兵役を20年間務め上げれば、満期除隊の折に退職金がもらえる。但し、それらはすべて上官の采配次第だった。こうして軍の中でそれまでにない強い結束が生まれ、やがてそれは共和政自体をも飲みこんでいくことになる。


 BC2世紀末までにローマはイタリア半島の外の広大な領域に10の属州を設置していた。各属州は全権を有する総督(プラエトル)に統治された。総督の下には、財務を担当する財務官、軍務を担当する副官たち、そして日常業務を行う一群の役人たちがいた。統治の形式は現地の習慣やしきたりを尊重して行われたが、一つの重要な点については妥協しなかった。それは、自分たちローマ人と服属させた人びとの間に平等の権利を認めなかったことである。したがって、ローマ市民であることは属州民に対して真の特権となった。本国イタリアの人びとは属州に編入されることなく、同盟などの関係でローマに結びつけられていたが、ローマ市民権を獲得するまでには長い年月を費やして戦わなければならなかった。


[ローマの市民権]

 ローマの版図拡大を可能にした要因の一つが市民権だ。ギリシャ都市国家における市民は「純血」で排他的だったが、ローマはさまざまな市民権を考案して、同盟国や支配下の住民に柔軟に付与しつつ彼らの自治もそのまま残した。そのためローマの領土は立場の異なる自治市が寄り集まったパッチワークのようになっていた。各地の植民市(コロニア)はローマ市民の入植地であり、言わばミニ・ローマだった。ローマは法律で定めた地位をイタリアの広い地域に適用するようになるが、それにつれて市民権が本来持っていた人権的・領域的な意味合いは薄れていく。地方の自治形態と市民権を共存させたことで、ローマは実質的に自治都市の連合体となり、国の機能の多くはそうした都市に委譲された。この柔軟性は長い目で見てすべてを包括する好ましい結果をもたらした。征服された土地の住民は同盟市民(ソキイ)となり、やがてローマ市民(キウェス・ロマーニ)になっていくという図式だ。ローマ市民の数は順調に増え、市民と同盟市の分遣隊で構成される軍隊も大きくなっていった。さらに紀元後88年にユリウス法は制定され、ポー川から南に暮らす自由民の男子にはすべてローマ市民権が与えられることなる。帝政時代には多くの属州出身者が個人や集団で市民権を獲得した。さらに紀元後212年にはカラカラ帝がローマ市民権の範囲を拡大し、帝国内に居住する自由民の男性はほぼ全員ローマ市民となった。


[ローマの宗教]

 ローマの宗教は祈りの行為よりも、多くの公衆が参加する儀式や行進、供犠くぎが基本で、その役割の一つが市民のローマに対する忠誠を強めることだった。ローマの神々の多くはギリシャのオリンポスの12神と同じ、あるいは関連付けられている。

・ヤヌス:事の初めを司る双頭の神で、あらゆる行動の開始にあたり諮問された

・ミネルヴァ:知恵の女神

・ウェヌス:愛の女神

・マルス:軍神

・ユピテル:神々の中の王(主神)

・ユノ:神々の中の女王(主女神)

・アポロ:太陽と学芸の神

・ネプトゥヌス:海洋の神

・ディアナ:月と狩りの女神

・その他:エジプトのイシス神(大地母神)、アジアの女神キュベレなどをローマのパンテオン(万神殿)に加えた。



(共和政ローマの軍隊)


 都市国家ローマはBC509年に王政から貴族による共和政へと移行し、その後、平民の政治参加によって大いに発展していく。イタリア半島の統一に始まり、カルタゴとのポエニ戦争の勝利によるイベリア半島と西地中海世界の獲得、カエサルによるガリア征服など、ローマは共和政時代を通じて、その支配圏を都市から地中海世界全域に広げ、世界帝国へと成長していった。 考古学的史料と文献から知ることができるBC200年からBC100年ごろのローマ軍は如何なるものだったのだろうか? その頃、ローマはギリシャ、マケドニアを吸収し、カルタゴを滅ぼしている。


 BC2世紀まで、ローマ軍の兵士は装備を自ら調達しなくてはならず、武器は自分自身の所有物だった。したがって、服装や装備について完全な統一性を見つけることはできないが、BC2世紀には時代が進むにつれ、絶え間ない戦争や拡大する一方の動員規模の結果として、軍備品に対する需要が増していった。BC2世紀末に執政官マリウスは財産を持たない貧困層から軍隊への志願兵を募ったが、これらの兵士は自分で武器を持参することはできなかっただろう。ギリシャ人の歴史家ポリュビオスはその著「歴史」の第6巻で、共和政ローマ軍の装備ならびに組織について詳細に記している。

