第123話 ユダヤ人国家とユダヤ教、そしてキリスト教

<年表>

ペルシャ支配の時代(BC538年~BC333年)

 ペルシャ王キュロス2世の勅令。新バビロニアの崩壊直後の資料の中で、エズラ記にアラム語で伝承されている文書は重要である。それには「覚書」が付いており、原資料の写しであったと考えられる。この文書は「キュロスの勅令」と言われている。BC538年にキュロスはエルサレム神殿の再建を許可し、さらに財政的援助も約束した。BC520年、エルサレム神殿の再建が始まる。預言者ハガイとゼカリヤの励ましとペルシャ王室の支持を得て、ダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)の治世6年(BC516年)に完成した。ペルシャ支配の時代、北部のサマリアや南部のユダは数多くの属州の一部となっていた。


ヘレニズム時代(BC332年~BC142年)

 アレクサンドロス3世によるパレスティナ征服はBC332年。BC323年にアレクサンドロス3世(大王)が世を去り、その帝国が崩壊すると、ユダヤの地はセレウコス朝シリアとアレクサンドリアに首都を置くプトレマイオス朝エジプトとに挟まれ、両国が対決する戦場として利用され、政治的、軍事的激動の渦の中に引き込まれた。この時代の前半、自由都市となったエルサレムだけはセレウコス朝シリアが支配していたが、フェニキアからパレスティナ、ヨルダン一帯はプトレマイオス朝エジプトが支配していた。しかし第5次シリア戦争(BC202年~BC200年)の結果、それらの地域はセレウコス朝の行政組織の中に組み込まれた。


ユダヤ人国家独立の時代(BC141年~BC63年)

 内紛が続くプトレマイオス朝エジプトと、アンティオコス4世(在位:BC175年~BC164年)死後のセレウコス朝シリアの弱体化に助けられて、BC143年に大祭司職と政治的指導者の地位に就いたハスモン家のシモンはセレウコス朝の支配から脱し独立した。ハスモン朝国家の創設は首都エルサレムに革新的な影響を与えた。この80年ほどの短い時代に、エルサレムの面積と人口は5倍以上に膨張し、住民はおよそ3万人を数え、その大部分はユダヤ人だった。


ローマ支配の始まり(BC63年)

 BC63年、ローマのポンペイウスがユダヤ人国家を征服。ポンペイウスのエルサレム征服後の30年間(BC63年~BC31年)は、ローマ共和政体の衰退の時期であり、ローマ世界、特に東方の地域は極めて騒然とした時代だった。


ローマ支配下でのヘロデ王朝(BC37年~紀元後6年)

 BC40年、パルティアがシリア領に侵入したときエルサレムも支配下に置いた。ローマのプロクラートル(世話人)に任命されていたヘロデはローマの支援を得て、幾度かの激しい戦闘の後、BC37年にエルサレムをパルティアから奪回した。ヘロデはBC37年からBC4年まで並ぶものなき指導者としてユダヤ民族の上に君臨した。ヘロデの死後、その王国は息子たちに3分割された。


ローマ帝国のシリア属州時代(紀元後6年~紀元後70年)

 紀元後1世紀は宗教的動乱の時代だっただけでなく、社会的動乱の時代でもあった。紀元後66年、ローマに対するユダヤ人の反乱が勃発、その後2年間の休戦期間はあったが、紀元後70年の春、ローマ軍はエルサレムの町を包囲し、すべての補給路と逃げ道を遮断した。紀元後70年8月末にエルサレムの神殿はローマ軍により破壊され、翌月には町の残りを鎮圧し、物品を略奪した。


ユダヤ民族のディアスポラ(離散)(紀元後70年以降)

 次にユダヤ民族が国家として独立するのは、約2000年後の紀元後1948年になってからのことになる。


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 最も古い原典のヘブライ語聖書は、BC5世紀~BC4世紀のペルシャ支配の時代に成立している。その後、BC3世紀にエジプトのプトレマイオス2世の依頼によってギリシャ語に訳されたギリシャ語聖書が完成している。ちょうどこの頃、地中海文明ともいうべき文化が登場している。それはフェニキアの植民市であるカルタゴが地中海西部地域に台頭していた時期と、ギリシャの最盛期である古典期とが重なる。BC5世紀以降、豊富な文字資料が残されているという事実を考えると、レヴァントとギリシャを中心とした東地中海と、そこから交易や植民市を通じて西地中海に広がった地中海世界全体が、完全な文字文化の時代に入ったといえる。



(ペルシャ支配でのエルサレム帰還と復興)BC538年~BC333年


 BC539年、新バビロニア王国がアケメネス朝ペルシャに征服されると、バビロンに捕らわれていたユダヤ人たちはエルサレムに帰還することを許された。アケメネス朝ペルシャ人はそれ以前に支配したアッシリア人やバビロニア人とは対照的に、属国に対して情け深い権力者として君臨し、ただ単に税の徴収に重きを置いただけでなく、帝国領内の平和と秩序の維持にも努めた。以前アッシリア人やバビロニア人によって治められていた領土は、ペルシャ帝国のサトラップ(太守)によって統治される属州として再編成された。その結果、地方政府は強化され、道路と通信網も整備された。また、国を追われ、捕囚となっていた諸国の民は、帝国という新しい概念の下でペルシャを支援する役割が果たせるように、各地の宗教的・政治的制度を再建するためにそれぞれの祖国に帰ることが奨励された。これはユダヤ人にとって重要なことであった。

