第125話 共和政ローマ末期の国内危機と内乱、カエサルの登場

<年表>

BC133年~BC122年 グラックス兄弟による貧富の差の是正を目的とした改革

BC121年 ローマがガリア・ナルボネンシス(現在の南フランンス)を属州化

BC1世紀初頭 ローマがアナトリア中南部のキリキアと黒海南岸のポントス王国を獲得

BC91年~BC88年 同盟市戦争。ローマの同盟市が結束してローマ市民権を求めて蜂起、その結果、ローマ市民権が与えられた。

BC89年 ローマがガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリアの意)、ルビコン川以北の北イタリアを属州化

BC88年~BC82年 マリウス軍とスッラ軍による内戦

BC86年 ローマの将軍スッラ、アテナイを略奪

BC82年 スッラが史上初めて無期限の「独裁官(ディクタトル)」に就任。しかし、その2年後に辞任

BC70年 ポンペイウスとクラッススが執政官に選出

BC60年 ローマで三頭政治が成立。クラッスス、ポンペイウス、そしてカエサル

BC58年~BC50年 カエサルによるガリア遠征。BC50年にその他のガリア(現在のフランス北部とベルギー)を完全に征服

BC49年 カエサルがルビコン川を渡った(1月10日)

BC49年~BC45年 カエサル軍とポンペイウス軍による内戦

BC49年 カエサルはイベリア半島でポンペイウス軍に対峙している時に独裁官に任命された(7月)

BC46年 カエサルが再び独裁官に任命された。この時の任期は異例の10年だった


 ***


 カルタゴを滅亡させ、4次にわたるマケドニア戦争に勝利したBC146年までに、ローマは地中海最大の大国となった。さらに、BC133年にペルガモン王国がローマに遺贈され、小アジアがBC129年にローマの属州となり、共和政ローマが広大な領土を獲得すると、その結果としてヘレニズム文化、つまりギリシャ文化がローマ領内に広く普及していく。但し、ヘレニズム文化と一口に言っても、さまざまな定義がある。ローマがイタリア半島内に留まっていた時代からすでに、ローマの文化はヘレニズム化されていたともいえる。しかし東方に進出し、ヘレニズム世界と直接接触するようになって初めて得たものもたくさんあったに違いない。一方、当時のギリシャ人の目には、ローマ人は手に負えない「野蛮人」と映っていたようだ。ローマ人の野蛮さを示すエピソードとして有名なのが、偉大な数学者アルキメデス(BC287年~BC212年)の最後にまつわるもので、それによるとアルキメデスは、祖国防衛のためシチリア島のシュラクサイに滞在中、砂の上で幾何学の問題を解いている最中に、彼の業績を何も知らないローマ兵によって殺されてしまったというものだ。

 ローマが東方へ進出し、ヘレニズム世界と直接的な接触が生まれるようになると、さまざまな物資や知識がイタリア半島へ流れ込んでくるようになった。例えば、ローマ人は後世の人びとが驚くほどの風呂好きだったが、これも元は東方のヘレニズム世界からもたらされた習慣だった。またローマ初の文学作品はギリシャの劇を翻訳したものであり。ラテン語で書かれた最初の喜劇もギリシャ喜劇を模倣したものだった。芸術にいたっては、略奪したり、盗んだりして、ギリシャから大量の作品を持ち帰っている。ギリシャの芸術様式、なかでも建築様式は、南イタリアのギリシャ植民市を通して、すでにローマに取り入れられていた。人の往来も活発になり、BC2世紀にギリシャの都市国家から大量に連れてこられた捕虜の中に、ローマの興隆期(BC220年~BC146年)を「歴史」という著作にまとめたポリュビオスがいる。その中で彼は、カルタゴとヘレニズム世界に対するローマの勝利を、新たなる時代の幕開けと位置付けている。ローマによる地中海世界の統一によって、アレクサンドロス大王が目指した「世界の文明化」が完成したしたことを、初めて見抜いたのがこのポリュビオスだった。


[ポリュビオス]

 ポリュビオスはBC200年ごろに生まれ、BC170年あるいはBC169年にギリシャのアカイア同盟の騎兵隊長となり、「戦術について」を著した。ローマとアンティゴノス朝マケドニアが争ったBC168年のピュドナの戦いの後、ポリュビオスはローマに強制移住させられた1000人の著名なアカイア人の一人となった。そこで彼はローマの将軍スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と近しくなり、アエミリアヌスに随行してさまざまな場所に出かけて、さまざまな出来事、とりわけBC146年のカルタゴの滅亡を目撃した。その後、ポリュビオスはローマ軍を題材にして「歴史」を著した。


 こうして地中海世界の統一とともに広大な地域に平和がたらされ、その中でローマ文明は数々の偉業を達成していくことになる。この時代は地中海の端から端までを、何の障害もなく自由に行き来することができた時代だった。そうした平和と安定を支えたのが、共和政時代にすでに出来上がっていた属州統治のシステムである。そして「コスモポリタニズム(世界市民主義)」の思想が一層発達した結果、ローマは被征服民たちにローマ人と同じ暮らし方を強要するのではなく、税を徴収し、法律に従って治安が維持されてさえいれば、その他の面では寛容な政策をとるようになっていった。有名なローマ法が完成するのはかなり先のことになるが、BC451年に制定されたローマ最初の成文法「十二表法」によって、すでにその後の法整備の道筋が作られていたと言ってもよいだろう。