 ローマの男性は17歳で兵役に就く資格を得て、46歳までに一度だけ軍務に就かなければならなかった。緊急の際には、50歳までに引き上げられた。通常、市民は6年間連続して同じ軍団で軍務に就くことを求められた。但し、志願兵として、歩兵で16年間、あるいは騎兵で10年間努めることがもできた。

 兵士の基本的な装備は、盾、兜、胴鎧とすね当て、槍、剣であった。兵器としては、破壊つち、投弓器、投石器などさまざまなタイプがあった。ローマの敵が恐れた兵器の一つにカタプルク(catapulta:大型の石弓)で、100キロの重さの石を発射できた。


〈盾〉

 盾は幅75センチ、高さ1.4メートルの楕円形で、内側に10センチの反り返りがある。盾は2枚の板をニワカで貼り合わせてから、外側をキャンバス布で覆った上に革で上張りされている。その上部と下部は鉄で縁取りされており、上から振りかざされる剣や、下で地面に擦れることから護られるようになっている。また、飛び道具からの大きな一撃をらす役割を担うボス(盾の中心にある突起で、盾を握ったこぶしが納まる盾心)もあった。この盾は、ローマがBC4世紀後半にイタリア中部の覇権をめぐって戦ったサムニウム人やサビーニ人のものを起源としていると伝えられている。


〈兜〉

 共和政ローマ時代から発見された兜の大部分は、イタリア中部のアドリア海に面する港町モンテフォルティノの共同墓地から発掘された兜に由来した「モンテフォルティノ」型で、その相当数の兜がギリシャの戦場跡から見つかっている。この兜は円錐形で、青銅の打ち延ばしで成形された。兜の鉢部分の頂上にはクレスト(兜の頂き飾り)を付けるこぶがあり、鉛が詰められ、中央にはクレストのピンを差し込むために穴が開けられた。クレストと呼ばれる飾りは、深紅色あるいは黒色の真っ直ぐな羽3本が、およそ45センチの長さで上に伸びていた。


〈胴鎧とすね当て〉

 一定以上の収入のある者は、白いチュニック(貫頭衣)の上に革製の袖なし胴衣を着て、その上にガリアのものを起源とする「帷子かたびらの胴鎧」を身に着けていた。しかし重装歩兵の大半は、チュニックの上におよそ22.5センチ四方の青銅製の板「胸部防護板」を胸の前に付け、革ひもでずれないようにしていただけだった。また青銅製の脛当ては片足だけに着けていたようだ。共和政末期になると、将校はチュニックの上に青銅製の「筋肉型胴鎧」と脛当てを両足に着けていた。


〈投槍〉

 投槍はピルムと呼ばれ、長さ1.35メートルの鉄の穂先が、その長さの半分ほどまでを同じ長さの木製の柄に差し込まれ、しっかりと鉄製の鋲2個で留められていた。ピルムの全長は1.8メートルで、穂先の厚さは3.75センチだ。このようなピルムは、ローマ軍の野営地から発見されている。ピルムはまず第一に敵を殺害する目的で投げられるが、殺せなかった場合でも敵方の盾を使い物にならなくするよう工夫されていた。1本のピルムで別々の2つの盾を貫いてくっ付けてしまうか、あるいは1.35メートルの鉄の穂先が曲がって盾から引き抜けなくなったようだ。執政官マリオスは鋲の一つを木製の釘に替えた。ピルムが敵の盾に当ると、木製の釘は折れるが、、鉄製の鋲は無傷で残るため、木製の柄は「くの字」に折れ曲がったまま盾にぶら下がる形になる。


〈イベリア式の剣〉

 重装歩兵は全員、右腰にイベリア式の剣、グラディウスを1本携帯していた。この剣は攻撃的な武器として優れており、刀身は非常に強度が高く、両刃の部分はよく切れた。第2次マケドニア戦争(BC200年~BC197年)のとき、グラディウスの剣はマケドニア人に凄まじい衝撃を与えた。建国以来のローマの歴史を叙述したリウィウスは、グラディウスの剣が死体にどれほどの傷を負わせたかをマケドニア軍が見た時に、彼らを襲った戦意喪失について記している。多くの場合、剣は四肢を切り離し、首をはねていた。


〈軍団〉

 ローマ軍の基本単位はレギオンと呼ばれる軍団であった。平常時は、4つの軍団から成り、2人の執政官(コンスル)それぞれの指揮下に2つずつ置かれていた。執政官の軍団は通常、1から4まで番号がふられた。第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)の際には、20余りの軍団が戦場にあり、この国家存亡の危機の時代には、予備の軍団が招集されていた。軍団にはそれぞれ6人の軍団司令官(トリブヌス)が付いた。軍団司令官での軍務は大変な名誉であり、前執政官でさえも軍団司令官として軍務に就く場合があった。6人の軍団司令官は3組に分けられ、それぞれの組が2ヶ月交替で軍団を指揮した。