 聖書の記すところによれば、ユダヤ人の帰還はBC539年の後まもなく、数次にわたって行われた。神殿は地元の強烈な抵抗があったにもかかわらず、予言者ハガイとゼカリヤの励ましとペルシャの支持を得て、ダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)の治世6年のBC516年に完成した。これが第2神殿である。しかし、国内のユダヤ人の人口は、捕囚前の時代に比べてかなり少なかったようだ。BC6世紀初めにはその土地に住む人がいなくなったという聖書の伝承は、架空の話でもなかったのかもしれない。この時代のユダヤ人の地は一種の神政国家となり、政治の実権は祭司でもある貴族階級に委ねられることになった。ユダヤ人の人口が元通りになるには数百年を要した。つまり、エルサレムとユダの地におけるユダヤ人の人口が相当数に達するには、BC2世紀まで待たなければならなかった。



(ヘレニズム時代)BC332年~BC142年


 アレクサンドロス3世(BC356年~BC323年)は当時知られていた世界の国々の外観を変えるとともにユダヤの外観をも変えた。征服それ自体は、ユダヤ人にとって少しも新しいことではなかった。ユダヤはそれまでにも何回となく他国に征服され従属させられてきたからである。しかし、今回の征服者は東からではなく西からやって来た。ユダヤにとって歴史的に格別重要なことは文化的なものであり、地理的なものだった。アレクサンドロス3世がユダヤを征服して100年と経たないうちに、ギリシャの都市はユダヤ人国家の地中海沿岸に沿っていくつも建設され、また内陸のサマリアなどにも、さらに東方のヨルダンにも建設された。これらの都市はギリシャ的な生活や影響を広める中心地としての働きをし、商業、文化、体育の面で共同の事業を行いながら互いに発展した。アレクサンドロス3世の征服は地理的にもユダヤ人国家の歴史の流れに重大な影響を及ぼした。それまでに行われた征服では、ユダヤ人国家は常に大国の周辺に取り残され、権力の中心地から遠く離れた存在だった。地理的に辺境にあるという立地条件がユダヤに在る程度の安定を保証し、孤立を可能ならしめていた。

 ヘレニズム時代のパレスティナ地方、つまり北はフェニキアとシリアと、南はエジプト、西は地中海、東はヨルダン川と死海に挟まれたユダヤ人の地は、北から南にガリラヤ、サマリア、エルサレムのあるユダヤ、イドマヤの各地方から成り、それに地中海に面した海岸地域のパラリアがあった。さらにヨルダン川と死海の東側の一部にも、ペレアなどユダヤ人の地があった。


 しかし、BC323年にアレクサンドロス3世(大王)が世を去り、その帝国が崩壊すると、ユダヤ人の地は政治的、軍事的激動の渦の中に引き込まれた。ユダヤ人の地は地理的に二つの中心勢力、すなわち、シリアのアンティオキアとメソポタミアのバビロンの近くに建設されたセレウケイアの2都市を根拠地とするセレウコス朝シリアと、アレクサンドリアに首都を置くプトレマイオス朝エジプトとに挟まれ、両国が対決する戦場として利用された。BC3世紀からBC2世紀にかけて、6次にわたりプトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの間でシリア戦争が行われ、そのどれもが少なくとも数年は続いた。それぞれの守備隊がユダヤ人の地に駐留し、国中に大部隊が駐屯していた。ペルシャ人は政治的な忠誠と税金の納入しか求めなかったため、ユダヤ人たちの国家はある程度の孤立が保証されていた。しかし、アレクサンドロス3世による征服以降、エルサレムはもはや外の世界から隔絶していることはできなくなった。そして住民の多くは隔絶されることを望んではいなかった。広い文化圏からもたらされる機会や魅力は拒めるものではなかった。


 アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)たちの戦いの混乱時に、パレスティナ地方の支配者が何度か交替したが、BC312年に最初にそこを支配したのはプトレマイオスであった。間もなく彼は諦めなければならなかったが、その後、BC301年に再度パレスティナを支配した。しかもそれは、シリア・パレスティナ全体をセレウコスに与えると認めたディアドコイ(後継者)たちの取り決めに反するものであった。しかしセレウコス朝はこの地域に対する自分たちの権利を決して諦めず、第5次シリア戦争(BC202年~BC200年)の後、BC200年からはセレウコス朝シリアの支配下に入った。

 プトレマイオス朝の時代、ユダヤ人国家は半自治の民族集団の地位を得ていたので、自分たちの問題を先祖の「律法(神の教え)」に従って既定された法を持っていた。しかしその行政の詳細についてはわかっていない。大祭司が総督の機能を執行していたようだが、厳密な意味において神殿国家ではなかった。