(共和政ローマ末期の国内危機)


 BC2世紀、ローマが地中海世界と西アジアのアナトリア、シリア、レヴァント地方を征服すると、ローマ社会には大きな変化が生じた。ローマ市民とその他のイタリア半島の農民が土地を失うにつれ、堕落と貧困は増大していった。富裕層はその土地を集めて自らのものとし、大量の奴隷を農作業のために使役した。長期間の軍務のため、農民は自らの農地を耕作することができず、家族を養うために借財を負った。そして借財は返済不能となり、その結果、農地の所有権を手放し、土地を離れ、新たな職を得るため都市への移転を強いられた。また彼らは公有地の分配の恩恵に浴することもできなかった。公有地の貸付期間は長期で、貸し出される区画も広く、借入れ費用も高かったので、小農民にはとても手が届かなかった。一方で、海外領地の獲得はローマに莫大な富をもたらした。裕福な元老院議員身分の人びとは、この富の大部分を自らのものとして、小さな農地を買い上げ、自分の農地を拡大した。かつて大半を占めた小規模所有のローマ市民は消滅の途を辿り、代わって大土地所有者が出現した。さらに彼らは戦争捕虜として獲得した奴隷を大量に利用できた。そのため、ローマにはかなりの規模の職人集団が形成された。彼らの多くは解放奴隷である。職人の主な仕事は、織物、靴修理、陶器作り、鍛治、馬車引きなどだった。才能のある奴隷は、主人から認められれば解放されることもあった。


 三方を海に囲まれたイタリア半島の覇者ローマにとって、もはや地続きの脅威は北方のガリアだけだった。ガリアとはギリシャ人がケルト人と呼んだ異民族が住む土地で、現在のミラノなどを含む北イタリアに、フランス、ベルギーなどを加えた広大な地域を指していた。BC121年にローマはガリア・ナルボネンシス(現在の南フランンス)を属州としたが、ケルト人によるローマ領内への侵入にはその後もたびたび悩まされた。しかし、BC89年にはガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリアの意)、ルビコン川以北の北イタリアの属州化に成功した。この間、東方でも征服が続き、BC1世紀初頭にはアナトリア中南部のキリキアを、次いで黒海南岸のポントス王国をミトリダテス王との抗争の末に獲得した。こうしたローマによる一連の征服の結果、地中海世界の勢力図が完全に塗り替えられ、イベリア半島から地中海東岸に到る広大な地域がローマの支配下に入ることになった。しかしその一方で、重大な問題も生じていた。


 一つは、共和政初期にはローマ市民の大半を占めていた小規模の農民階級が没落し始めていたことだ。根本にあるのは長く続いた第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)の影響だった。農民たちが長期間戦争にかり出されたうえに、戦いの舞台となったイタリア南部が大きな被害を受けていた。その一方で、戦争を利用して富を蓄えた人びとは、土地を競って買収し、その結果、各地に大規模な農場が出現することになった。そうした農場では、戦争によって安く手に入れた奴隷たちを使って、農作物が大量生産されるようになった。一方、土地を失った小作農は都市に出て、最低限の生活水準で暮らすしかなくなった。こうして実質的に無産階級に転落したローマ市民には、それでも選挙権が残されていた。それに目を着けた資産家たちは票を買収し、見返りの多い公職に就こうとするようになった。このようにして、ローマの政治は次第に金権体質に陥っていった。しかもローマだけでなくイタリア中の都市がその影響を被ることになった。票が金になることがわかると、ローマの無産市民たちは、同盟市の住民たちに市民権が拡大されるのを嫌うようになったからである。


 新たに起こったもう一つの問題は、有力な将軍や属州総督など、個人的に莫大な富を手にする人物が出現するようになったことだ。BC149年には、役人による違法な蓄財を裁くための特別法廷が創設されたほどだった。特に他国の侵略に成功した将軍には、想像を絶するほどの富がもたらされることになった。そうした富の大半は合法的に獲得されたものだったが、なかには略奪や盗みによって富を得た属州総督もいた。いずれにせよ、こうした富を手にすることができたのはエリート層だけだった。属州総督をはじめ、ローマの重要な公職のほとんどは元老院議員の中から選ばれていたからである。


 制度的な問題もさらに大きくなりつつあった。毎年実施されるはずの公職選挙を実施できない年が次第に増えていた。優れた行政手腕を持つ執政官であっても、戦争や属州の反乱といった非常事態には対処できないこともある。その結果、豊かな軍事経験を持つ特定の将軍たちに大きな権限を委ね続けざるを得なくなった。もっとも共和政時代の将軍たちは職業軍人ではなく、元老院階級というエリート層に属する人びとで、戦争が終わればローマに戻り、政治家や裁判官などとして活躍した人たちだった。このように専門化を避け、個人に大きな権力を集中させないことが、ローマの行政の長所でもあった。しかし、状況は次第に変化していき、共和政末期には長い戦争が続いたため、長年同じ軍団を率いた将軍たちに、兵士たちは個人的な忠誠を誓うようになっていき、それまでの将軍たちに比べると、彼らは遥かに強大な力を持つ存在になっていった。その結果、共和政のシステムそのものが崩壊の危機にさらされ、ローマは帝政という新しい統治システムに向かって模索を続けることになる。