〈歩兵大隊・歩兵中隊〉

 BC3世紀には各軍団は歩兵4200の兵力を備えていた。後に軍団は10の歩兵大隊(コホルス)に分割され、それぞれ420人で編成された。各々の歩兵大隊は、その数がそれぞれ60人のトリアリイ(第3戦列兵)、120人のプリンキペス、120人のハスタティ、それに120人のウェリテス(軽武装兵)の4つの歩兵中隊から成る。トリアリイは比較的年配の兵士で構成され、最後列となる第3列に置かれ、通常は歩兵大隊が総力を挙げて攻撃に入っても、予備として置かれた。

 歩兵中隊はマリウスの改革に従って廃止されたと言われてきたが、実際には紀元後の帝政時代のなってもずっと続いていたようだ。また、歩兵中隊は軍団の中でそれ自体の旗(スタンダード)を持つ最小の単位である。スタンダードの旗手たちは戦列の中で歩兵中隊を整列させることに責任を負っていた。


〈百人隊〉

 各々の歩兵中隊は2つの百人隊(ケントゥリア)に分けられ、それぞれが百人隊長(ケントゥリオ)によって指揮された。戦場において2つの百人隊は並んで整列し、右側は首席百人隊長に、左側は次席百人隊長によって率いられた。最初に選ばれた百人隊長は軍団の最上級百人隊長となり、トリアリイの歩兵中隊の中の第1百人隊を率いた。歩兵中隊プリンキペスとハスタティの百人隊はそれぞれ60人から成り、百人隊はさらにコントゥベルニア(テント組)と呼ばれる6人ずつに分けられた。テント組とは、野営地で同一のテントに居住する兵士たちのことである。各百人隊には数多くのスタッフが所属しており、彼らはプリンキパレスと呼ばれ、一般的には戦うことはなかったが、歩兵中隊に属するものとして数えられていた。百人隊長は百人隊長代理(オプティオ)を任命した。オプティオは副隊長に相当すると考えられる。


〈戦術〉

 歩兵中隊は通常3列に並んだ。トリアリイ(第3戦列兵)が後列、プリンキペス(第2戦列兵)が中列、ハスタティ(第1戦列兵)が前列だった。この隊形は三重戦列として知られる。BC1世紀半ばにカエサルがポンペイウスと戦ったときは、他の歩兵中隊の第3列を、第4列目を構成してポンペイウス軍の優秀な騎兵隊に対する防御に使った。しかし兵士の数に限りがある場合には2列や1列で戦う時もあった。このように隊列は相手によって臨機応変に並ばせた。

 歩兵中隊は密集して並んで戦うことはなく、それぞれの歩兵中隊の間に中隊そのものが入るようなスペースを設けていた。第2列のプリンキペスの列は場所を少しずつずらして配列され、第1列のハスタティの後ろに並んだ。スペースはこの3つの戦列部隊の間にも空けられた。このハスタティを先頭にしたチェッカーボードのような交互の隊形は、五つ目配列と呼ばれ、歩兵中隊が採用する通常の隊形だった。スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)は最も優れた歩兵中隊戦術の使い手であったといわれる。だが概して、歩兵中隊の戦いは下士官、とりわけ百人隊長の戦いだった。戦場では、現場の制御に力を振るう、百人隊長のリーダーシップが大いに当てにされた。

 各々の兵士は約6フィート(183センチ)の場所を占め、ピルムという投槍を投げてから剣を使った。第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)の時代、スキピオ・アフリカヌスはBC202年のカルタゴの南方に位置するザマの戦いで、自軍を五つ目配列の変形型に組ませ、ハスタティの歩兵中隊の中のスペースにウェリテス(軽武装兵)を置いて、自在に動かせてハンニバルの象を悩ませた。ウェリテスは若く比較的貧しい家庭出身者から選ばれ、一般的に兜も胴鎧もすね当てもない軽装で、素早く動いて敵の戦列を混乱に陥れる役割を持っていた。ウェリテスの歩兵は、剣とジャヴェリンという0.9~1.2メートルの短めの投槍を5~7本、そして直径91センチのパルマという円形盾を携行した。接近戦を余儀なくされた場合、ウェリテスはジャヴェリンを左手に持ち替えてイベリア式の剣を抜いた。