 セレウコス朝シリアの支配時代には、ユダヤ人国家の支配階級の暮らしぶりはヘレニズム文化の影響を受け、それに伴って都市と地方の間で貧富の差をはじめとする格差が広がっていった。律法に忠実に従う人びとと祭司たちの間にも大きな溝が生じていくことになった。そしてついに、セレウコス朝と祭司たちが容認するユダヤ文化のヘレニズム化に反対してマカバイオスの反乱(BC168年~BC164年)が起こった。当時エルサレムのユダヤ人たちは何年も前から基本的に二派に分かれていた。一方は先祖伝来の信仰は捨てないまでも、ヘレニズム文化を象徴するギリシャ的慣習に染まった人びとであり、他方はユダヤ人の伝統にこだわり、新しい風習を不信仰と決めつけ、自分たちをハシディム(敬虔な人びと)と呼んだ人びとである。反乱を起こしたのはハシディムの人びとだった。セレウコス朝の王、アンティオコス4世(在位:BC175年~BC164年)はハシディムの人びとを鎮圧したうえ、ヤハウェを信仰する人びとと並んで、例えば、ギリシャ人のためにゼウスの神像を建て、非ユダヤ人であるセム族の人びとのためにバァール神の祭壇を設けるなど、さまざまな信仰の人びとも収容できるように神殿を改修させた。反乱の鎮圧後はセレウコス朝の後継者の王たちの下で、より柔軟なユダヤ人政策が取られるようになったが、ユダヤ人の地ではその後も正統派ユダヤ人たちの抵抗運動は続いた。



(ユダヤ人独立国家の時代)BC141年~BC63年


 そして、内紛が続くプトレマイオス朝エジプトとアンティオコス4世死後のセレウコス朝シリアの弱体化に助けられて、BC143年に大祭司職と政治的指導者の地位に就いたハスモン家のシモンは、直ちにセレウコス朝の守備隊の残留者とヘレニズム主義のユダヤ人をエルサレムのアクラ(要塞)から追放した。そしてBC141年には衆目の認める公の式典において、セレウコス朝の支配から脱し独立することを宣言した。宗教的には、ハスモン家は偶像崇拝的慣習を取り除くことに努めた。国土を宗教的に清めることは政策の基本となった。BC141年から約80年続いた独立の時代もユダヤ人にとっては苦難の連続だった。祭司職でもあったハスモン家から次々に国王が立ち、高圧的な政策で国を混乱に陥れたからだった。そうした国王とそれを黙認する祭司たちに対して立ち上がったのが、祭儀よりも律法を重んじるパリサイ派と呼ばれる一派だった。彼らは律法を厳格に解釈し直し、改革派の代表として忍び寄るヘレニズム文化の脅威に対して何度も警鐘を鳴らした。彼らパリサイ派は、異教徒からの改宗を認め、復活信仰や最後の審判など、新たな教えを説いたことでも知られている。


 BC141年から約80年後のBC63年、ローマの将軍ポンペイウスによって、すでに弱体化していたセレウコス朝シリアが征服され、完全に消滅すると、属州シリアの一部としてローマの支配下に入り、ユダヤ人の独立国家も終焉した。この次にユダヤ民族が国家として独立するのは、約2000年後の紀元後1948年になってからのことになる。ローマ人がユダヤ人国家の政治に介入したのは国家内の内紛がそのように仕向けたからだった。ハスモン家の王アレクサンドロス・ヤンアイオス(在位:BC103年~BC76年)はBC76年に世を去った。その王位は寡婦となったサロメ・アレキサンドラが継承した。BC67年に彼女が世を去ると、王子のヒルカノスとアリストブロスが王位継承をめぐって互いに争った。二人はシリア駐在のローマ総督にそれぞれユダヤの統治者としての承認を嘆願した。しかし、他のユダヤ人たちも二人の主張を退けるように嘆願した。この時にはすでに多くのユダヤ人はハスモン家の統治に心底から幻滅を感じていた。ローマは最初、アリストブロスを支持したが、いくつかのもめ事を起こしたため、ヒルカノス支持に回った。アリストブロス側はエルサレムの神殿内に立てこもり抵抗したが、BC63年にローマのポンペイウスの軍隊によって陥落させられた。ヒルカノス側はエルサレムの町をローマに開放した。しかし内紛収拾後、ポンペイウスはユダヤ人の支配地を大幅に縮小した。エルサレムの大祭司は今や、エルサレム周辺の地域とガリラヤなど、ユダヤ人が集中的に住んでいる地域だけを治めることになった。これらのユダヤ人地域は法的にはローマ帝国に編入されていなかったが、事実上ローマの支配下に置かれた。



(ローマ支配時代)BC63年~紀元後70年


 ポンペイウスによるエルサレム征服後の30年間(BC63年~BC31年)は、ローマ共和政体の衰退の時期であり、ローマ世界、特に東方の地域は極めて騒然とした時代だった。この時期にはユリウス・カエサルとポンペイウスとの闘争、ポンペイウスの死とカエサルの単独権力者としての即位、カエサルの暗殺(BC44年)、オクタヴィアヌスとマルクス・アントニウスとの闘争などがあった。そしてBC31年のアクティウムの海戦でオクタヴィアヌスはマルクス・アントニウスを破り、ローマ帝国の唯一の支配者となった。