 選挙制度と政治の実態がかけ離れてしまったもう一つの理由は、軍隊の変化にあった。400年以上の歴史を持つローマ軍の変化を要約すると、時代とともに次第に「職業軍団化」していったと言える。3次にわたるポエニ戦争(BC264年~BC146年)以降、農閑期に農民でもある市民たちを徴兵することはできなくなっていた。市民たちにとっても兵役の負担は大きく、次第に反感が高まっていた。さらに戦いの舞台が年々遠くなり、征服した土地に時には数十年も駐屯部隊を置く必要が出てくると、十分な数の兵士を確保できなくなった。また、それまでは、ある程度の財産を持っていなければ兵役に就くことができなかった。こうした状況を打開するために、BC107年に兵役に関する財産条件が撤廃され、無産市民の志願兵が採用されることになった。この大胆な改革を実行したのが、軍人出身の執政官マリウスである。そしてこの改革の結果、多くの貧しい市民が兵役を志願したため、長年の兵士不足は一気に解消され、その後のローマは連戦連勝を続けていくことになる。それまで各社会階層ごとに別々だった軍旗を廃止し、ローマ軍全体の軍旗として有名な「鷲の軍旗」を創ったのもマリウスだった。後にローマ帝国の象徴にもなるこの軍旗は、兵士たちの団結を高めるうえで大きな役割を果たした。このようなさまざまな変化とともに、軍隊は次第に政治的な力を持ち始め、マリウスに代表される有能な将軍たちは大きな権力を手にするようになっていく。こうした将軍や兵士たちの政治的発言力の増大は、やがて共和政を崩壊させる一因となるが、もう一つの重大な原因となったのが、貧富の差の拡大だった。奴隷を使った大規模な農場経営が盛んになる一方で、土地を失った農民はますます苦しい暮らしを強いられるようになっていった。


 BC2世紀後葉には、事態を重く見た名門貴族出身のグラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)が相次いで護民官に立候補して当選し、土地改革や元老院の権限の制限、平民階級の登用などを敢行して、貧富の差の是正に乗り出した。しかし、グラックス兄弟は二人とも保守的な元老院勢力によって死に追い込まれ、この後ローマの政界では、民衆派と元老院派の対立が一気に激しくなっていった。共和政最後の100年は、そうした両者の争いが頂点に達した時代だった。


[グラックス兄弟の改革]BC133年~BC122年

 最初に政治の舞台に登場したのはティベリウスで、BC133年に農地法を提案した。これによれば、500ユゲラ(約125ヘクタール)以上の公有地を有する者は余剰分を国家に返還しなければならず、その返還された土地を30ユゲラ(約7.5ヘクタール)に細分化して、貧しい市民に分配しようとするものであった。この案は、ほとんどが大土地所有者であった元老院議員の利益に反するものであり、激しい反対を受けた。この難しい状況の中で、ティベリウスは元老院議員を説得し、何とかこの法を通過させた。しかし、その代償は大きく、ティベリウスは反対派に暗殺され、彼が成立させた法は無視されてしまった。その10年後、ティベリウスの計画は弟のガイウスによって受け継がれ、BC123年からBC122年にかけて、広範囲に及ぶ一連の改革に着手した。ガイウスは、騎士(エクィテス)身分のプブリカーニ(国家事業請負人)に、他の恩恵に加えて、元老院議員の権力悪用を扱う法廷で審議する権利を認めることで、彼らからの支持を確保した。これにより騎士たちの政治的関心が高まった。ガイウスは同時に、ローマの民衆に低価格で穀物を配給した。他にも行政的な施策を成功させたのだが、ティベリウスの農地法を復活させ、ラテン人にローマ市民権を与え、同盟国市民に民会での選挙権を付与するという一連の企ては失敗に終わった。彼の提案に対する元老院議員の反対は激しく、ガイウスはBC121年に惨殺された。グラックス兄弟が政治の舞台から降りると、元老院の優位は復活した。元老院派が民衆派に勝ったわけだが、ローマを悩ませていた貧富の格差問題は全く解決されていなかった。



(内乱の時代と同盟市戦争)


 BC112年、北アフリカのヌミディア王国(現在のアルジェリア)で内乱が起き、現地に駐在していたローマ人の商人が大量に殺害された。この事件がきっかけで戦争が勃発し、さらに北のガリア人がローマを脅かしたため、共和政ローマは大きな混乱に陥った。この緊急事態に活躍したのが、執政官マリウスだった。彼は軍制を改革し、敵を次々に打ち破った後、共和政ローマの伝統に反して5年連続で執政官に選ばれることになった。共和政末期のローマは、マリウスをはじめとする有力な将軍たちが、相次いで大きな権力を握った時代だったといえるだろう。また、ちょうど同じ時期にイタリア各地の同盟市でローマ市民権を求める声が高まり、BC91年からBC88年にかけてローマに対して「同盟市戦争」と呼ばれる反乱を起こしている。同盟市との激烈な戦闘の結果、ローマはイタリア半島に住むほぼすべての住民に市民権を認めるという大きな譲歩を余儀なくされた。それは同盟市にとって長年の宿願だった。これに伴い、ローマの民会は最高決定機関としての役割を完全に失ってしまうことになった。