 戦いは120人のウェリテスによって始められ、チェッカーボードのような陣形の前で散兵戦を繰り広げた。ウェリテスの役割は、敵の軽装歩兵を戦場から追い出して、敵の戦列を混乱に陥れるというものだった。ウェリテスはしばしば特殊任務を行った。この時、彼らは騎兵部隊の馬の臀部にまたがって共に敵に突入した。敵の騎兵隊と衝突した際、彼らは素早く飛び降りて、徒士かちで戦った。その後はもう一度隊列を作るために自軍の戦列の間を通って最後尾に退却し、さらに戦力が必要となった戦場部分に移動して加勢するという臨機応変な戦いをするための兵である。ウェリテスは通常、同じ割合で他の歩兵中隊に分配されていたようだ。

 BC2世紀の間に、軍団の兵力は徐々に増強され、まず第1列のハスタティの歩兵中隊の兵士の数は120人から200人に拡充され、他の中隊も次第にそれに倣っていった。BC48年、ギリシャ中部テッサリア地方のファルサロスの町でカエサルと戦った時、ポンペイウスは自分の軍団にそれぞれ6000人の歩兵を抱えていた。当初の4200人から1800人増加している。


〈騎兵部隊〉

 騎兵は歩兵大隊が敵に包囲されないように軍団の両翼を援護した。騎士たち(エクィテス)はローマ社会で最高の地位を形成していた。その数は1800人、彼らの馬は国家が供給し維持した。騎兵は品位に値しない行状、つまり馬が適切に世話をされていなかったり、身体的に軍務に適さなくなったりしたときには、地位を失うこともあった。300人の騎兵部隊は各々の軍団に配置され、騎兵部隊は30人づつ10のトゥルマに分けられ、それぞれに3人の10人隊長が任命され、その内の1人がトゥルマ全体を指揮する。トゥルマは10人が横3列に並び、それぞれ列の右側に10人隊長、左側に隊長代理が配置される。騎兵部隊は当初、比較的軽い装備だったが、その後、ギリシャやマケドニアと戦う中で、重装備となり胴鎧を着け、ギリシャ式の太い騎兵用槍と楯を使用するようになった。


〈同盟軍〉

 ローマ軍は次第に騎兵や歩兵を同盟軍に頼るようになった。ローマ軍は通常、同数の同盟軍の歩兵部隊を伴ったが、騎兵部隊は3倍の数で同行していた。執政官は同盟軍を指揮するために12人の監督指揮官を任命し、そのうちの6人が執政官の軍に付き、残りは3人づつ同盟軍を指揮しながら、両翼を戦った。BC2世紀末には、ローマ市民の兵士が不足し始め、とりわけウェリテス(軽武装兵)で顕著になった。しかし、次第に戦術面でウェリテス(軽武装兵)の優位性が失われてきて、代わりに遠くから攻撃できる弓兵あるいは投石機を扱う兵が投入されるようになった。


〈ローマ軍団の強さ〉

 共和政ローマの軍隊は、歩兵部隊を主力とした軍隊だったが、ローマの指揮官は騎兵部隊の価値もはっきりと自覚していた。ローマはしばしば、マケドニアやギリシャとの戦いで、騎兵部隊の優位を保持し、これが勝利の主なる要因となった。フィリッポス2世やアレクサンドロス大王の下では、マケドニアは多くの騎兵を招集することができたが、これは主に「仲間制度」のおかげだった。この制度は、土地の払い下げやその他の工夫によって、馬を所有する有産階級の騎兵の補充を広げるというものだった。その後の社会的変化は、国家財政の不足と相まって、国家が補充できる騎兵の数を減らすこととなった。マケドニア軍は数百人を超える騎兵を招集できることは稀にしかできなくなり、その結果、マケドニア軍はさらに歩兵によるファランクス(密集隊戦術)に頼るようになったが、側面を守れるだけの十分な騎兵部隊がつくことが難しくなり戦いに負けた。

 ローマの勝利のもう一つの大きな要素は強力な武器だった。軍国化したローマ社会では、国外での略奪行為が、国内における社会的不平等から貧困層の注意を逸らすのに大いに貢献した。この残虐行為は敵から抵抗する力を奪うことにつながった。しかし、ローマの成功の最も大切な要素は、人的資源の優位性にあったかもしれない。ハンニバルが最終的に2万の歩兵と6000の騎兵を率いてイタリアに侵攻したとき、ローマ軍と同盟軍は少なくとも計算上では、歩兵70万人と馬7万頭を徴用する能力があった。カルタゴやマケドニアを打ち負かすこれほどまでの大人数の軍隊を動員できるのは、ローマの軍事制度の本質的な優位性よりも、むしろローマという国の能力であった。第2次ポエニ戦争でハンニバルに何度も敗れ、多くの兵を失っても、尽きることのない人的資源の蓄えが常にあった。何度負けようと、そんなことはさほど重要ではなかった。大切なのは最後の戦いだったのだ。

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