 BC40年、パルティアがシリア領に侵入したときエルサレムも支配下に置いた。ローマのプロクラートル(世話人)に任命されていたイドマヤ人のヘロデはローマの支援を得て、幾度かの激しい戦闘の後、BC37年にエルサレムをパルティアから奪回した。同年、ローマはヘロデをユダヤ民族の指導者にした。ヘロデはBC37年から亡くなるBC4年まで、並ぶものなき指導者としてユダヤ民族の上に君臨した。ヘロデは不可解な人物でもある。ヘロデはその治世の初めの何年かの間にハスモン家の人びとを処刑した。最後には、自分の妻であったヒルカノスの娘マリアンメとその間に生まれた2人の息子までも処刑した。一方、ヘロデは偉大な建築家でもあった。今日、イスラエルにおいて最も有名な観光地の多くはかつてヘロデが建設した建築物のあった所である。それはマサダ、ヘロディオン、カイサリアの他、古代エルサレムのダビデの塔、西の壁、神殿の丘にある多くの遺跡が含まれている。ヘロデはマルクス・アントニウスに忠誠を尽くしたが、彼がBC31年にオクタヴィアヌスに敗れると、今度はオクタヴィアヌスに忠誠を尽くした。ヘロデは敬虔なユダヤ教徒からの評判は良くなかった。ヘロデがローマから任命されたことや、ローマと友好関係を保とうとしたことに加えて、ヘレニズム風の宮廷生活と重税が人びとの怒りを助長したのだ。


 BC1世紀の前半、ローマは東方の諸地域を治めるために、従属的な王たちを利用した。こうして、小アジア東部、シリア北部、パレスティナなどはすべてそれぞれの土着の支配者がローマの希望に沿ってそれぞれの領土を治めた。BC4年にヘロデが亡くなると、ユダヤ人地域は息子たちに3分割された。その一人アルケラオスはエルサレムのあるユダヤ地方の支配者となったが、紀元後6年に失政のかどで退位させられ、ユダヤ地方は、南隣りのイドマヤ、北隣のサマリア、西隣の地中海沿岸の大部分の地域と共に、ローマ帝国のシリア属州に併合された。そして紀元後26年にポンティウス・ピラトがシリア属州の総督に就任し、この厄介な地方の総督を10年間努め、イエスの処刑に遭遇することになった。

 ユダヤ人の他の地域はさらに30年の間、他の2人の息子の手中にあったが、紀元後44年には国内のユダヤ人地域はすべてローマの行政長官によって統治されることになった。ローマはユダヤ教が帝国内の他の多くの土着の宗教と異質なものであることを理解していた。ユダヤ人は自分たちの神以外のいかなる神をも礼拝することを拒否し、神聖視すべき皇帝の権利を認めることを拒否し、公の場所や建物の中で像を寛大に扱うことを拒否し、また七日目ごとにどのような労働に携わることも拒否したからである。しかし、ローマは東方地域の多くの町において、ユダヤ人が「ポリテウマ」、すなわち自治権を有する民族共同体を作る権利を認めた。