〈スッラ対マリウス〉

 この後、黒海南岸のポントス王国のミトリダテス王との間で新たな戦争が始まり、マリウスの部下として働いたことのあるスッラが、政治的な野心を抱いて表舞台に登場する。民衆派の指導者マリウスと、元老院と貴族の擁護派の指導者スッラは二人ともポントスの王ミトリダテスに対する戦争の指揮権を欲していた。結局、指揮権はスッラに与えられたが、3年の間、ローマはこの二人の支持者たちによる内部抗争の場と化した。まず、スッラは多数の民衆派を処刑し、マリウスを逃亡させたが、その後マリウスの率いる軍隊がローマの町を占拠し、多くの貴族を虐殺した。ところが、まもなくマリウスは亡くなり、ギリシャと小アジア西岸を制覇してローマに帰還したスッラが、BC82年に史上初めて無期限の「独裁官(ディクタトル)」に就任することになった。スッラは反対派である民衆派の勢力を抑え込み、大胆な国制改革を行った。その基本的方針は、元老院の権力を強化し、ほころび始めていた共和政を再建しようとするものだった。スッラは多くの改革を行った後、無期限だった独裁官を2年余りで辞任する。そしてすぐに引退した後、まもなく死去した。無期限の独裁官という絶対的な権力を手にしながら、わずか2年で辞任したことからも、スッラの目的が個人的な野心にはなく、あくまで共和政の再建にあったことがわかる。


〈ポンペイウス対クラッスス〉

 そのスッラに目を掛けられ、引き立てられた若者が、BC76年からBC72年の間にイベリアでの反乱を阻止したグナエウス・ポンペイウスだった。他方、BC73年からBC71年にかけて、マルクス・リキ二ウス・クラッススはスパルタクスに率いられた奴隷の反乱を鎮圧した。スッラが政界から身を引いた数年後のBC70年にポンペイウスとクラッススは執政官に選出された。本来、彼らは国法が定める就任資格を有していなかったため、この役職に就くことはできないはずだった。しかし、その傘下の軍隊がローマの城壁の外に陣を張り、指示があればすぐさま出動できる態勢を整えていたため、元老院は選択の余地がなかった。当初二人は完全な同意のもとに共同で統治できるように思われた。実際、彼らはまず、スッラの改革を無効にした。しかしその後、二人の間に対立が生じたため元老院は、新たな内乱が勃発するのを避けるため、ポンペイウスを地中海を跋扈ばっこする海賊を一掃するために派遣し、次いで、小アジアのローマ属州を脅かしつつあったポントスの王ミトリダテスに対抗するため再び出動させた。ポンペイウスがいたる所で戦い、勝利を収めている間、クラッススはローマに留まり、若い貴族ガイウス・ユリウス・カエサルと共に元老院派の有力者マルクス・ポルキウス・カトー(小カトー)とマルクス・トゥリウス・キケロ(BC106年~BC43年)に対抗して、民衆派を率いていた。優れた軍事的才能を持つポンペイウスは、その3年後に地中海に出没する海賊を一掃し、さらにポントス王国との戦争に勝って、小アジアに広がる広大な領土を獲得した。まもなくポンペイウスはその若さと並はずれた功績のために、「未来の独裁者候補」として元老院から警戒される存在になった。その一方、ローマの政情は増々混迷を深めて、ローマの町は秩序を失い、支配者層の中には腐敗がはびこっていた。そして独裁者の出現に対する不安から、民衆派も元老院派も互いに疑心を募らせるなかで、誰も気づかないうちに別の場所から、「新しい独裁者候補」ユリウス・カエサルがゆっくり姿を現しつつあった。



(ユリウス・カエサル)


 ローマの自由市民は3つの名前を持っていた。名に当るブラエノメン、氏族の名前がノメン、そして姓に当るコグノメンである。ガイウス・ユリウス・カエサルは、ユリア氏族に属していた。したがって、ユリウスが氏族名、ガイウスが名、カエサルが姓である。マリウスの妻の甥にあたるユリウス・カエサルは、まず若き軍の指揮官として頭角を現わし、ローマに戻って政治家としての道を歩み始める。民衆派を支持して按察官(政務官の一つ)に選出された後、法務官ならびに最高神祇官に選ばれる。BC61年に法務官の任期が終わると、これまでの官職争奪競争で多額の借金を抱えていたカエサルはクラッススから金銭的な助けを得て、望んでいたヒスパニア(イベリア)属州総督に任命された。彼はすでに39歳になっていた。1万数千人の軍勢を率いてイベリア半島入りしたカエサルは、ローマに反抗していた北西部と南西部の部族を討伐し、数日間で大西洋に到達した。ローマに対する貢ぎ物も増え、属州総督のカエサルは自身の借金が返済できただけでなく、かなりの金額を蓄えることができた。こうして債務問題を解決したカエサルは、属州の借金制度を改革した。つまり、債務者は年間収入の3分の2を債権者に返済しなければならないが、残りの3分の1の収入については、借金の完済までこれを要求したり侵害したりしてはならないとした。こうしてカエサルは1年のヒスパニア総督任期を終え、BC60年6月、意気揚々と凱旋式を行い、ローマに錦を飾った。


〈第1回三頭政治〉ポンペイウス、クラッスス、カエサル

 ユリウス・カエサルは有能で聡明だった。彼はまた、元老院の力を弱めようとしていたが、その目的を達成するためには威信のある協力者が必要だった。そのため彼はポンペイウスの不満を利用した。ポンペイウスは東方から凱旋帰国した際、彼が古参の兵士たちに約束していた土地の付与を元老院が拒否したことに対し、強い不快感を持っていた。カエサルはまた、莫大な富を持ち、騎士階級に多大な影響力を有するクラッススの援助も取り付けた。それによりBC60年、第1回三頭政治が成立した。実際には、それは異なるタイプの3人の勢力が例外的な提携をした密約だった。クラッススは経済力(ローマ最大の資産家)、ポンペイウスは軍事力(戦争の英雄)、カエサルは民衆派、つまり平民(プレブス)の力がその基盤だった。カエサルはこの連合のおかげでBC59年に執政官(コンスル)に選出された。カエサルの執政官就任は歴史的に見て重要である。なぜならこの出来事は元老院の権力の決定的な失墜と共和政から君主制への移行を示すものだからである。

 彼は執政官に就任すると、グラックス兄弟の政策を踏襲して土地制度の改革を行い、ポンペイウス傘下の古参兵と貧困な市民たちに公有地を分配することを定めた農地法を、平民たちの絶大な支持を得て、元老院に承認させることに成功した。さらに税制を変更してクラッススの支持者も懐柔した。それに反対していたのは元老院派の有力者小カトーとキケロだったが押しきる押し切ることができた。ポンペイウスとカエサルは、当初は良好な関係を保ち、ポンペイウスはカエサルの娘ユリアと結婚までしている。元老院派の有力者の一人小カトーには、キプロス島併合の仕事を与え、実質的にローマから追放した。そして執政官の1年の任期を終えると、その翌年に長期にわたって軍事指揮権を握れる代理執政官(プロコンスル)に就任して、ガリア遠征軍を指揮し、BC58年からの7年間で目覚ましい戦績をあげ、BC50年にはついに、まだ属州になっていなかった、その他のガリア地方(現在のフランス北部とベルギー)全域を完全に征服し、ローマはケルト人の脅威からようやく解放されることになった。


〈カエサルによるガリア遠征〉BC58年~BC50年

 カエサルの時代、ピレネー山脈からライン川にかけて広がるガリアは3つの地域に分かれていた。中央ガリア(イベリア北西部に発しガリア南西部を流れるガロンヌ川からセーヌ川まで)、北東ガリア(セーヌ川からライン川まで)、そして西ガリアである。彼らはお互いにこれらの地域で抗争を繰り広げていた。

 カエサルは執政官の1年の任期を終えると、その翌年に代理執政官(プロコンスル)に就任して、ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリアの意)、つまりアルプス以南のガリアと呼ばれた北イタリア属州の3軍団と、ガリア・トランサルピナ(アルプスの向こう側のガリアの意)、つまり南ガリア(現在のフランス南部)の3軍団を率いて、まだ属州になっていない北方のガリアに入った。現在のスイスのレマン湖への進軍で始まったガリア戦争は法的には許されない戦争だった。元老院も民会もカエサルがガリアに進撃してもよいという許可を与えていなかった。しかしカエサルには中央ガリアのヘルウェティイ族の南下の動きに対抗するという理由があった。これで初めからガリア征服を意図していたカエサルの軍勢は、アドリア海北端の町に残したままだった2軍団を加えることができるようになり、総勢3万6000人の歩兵と1800騎の騎兵となった。カエサルは兵士たちとよく付き合い、衣服も武装も、一般歩兵とほとんど変わらなかった。カエサルのこのような態度は兵士たちの人気を集め、彼らにやる気を起こさせた。まさにこのように兵士たちとの関係が良かったからこそ、7年も続いたガリア征服戦争で大きな業績が挙げられたのだ。ギリシャの歴史家プルタルコスによれば、ガリア戦役でカエサルが征服した町は800、征服した民族は300、300万の敵と相対し、その内100万人を殺し、さらに100万人を捕虜にしたという。

 カエサルが一番恐れたのは、ライン川の北側に住むゲルマン人だった。彼らはライン川を越えて南のガリア地方に進出して来ていた。カエサルの「ガリア戦記」によれば、

「彼らの生活といえば、狩りと戦争だけだ。子供の時から艱難辛苦かんなんしんくと鍛錬を旨として育ち、このため彼らの体格は良く、力が付き、筋肉が強められる。男も女も川で一緒に水浴びをし、毛皮を腰に巻き、毛皮のマントを付けるだけで、体の大部分はむき出しになっている。彼らの食べ物の大部分は、ミルク、チーズ、それに肉だ。土地については、誰も自分の土地として意識する地所や畑を持っていない。それは人びとを平等の立場において民族の結束を図るためだ。・・・ある部族が防衛戦あるいは侵略戦を展開する場合、リーダーが選出される。平時のもめ事の際は、各地域、各地区の首長が裁判をして争いを収めた。・・・古代ゲルマン人の民会においては、高貴な人の誰かが、自分が指揮を執ると発表し、彼に付き従おうとする人々に声をかけると、この計画と、この男が気に入った人びとは立ち上がって、参加の意志を表明し、大勢から褒められたのだ」