 紀元後1世紀は宗教的動乱の時代だっただけでなく、社会的動乱の時代でもあった。実際、紀元後66年~70年のローマへの大反乱は主として特にその初期においてはユダヤ人同士の内輪もめであった。すなわち、金持ちと貧乏人、上層階級と下層階級、また都会の住民と田舎の人びとの間の争いであった。社会的貧困の兆候と見て間違いない略奪行為は大幅に増加し、エルサレムも社会的混乱によって荒廃した。この反乱に参加したヨセフスの「ユダヤ戦記」と「ユダヤ古代誌」によると、紀元後66年~67年にはガリラヤ地方とユダヤ地方の多くの農民たちはエルサレムへ赴き、そこで町の貴族と祭司からなるエリート層に反抗した。ローマに対する大反乱は、ある意味では国内の宗教的・社会的緊張から生じたものだった。この状況を見ながら、ローマは現状を支持し、貴族たちに権力を握らせていた。その結果、上層階級と貴族に対する人びとの憎悪はローマに対する憎悪へと変わった。この憎悪はさまざまな宗教的イデオロギーによって支持された。聖なる地は外国の悪影響から浄化されなければならなかった。神殿とそこで行われる儀式がローマの庇護下にあることは、ユダヤ教に対する公然たる侮辱であった。「トーラー(モーセの教え)」に対する熱心さのあまり、ユダヤ人は自分たちの真ん中に居座っている罪人たちを、つまりローマを支持したり、ローマ人の支配を容認している者たちすべてを滅ぼさなければならないと感じた。戦火はローマのユダヤ行政長官フロルスによってもたらされた。それは彼の言い分では未納の税金を取り立てるためだったと言うが、神殿の宝物庫から17タラントを強奪したからだった。それが暴動を誘発した。シリア駐在のローマ総督は秩序を回復するためユダヤに来たが、総督の軍隊はユダヤ人に包囲され、多くの装備を放棄して撤退せざるを得なかった。紀元後67年夏、ローマの将軍ヴェスパシアヌスに率いられたローマ軍が来て、ユダヤ民族共同体の北部が再びローマの支配下に置かれた。紀元後68年にはユダヤ民族共同体の全土を制圧したが、エルサレムだけは反逆者たちの手中にあった。その頃、ヴェスパシアヌスは皇帝ネロの暗殺の報に接し、彼はローマに戻った。ヴェスパシアヌスが自ら皇帝たることを宣言したのは紀元後69年の夏だった。2年間の休戦はエルサレムの革命主義者たちには恵みとなり、勢力を整備し、町を要塞化し、食料を備蓄することができた。しかし、その間に避難民が地方からエルサレムに入って来て、内輪もめが激しさを増した。これらのさまざまなグループ同士の激しい争いは悲惨な結果をもたらした。大量に備蓄されていた食糧は目減りし、紀元後70年の初めにローマの包囲が再び始まるとすぐ、その後を追うようにして飢饉が起こった。皇帝となったヴェスパシアヌスは、紀元後70年の春、息子のティトスを派遣し、エルサレムの町を包囲し、すべての補給路と逃げ道を遮断した。ユダヤ人は飢餓と内輪もめで弱体化した。5か月にわたる抵抗の末、ユダヤ人はティトスに降伏した。紀元後70年8月末にエルサレムの神殿はローマ軍により破壊され、翌月には町の残りを鎮圧し、兵士たちのために物品を略奪した。戦争を起こしたユダヤ人を罰するためにローマはユダヤ人・人頭税を課した。この税金は紀元後2世紀の中ごろまで徴収された。しかし、ローマは人頭税以外にはいかなる苛酷な措置も取らなかった。また、宗教的な迫害も行わなかったし、ユダヤ人の持っている権利を剥奪したりもしなかった。



(新たな出発、ディアスポラ(離散))紀元後70年以降


 ローマに対する大反乱の失敗後もユダヤ人の抵抗運動は続いたが、彼らが大きな転換期を迎えたことは間違いない。過激派は二度と民衆から支持されなかった。その一方で律法の存在がかつてなかったほど重要な意味を持つようになっていった。戦闘が続いている間に、すでにエルサレム以外の場所でユダヤ教のラビ(律法学者)たちが新たな律法の解釈とユダヤ教の再建に取り組んでいたからだ。その後も歴史の中で何度も迫害を受けたユダヤ人が、民族としてのアイデンティティを保ち続けることができたのは、この時期のラビたちの活動によるところが大きかったと思われる。


 神殿の破壊はユダヤ教の終わりを意味しなかった。神殿破壊によってもたらされた神学的・宗教的危機は、BC586年に第1神殿がバビロニア人によって破壊された直後に経験したときほど深刻ではなかったようだ。それは新しい制度とイデオロギーを創造していたためかもしれない。神殿そのものはいくつかの会堂によって、祭司たちは学者によって、犠牲の祭儀は祈りとトーラー(モーセの教え)の学びによって、また神殿の祭司職の執り成しに対する信頼は、個々のユダヤ人がトーラーの戒律を守ることを重要と考える敬虔さによって取って代わられた。要するに、将来への道はすでにはっきりと示されていたと言える。紀元後70年以後の時代は、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、シカリ党、熱心党などの多様な派の存在の代りに、独特な均一性によって特徴づけられる。それはラビたちのグループである。そのため、紀元後70年以後の時代はラビの時代と呼ばれる。ラビたちは第2神殿時代のユダヤ教の遺産の後継者だった。彼らは明確な文献と宗教の行動様式を通して、ユダヤ教に現在に至るまで耐え得るだけの新しい表現形式を与えた。こうして神殿の破壊は終わりであるだけでなく、始まりともなった。


 国家を失い、アケメネス朝ペルシャ、セレウコス朝シリア、そしてローマという大国に次々と支配された結果、ユダヤ人は地中海地方と中東全域に移住していき、各地にユダヤ人居住区が誕生した。エジプト軍、アレクサンドロス軍、セレウコス朝シリア軍のいずれにもユダヤ人の連隊があったし、交易を行うために海外に移住したユダヤ人もいた。このようにユダヤ人が各地に拡散したことを「ディアスポラ(離散)」という。

 BC7世紀以降、ユダヤ人は文明世界のいたる所に存在していた。エジプト、リビアのキュレネ、小アジアやギリシャ本国の町々にもユダヤ人の住民集団が入植した。彼らの法律上の地位は一様ではなかった。彼らはたいていは完全な市民になることはできなかった。なぜなら、そうなるにはその町の神の崇拝を前提にしていたからである。


 BC1世紀ごろのユダヤ人居住区で最大規模を誇ったのが、BC300年ごろから移住が始まったアレクサンドリアだった。当時、町の人口の5分の2を占め、30万人ほどのユダヤ人が住んでいたとわれる。彼らは独自の共同体を形成しており、アレクサンドリアの一般市民と同じような公的権利を要求し、与えられていたと思われる。この町のユダヤ人はギリシャ語を話し、旧約聖書を初めてギリシャ語に翻訳したことでも知られている。その聖書が有名な「七十人訳聖書」である。それはプトレマイオス2世の提案によって、アレクサンドリアの大図書館のために、72人の学者によって、同じトーラーを共同ではなくお互いに独立して72週で翻訳されたため「七十人訳」と呼ばれる。これは当初、ギリシャ人からほとんど注目されなかったが、その後、キリスト教がローマ帝国内で伝達されるに伴い、西洋文化の基礎となる文書の一つとなった。

 イエスが誕生したころには、エルサレムよりもアレクサンドリアの方がユダヤ人の数が多かったものと思われる。さらにローマの町にも約5万人のユダヤ人が暮らしていた。これほど大規模なコミュニティが存在していたため、ユダヤ教徒の勢力は次第に強くなり、それに伴って民族間の摩擦が起こる危険性も高まった。パレスティナ地方のユダヤ人は、紀元後1世紀と2世紀にローマ支配に対して反乱を起し、鎮圧された。その結果、ユダヤ人は各地に拡散し、故郷のパレスティナ地方にはほとんどいなくなってしまったが、ラビの活動によってユダヤ教は生き延びていった。紀元後3世紀に入るとまもなく、口承で伝えられてきた律法を書き留めた「ミシュナ」が完成し、後にこれがユダヤ教の律法と伝承を集大成した「タルムード」の第1部となった。


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(ユダヤ教)


 ユダヤ教はユダヤ人の間に伝わる宗教上の伝承から始まった。それらをまとめた最古の文書が旧約聖書である。旧約聖書に書かれた唯一神ヤハウェと選ばれた民の間で契約が交わされたとするユダヤ教の基本的な考えは、偉大なる指導者モーセが生きたとされるBC13世紀に生まれた。これ以降、他の民族が多神教を信仰する中でユダヤ人はヤハウェにのみ忠誠を誓うこととなった。ヤハウェは万物の創造主であり、全能で不滅の神だった。また信仰心のない者には死をもたらし、敵を滅ぼす一方で、信心深い人びとには恵みを与えてくれる神でもあった。ヤハウェはユダヤ人に、彼らを勝利に導く救世主を送ることを約束したと考えられていた。BC8世紀以降、予言者たちが次々にある考えを広げ始めた。それはユダヤ人を襲った数々の不幸は、神との契約を尊重しなかったためにヤハウェから下された罰だったという考えだった。さらに予言者たちはこうも言った。苦難を通してユダヤ人は清められ、来たるべき栄光に向けて準備をしている。その栄光が最高潮に達した時、ヤハウェは人びとの前に姿を現わすだろう。


 BC1世紀当時のユダヤ教はモーセの神、すなわちヤハウェを信ずる信仰だった。ヤハウェは、世界を創造し、ユダヤ人を特別な民となるように選び、神に対する忠誠に応じて褒章を与えたり、罰したりする神だった。したがって、排他的であり、神話や祭儀においても非ユダヤ的な他の神格と結びつくことはなかった。ユダヤ教はまた、モーセが神の名において命じたさまざまな律法と儀式の実践でもあった。その中で最も重要な儀式は、割礼かつれい、安息日、および食べてはならない食べ物(特に豚肉を食べない)の戒めを守ることだった。この時代のユダヤ教はバビロン捕囚の時代(BC597年~BC538年)以前のユダヤ人の宗教とは異なっていた。あるいは少なくとも同一ではなかった。この時代におけるユダヤ教は「書の宗教」であった。その中心は聖なる書き物を集めたものを暗誦し、学ぶことであった。そしてその書き物の中で最も重要なものは、モーセのトーラー(教え)であった。この時代に多くのユダヤ教徒はトーラーに二種類の聖なる文献、予言書と諸書を付け加えた。この三種類の書き物を一緒にしたのが「聖書」であり、キリスト教徒はこれを「旧約聖書」と呼び、ユダヤ教徒は「タナハ」と呼んでいる。「タナハ」はモーセ五書(トーラー)、予言書(ネヴィイーム)、諸書(クトヴィーム)の頭字語である。一方、バビロン捕囚以前のユダヤ人国家にはこのような聖なる書はなかった。書き物の形で多くの聖なる伝承を保存していたことは確かだが、バビロン捕囚以前のユダヤ人はエルサレムの神殿における犠牲の祭儀を通して、また預言者たちの啓示を通して、神と語らい交わった。現代の学者たちが「黙示録(アポカリプス)=啓示」と呼んでいる新しい文学様式は、聖書の預言に対してよりも、複雑な象徴的幻想や天使のような仲介者に対して一層大きな役割を与えた。黙示録的な思想は、世界がまもなく時の終わりを迎えて最後の危機の苦しみから解放されるという感覚に支配されていた。黙示録の文体と雰囲気は聖書の預言と異なるばかりでなく、その内容においても異なっている。