 BC58年9月、現在の東部フランスのアルザス地方のミュレーズで、カエサルはアリオウィストゥスが率いるゲルマン人集団に決定的な打撃を与えた。この戦いは歴史に記録する価値さえない戦闘だったが、政治的には大きな意味があった。カエサルは、ゲルマン人が初めて勢力を拡大しようと試みた時に失敗させ、その後、数百年にわたって二度と勢力拡大を考えさえないようにしたからだ。もしアリオウィストゥスが勝っていたら、中部ヨーロッパの歴史の流れは変わっていただろう。

 BC54年、カエサルは二度ドーバー海峡を渡り、未開の島ブリタニア(現在のブリテン島)に上陸し、抵抗するブリタニア人を破り、人質と青銅用の貴重な錫を獲得してガリアに戻った。当時のブリタニアの住民の大部分はケルト人で、穀物は一切栽培せず、主としてウシやウサギ、ニワトリなどの家畜だけが食糧だった。服はゲルマン人同様、毛皮をまとっただけだった。


 BC56年4月、ポンペイウスとクラッスス、カエサルの3人はガリア・キサルピナ(北イタリア)の南の国境にあるルカで会見した。3年半前に3人の間で結ばれた同盟関係の更新と今後のお互いの役割を確認するためだった。クラッススは属州シリアの総督職と、その東方のパルティアに対する戦争の遂行、ポンペイウスはイベリアにある二つの属州、ヒスパニア・ウテリオルとヒスパニア・キテリオルを管轄すること、そして首都ローマの秩序を保つことが義務とされた。このルカの取り決めを実施するためにポンペイウスとクラッススの2人は翌年のBC55年に執政官になることを考え、そして実際に就任した。カエサルはガリアでの戦争継続と、自分が独断で始めたガリア戦争の合法化、カエサル軍の国庫による維持などを要求した。この要求に元老院は反対したが、カエサルの民会での人気に押されて、結局は認めざるを得なかった。


〈キケロとカエサル:理想と現実〉

 カエサルが不在の間に、元老院派の有力者のもう一人キケロが、5年前の執政官当時に反対派を正当な判決なしに処刑したとして、BC58年4月にイタリアから追放された。しかしBC57年9月には元老院から帰国の許しが下りてローマに戻ることができた。そしてすぐに三頭政治を攻撃したが、昔日の元老院の影響力はもはやなかった。素晴らしい法律家で、雄弁家であり、元老院議員でもあったキケロは失意のなかで「国家論」を執筆した。それはBC129年を舞台に、若いスキピオ・アフリカヌスとその友人たちとの対話の形式を取った創作だが、それでも対話の内容は現実的だった。プラトンの精神、正義の理念、アリストテレスとポリュビオスの哲学、ストア学派などについて、また現在のローマで、如何に国家が無視され、国家が破壊に導かれたかについて、キケロは切々と強い言葉で明瞭に描いてみせた。キケロとカエサルの対立は理想と現実の対立だった。キケロは自分自身の人格を含めて、すべてを疑ってみる哲学者であり、一方のカエサルは自意識の高い、ときには自分自身を称賛する実践家であって、将軍マリウスが北アフリカのヌミディアを絶対に討たなければならないと確信していたように、カエサルは自分の使命を確信していた。キケロは素晴らしい威力のある言葉を駆使して、共和国制度こそ理想の国家形態であるとして戦った。そのためにキケロには「祖国の父」という名誉ある肩書きが生涯を通じて与えられた。ところでカエサルはプロパガンダの名人である。カエサルの著書「ガリア戦記」は、具体的でさめた言葉で書かれた素晴らしいドキュメントであり、地理書であり、歴史書でもある。文法的にも正確で、今日でもヨーロッパでは高校の教科書として読まれている。そして、あのキケロすらこの書物を褒めたのである。キケロは考える人、カエサルは行動の人だった。


〈カエサルとポンペイウス〉

 ガリア遠征の最後の3年間(BC53年~BC50年)は、カエサルはあちこちで起きた暴動の鎮圧と首謀者への復讐に日々を費やした。その間に母アウレリアと、娘でポンペイウスの妻となっていたユリアを相次いで亡くした。ユリアはお産の際に死んだのだ。ユリアの死は、政治的には実に悲惨な結果を招いた。ユリアは三頭政治の1角を担うカエサルとポンペイウスとを結びつける絆だった。

 三頭政治を担うもう一人、クラッススはBC53年にパルティア人をユーフラテス川の東岸で打ち破ろうとしたが、カルハエで敗北を喫し、シリアに兵を引き上げる途中で、味方の裏切りに合い殺された。三頭体制が崩れたのだ。