 ヘレニズム時代の紀元後1世紀には、神殿において制度化された方法で神と接したり、予言者たちを介してカリスマ的な方法で神と接するというやり方は、新しい信仰のあり方によって特に規則的な祈りと聖書の学びによって補足され、ある程度は取って代わられるようになった。この新しい信仰のために制度化された家は、 シナゴーグ(会合あるいは集会)、あるいは プロシュケー(祈りの家)であった。これはBC3世紀にエジプトにあったことが立証されている。このような会堂は紀元後1世紀にはすでにあらゆる「ディアスポラ(離散の民)」の居住地、例えばエーゲ海のデロス島などだけでなく、ユダヤ人が住む土地のどこにでもあった。バビロン捕囚以前のユダヤ人の宗教は、集団、共同体、氏族などに重点を置いていた。一方、紀元後1世紀のユダヤ教は個々のユダヤ人に重点を置いていた。個々のユダヤ人に、男にも女にも非常に多くの儀式的行事を日々実践することによってそれぞれの生活を聖化するように命じた。尊厳性は神殿のみに限定されていなかった。神の臨在はどこにでも存在していた。そしてユダヤ人はこの事実を常に心に留めていなければならなかった。あらゆる瞬間が、戒律を守り、生活を清め、神に仕える機会とされた。ユダヤの民は神に対して共同で責任を負うばかりでなく、個々のユダヤ人としても責任を負った。したがって、神殿の祭儀は集団というよりはむしろ個人を中心にした宗教的規則によって補足された。民衆の宗教は、少なくともユダヤの地においては魔術的、奇跡的要素を強く持っていた。魔術では神が直接かつ即座に人間に働きかけた。さまざまな種類の教師や聖人が田舎を歩き回り、悔い改めを説き、奇跡的な癒しを行った。イエスは悪霊を追い出し、信仰療法の実践に多くの時間を費やした。この点ではイエスは少しも珍しい存在ではなかった。聖人と言われる人びとはたいてい預言者エリシャを手本にしており、救いやあがないよりも、健康や豊かな収穫というような民衆が身近に求めているものに応えた。

 ヘレニズム時代、伝統的な信仰が衰退してしまった時代にあって、ユダヤ教は人びとに多くのものを提供した。なかでも大きかったのが、日々の生活における確かな行動規範をもたらしてくれるという点である。その結果、神殿や祭司を必要としない、それでいて人間の救済を約束してくれるユダヤ教に魅力を感じて、多くの人びとが改宗していった。ユダヤ人の生み出した歴史観は、人びとがこの世で体験する悲劇に意味を与えてくれるものだった。神は人間にさまざまな苦難を与え、試練を課す。しかしそれは神が用意した「最後の審判」に辿り着くまでの意義深いストーリーなのであり、最終的に行いの正しい者はそこで救済されるという歴史観だ。キリスト教もまた、こうしたユダヤ教の歴史観を受け継いでいる。キリスト教はそこからさらに発展して、やがてユダヤ人だけでなく、すべての民族が救済されうるという思想を持つにいたる。いずれにせよ、こうした歴史観、つまり、さまざまな苦難とその先に訪れる「救済」という歴史観が、ユダヤ人の現実の苛酷な歴史体験から生まれたことは間違いない。



(キリスト教)


 BC1世紀末はユダヤ人にとって悪夢のような時代になった。およそ2世紀にわたって続いてきた民族間の緊張が頂点を迎えようとしていた。ユダヤ人は北の隣人のサマリア人との間の対立に苦しみ、沿岸部の都市ではギリシャ系シリア人の流入に悩まされていた。ローマに対する不満もあった。重税を課せられ、しかもその税が異教徒のために使われていたからだった。さらにユダヤ人の中にも激しい対立があった。パリサイ派は貴族や祭司を中心とした保守的なサドカイ派と対立を深めていた。またこの2派と対立する別のグループも存在していた。その中の一つ、近年発見された「死海文書」によってその存在が知られるようになった「クムラン教団」は、信者たちに対して初期のキリスト教とよく似た教えを説いていた。例えば、ユダの裏切りや、その後に訪れる救世主(メシア)による救済といった教えである。イエスが誕生したのは、こうした緊迫した時代のユダヤ人の地だった。おそらくBC6年~BC4年ごろのことだったと思われる。それはまさにユダヤ人が、ユダヤ民族に勝利をもたらし、エルサレムに繁栄を取り戻してくれる救世主(メシア)の出現を待ちわびていたときだった。イエスの生涯に関する物語は、彼の死後に書かれた「福音書」に記されている。福音書とは、イエスを実際に知っていた弟子たちの証言に基づいて初期の教会がイエスの教えとその生涯をまとめたもので、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書がある。


 紀元後1世紀に出現したユダヤ教の諸派の中で最も有名なのはキリスト教徒である。その指導者イエスは聖なる人で教師でもあった。多くの指導者が皆そうであるように、イエスも崇拝者や弟子たちを引きつけた。多くの同時代人のように、イエスは、終末が差し迫っており、自分はその到来に備えて準備をするために神から遣わされたと信じていたと思われる。したがって、彼は神殿が取り除かれるだろうと預言した。新しいもっと完全な神殿が、終末時の新しい完全な永遠の秩序の一部として、神によって建てられるはずだったからである。しかし、エルサレムの大司祭はイエスを危険人物と考えて、処刑するためにローマ人に引き渡した。イエスの死は逆説的に、キリスト教の終わりではなく、始まりとなった。キリスト教はユダヤ教の一分派として、あるいは少なくとも分派的特徴を多く持った敬虔けいけん主義的な一派として出発したが、ユダヤ教の慣習を守ることをやめた時点で、ユダヤ教の分派たることをやめた。割礼を廃止し、構成的にも性格的にも圧倒的に異邦人主体の宗教的運動となった。その過程で、イエスはユダヤ教における天使、あるいは他のいかなる仲介者よりもはるかに高く、はるかに重要な立場に押し上げられることになった。こうしてキリスト教はユダヤ教とは別の宗教になった。


 聖書には、旧約聖書と新約聖書がある。そのうち新約聖書はキリスト教会内で成立した書物である。そこには、イエスの言行を伝える福音書、初期キリスト教の宣教の記録、キリスト教をローマ世界に伝えたパウロの書簡など、キリスト教が確立してゆく過程で記された27の書物が収められている。では、ユダヤ教の聖書である旧約聖書がなぜキリスト教の書とされたのか? ナザレのイエスも彼の弟子たちもユダヤ人として旧約聖書に通じていたが、十字架にかけられたイエスをメシア(救世主)すなわち「キリスト」と信じた弟子たちは次第にユダヤ教からたもとを分かっていった。ところが、ユダヤ教の聖書は受容したのだった。その理由は、メシアを待望する預言「メシア預言」をはじめ、旧約聖書に記された内容の数々はイエス・キリストにおいて成就したと彼らが信じたことにある。ユダヤ教の聖書がキリスト教に受容されることにより、旧約聖書に伝わる思想の多くもキリスト教へと引き継がれた。唯一神観、自然観、歴史観、人間観など、キリスト教思想の多くは旧約聖書に遡る。さらに、ユダヤ教やキリスト教を介して、旧約聖書の物語や思想はイスラム教にも受け継がれた。初期のイスラム教徒が自分たちを創世記に物語られるアブラハム(イブラハム)の子孫と理解したことなどは、その一例である。


 新しく生まれたキリスト教に対するローマ当局の反応は特になかった。社会にとって危険な存在でない限り、新しい宗教は基本的に容認するのがローマの方針だった。初期のころはユダヤ人の民族運動に対する厳しい取り締まりに、キリスト教徒も巻き込まれる危険性はあった。しかし、ユダヤ人がローマの支配に激しく抵抗する一方で、キリスト教徒がそれに加担することはなかったため、この時期にローマによる迫害がキリスト教徒にまで及ぶことはなかった。キリスト教がユダヤ人の抵抗運動と完全に一線を画したのは、紀元後66年に起きたローマへの大反乱のときだった。過激派の活躍によりユダヤ人が一時期エルサレムを奪回したこの反乱は、ローマ支配時代のユダヤ史の中で最も重要な出来事とされている。

 キリスト教はローマ帝国の内部で成長し、やがて体制の中に溶け込み、さらに古代ローマ帝国の滅亡後も世界中でその伝統を保持していった。キリスト教こそは、古代ローマ文明がヨーロッパに残した最大の遺産といえるだろう。過去2000年にわたる人類の歴史を振り返ってみると、キリスト教が如何に大きな影響をもたらしてきたかがわかる。はるか遠い昔に、ごく少数のユダヤ人が彼らの指導者であるイエス・キリストが十字架刑に処せられるのを目撃し、後にその復活を信じたところから、現在のヨーロッパ世界の枠組みが出来上がっていったとすらいえる。

 キリスト教がユダヤ教の中から生まれたことは、おそらくキリスト教にとっての救いでもあった。神に身を捧げた一人の人物から始まった小さな宗教が、激動の歴史の中で生き延び、世界宗教として大きく発展していく。そのような奇跡ともいえる出来事は、キリスト教がユダヤ教の伝統に守られていなければ、おそらくあり得なかっただろう。キリスト教はユダヤ教の中から生まれ、長らくユダヤ教に守られ、基本的な思想の多くをユダヤ教から受け継いだ。見方を変えれば、キリスト教を通してユダヤ教の思想や神話が世界中に広まったともいえる。その中心にあったのが、「宇宙は神の意志もとに運営されており、人間の歴史もまた、神が定めた意義深いストーリーのもとに展開している」という思想だった。

 ユダヤ人にとって歴史とは、唯一全能の神が「選ばれた民族」である彼らのために用意した「意味のある物語」だというわけである。そして彼らが神と交わした契約の中には、神の「律法」に従って正しく行動することが義務づけられていた。後にこの大いなるストーリーを中心にして、ユダヤ人の歴史、つまり旧約聖書が編纂されることになる。そしてローマ帝国に支配されたユダヤ人もまた、この歴史物語の中に自分たちの生きる意味を見出していったのである。

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