 一方、ガリアでは反対勢力が結集し始めた。カエサルはそれに対峙する必要があった。ポンペイウスは首都ローマに残っていた。しかし、首都ローマでは暴力と腐敗と殺人がはびこり、元老院の権威は失墜し、事態はこれまでになく深刻だったので、独裁官を求める声が次第に大きくなった。独裁官とは、同僚である執政官を全く気にせず、さらに複雑で時間がかかる民会、あるいは元老院での決議を省略して、国運を賭けて、いつ如何なる所でも行動できる人のことだ。クラッススは死に、カエサルはガリアにいたので、結局、独裁官の役目はポンペイウスに与えられた。そのときカエサルは、セーヌ川の源の西にあるアレシアという町で、ウェルキンゲトリクスという指導者に率いられたガリア軍勢に包囲されていた。実は、アレシアの町を包囲したのはカエサルだったが、いつの間には逆に包囲されていたのだった。アレシア攻防戦は歴史的戦闘となった。この戦いの際に投入されたがむしゃらな勇気と知恵は他に例がない。カエサルは、内外の敵軍にも、アレシアの町に対して陣を敷いている自軍の兵士たちにも気づかれないように、自軍の一部を町に突入させ制圧したのだった。こうしてガリアの強力な軍勢が、一瞬にして崩壊してしまった。カエサル軍に手ひどい打撃を与え、困難な立場に陥れた後、ウェルキンゲトリクスは降伏した。勇敢で、しかも自分より18歳も若いウェルキンゲトリクスに対してカエサルは敬意を表した。カエサルは将来ローマで凱旋式を挙行する際に、あらゆる敵の中で最も勇敢だった男を大衆に見せようと、ウェルキンゲトリクスを生かしておくことにした。BC50年、カエサルは広大なガリアを治めるのに懸命だった。彼は寛容なところを見せ、ガリア人にあまり負担にならない程度の貢ぎ物を出させるに留めた。それでも、カエサルが有力なローマ市民たちにたっぷり金品を贈るのに十分だった。


さいは投げられた〉

 ガリアの平定に成功したカエサルは莫大な富を手に入れ、兵士たちからも絶大な信頼を寄せられるようになっていた。カエサルは冷静で忍耐強く、大胆な性格を持った人物だった。カエサルはガリア地方を完全に制圧した後も現地に残って次の執政官選挙まで軍隊を指揮し続けようとした。この動きに対して、一部の元老院議員たちが警戒心を募らせ、カエサルをローマに呼び戻して彼の10軍団を解散させ、執政官時代の不法行為を取り上げて裁判で追求しようとした。そしてBC49年1月7日に最後通告をカエサルに出した。その3日後、カエサルは彼自身も気づかないままに、結果として共和政を崩壊に導く行動に出た。軍隊を引き連れてBC49年1月10日、属州とローマ本国の境界であるルビコン川を越え、首都ローマまで進軍したのだった。カエサルはそれを、ローマを守るための軍事行動であると主張したが、それは共和政における違法行為だった。ローマの国法では、軍隊を本国内に入れることは認められておらず、必ずルビコン川のほとりで軍を解散しなければならなかった。ギリシャの歴史家プルタルコスによれば、カエサルは前夜、黙ってルビコン川の岸に立ち、長い間迷っていたそうだ。やがてカエサルは目をつぶり、高い崖から底なしの谷に落ちるように叫んだ。“アレア・ヤクタ・エスト(賽は投げられた)”

 驚いた元老院は最後の手段として、独裁者候補であるポンペイウスに支援を要請した。ポンペイウスは非常事態宣言した。2月21日、カエサルは首都ローマに迫って来た。ポンペイウスは元老院議員全員に対して自分に従うように要求し、彼自身はその夜のうちに首都を離れて南に向かい、アドリア海に面した要塞都市ブルンディシウムでカエサル軍を迎え撃とうと考えた。しかしこの計画をすぐに放棄して、アドリア海の対岸、バルカン半島の西にあるエピルス地方の港町デュラキウムの要塞に移動した。また若妻のコルネリアの身を案じて、安全と思われるエーゲ海のレスボス島へ送り込んだ。500隻の軍船と偵察船がポンペイウスの配下にあった。またポンペイウスの騎馬兵は7000、歩兵は4万、総勢5万人を数えた。このとき現職の執政官と多くの元老院議員が、ポンペイウスとともにローマを離れたため、ついにローマを二分する「内乱の時代」が幕を開けることになった。この時カエサルは50歳だった。


〈カエサル軍とポンペイウス軍による内戦〉BC49年~BC45年

 数の上でポンペイオス軍に見劣りしないように、カエサルは軍備を増強しなければならなかった。そのためにポンペイウスの動きを見たカエサルは急遽イベリア半島に軍を進め、BC49年8月2日、その地のポンペイウス軍に降伏を迫った。カエサルは指揮官を懐柔し、傭兵たちには高い給金を払った。その結果、兵士たちは無条件にカエサル側に寝返った。カエサルがブルンディシウムに戻ったときには、もう冬だった。カエサルの兵は2万2000、数の上ではポンペイウスの兵に劣っていた。何よりもカエサルの船団は小さかったので、アドリア海を横断して、エピルスに上陸させるのは危険だった。カエサルはポンペイウスに和平を持ちかけたが、疑心暗鬼になっていたポンペイウスは拒否した。

 BC48年8月9日、デュラキウムから南東に300キロ離れたギリシャ中部、肥沃なテッサリア平原のファルサロスの町で両軍が対峙した。双方とも似たような武器を持ち、同じ軍旗を持ち、兵士たちは同じような戦術の訓練を受けていた。戦闘隊形は三つに分かれていた。中央ではポンぺウスの義父のメテルス・スキピオが、4年前からカエサルの支持者になったグナエウス・カルウィヌスに対峙した。左翼では若いマルクス・アントニウスが58歳のポンペイウスに向かい合った。右翼ではカエサル自身が無敵の第10軍団を率いてルキウス・ドミティウスの強力な騎馬隊に対峙した。右翼の戦いが雌雄を決することはカエサルもポンペイウスも認識していた。カエサルは敵が第10軍団に対して、全エリート部隊を投入するだろうと予感していた。そのため彼は6つのウェリテス(軽武装兵)大隊を後方に待機させた。戦闘が始まるや、ポンペイウスの騎馬隊は、第10軍団が急に退却し始めたので当惑した。その軍団の間から3000人の軽武装兵が突然現れ、自分たちの騎馬隊の真っ只中に躍り出てきたので、金縛りになった。軽武装兵は剣で馬を傷つけ、騎兵の目を狙って槍を突出した。恐ろしい切り合いが繰り広げられ、ポンペイウスは味方が総崩れになるのを押し止められなかった。ポンペイオスは数人の側近と共に海岸方面に逃げ落ちた。最終的には貨物船に乗って、妻のコルネリアが待つレスボス島に辿り着いた。この勝利の直後、カエサルはできる限り多くの兵を自軍に寝返らせるために、敵兵に対して穏和な態度をとった。「自分はスッラではない」と、カエサルは何度も口にしたという。それはスッラのような残虐な報復はしないという意味である。その後、ポンペイウスは妻と息子、数名の側近、それに60人の元老院議員とともにエジプトに避難し、再起を目指すことにした。


〈カエサルの独裁〉

 BC49年7月、カエサルがイベリアにいる時に、国家を再編する任務を与えられ、独裁官に指名されていた。その後、BC46年に再び独裁官に任命され、この時の任期は10年だった。実際、ローマの指導者たちはBC49年8月にイベリア半島でポンペイウス軍に降伏を迫る以前から、カエサルが国を救える唯一の希望と見なしていた。そのため、BC44年には終身独裁官となった。これは国の全権が彼に集中することを意味したが、「王」ではなかった。カエサルは偉大なマケドニアの指導者、アレクサンドロス大王がBC4世紀に建設したギリシャからインドの境界までに及ぶ帝国に匹敵する世界帝国を夢みていた。そのためにガリア・キサルピナ(ルビコン川以北の北イタリア)とその他いくつかの属州の住民にローマ市民権を与え始めた。


 ***


 共和政ローマ末期に有力者として台頭するには、華々しい軍功が不可欠だった。マリウス、スッラ、ポンペイウス、カエサル、彼らは例外なく大軍を率いて外敵と戦った後、ローマ国内のライバルたちと内戦に突入している。その典型が元老院からガリア征伐の命令を取り付けたカエサルだろう。ガリア戦争(BC58年~BC50年)は将軍と兵士の絆を強め、忠誠心を呼び起こすきっかけになった。BC49年、カエサルがイタリア北部のイタリアの境界であるルビコン川を渡った時、頼みにしていたのは自軍の兵士たちだった。当時、ルビコン川はイタリア本国と属州との境界なので、それを越えてローマに帰還するときは、武器を持たず、軍団も解散しなくてはならない。しかし、カエサルはあえて軍を率いてローマ入りし、ポンペイウスをはじめとするライバルたちに真っ向から戦いを挑んだ。こうして地中海は血みどろの内戦の舞台と化した。

 共和政ローマはもちろん王を持たなかったが、その傾向はあった。ローマのように徹底した軍事的社会では、決断力のある指導者が尊ばれ、長い議論には我慢できなかった。次々と強いリーダーが現れて元老院と対立した。カエサルのような軍人の台頭は共和政にとって致命的だったが、属州の住民には福音だった。以外にも、保守派の元老院議員で雄弁家として知られたキケロも、シチリアの人びとの立場から総督ガイウス・ウェレスの腐敗ぶりをBC70年に弾劾した。ポンペイウスやカエサルといった将軍たちは、多くの土地をローマに併合するだけでなく、地元民にとって仲介役の役割も果たした。パトロキニウム(保護者制度)やアミキティア(友情)といったローマ独自の慣習を属州に持ち込んで、ローマ周縁部の立場を代弁するロビー活動をローマで展開した。


[ローマの奴隷]

 奴隷労働なくしてローマの台頭はなかった。ローマの全人口の4分の1が奴隷だったという推計もある。奴隷の多くはローマ軍による征服戦争の捕虜で、ローマに連れて来られて重労働を一生行うことになった。それ以外にも海賊や商人から、商品として奴隷を買う場合もあれば、借金に困ったローマ人が奴隷に身を落すこともあった。共和政の終わりごろになると、ローマ市民の間では、奴隷を1人か2人所有するのが当たり前になっていた。

 遠方の属州に送られた奴隷は、ローマに穀物を供給する広大なプランテーションでの農作業や鉱山での採掘を行い、都市部では道路や水道橋の建設を担った。奴隷の中でも家事の手伝いや書記など高度な技能が必要な仕事を行う者は、最も優遇されていただろうし、大衆を楽しませるために剣闘士として戦う奴隷は、死んだり、手足を切断される危険が高かった。どんな仕事に就いたにせよ、ローマでは奴隷の運命はすべて主人次第だった。主人は奴隷に自由を与えることも、厳しい罰を課すことも思いのままにできた。古代ローマの法律では、家長が奴隷に殺された場合、その家が所有していた奴隷を1人残らず死刑に処すと定められていた。

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